三話
「文子お嬢様はまことに美しく成られましたなぁ」
「本当に。才色兼備とは彼女のことです。我が千田家の愚息と不相応にも御縁に預かれればまたとない幸せなのですが、此ればかりは分かりませんからな」
広い部屋のこちら側まで聞こえてくる見せ付けるような談笑に、文子は心底うんざりした。文子の父、鹿野聲明は名だたる実業家達に取り囲まれ、シャンデリアの光よりも豪奢な世辞と賞賛を浴びて上機嫌だった。
ペルシャ絨毯を敷き詰めた上に並び立つ取巻き達は、各々その息子を鹿野子爵家令嬢の花婿候補として豪華客船に乗せていた。
「ははは、せっかちはいけませんな千田男爵。宝石のような御令嬢を夢見ているのは貴方様だけでは御座いません」
千田男爵の抜け駆けを、恰幅の良い豪商鴻池が諌めると、鹿野も千田自身も含めその場にいた男達全員が笑った。千田家は戊辰戦争の功績を讃えられ男爵となった薩摩藩士の家系、鴻池は江戸時代から一大財閥を築いてこの国経済への貢献を讃えられ叙爵となった鹿野家と同じ勲功華族(新華族)である。
栄耀栄華を極めし者共の空虚な笑い声が、揺れる船室の空気を愚図つかせた。
「この豪華客船に乗り込んだ、ほぼ全ての人間が、虜のように文子お嬢様を夢に見ているのです。波の彼方に浪漫を見るように」
白い口髭を動かして諭すように笑うのは、三条公爵。維新の頃よりこの国に存在する五華族即ち公爵・侯爵・伯爵・子爵男爵の中でも最高位である、公爵。新華族である鹿野子爵の一人娘の花婿候補の中では異彩を放つほどの魅惑的な家柄である。周りの者は暫しこれに怯みかけはしたが、公爵の送り込んだ息子は次男。爵位は継げないとあらば長男を送り込む自分達にまだ勝目はあるのではと、他の父親達は瞳を暗くギラつかせて打算した。互いが互いの腹の探り合いをしている。それを見透かしたように「そうで御座いましょう、鹿野子爵」と三条は含み笑いを浮かべた。
その慇懃にも底冷えを呼ぶ冴え冴えとした初老の視線が、部屋の隅に葉凪樹を連れて立っている文子へと向けられた。人をモノのように言う男達の心無い言葉に、葉凪樹から励まされたばかりの文子の足が早くも竦むような心地がした。漸くこの信じ難い状況が、言い表せない嫌悪感を伴い現実味を帯びて胸に迫る。
ーー「維新に功を上げ名を轟かせた英傑、経済を発展させ富国を呼んだ豪商、この国を豊かにし動かしていく政治家。……けれどどうだろう、本当にこの国は〝新しく〟なんてなったのかな。国民は〝平等に〟なんてなったのかな?」
女学校で歴史学の教鞭を執っていた〝恩師〟が、授業の中でそう言っていた声が思い起こされた。教師があんな言論をすることは、果たして許されていたのだろうかと、今となっては思う。けれど、彼の言霊はきっと真実だ、と文子はそれをもう一度胸の内にしまった。蹴落とし合い、他の誰かを不幸にすることで栄華を掴んだ人々よりは、貼り付けた笑みで上辺だけの言葉を蟠巻く蛇のように吹きかけあっている人々よりは、きっと。
「そのような御言葉、私の娘も聞いて喜ぶでしょう。今宵は我が鹿野商会のパーティに参加していただいて私は大層感謝しているのです。ああ、文子、文子」
娘の視線に気付いて、聲明が振り返る。きちんとオールバックに撫で付けられた髪に、上品な口髭。それでも、普段から眉間に刻まれ続けていた皺は、完全に隠し切ることは出来ない。一張羅を着込んだ父は、家とは違いすぎる態度で文子を鷹揚に呼びつけた。
その傍に控えていた聲明の側近・匡がさっと影のように動いて迎えに来る。
「旦那様がお呼びでございます」
文子の呼吸が乱れて震えだす。表情を強張らせた葉凪樹が手を貸そうとするのを遮って、文子は匡の手を取り父の傍に歩み寄った。
「直接皆様のお目に掛けたい。私の娘、鹿野文子です」
聲明の大きな手が、背後から文子の肩に触れる。
文子は懸命に笑みを作って平静を装い、華族令嬢に相応しい振る舞いを演じてみせた。
「御機嫌よう、本日はありがとうございます。三条様、鴻池様、千田様」
「お久しぶりです、お嬢様。嗚呼もう私のことは覚えていないかもしれないな」
「お父様も鼻が高いはずだ。聡明そうで意志の強そうな目はお父様と良く似ていらっしゃる」
「本当に。鹿野殿は寛容で懐の広い方だ、文子お嬢様もきっと優しく賢い良き妻になってくださることでしょうな」
文子のような花嫁が欲しいと男親達は言う。その奥に秘められた魂胆など見え透いていた。どんな賛辞の言葉も、深々と下げた頭の上を通り抜けるどころか殴打して過ぎていくように感じた。足元がふらつくのは船の揺れだけではない。輪から離れたところで悔しそうに表情を歪めた葉凪樹が視界に入るなり、ペルシャ絨毯も煌めくシャンデリアも、天地を返すように回り出した。