前編
二人の対照的な美少女と一人の少年の心の交流を描いた学園コメディです。
ワード縦書きから変換時、段落スペースがうまく変更出来てない部分がありますがご了承ください。
プロローグ
スギ、ヒノキ、マツ、日本人は古来より木々と密接にかかわり歴史を刻んできた……奈良県の最東部に位置し、山に囲まれたこの片田舎御杖村でさえ、諸外国の格安木材が入ってくる高度成長期までは、林業でたいそう栄えたそうな。
現在、超過疎化が進んだ村には、高齢化が拍車を掛け――夜七時にもなると外灯と自販機以外の光は皆無で、静寂に包まれる。
昔々、村人がジュースの自動販売機を【夜の太陽】と呼んでいたのは……実話で。人口も村の有線放送で流れてくる週に一回の死にました放送、年に一回の生まれました放送が物語っているようにみるみる減少し十年で三千人から二千人になってしまった。
そんな土地で生まれ育った俺が今年の春から通う地元唯一の高校は――奈良県立林業高校。全国に数少ない林業を学ぶ高校である。
とはいうものの林業高校という名も過ぎ去りし栄光の残骸に過ぎず、林業関係の科目が少しばかり多いことと実習があることを除けば、ほぼ普通の高校と変わりはない。
生徒たちの志望理由も……偏見たっぷりオレコンチャート調べでは。
第三位、家が近いから。
第二位、滑り止めだった。
そして栄えある
第一位は……やはり家が近いから。
他に皆目見当も付かず、掟やぶりのツーランクインも間違ってはいないはずだ。
俺を含め地元の連中がクラスの八割を占める。
それでも時折、遠くから寮生活をいとわぬ変わった輩もやってくるわけで――彼女たちも、その中の一人だった。
第一章 紅葉と桜
四月一日午前六時半。心地よい春眠を目覚まし時計のアラーム音にぶち壊され、洗面所で顔を洗いリビングに向かう。
こうして主夫兼学生の忙しい一日が始まる。
「おい、木の葉、起きろ」
「……んんぅ……うん」
いつものようにリビングのソファで寝てしまったのだろう。目の前でロンTにパンツという憐れもない姿で気持ち良さそうに寝ているのが妹の桐谷木の葉、中学二年生。ライトブラウンに染めた髪の毛、色白の肌に大きな瞳と整った目鼻立ち、大人びた雰囲気は……実の兄が言うのもなんだがかなりの美少女である。
そして今この状況はとてつもなくラッキーショットなのだろうが何も感じないのが妹という生き物だ。
「木の葉、起きろ! ほら、今日から学校だろ。準備!」
「……う~ん……んんぅ、今起きて準備ちゅ……う」
どんな言い草だよ。おもっきし寝てんじゃねえか!
「しかたねえな、ほら」
「きゃっ!」
これまた例の如く、抱きかかえ脱衣所の洗面台まで運び、あとは放置……
「ちゃんと顔洗って、歯磨いてお風呂入れよ」
「……ふぁぁあぃ……。」
こいつはここまでしてやっと寝ぼけながら動きだす。
チラリとリビングの時計に目をやる。六時四十五分、後十五分。
大丈夫余裕はある。
キッチンにいくと、食パンを半分にカットし、昨日作っておいたゆで卵を細かく刻む。それにマヨネーズ、粉マスタード、塩・こしょうを加えて混ぜ、食パンの上に均等な厚さになるようにのせる。
後はケチャップをかけてトースターで三分焼くだけである。
その間にホットコーヒーと木の葉用のホットミルクをそそぎ、レタスとトマト、キュウリでお手軽なサラダを作って朝食の完成。
ここまで約五分、そこから木の葉が風呂から上がるまでに冷蔵庫の食材で弁当を作っておく。
両親が離婚し父が単身赴任でいない間はおおよそ、こんな毎日だ。
なかなか主夫は忙しいが苦にならないのは料理が嫌いでないのと……
「わあ! トーストエッグ~」
「またそんな格好で、まず着替えろ」
風呂上りにバスタオル姿で食卓につこうとする、こんなだらしのない妹をほっとけないからだろう。
「はぁ~い」
返事はするが、反省などまるでしない。毎日同じことをするのだから。
七時ジャスト。
ここからは家を出るまで三十分、やっとゆっくり出来る。
「お兄ちゃん、今日から高校生だね。どう? 心境の変化は?」
制服に着替えた木の葉がミルクのカップに満足げに口を付け聞いてくる
「ないよ。立地もメンバーもほぼ地元で中学と何も変わらんだろうしな」
「そんなことないわよ。高校生って言えば、恋に部活に青春に一番楽しい時期じゃない。もっと楽しみなさい! 若いんだから」
「お前は近所のおばさんか!」
口いっぱいにトーストエッグをほおばるもっと若い奴にとりあえず突っ込んどく。
「彼女出来たら連れてきてよね」
「よく言うよ」
「何がぁ?」
「中学時代、少しでも仲良くなった女友達にことごとく、お兄ちゃんに相応しくないだの手出すなだの訳の分からんことを言って人の恋路を邪魔してきた奴が……」
「あら、そうだったかしら」
とぼけた生返事。だが俺の意見など関係なく続ける
「でも元々、お兄ちゃんは彼女とか作るタイプじゃないでしょ」
どんなタイプだよ。
「何ていうか、がっつかないというか草食男子というか……仙人男子というか……生殖異常男子というか……カマ野郎というか……」
もう後半は悪口じゃねえか。
「う~ん? 顔は悪くないのにな……」
「出来ないんじゃなくて作らないだけだ!」
頬杖を付きながら、まじまじと顔を覗きこまれ言い訳がましく言ってみたが、妹はどうだかという表情をするので付け加えておく。
「言っとくけどな。俺もやるときはやるんだ! 運命の人が目の前に現れさえすれば肉食も肉食、女の若肉を貪るガツガツの獣になるんだ……いいか一枚一枚衣を剥ぎ取ってその柔らかい如肉をだな……」
