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斜陽に航れ  作者: 榎本かほり・弁財堂芙愛
第一章「豪華客船」
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二話

 豪華客船の上で海のせせらぎを聞いていると、ちょうど一週間前、父親の鹿野かの聲明せいめいが放った言葉が蘇ってくる。

 まるで娘を責め立てるような冷たく鋭利な声。


 ーー「文子、」それは夕日の潤んだある午後のことだった。座敷で聲明は思い出したような調子で口を開いた。「近いうちにお前の見合いの場を設けることにした」

 そのとき聲明の手は艶かしく文子の頬に触れていた。遠く、屋敷の傍で白波がザブンと音を立てているのが聞こえて来る。

「そろそろお前も家に入るべきだと思ってな。女学校でも許婚がいないのはお前くらいではないのか?」

 文子は何も答えなかった。ただ、ひどく息切れしていたのを覚えている。

 そんな文子をを見かねた聲明はわざとらしく溜息をついた。

「……まあいい、はなからお前の意思など求めてない。だがこれは我が鹿野家の繁栄にとって二度とない機会だ。くれぐれも粗相のないように」

 聲明は抑揚のない声で話し終えるとその顔を埋めた。遂に華族に仲間入りを果たした聲明は何よりも鹿野家の体裁を気にしていた。娘の見合いのためにわざわざ豪華客船を手配するほどだった。


(……私は、ちゃんとやれるのでしょうか)


 あれから一週間が経った今も、文子は未だに踏ん切りがつかずにいた。甲板の手すりを握る手にギュッと力を込める。好きでもない相手と結ばれるという女としての定めを受け入れるのにはまだ時間がかかりそうだった。

 船が奏でる音の波に身を委ね、一人思いあぐねる。すると、

「おーい、大丈夫?」

 葉凪樹が心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。彼は文子が唯一心を開ける存在だった。

 しばらく二人の間に沈黙が続き、文子が「ええ」と意を決したように声を上げた。僅かに微笑んでいたが、そこには不安に苛まれる人間の小さな歪みがあった。


 船内の社交室は夜の漆黒を物ともしない程に豪勢で煌びやかだった。


 部屋の隅で弦楽四重奏団が陽気な音楽を奏でている。五組の老夫婦がそれを聞いて感心したように拍手を送り、その近くでめかした若男たちがワイングラスを片手に談笑している。

 客船の中に戻った文子は葉凪樹のそばで、ただ茫然とその様子を眺めていた。何が可笑しいのか、そのうち一組の男女が手を握り合って笑い合っている。それを見た文子は重い吐息を漏らした。胸が詰まる思いだった。それは自分を苦しませるため、誰かがわざと幸せな夫婦の姿を見せつけているかのようだった。


 生まれてから十八年、華族令嬢として生まれて人間関係に当惑したり煩慮はんりょすることが多かった文子だったが、今、これから彼女を待ち受ける状況はそんな日常的な挫折とはまったく違った次元に位置していた。これから自分の伴侶が決まる。目の前の盛り場で屯ろする男たちの誰かに自分は一生を捧げなければならないのだ。それは文子のような少女が夢にも思わない出来事だった。見合い会場となる客船に乗り込んだあとも文子は未だに現実味が湧かずにいた。文子は助けを求めるように従者を横目で見る。しかし葉凪樹はその強張った表情に微笑んで応えるだけで何も口には出さなかった。


 こちらに気付いた梅園という貴婦人が、媚びを売るような笑顔で文子たちに向かって会釈をしてきた。彼女もまた息子を文子の見合い相手に送り出した華族の一人だった。


「まあ、お美しいドレスですこと」

 ねぶるように文子を見回したあと、梅園は話しかけてきた。

「そんな。とんでもございません」

「とてもお似合いですわよ。お父様もさぞかしお喜びでしょう」

「ええ、この年にもなって嫁に出ない私を誰よりも心配なさっていたので……。これから梅園様とご対面できるのを心待ちにしてます」

「あら、ありがとう。息子もとても楽しみにしておりますので」

 〝どうかご贔屓に〟そんな言葉を暗に示しながら梅園は扇子で顔を隠した。彼女も他の貴族と同様、文子の後ろ盾と位地に目が眩んでいた。高笑いしながらも、欲望に塗れたどす黒い瞳だけはしっかりと獲物を捕らえていた。

 しばしの談笑を楽しんだあと、梅園は満足そうに高価な洋装ドレスを引きずり去っていく。それを黙って見送ると、文子の身体はぐったりと疲労感に侵された。外向きの笑顔を作るのは予想以上に重労働だった。・……駄目だ、こんなことでは身体がもたない。やっぱり外の空気を吸いに甲板に戻ろう。そう思い踵を返すと、葉凪樹が文子の着物の袖を引っ張りそれを引き止めた。


「ちょっと文子」

「ごめんなさい。やっぱり私、まだ心の準備が……」

「うん、後でいくらでも愚痴に付き合ってあげるから。今はあそこにいる聲明殿の顔を立てておいたほうが賢明かもよ」

 全てを察したうえで文子の言葉を遮り、葉凪樹は部屋の入り口のほうを指差した。それを辿るようにして視線を移す。そこで着物で着飾った文子の父親が気前よく笑顔を振りまいていた。

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