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貴色  作者: 真夜中緒
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長雨  

 卯の花が散り終える前に降り出した雨は、だらだらと長引いた。時折雨が止んでも雲は晴れることなく、肌寒い気候が続く。こんな天気が続くと、昼と夜の境目が曖昧になるようで、じわりと滲むような夕闇にいつの間にか包まれているようなことも珍しくない。

 後宮の夜の庭には影がたつ。

 妬み、嫉み、恨み。

 人の心の暗い部分は、後宮の夜の庭を彷徨う。長雨にも怯むことなく、むしろ長雨で曖昧になった夕闇と共に滲み出て来るようにも思える。

 彼らとも長いつきあいだ。

 貴子は静かに庭を見つめる。恐れることも迷うこともなく、ただ真っ直ぐに。

 影は貴子を脅かさない。

 貴子は影に脅かされない。

 例えば貴子が庭を歩めば、影は自然と道をあけるだろう。それは天孫の光のような浄化の力故ではなく、ただ貴子の影に脅かされまいという、強い意志が成し遂げる技だ。

 影が揺れる。

 恐れ過ぎてはいけない。

 軽んじてもいけない。

 後宮に、そして宮廷にある以上決して彼らと無縁ではいられない。油断をすれば付け込まれ、場合によっては自身も魂離れて庭を彷徨うことになる。

 光のいない今、彼らを宮廷から遠ざける力は確実に弱まっているのだ。

 皮肉なことに、光の母である珠子の命を縮めたのもあれらの影だった。


 貴子は清涼殿の方を眺めた。

 影が濃い。

 今宵召されているのは更衣珠子だ。

 珠子が召される夜は、それとわかるほどに影が増える。清涼殿の内はもちろん清浄だ。もともと護られた空間でもあるし、何と言っても帝がおわす。天孫の血の清浄が暗い者どもを近づけない。

 しかし、清涼殿へと昇る道筋にはびっしりと影がたち、珠子はそこを通らなければならない。

 しかも、昇殿の便のために後涼殿の局を賜ったのも良くなかった。

 珠子の産んだ第二皇子はまだ余りに幼いため、桐壺のもともとの局で乳母に養育されていて、後涼殿にまでは来ない。

 第二皇子の傍らなら、安全なのだ。

 並外れて力の強い第二皇子の周りは浄化されて、暗い者どもは近寄れない。桐壺にいる分には珠子の身に害は及ばない。

 しかし、珠子は頻繁なお召に応えるため、後涼殿につめていることが多く、後涼殿の珠子の局は今や影にびっしりと取り巻かれている。

 最近、珠子付きの女房の入れ替わりが激しい事もうなずける、恐ろしい場所に変じてしまっているのだ。

 しかも、珠子には影を拒絶する意思がない。

 まさかそんなはずはないとは思うのだけど、やっぱり貴子にはそうとしか思えない。

 珠子はしずしずと清涼殿に昇って行く。影に一切頓着する事なく。それは貴子のように強い意志をもって影を恐れないというわけではなく、ただただ影を気にする事をしないのだ。

 貴子には不可解だった。

 貴子は強い意志をもって生きてきた。

 その意志故にあやかしを恐れず、困難を厭わない。

 もちろん、すべての人が貴子のように、強い意志を貫けるものではない。そんなことは貴子にももちろんわかっているけれど、それでも人には意思が、感情が宿るものだ。

 例えば恐れ、怯え、嫌悪。

 そのどれもが影に近づくのを拒み、影から身を守ろうとする感情だ。それが、珠子からは感じられない。

 ただ、淡々と影の中を進んでいく様は、少々薄気味悪く感じられるほどだ。それでいて珠子は見鬼なのだ。

 貴子の父の惟成のように、感じぬ故の無頓着さでもない。

 そして影の影響を受けていないというわけでもないようで、珠子は段々と病みがちになった。特にどこが悪いというわけでもなく、ただ起き上がれない日が増え、食が細ってゆく。見た目にも幾分透明感が増したように見える程度で、変化は少ない。

 そもそもが、美しい影のような娘なのだ。

 珠子はまるで長雨にうたれた花のように、じわりじわりと色褪せて弱っていき、そして散った。


 もしも珠子が生きていたら、何かが違ったろうか。

 輝子内親王の入内はなかったろう。

 そうすれば、貴子が順当に中宮として立后することになったはずだ。

 源氏が臣籍に下ることは避けがたかったろうが、元服はもっと遅らせられたかもしれない。そうすればもっと相応しい年齢になってから宮廷を出すことが出来たはずだ。

 そうしたら、そしてそもそも生母を失わなければ、源氏のその後は変わったかもしれない。

 飢えたように女人を渡り歩く事もなく、結子が憔悴しきるような事にもならなかったのではないか。

 わかっている。これは繰り言だ。

 過去を美化して嘆く老婆の繰り言よりも、更に儚い繰り言に過ぎない。

 起こらなかった物事を、失われた可能性を、嘆いて何になるだろう。

 それでもそんなことを考えてしまうのは、あまりにも辛いからなのだろう。あの、輝かしい子供が彷徨う限り、多くの者を巻き込んでゆく。

 今上が、結子が、中宮が、東宮が、他にも無数の者たちが、源氏の飢えに巻き込まれ、源氏と共に彷徨うだろう。

 源氏にとって愛される事はあまりに容易い。容易いものでは飢えを満たせない。

 いつまでも、いつまでも、源氏は彷徨うことだろう。自分が飢えていることにすら気づかぬままに。

 ああ、これもまた繰り言だ。

 言っても、考えても、詮無いこと。

 なぜこんなことばかり考えているのか。

 雨が降っている。

 しのつく長雨。

 雨の夜に揺れる影。

 夜の庭を彷徨う影。

 あてどなく、決して届かないものを求める影。

 きっと、それが源氏を思い出させるのだ。

 あんなにも輝かしい、力に溢れた若者が、結局は影と同じく彷徨うものであるとは、なんと痛々しい事実だろう。

 影がたつ。

 宮廷に、後宮に、人の心に。

 長雨にじわりと滲みながら。

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