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貴色  作者: 真夜中緒
2/16

端布

 その冬は中々寒さが進まなかった。

 まるで季節が源氏のいないままに進むのを、拒んでいるようだとささやき交わす者もいる。

 馬鹿馬鹿しい。

 季節は揺れるものだ。

 源氏が不在であってもなくても。

 寒さはそれほどではなくても、秋のような雨は減り、冬らしいからりとした晴天が続くようになった。

 そんなよく乾いたある日、貴子は女童たちに手伝わせて、端布の虫干しをした。

 端布を集めるのは幼い頃からの貴子の癖だ。色とりどりの端布は見ているだけでも楽しくて、自分の着物や女房たちの着物の断切れなどを貰っては箱の中に貯め込んでいた。

 中には特別な布もある。

 裳着の衣装の端布を納めた箱。

 貴子が入内した折の衣装の端布を納めた箱。

 子供達の袴着の衣装。

 貴子が最も大切にしているのは、唐風の螺鈿に彩られた箱だ。

 中に入っているのは何枚もの白い布。

 地紋や素材、白の色目も仄かに違う数多の布は、故院がお生まれになった折の晴装束の端布だ。

 「皇子さまをよろしくね。」

 故院の五十日の祝いの折に、御母女御からのそんなお言葉と共に賜った布。女御ご自身だけでなく、褥や産着、介添の女房たちの装束に、几帳の布の端布まで全て集められていた。幼い貴子が端布を好むのを知って、わざわざ集めておいて下さったのだ。

 そういえばあのお優しい御母女御も、立后はなさらなかった。

 その後に一人皇女を挙げられて、さらに次の皇子のご誕生の折に、身罷られてしまったからだ。同じ頃に貴子の母も、妹を産んで亡くなった。

 

 風の通るように開け放した部屋に、飛ばされないよう重しをしながら白い布が並べられていく。

 気をつけて風に当てているので、過ぎた年月の割には黄ばみもひどくない。同じように子どもたちを産んだ折の晴装束の端布もあって、並べ終えると辺りの床が真っ白になった。

 晴装束以外の端布は色鮮やかだ。

 萌黄、薄色、今様、香染。

 中でも多くて目につくのは、濃く染められた紅の布。

 高価な紅花をたっぷりと使って染められる紅は、貴色とも呼ばれる。高貴な人間でなければ纏うことの許されない色だ。

 その紅こそが、貴子が自らの色と決めた色だった。 

 貴子の幼名を紅姫もみひめという。

 紅梅のさかりの庭が、鮮やかな夕映えに照らされる頃に生まれた故の命名らしい。実際、色の白い、凛とした顔立ちの貴子には紅が似合った。

 貴子が紅を纏うのを特に喜んだのは故院だ。貴子の衣装に紅がないと、すこし物足りなげになさるほどだった。

 故院を喜ばせたい一心で貴子は紅を纏った。紅に見劣りしないために、さらにがむしゃらに努力を重ねた。最も貴い色に相応しい女御であることにひたすら努めた。

 それでも故院の中宮として立后することは、叶わなかったのだけど。

 いや、その事はもう考えるまい。

 貴子はいまや太后だ。今上の母として立后を果たしている。たとえその立后が錆びた敗北の味を感じさせるものだったとしても、後宮の女としての至尊の座についた以上、胸を張らないわけにはいかない。それはその場所にたどり着いた者の義務であり、たどり着けなかった者たちへの礼儀でさえあるのだと思う。 