「……お兄ちゃん……怖い」
ジト目で見る妹の姿にふと我に返った。妄想が爆発してとんでもないことを口走っていた。いかんいかん。
「まあ、あれだ……たまたま相手がいなかっただけだ」
とりあえず、ごまかしておこう。
「んま、ずっと出来なかった方が木の葉的には嬉しいけど……」
「人の不幸を喜ぶとか性格悪いぞ」
「そういう意味じゃないし……お兄ちゃんのバカッ!」
何でお前が怒るんだよ。時々こいつはよく分からない。
「それはそうと椿姉ちゃんが今年から帰ってくるんだって、お兄ちゃんの担任になったりして」
木の葉が会話を変えるように出してきた椿姉ちゃんとは、大学に行く七年前まで近所に住んでいたお姉ちゃんで教育大を卒業後、奈良市の高校で教師をしていたが今年から奈良県立林業高校に赴任してくるらしい。
小学生の頃よく俺達兄弟はよく遊んでもらった。木の葉は可愛がられて良い思い出しかないだろうが俺は正直それがない。むしろ俺の流されやすく押しに弱い欠点は姉ちゃんのせいじゃないかとさえ思っている。
「今日あたり遊びに行ってみようよぅ~」
「姉ちゃんは先生という立場があるんだから昔みたいにって訳にもいかないだろうから止めとけ」
「はぁ~い……」
どうやら納得いったみたいでふと胸を撫で下ろす。小学生の頃にやれ肩が凝ったから揉め、やれ腹が減ったから飯作れと散々こき使われていたのを思い出し、とっさに木の葉を制した。
「じゃあ落ち着いたら?」
「ああ落ち着いたらな」
落ち着いたらという不確定な表現はとても便利だ。明日でもいいし、一年後でも
いいのだから。
何だ、つまらない……と垢抜けた見た目とは裏腹に子供のように頬を膨らます幼
い妹に悪い気がしないでもないが仕方ない……
「そろそろ通学の時間だ。お前もちゃんと遅れないように出ろよ」
七時半になろうかというリビングの時計に目をやり、トーストエッグをコーヒーで流し込むと、俺は一足先に家を出た。
「お兄ちゃん行ってらっしゃい~」
散々、世話してやってる兄の初登校の見送りがリビングでテレビ見ながらかよ、まったく。
御杖村には三つの地区がある。
高校があり俺が住む土屋原地区が西に位置し、中学がある隣の菅野地区、東に神末地区と分かれていて地区間には峠があり五、六キロほど離れている。その為、中学はスクールバスで送り迎えしてもらえる。しかし、義務教育を抜けた高校からは自力通学の徒歩、自転車ないしバイクというのが常等で俺も例に漏れず今日から自転車で三十分ほど掛けて土屋原―菅野間の峠にある高校へ向かう。
木の葉にああは言ったが内心新しい高校生活に少しばかり期待してしまう。
世間の青春を謳歌するリア充を否定する人間も実のところ心の底ではそっち側に憧れる。学校で普通に女の子と付き合いたいし、プリクラを撮ったりカラオケに行ったりと鮮やかに彩られた青春の一ページを記したいのだ。
まあ、プリクラなんて村にある訳がないから、そこは個人商店の水口写真館で宣材写真を撮ろう……二千円くらいするがこの際仕方ない。カラオケは村唯一の呑み処スナック大和道にいけばあったような……そんな無理のある青春妄想を膨らませ、自転車を漕いでいると、林業高校の正門に着いた頃には登校時間の八時ギリギリだった。明日からもう少し早く出るか……
正門から校舎までの運動場には同じくギリギリで登校に間に合った連中がまばらに歩く姿が見える。
「緑、おはよ! 初日早々ギリギリかよ」
「おまえもな」
小中一緒の連れ。
「桐谷君、おはよう」
「ああ、おはよう」
中学一緒の顔見知り。
中学の登校時同様に馴染みの連中に話しかけられ、中学四年生になったようなノリに新鮮な高校生活への妄想、期待が霞む。
やっぱ無理にでも理由をつけて市内の高校とかに行くべきだったかな……
体育館でテンプレート通りの退屈な入学式と始業式を終え、ぞろぞろと一年の教室に入った。新入生の数も三十数名で一クラスだけである。
それぞれ出席番号順に席に着くやいなや
「みんな、おはよ~う!」
やけにテンションが高い挨拶とともに教室に入ってきた担任は……そんな気はしたが……雨宮椿だった。
「今日から担任を受け持つ雨宮椿です。みんなよろしくね」
お決まり通り黒板にデカデカと名前を書き自己紹介。
「あら、緑じゃない~!」
目が合うなり嬉しそうに名前を呼ばれ動揺した。
「ああ、久しぶり。姉ちゃ……あ、雨宮先生……」
みんなの視線が俺に向けられ思わず声がうわずってしまった……
「私が緑の担任になるなんて不思議な感じね……フフ」
皆、一様に優しく微笑む外面を被った姉ちゃんと俺の顔を交互に見て、なぜ担任と知り合いなのかといった顔をしている。
歳も九つ離れてるし土屋原地区のごく一部の人間以外は姉ちゃんのことを知らないから当然っちゃ当然だろう。
「先生!」
神末地区の生徒が何か聞きたそうに手をあげた。
「何かしら?」
「先生と桐谷君はどんな関係ですか?」
「元カレ元カノ?」
「まっさかぁ~」
茶化すなよ。
「う~ん……どんな関係だろう?」
下唇に指を当て考え込み、う~ん? と首を捻りつつとんでもない事を言い出す
「……なんだろ? 付き合ってたとかはないけど、昔から一緒にお風呂に入ったり~? ご飯作ってもらったり~? そんな関係?」
おい! 勘違いするような言い方するな! と否定する間もなく
「きゃー、曖昧な関係なのにそれってセフレってやつじゃないですか!」
「やだー桐谷君汚らわしい」
「最低~!」
「緑、見損なったぞ」
クラス中がどよめき立ち口々に勝手なことを口走る
何だよこの流れ!
