一話
夜霧に霞む港の灯りが次第に遠のいて淡く暮れて行く。あの背の高い、星空と街明かりの境界のような一つ星は、海に突き出した真白い灯台の名残に違いないと文子は思った。生まれ育った瀬戸内の情景が、旅愁を甘く誘い出す。一つ一つの形が見て取れた連なる島影は次第に不鮮明な塊になってしまった。暮れ泥む空の下で銀河の星座へと姿を変えてゆきながら、いつまでもこの船を見送っている。船室のバルコニーは、潮風の甘い香りがした。
「文子」波音の切れ間から自分の名を呼ぶ声がある。彼女は振り返った。さっきまで背を向けていた気配が動いたかと思うと、部屋とバルコニーを隔てていた引戸が音もなく開く。
「もう懐郷病か? あんまり外にいると風邪ひくよ」
にやにやと揶揄うような笑みを浮かべながら其奴は隣に並び立って、まずは粧し込んだ文子を頭の天辺から爪先まで面白そうに眺めた。齢十八娘盛りの玉肌を包んでいるのは、いつもの女学生袴ではない。今宵は西洋の貴婦人の如く嫋やかな舶来品のドレスを着せられていた。長く色の深い艶やかな髪は気に入りの紅碧色のリボンを外し、上品に結い上げられている。慣れない靴を穿かされた足、海風に曝された白い頸が、言われた通り確かに冷えた。
「葉凪。またおまえはふらふらと、一体何処にいたのですか」
「ん、船の中を探険だよー。豪華客船なんて久しぶりだ」
文子は溜息をついた。文子はハナ、と呼んでいるが、本当の名前は葉凪樹と云って、本来ならば文子の傍に何時も座して付き従うべき立場にある。しかしいつでもこの調子で、少し目を離すと旋風のように居なくなり好き勝手な事をしている。言動だけではまるで子供だが、その容姿は文子より幾分か歳上の青年の形をしている。並んで立てば恋人のようだが、それには会話が噛み合わない。
葉凪樹は今暫く、人形のように飾り立てられた主人の姿を興味津々に眺めている。慣れない服に締め付けられて、またこれが自らを縛るしがらみの権現のように感じて、文子は息が詰まる思いだった。
「綺麗だね」
やっと満足したのか葉凪樹は、去かる宇和島の港灯りに視線を移し、睫毛を伏せた。蜉蝣の羽音のような優しい声を、海鳴りが攫わんとするのを逃さぬように聴き捉えて、文子は思わずどきりとする。しかし次の瞬間には、彼の眼差しと長い指が自分では無く望郷の星々へと向いているのに気付いて直ぐさまそれを取り消した。