 ふと箱の一つを手に取って、貴子は眉を曇らせた。清らかな白木の箱に収まるのは色鮮やかな端布の数々だ。

 可憐な撫子の重ねにニ倍織物の唐衣。

 これは妹の朱姫の裳着のために貴子が整えた衣装だ。朱姫は結局、色鮮やかな衣装に袖を通す事はなかった。

 入内を恐れるあまりに自ら髪を下ろしてしまったからだ。

 朱姫の法衣とするために、貴子は自ら妹の裳着の衣装を橡で染めた。

 もともと臆病な質の妹だった。目に映るあやかしに怯えて自室に籠もるような。入内などそもそもが無理だったのかもしれない。

 宮中には数多のあやかしが湧く。天孫の力を継ぐ皇族の多く集まる場所であり、帝の住まわれる場所でもあるというのに、その瘴気は時に重たく風景を霞ませるほどだ。

 その事はもちろんわかっていて、それでも朱姫の入内を止めることができなかったのは、貴子の間違いだった。

 本当は止めるべきだったのだ。父が朱姫の入内を言い出した時に。

 貴子の父は見鬼ではない。

 祖父や叔母と違い父にあやかしを見る力はなかった。だから父には本当にはわからないのだ。朱姫が何に怯えていたのかが。

 そして、それを言うなら。

 貴子には本当にわかっていたのだろうか。

 幾度も、幾度も、自問した。

 朱姫は長くは生きなかった。

 そして朱姫を娶るはずだった、故院の弟君である故東宮も。

 朱姫は出家して二年もせずに、故東宮も五年ほどで身罷った。

 朱姫の突然の出家が故東宮に衝撃を与えたのは間違いない。せめてもの慰めは、父が探し出してきた朱姫の代わりの添臥の姫君が、東宮と濃やかな関係を築き、姫宮を一人挙げたことだろうか。

 自分は朱姫の恐れを、苦しみを、本当にわかっていただろうか。

 自分の力を頼むあまり、朱姫の恐れを侮ってはいなかったか。

 今更とはわかっていても、その問いは今も鋭く貴子の胸を噛む。


 朱姫は泣いていた。

 切り落とされた黒髪は、幾筋もの黒いうねりとなって、床に散らばっている。自分で切り落としたせいか、無残な残バラになった髪は、肩にも届いてはいなかった。これではかもじを添えることも難しい。

 いや、そうではない。

 混乱した頭の隅に浮かんだ考えを、貴子はうち消す。

 かもじなどそえて何になるのか。ここまでして入内を拒んでいる妹に、かもじをつけさせてまでも後宮に送り込もうとするのか。

 「ごめんなさい、おねえさま。」

 ああ、まただ。

 また自分はこの言葉を、朱姫に言わせてしまった。幼い頃からいつも、朱姫は貴子に謝っていた。そのごめんなさいの向こうに別の謝罪が被って聞こえるようになったのはいつからだったか。

  生まれてしまってごめんなさい。

  私が私でごめんなさい。

 貴子にはそんな風に聞こえる。

 母の命と引き換えに生を受けたことを気にしているのか。貴子のように術を操り、あやかしを使役する強さのないことを気に病んでいたのか。

 そんなことで怒らない。

 大切な妹をそんなことで貶めない。

 それとも、貴子の中に実はそんな気持ちが潜んでいて、妹には見えていたのか。

 髪を下ろした朱姫は、とても幼く頼りなげだった。それまでよりもずっと。

 朱姫の入内を決めたのは父だ。

 貴子の入内を見届けて祖父が逝き、家の主は父に代わっていた。

 父としては別に大して考え抜いた話でもなかったのだろうと思う。兄の帝に姉娘が添っているのだから、弟の東宮には妹の方を程度のことだったのだろう。貴子が懸念をいだきながらも反対しなかったのは、朱姫が当の東宮と親しんでいるのを知っていたからだ。

 考えるまでもなく、似た境遇の二人だった。

 母の命と引き換えに生まれた、身体の弱い子供たち。

 寄り添って生きて行くなら似合いの二人だった。貴子が背の君に仕え、ひたすらに寄り添い支えているのとは違い、寄り添い合い支え合う、そんな生き方の出来そうな組み合わせだった。たぶん本当にそうだったのだと思う。場所が宮廷でさえなければ。

 「何ということだ。これではかもじも添えられぬではないか。」

 報せを受けて戻った父の、開口一番の言葉には衝撃を受けた。自分が思って口に出さなかった言葉と、全く同じだったから。

 母の違う姉妹は何人かいたが、年回りがあまり良くなかった。それで父は、すでに故人であった父の従兄である六条大臣の姫君を探し出し、朱姫の代わりにした。


 かたたたた

 吹き抜ける風が御簾を鳴らす音で、貴子は我に返った。

 「風が強くなってきたようね。布が飛ばされてはいけないから、御格子を下ろしなさい。それからもとの箱に布をしまってちょうだい。」

 御格子を下ろすと少し風が弱まった。

 重しの下から引き抜いた布を、もとの箱へとつめてゆく。

 とりどりの白い布。

 艶やかな紅を含む重ねの数々。

 そして白木の箱に収めた撫子の衣。

 貴子は布をおさめた全ての箱を、元通り櫃の中へ片付けた。

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