「おい! 姉ちゃん変な事言うなよ」
「だって本当の事じゃない」
これまた勘違いするような返事にクラス中のバッシングを受けるはめになった。
「付き合ってもないのにいいように使うとか女の敵だわ」
「こんな美人を捕まえといて男らしくないぞ! このドスケベ!」
この勘違いを解くのに、その日から二週間近く掛かった。
それでも思っていた程時間が掛からなかったのは、この後の自己紹介タイムでさらに印象強い出来事があったからだろう。
「まあ、私たちの事は追々説明するとして。まずは高校初日といえば自己紹介ね! 先生もまだ顔と名前全然知らないから。出席番号順に名前、出身中学と高校生活への意気込みみたいなのをそれぞれ述べること」
ありがちな展開だが窮地から脱し、ホッと胸を撫で下ろす。
知った顔が時にテンション高く、時につらつらと自己紹介していく、自分の出席番号までに当たり障りのない台詞を考えとかないとな……
自分の出番に後二つと迫ったところである生徒が自己紹介を始めた。
「木下紅葉、灘高校付属中学出身。わたしは昨今、衰退し瀕死の危機にある日本の林業を復興させる為に林業を学びに来ました。持続的経営が可能な生物多様性に配慮した長伐期森林経営を目指すべく座学、実技の基礎を学ぶつもりです。恋愛、青春、友情、そういった上っ面だけで紛い物の幸福に目を眩ませることなく三年間を知識、ノウハウ吸収に全力を注ぎたいと思います。なので友達も恋人も一切要りません。以上」
クラス全員から視線を集めたのは林業への執念めいた熱意、刺々しい発言もさることながら、その見た目、容貌も大いにあっただろう。
艶やかなストレートの髪は腰まである藍色がかった黒、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳、血色のいい薄桃色に彩った唇、そのすべてが奇跡の如くバランスで配置された、えらく美少女がそこにいた。
「綺麗だな~」
「灘高校って県内トップの進学校じゃん……何でわざわざ」
「少し見た目が良いくらいで調子乗ってんじゃないわよ」
口々にざわつく声が聞こえるが彼女は気にとめる様子もなく着席。不貞腐れたように頬肘を付き、憮然とした態度で窓の外に視線を向けてしまった。
「良い心意気ね。気に入ったわ」
姉ちゃんは意外に肯定的な意見をいうと、自己紹介の続きを促し、再び自己紹介の流れに戻る。
しかし、これだけでは終わらなかった。俺の差障りのない自己紹介が終わった幾人か後にセカンドインパクトが襲来した。
「咲崎桜、畝傍高校付属中学出身。あたしはどっかの誰かさんが言ったような長伐期林業はあくまで理想論であり現実味がないと思います。林業復興などと大きなことは言わない! でも戦後の造林事業で植林された木々が収穫期に差し掛かっているのに放置されたままなのは事実であり。面積の約90%を針葉樹が占めるこの土地は大きなビジネスチャンスだと思い、近々林業にも参入する予定の父の会社に役立てる知識を得たいとここに来ました。友達や恋人など要らないのは私も一緒。三年間を林業に捧げるつもりです。以上」
木下とは別のより商業的な観点で林業に熱意を向けるこの少女は木下に牙をむきつつも同様に極一般的な高校生活を否定――クラスの人間を敵に回し、一息付くと席に着いた。
スラリとした足に出るとこはきっちり出ている抜群のスタイル、銀髪ショートの目鼻立ちの整ったこれまたえらく美少女が皆の視線を釘付けにした。木下の美しさが陰の儚げな美しさとすれば彼女は華々しく派手な美しさ……まさに紅葉と桜。
「熱意があるのは良い事ね! 三年間一緒に頑張りましょ」
姉ちゃんはこれまた肯定的に咲崎に答える
名前を出されて釈然としない表情で聞いていた木下が
「咲崎さんでしたっけ? 理想論? 現実味がない? 人のことを散々ディスってくれたけど。あなたのような森林をお金としか見ない人間が無理な森林伐採を繰り返した結果が現在の森林破壊が進んだ東南アジア諸国の状態じゃないのかしら? 木々を売り払うだけが林業じゃないのよ。次の世代につなげる植林、管理も出来ない人間に森林に携わる権利はないわ」
「あんたは現実を知らないのよ!」
「あなたが知っているという現実がどんなものかは分からないけれど。わたしに現実を知らないと決め付ける理由にはならないわね」
「あんたみたいに未来ばっか見据えて、現状食べれず去るしかなかった者がいっぱいいるんだから」
応戦した木下紅葉にくって掛かる咲崎桜は少し感情的になり涙目に見えた。何か特別な思いがあるのだろう――木下にだって譲れない何かがあるに違いない
「二人ともその辺で止めときなさい! 議論するのは良い事だけど。今はその場じゃないし、あなたたちの会話には相手への配慮も欠けているわ」
黙って聞いていた姉ちゃんがようやく諭し、二人は黙ったものの
「邪魔だけはしないでね」
「なにさ、目障りな陰険女!」
お互いそっぽを向いてしまった。
「まあ、いろんな考え方があって何が正しいかなんて分からない。だからこれから皆で見つけていくの。林業に従事する人間でね」
姉ちゃんは何とかまとめて、自己紹介を終わらし明日からの時間割などを説明すると
「今日は以上で解散! 明日から通常授業だからちゃんとお弁当持ってくんのよ」
と言い残し、初日は終わった。
これが彼女たちとの最初の出会いだった。
自分にはない林業への熱意に圧倒されつつ羨ましくもあり、それでも冷めた思いも擁かずにはいれない。
俺の家は代々製材所を営んでいたが、林業衰退の流れを受け父の代で廃業し父は単身赴任の身に……やがて夫婦仲も悪くなり母は小学五年生の俺と三年生の木の葉を残し家を出てしまった。
俺の中で怒りの矛先を見つけられず林業衰退に当てているだけなのかもしれない。それでも現実問題、今後もう一度繁栄する産業には思えないのだ。
次の日登校するともう既にほぼ全員来ており和気藹々と話す中、昨日のこともあり木下と咲崎は誰とも話すことなく机に座っている。
「なあ、桐谷。お前どっち派?」
木下と咲崎の方に顎をしゃくり、小さな声で話しかけてきたのは地元でずっと一緒の古賀だった。
「どっち派って?」
「男子の間ではもう派閥が出来て盛り上がってるぜ」
そういうことか……
「そりゃ女子からはすこぶる評判悪いけど。あんなに可愛いんだ。お近づきになりたいのが世の常ってもんだろ? この際お前がどっち派かはいいが、桐谷。俺は決めたぞ! 彼女と付き合う」
どうやら古賀は木下派? らしく……早々と一限の国語の教科書に目をやる彼女に顎を向け強気な宣言をしてきた。
古賀は端正な顔立ちに長身、コミュ力が高くおまけに面倒見が良いと同姓からも好かれる完璧超人である。中学三年間常に彼女をとっかえひっかえしてきたいわゆるリア充。
俺はうまく言えないがこいつがあまり好きになれない。妬みから来るのかしれないが計算高さとどこか人を下に見る時があるし、薄っぺらいメッキが垣間見える瞬間を感じる。
「すごいな、そのアグレッシブさ。まあ頑張れよ」
だからいつも、こんな風に深入りせず無下にもせずといった対応で流している
「いつの時代も恋愛は人類最大の関心事だからな。おまえも早く彼女とか作れよ」
叱咤激励のつもりか俺の肩をぽんと叩くと我が有志を見ろとばかりに木下のほうに向かっていく。
俺は応援などしないし、うまくいったとて悔しがったりもしない。ただ恋人、友達など一切要らないと憮然と言い放った木下がイケメン古賀のコミュニケーションにどう対応するのか興味を引いた。
木下の元へ向かう古賀を注視し、心の中で皮肉たっぷりの実況を開始する。
古賀、お前の試合見せてもらうぜ。KO必須恋愛マイクタイソンのボクシングをよ。
「木下さんだっけ?」
出たー! 承認欲求を揺さぶる名前覚えてましたよ先制ジャブ! さらに【?】イントネーションで【は? 何覚えてんのキモいんですけど】カウンターパンチに備えガードも怠らない鉄壁ディフェンス!
「古賀隆二です、よろしくね。エヘッ」
で、で、出たー! ジャブで距離を詰めてからのこれからの未来を連想させる強烈よろしくねストレート!
後々思い出すたびに効いてくるイケメン爽やかスマイルボディーブロー!
ラストは肌と肌が触れ合う握手それはまさに今後二人で歩む酒池肉林の始まりだねアッパーカァァァーット!
かつて、このイケメン古賀コンボをくらい立ったものなど見たことがない。
抱いて欲しいの好きにしてクリンチに逃れるか……
ベタ惚れパンチドランカーに成るか……
いずれにせよ古賀の虜となる。
終わったか? 終わってしまったのか?
1、2、3……俺は心の中でカウントダウンを数えた。
彼女は女の顔で「こちらこそ……」なんていうに違いない。
決まったな……なのにしかし、それなのに……
「何か用かしら?」
古賀にはいっさい目もくれず、無機質な声で一言。
「いや、用ってわけじゃないけど……せっかくこれから三年間同じクラスな訳だし仲良く出来たらなって」
「それは難しいんじゃないかしら」
「……え?」
一瞥すると彼女は答えた、
「見たところ確かにあなたは容姿が良くて、気さくで人に一端は好かれそうね。でも私にはその裏に隠された人を優劣で判断し、せこく立ち回る狡猾さが目に付くわ。嫌悪感を抱く結果になるのが見えてて仲良くなろうと思えないの。それにそもそも昨日言った通り誰かと仲良く和気藹々な高校生活など送る熱量は持ち合わせていないの。ごめんなさいね」
「ああ……そりゃ悪かったな」
ノックダウン…………古賀が!
余程プライドを傷付けられたのだろう、とぼとぼと俺の元に戻ってきた古賀は
「まあ、俺は抱けない美人より抱けるブス派だから別にかまわん」
と最低にも程がある捨て台詞を耳打ちし自分の席に戻っていった……
俺はただただ驚いた。自分がうまく言えない古賀に感じていた違和感、嫌悪感のようなものを瞬時に見極 める洞察力、それを伝える表現力、そして言ったことは曲げない強い心、何者だよこの女。
一連のやり取りを見ていた咲崎が何やら気に食わないらしく木下に話し出した。
「あら良かったの? あんたみたいな根暗陰険女はあたしと違って男にチヤホヤされることなんて怱々ないでしょうに……絵空事の林業ごっこより、生産性のない快楽に満ちた青春カルチャーに身を投じた方が良かったんじゃないの」
昨日の一件で余程腹が立っていたのか、わざわざ喧嘩を売るかのように皮肉たっぷりな挑発の言葉を木下に投げつける……
だがここで引かないのが木下紅葉。
「何を向きになっているの……? あなたのようなお下品ド派手お下劣人間から言わせれば誰もが根暗、陰険になるんじゃないかしら? 怒りに任せて鼻息をフガフガいわせてる姿なんてまるで繁殖期の猿そのものね。あなたこそ森林経営なんて知能を使う事を諦めて、男あさりに三年間をついやしたらどうかしら」
「あんたなんかとしゃべってると知能レベルが落ちるわ!」
「あら、それ以上低下したら大変なことになるわね……」
「なによ! IQ一桁足りてないんじゃないの! あんたなんかアメーバ以下よ!」
感情をあらわにする咲崎に対して、木下は無機質に淡々と言い返す
「人に牙を向くのはいいけれど。その行為自体が自分は感傷的で愚かな人間ですと証明している事実に気づくべきね」
大きなハンマーを振り回すモンスターの攻撃を可憐にスルリとかわすと切れ味鋭い剣で一突きに仕留める クールな戦士の如く木下は攻め立てる。
「だいたいIQ一桁足りない生物は人間としての定義に大きく外れてる訳で、あなたが本気でそう認識したんであれば、視力、洞察力、判断力すべてが著しく低下状態と推測され、違法薬物を吸引してるくらいしか思いつかないのだけれど……大丈夫かしら? 本気で心配になってきたわ……」
「ああー! もう! うるさい! あんたなんか大っ嫌い」
咲崎は言い負かされ、子供のような捨て台詞を吐き自分の席に戻ると不機嫌そうに膨れて机に突っ伏してしまった。
はあ……どんだけ仲悪いんだよ……
事の発端を作った古賀はといえば自分の席で不貞腐れていたと思えば、今の二人のやり取りを見て何を思ったか咲崎の元に向かう。
「大丈夫? 彼女あんまりだね。でも悪い子じゃないと思うんだ。ね?」
すっとハンカチを差し出した。
さ、さ、さすがコミュ力抜群チャンスを逃さないモテモテリア充! 弱った女の落ち易さを狙う巧妙さに木下のことも悪く言わないことにより、そちらの目も摘まないどころか誰にでも優しく出来る男アピールの狡猾さが光る!
てか心強過ぎのターゲット切り替え早過ぎだろ!
しかし、相手は咲崎。木下に引けは取ったものの相当気が強い女だ。
「うざいわねあんた! その八方美人な立ち回り目障りよ。木下さんの肩を持つような下卑た連中にろくな奴はいないわね!」
「いや別にそんなつもりで言ったんじゃないんだけど……」
「どんなつもりでもいいけど。あたしに二度とかまわないで」
咲崎に今にでも飛び掛りそうな野獣の目で睨まれ
「……ああ、何か悪かったな」
気圧されてとりあえず謝った。そりゃ誰だってそうなるだろ……それと、と付け加えるように
「彼女があんまりだねの意味も分からないわ! まだ世間知らずの甘ちゃんなりにもちゃんと林業の事を学ぼうとしてる姿勢は何も考えず生きてるあんたみたいな人間よりはマシよ!」
木下を少しかばう咲崎の言葉に意外だなと思いつつも……俺はがっくり肩を落とし退散する古賀に少しばかり同情するしかなかった。
この時、絶対あの二人と関わらないように三年間過ごそうと強く心に誓ったのを今でも覚えている。
第二章 それぞれのやる気
入学から数日たった初土曜日の朝。
「お兄ちゃん、早く起きて」
「……あぁ……今何時?」
「もう六時! 早くしないと死んじゃうよ~。おにいちゃぁぁぁん」
「ゴホッゴォホッ……何すんだよ! 殺しちゃうよだろ!」
勝手に部屋に入ってきた木の葉に馬乗りで首を絞められ思わず咽かえった。たまに見せる妹のドSな一面はこいつマジで頭おかしいのかと思わざるおえない。
「今日はめずらしく早起きだな……どうした? 中学は休みだろ」
「今日は大事なお客さんが来るから掃除しなきゃなの!」
「じゃあ、お前がしろよ……俺は学校があるから後三十分は寝るから……」
「むぅ~……じゃあ。もう起こしてあげないから!」
「お前に起こしてもらったことなんてないだろ。目覚まし君がいるから大丈夫……」
「ふん! 後悔してもしらないから」
「しないしない……」
ベットから降りると部屋から出ていく木の葉を薄目で追いながら二度寝の気持ちよさには勝てず……春眠何ちゃらとはこのこと……ZZZ
……ん……んんぅ?……どれくらい寝ただろう……目覚ましが鳴った記憶がないということは二度寝してから三十分たってないはず……なのに何だろう随分寝た気がするなと寝ぼけながらも枕元に置いてある目覚まし時計を掴み確認する。
「嘘だろ!」
八時十分、完全に遅刻だ。てか何で目覚ましが鳴らないんだよ! 既にアラームが止められている。寝ぼけながら耳にした木の葉の「後悔してもしらないから」という台詞を何となく思い出す。あいつめ!とにかく、急いで準備しなければ。
俺は急いでジャージに着替え家を飛び出した。
今日は学校始まって初の林業実習の日だ――林業高校には通常の五科目に加え、森林科学、森林経営、環境デザインと言った座学分野の授業があるのだが、それにプラスアルファ、より実践に近い実技授業もあり――土曜がまるまる一日当てられている。だからこの日だけはジャージでの登校が許されているのだ。
八時四十分、ジャージの動き易さが功を奏し何とか授業が始まる八時半から少し遅れで正門に着いた。一限目は今後の実習説明があるとかで教室に集合と昨日のホームルームで言ってたのを思い出し教室に急ぐ。
「失礼します。遅れてすいません」
俺が教室の後ろ扉から入ると皆の視線が向けられる。
「桐谷君、遅刻よ」
「すいません雨宮先生」
先日、姉ちゃんの発言であらぬ疑いを掛けられてからというもの、俺はちゃんと姉ちゃんのことを先生と呼び敬語を使うし、姉ちゃんも俺を緑ではなく桐谷君と呼ぶようにしている。
「次から気をつけるように。座って」
「はい、以後気をつけます」
この後、俺は今日の遅刻をとてつもなく後悔することになる。
いつもの席に着こうとするところで変化に気付いた。皆がそれぞれ机を四つずつくっつけ向かい合って 座っている。俺の席はと見渡していると
「桐谷君は第七班だからそこの木下さんと咲崎さんの席ね」
見ると確かに木下と咲崎が机をくっつけている、そして空席が二つ、一つは俺の机だ。
何だ班て?
これって寄せ集めの班じゃないの?
何のことかさっぱり分からないが遅刻した手前わざわざ聞くわけにもいかず、とりあえず席に着く。目の前には不機嫌そうにお互いそっぽを向いた美少女が二人……。
「今後一年間はこの班で行動してもらうわ! 評価も責任もすべて全体責任だから協力し合い助け合うこと! いい?」
この班で一年?
というか実習て個人じゃないの?
「名付けて4マンセル作戦! いつの時代の少年誌も時には仲間と助け合い、時にはライバルと凌ぎを削ってこそ主人公は成長するのよ!」
そうだった……姉ちゃんは昔から男まさり、スカートを履いたこともなく、いつもジーンズ、お飯事よりも空き地で男の子に混ざってサッカー、愛読書はもちろん少年誌。大人になって女らしくなったのは見た目だけで中身はまったく変化なく……今は忍者バトル漫画にハマッてるらしい……
「ナルトも一人では決して強くなろうとはしなかっただろうし、偉大な功績を残すどころか、読者の共感も得れなかったと思うの。だからみんなにも四人編成の班で行動することで各々の能力を活かし協力する大切さを学び、林術を高めて欲しいの!」
拳を握り力強く言う……何だよ林術って……
「一人前になり無事にアカデミーを卒業出来るように頑張りましょう」
ここは高校だから!
「メンバーに異論反論あるものは言ってちょうだい」
姉ちゃんはそういうと腕組みし周りを見渡す。あるに決まってる! 今言わなきゃ一年間気まずい思いをしないといけないじゃないか!
俺は勇気を振り絞り手を上げた…………のだが
「あの……」
「遅刻者以外で!」
やってしまった……姉ちゃんがノーといえばノー絶対に覆ることはないし、例外など認められない……俺はこれほど遅刻を後悔したことはない。
いや、まだ手はある!
目の前の二人のどちらかが意見すればいいだけの話じゃないか。この二人が納得いってるとは思えない。
「おい、二人ともいいのかよ! このままじゃこのメンバーで一年実習することになるぞ。これ寄せ集めの班だろ?」
意を決して目の前の不機嫌面に小声で話しかけてみる、
「寄せ集めとは失礼ね! 先生が独断で決めたのよ。というかあたしみたいな美人と同じ班で学べることを感謝なさい」
咲崎に言われ、独断で決められたことに驚いたがそんな場合じゃない
「おまえもこの班でいいのか?」
咲崎を諦め、木下に僅かな希望を託す
「良いも何も決められた以上は従うしかないんじゃないかしら……あの先生が異論反論を聞いてもいう通りにするとは思えないわ」
おっしゃる通り……姉ちゃんの性格をよく見抜いてやがる……こいつの人間観察能力は林業なんかより他で役立てた方がいいんじゃないか。警察にでもなればかなりの検挙数が期待できるぞ……
「まあ、どちらが正しいのかはっきりさせるには近くで決着が付けられる分いいんじゃないかしら」
横から咲崎が口を挟む。
「あなたのような人間と同じ意見なことは少々しゃくではあるけれど……それもそうね」
どうやら仲良くなった訳ではないが班編成に異論を言うつもりはないらしい……ならば、もう一つの空席の人間がと思い聞いてみた。
「ここの席はだれだよ?」
「知らない。あなたは人に何でもかんでも聞く前に調べるってことしらないの」
「そりゃ悪かったな」
木下のまったく体温を感じない冷視線についつい謝ってしまう。こんなのと言い合いしてる咲崎はある種すごいよ……
「特になさそうだし続けるわね」
おもっきしあるわけだが……しかしもう、黙って聞くしかなかった。
「本来、林業高校の林業実習は高校の演習林を使って。個人個人で植林、枝打ち、伐採から製材までを一通り経験する程度なんだけど……私がこの高校に来たからには林業を盛り上げて行くためにもっとアグレッシブでグローバルな実技実習をしていくわよ!」
姉ちゃんはどこでどうスイッチが入ったのかまったく不明だが、やる気は満々らしく声も大きくなる。
「まずそもそも、あなたたちはあまり林業に興味がない。地元だし高校卒業資格も貰えるしくらいのノリで来てるんじゃないかしら?」
ずばり的を射ていた。
「それじゃダメなの……と言いたいところだけど。まあ今の林業の現状を見ればそれも仕方がないわ! だからあなたたちがやる気になるように色々考えてきたのよ」
嫌な予感しかしない……
「ナルト作戦その二! 任務制導入作戦!」
指を二本立てて俄然声を張り上げるが、意味不明発言とその熱意が見事に逆効果で生徒たちとの距離はどんどん離れていく……でもこの人はお構いなく続ける。
「やる気を出すにはまず任務を任されることよ! それにより責任感を持ち、実践的な経験を積むことが出来る! ナルトの忍者アカデミーでも授業は里が受けた依頼を任務としてこなすのが基本でしょ」
林業高校に依頼を持ってくるような奴いねえよ……ていうか依頼って何よ……
「ところが……残念なことに一向に依頼を持ってくる村人はいなかったわ」
そりゃそうだろな……
「もうこれは自ら任務を作るっきゃないって思ったの! 私が個人的に地元の山林所有者と交渉して十ヘクタールの土地を無料で借りてきたから。そこを特別演習林として各班に一ヘクタールずつ管理と経営をまかせるわ! それが私の与える任務よ!」
一ヘクタールが百メートル四方の土地の面積をいい、高校が演習林として所有してるのが約五ヘクタールだから……一学年で十ヘクタールはかなりの面積である。
何にしろ超めんどうじゃねえか。誰もやる気になんてならねえよ……
ところがそんな反応など想定内らしく
「その代わり、この特別演習林で伐採した木材を売った収益の二割はあなたたちに報奨金として還元されるから、そのお金は旅行に行くなり、欲しい物を買うなり好きにしなさい! 任務にはちゃんと報酬がなくっちゃね!」
「学校の実習でお金が貰えるのか!」
「先生すげえ」
「嘘じゃないですよね」
地元暮らしとはいえ林業のことはまったく知らない生徒がほとんどで皆良い反応を示す。
「何で山を無料で貸してくれるんですか? しかも二割持ってかれて山の所有者は散々じゃないですか」
「これが私の交渉術よ」
姉ちゃんは誇らしげに答えると……
「無料で借りるってどんな交渉したんだよ」
「俺頑張ってサイパン行くぞ」
「私も行きたいー!」
「俺はバイクが欲しいな」
報奨金を餌にあっという間に高校生を釣ってしまった。みんな口々にやる気に満ちた言葉を吐いている。
しかし、家が林業経営していた俺はなるほど……とすぐさまそのカラクリに気付いた。
姉ちゃんは何も嘘は言ってない。ちゃんと山の所有者に交渉もしてるだろう。二割貰えるのも本当なはず……なぜならこれは山の所有者にとって、とてつもなく美味しい話なのだ。まず普通に仕事師を雇い、木の成長の妨げになる草を刈る下刈り作業、無駄な枝を切る枝打ち作業など、商品になるまでに莫大な管理費用がかかるし、伐採すれば、運搬にも製材するにも費用は掛かる。現在の林業では木材の収益の九割強は飛ぶ支出になるどころか下手するとマイナスなんてのもありうる。だから衰退してるのだ。
村にバイト先などないから生徒にとって悪い話じゃないように思える。ただ俺は知っている――現在の木材価格とこの重労働を考えればこんなに割に合わない作業はないことを――
「まず今後の予定だけど……基本的には元来の演習林で実習をして。それをふまえた上で各々班で相談して放課後、休日を使って特別演習林の作業をすること!」
「はーい」
みんな勢いよく返事したが、事の重大さに気付いてない。俺の前に座ってる二人は気付いてはいるはず……なのだが……
「報奨金なんておまけに興味はないけど。経験を積むには演習林が多いに越したことはないわね。やってやろうじゃない!」
「そうね、今わたしたちに足りないのが実技経験であるのは確かね」
大変さと対価の少なさを知ってるにもかかわらず、この状態なわけで……覚めることがない分こっちの方がたちが悪いかもしれない。
「それじゃ今日はさっそくの実技、育苗の育成管理を見学してから地拵えするから」
そう、林業の山はほぼ人工林といって人工的に植えた木なのだが、木々の苗は夏に一番成長する為春先に植林するのが基本なのである。
育苗とは種から育てた三、四年目の木の苗でそれを害虫などが付かないようにハウスで育てるのも林業の大事な仕事である――そして植林といえど、ただ山に穴を掘って植えるのではなく。植え立ての苗が他の草に栄養を取られないように草を刈り、硬い土を柔らかくしないとすぐに枯れてしまうので地面を耕さないといけない。それが地拵えという作業にあたる。
苗木ハウスの見学は簡単に終え、地拵えの実技に入ったところで班ごとに草刈り機、クワ、一輪車を学校の道具小屋から持ち出し、校舎裏手の演習林に移動することとなった。
「じゃあ、あたしはこれ運ぶわ! あんたたちは草刈り機と一輪車を持ってきなさい! 早くしなさいよね」
小屋に入るなり一番軽いクワを持ち。命令口調になる咲崎……さすが社長令嬢――なかなかの我がままぶりだな――
「あら、わたしはじゃあ、一番重い草刈り機を持とうかしら」
そういうと木下は旧型2サイクルエンジン草刈り機――約8キロを細い体でよいしょと持ちあげようとする。
予算がなく、古いタイプのそれは男でも相当重い代物である。
「非力な軟弱者の尻拭いは大変だけど。無能な人間の非力さを補うのは有能な者の義務ですものね」
「ぬ~……」
クワを軽々肩に担ぎ、悔しそうに苦悶の表情を浮かべる咲崎に木下は続ける
「あら咲崎さんどうしたの? あなたにはそのクワ一本も重かったかしら……」
「あたしがそれ持つわ! 貸しなさい!」
「いいのよ。無理しなくて持ちたい気持ちがあっても能力がないんだから……これは力がある有能な人間の仕事なのだから。あなたには到底無理よ」
「持てるわよ! バカにしないでちょうだい」
「いいえ、気にしないで。それに嫌々持たれても気を使うだけだし……」
「いいから貸しなさいよ!」
「嫌よ……まあ、好き好んで持ちたいのなら止めはしないけど……」
尚も制止する木下に
「ううぅ……そうよ! あたしは草刈り機を持ちたいのよっ!」
そんな奴いねえだろ!
「……じゃあ、ここは仕方ない……あなたに任せてあげるわ」
咲崎はまんまとはめられ、女子には重過ぎる鉄の塊を嬉しそうに奪い取り
「あー。無能な人間の尻拭いはまったく大変だわ」
と満足げに言い放つ。こいつ単純だな……
「バカと道具は使いようよ」
俺の呆れた視線に木下が小声で呟いた
「お前、性格悪いって言われないか?」
「使う人間より使われる人間の方が何も考えなくて済む分、案外楽だったりするものよ。わたしは先に行ってるわよ」
そういうと木下は一輪車を押し裏山に続く坂道を先に行ってしまった。
「さっさとあんたはクワ持ちなさい! あたしたちも行くわよ!」
「それ俺が持とうか?」
一応言ってみるが
「余計なお世話よ! 別にあんたの力なんか借りなくったって……」
そうは言うものの歯を食いしばり重そうに背筋を張って8キロを持って歩き出す咲崎に、演習林までの二百メートル続く、足元が悪い獣道なんて登りきれる訳がない……
「じゃあ疲れたら言えよ。他の班だってみんなで協力して運んでるんだから」
「ほんとうるさいわよ!」
俺はふらふらとおぼつかない足取りの後を、根をあげる待ちで着いていくしかないようだ……
校舎の裏は私有地の田んぼが広がっており、その上に演習林がある為、狭い土手を歩かないといけないのだが足元が沈みただでさえ力が入らない。
「なあ、大丈夫か?」
「……ううぅ~」
前を歩く咲崎からは苦しそうな声にならない声が漏れる
「少し休むか?」
「……だいじょう、ぶ、よっ……」
草刈り機を持ち直すのに一端地面に置こうとした瞬間咲崎がバランスを崩し後ろにのけぞる
「きゃあぁぁぁっ……!」
「お、おい、危ないっ!」
とっさにクワを捨て咲崎を後ろから抱え込むが、当然足元が悪く……
「いた~い!」
そのまま二人して田んぼに転げ落ちてしまった……せめて水を張る前の春先でよかった……
「痛ぇ……大丈夫か?」
これぞラブコメあるある。下敷きになった俺の右手は咲崎のお尻に左手は豊満な胸を鷲摑みしてしまってる訳で……
「ちょっとどこ触ってんのよ!」
「わわっごめんっ」
当然ビンタが飛んでくるはず……だったが……あれ?
「……どうせ、あたしは無能で役立たずの厄介者よ……誰も救えないし……」
力なく立ち上がり服の泥を払う姿はいつもの強気な咲崎ではなく、後ろから顔は見えないがどことなく涙声に聞こえた。
「何の話だよ。別に厄介者なんて誰も言ってないだろ……」
「同情してるんでしょ。自分で言ったこともろくに出来ないお嬢様だって」
「別に何とも思ってねえよ。お前がどう思おうと勝手だけど、同じ班なんだから協力すればいいんじゃねえか」
「あたしに借りを作れっての」
口調こそ強いものの、らしくない態度に何とか取り繕うように諭す
「借りとか貸しとかそういうのじゃなくて何ていうか……お互い得意な分野を受け持ちゃあいいじゃねえのか? 会社だって事務が居て営業が居て司令塔となる役員がいるんだろ? 事務にバリバリ営業スマイル、人心掌握術がいるか? 営業にエクセルワードがいるのか?」
「そりゃそうだけど……」
「んじゃ、俺は重いのを持つし。お前は俺の知らない林業の知識を教えてくれりゃいいだろ? その熱意っていうかやる気が……羨ましかったりする時があるんだ」
「…………」
過去にどんなトラウマがあるのかは知らないが、正直な気持ちをぶつけてみた……が、強引過ぎたのか……咲崎は俯いたまま何もしゃべらない。
「そういう訳だから別に貸しを作るとかじゃないから! 木下が待ってるだろうし急ごう」
少々無理矢理ではあるが咲崎の足元にある草刈り機を奪い歩き出す。やっと咲崎はこくりと頷きクワを持ってついてきた。
「あんたも困ったときは……」
「うん? 何か言ったか?」
「……別に助けてあげないことも……ないわよ」
「ああそりゃどうも」
「それと……」
「まだあんのか?」
「さっきからお前じゃなくてちゃんと名前で呼びなさいよ」
何て呼べばいいんだ? 咲崎さん? ちゃん? 下の名前にさんは馴れ馴れしいよな?
「……えぇと……咲崎さ……ん?」
「桜! 呼び捨てでいいわよ!」
桜はぴしゃりと言った。
「……あぁ……みんな待ってるだろうし行くぞ……桜」
「遅かったわね」
植林場所に着くと他の班は既に、あれやこれや言いつつエンジンを付けようと草刈り機を取り囲み、姉ちゃんの指導の元作業に入っていた。
「そうね、まずわたしが草刈り機で刈った草を咲崎さんが運んで桐谷君がその後を耕す。それでいいかしら?」
「何であたしたちが運んできた草刈り機をあんたが一番に使うのよ」
「あなたたちが来るのが遅いからエンジン始動方法および使用説明は既に聞いておいたのよ。他の班に追いつくには合理的に作業を進める必要があるの。わたしが一番に使用し、あなたたちがそれを見て次に使うのが最も効率的だと判断しただけのことよ」
「なによそれ。あたしだって草刈り機使いたいわよ!」
「私欲で先に使いたいだけなら、ただの邪魔でしかないわね。あなたが先に使用するメリットを誰もが納得するように説明をしてくれるかしら」
「んぬ~……じゃあ、ちょっとだけだからね! あんたが使い方覚えたらすぐに交代しなさいよ!」
木下は聞いているのかいないのかそれには答えず、さっそく飛び石防止の防護ゴーグルと排気ガスの吸引防止マスクを付けると耳栓をし、肩と腰に固定用のベルトを捲きつける。大げさかと思うかもしれないが草刈り機はエンジンにより生身の回転刃が高速回転する為、事故が多発している非常に危険な作業で念には念を入れるのが鉄則である。
ブルンブルルルブルウゥゥゥン……
「おかしいわね」
ブルンブルルルゥン……
「何これ? 全然掛からないじゃない」
準備万端でエンジンを掛けようとリコイルと呼ばれるエンジンを回す紐を勢いよく引っ張ってみるがなかなか掛からない。最近の草刈り機にはスターターがついていてスイッチ一つでエンジンが掛かるのだが……さすが旧式……
「エンジンにガソリンが回ってないんじゃないのか?」
「ちゃんとチョークは半閉にしてガソリンはエンジンに通ってるはずよ」
「んじゃ、やっぱあれだな。もっと思い切り引いてみたらどうだ? 貸してみな」
俺がリコイルを勢いよく引くと……
ブルンブルルルンブルーン! ウウゥーン! ウウウウゥーン!
エンジンは快音を響かせ豪快に唸りを上げる。
「あら? あんたが先に着いて先生に聞いてたっていうエンジン始動方法って(ふぇ~ん。あたちバカでドジで頭パッパラパーだから誰か助けて~)って言って誰かに助けてもらうって方法だったのかしら?」
成り行きを見ていた桜が木下に横槍を入れる
「違うわね……」
「じゃあ。どんな方法だったか教えてくれる?」
なんでこうなるんだよ……
「二人とも止めろよ! ほら、あれだよ! 俺は小さい頃からじいちゃんの山仕事に付いて行ってよく手伝わされてたからこういう機械の扱いに慣れてるし、経験というか慣れの問題だろ……」
ここぞとばかりに責め立てる桜に俺は必死にフォローを入れるが二人とも聞いちゃいない。
「出来ないものを習得する為に教えを授かることを授業というの。あなたにはその意味が理解できないのかしら?」
「はぁ……? 何言ってんのあんた。授業の意味とか聞いてないんですけど!」
「さっきから出来なかったことに対して鬼の首でも獲ったかのように責め立てるその行動の心理を考えていたのだけれど。あなた出来ることが善で出来ないことが悪とでも思っているの?」
「そうよ! 教わったことを出来るのは良い事! 出来ないのは悪い事よ!」
「インプットしたことが出来て当然で出来なければゴミ、自分以外の人間は優秀で従順なロボットであるべきというその思想は危険な思想ね。わたしの知る限りヒトラー、スターリン、織田信長といった歴史上の残酷な人間の思想に近くて危うい考え方に思うのだけれど……変な宗教を開いて反社会的な行動でも起こしてしまうんじゃないかとあなたの将来が不安だわ……」
「人を欠陥人間の危険分子扱いしてんじゃないわよ! とにかく、あんたがこの班のリーダーぶって仕切ってるのが気に入らないのよ! 今すぐここで勝負なさい! はっきりさせてあげるわ!」
「優秀な人間が舵を取るのが航海を無事かつ円滑に進める鉄則じゃないかしら」
「だから、どちらが優秀でどちらが劣等かを勝負で決めてやろうってんじゃない!」
「時間を無駄にはしたくないけれど、あなたを平伏させて効率よく作業を進めるには仕方ないようね」
木下から勝負を受けてたつ旨を引き出した桜は満足げな表情を浮かべ、負けた際の処遇を叩き付ける
「あたしが勝ったらこれからはこの班でのリーダーはあたし。言うことを全部聞いてもらうわよ」
「いいわ。その代わりわたしが勝ったら黙ってわたしの言う通り動いてもらうわよ」
「あたしがあんたなんかに負けるわけないけどね」
「で、何で勝負するのかしら?」
このままじゃ、不毛な勝負が始まってしまう……
「ちょっと二人ともそんなことしてたら作業が進まないだろ」
「緑は黙ってて!」
桜にいきなり呼び捨てされ一瞬怯むが……そんな場合じゃない、止めなければ
「木下も勝負なんかに乗ってる場合じゃないだろ! 七班の指定区域を刈り終わらないと帰れないんだぞ。ただでさえ押してるんだから……」
「ただのエンジン付け要員は口出さないでくれるかしら? あなたは草刈り機のエンジンを付ける時のみ、その存在意義を認められる。いや、エンジンを付けることでしか人に認められる術を持ち合わせていない悲しい性に生まれし化け物……」
「何だよその悲しすぎる化け物! もっと他にも出来ることあるわ! てかこんな揉めてるところを先生に見つかったらまた怒られるぞ」
「もう見つかってるわよ!」
「わっ!」
劈くドスの聞いた声に思わず声をあげ振り向くと腕組みをし仁王立ちの姉ちゃんが真後ろに立っていた……
「お互いの維持とプライドを掛けた真剣勝負。若い二人がぶつかり合い、拳と拳で語り合う……熱いわ! いいわね! そういうの! 私がその喧嘩買ったー!」
何かしらんが燃えてるし……普通こういうのは先生が止めるもんだろ……
「で、何で勝負するか決まってないんでしょ?」
「「ええ、まぁ……」」
姉ちゃんの異常なまでの食いつきには二人もさすがに引いている
「よーし! 草刈り対決で勝負よ!」
その喧嘩買ったーなんて大きなこと言っといてまんまじゃねえか!
「ただ、普通の草刈りじゃないわよ! リーダーに必要な資質をどちらが持ち合わせてるか計る為に私考案の……二人羽織草刈りで勝負よ!」
はぁ……? 何だそれ? 俺は元より当の本人達も何言ってんの?といった様子に
「あら? あなたたち二人羽織も知らないの?」
「知ってますけど。何であたしとこの出来損ないとの一対一の勝負が二人羽織なんですか?」
「そうね。どんな勝負であれ、こんな小娘に負ける気はしないけれど。二人羽織なんて幼稚なことはしたくないわ」
「バッカモーン!」
姉ちゃんは一喝すると説得力ある風でその実、説得力皆無な持論を説明し始める!
「いい? これは班のリーダーを決める勝負なわけでしょ。この二人羽織草刈りとはすなわち、リーダーに必要な人に合わせる協調性、目隠しした状態で作業をする為の平衡感覚、耳から入ってくる情報だけで判断する判断力、予測能力、前の者への的確な指示を出す指揮能力。これらすべてを兼ね備えたまさに林業界のバーリトゥード(総合格闘技)! これっきゃないでしょ! 何か面白そうだしね!」
面白そうってだけだろ!
「……あの……もっと他にないのですか?」
「生き恥をさらすようなものよ」
口々に文句を言うがもう止めれない
「そう? じゃあジャンケンがいいの? そんな運武天武の勝負でどっちが優秀か決めるっていうのかしら? 互いに互いを恐れているのならそういう逃げも私は責めないわよ! 所詮人間は弱い生き物ですものね」
「こんな奴をこのあたしが恐れる訳ないじゃない!」
「努力では抗えないことがあるっていう現実を見せてあげるわ」
安い挑発に乗せられた二人は……かくして、姉ちゃん監修のもと。熱い熱い戦いに身を委ねていくのであった……?
てか、二人羽織って宴会芸じゃないの……?
「木下と咲崎がまた揉めてるらしいぞ」
「先生も対決だなんて言い出して決闘らしいわよ」
「何それ面白そう」
「見に行こうぜ」
白昼に始まったこの対決にクラスの生徒達も、勝負の行方が気になるのか、はたまたサボりたいだけなのか作業の手を止めギャラリーと化した。
「じゃあ、まずパートナーを選びなさい! ここにいる誰でもいいわ」
「んじゃ。あたしは緑で」
「何で俺なんだよ」
桜に開口一番に指名されたが、なるべく二人の揉め事に関りたくなんかない。
「別に順番なんて言ってないんだから早い者勝ちよ! 他にしゃべったことある人なんかいないし……林業経験がある人間なんかわからないでしょ! てか、あたしに選んでもらってもっと喜びなさいっ」
何で喜ばないとダメなんだよ。
「で、あんたは誰を指名するの?」
「……」
もちろん木下にも指名出来る相手などいるはずもなく、詰め寄る桜の表情はしてやったりといった感じに意気揚々としている。
「じゃあ、わたしは……雨宮先生で」
「ちょっと! 先生と組むなんて反則よ!」
「順番と言ってなかったから早い者勝ちで良いというあなたの言い分が通るなら、生徒じゃなければいけないって言ってなかったって言い分も通るわよね」
「そんなの言わなくても当たり前の話でしょ! 常識の範疇じゃない」
「常識っていうのは社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観のことであって、価値観自体が主観により構築される以上あなたの常識を相手に押し付けるのはナンセンスよ。むしろ寸分違わず同じ常識通念をもっている人間に出会うことの方が奇跡じゃないかしら」
「グチグチグチグチ理屈っぽいこと言ってんじゃないわよ! 先生を選ぶなんてせこいって言ってんの! ねえ先生!」
「うーん。確かに木下さんの意見も一理あるわね」
ありなのかよ……納得いかない苦悶の表情に木下は挑発を入れる
「まあ、あなたの意見だけを通してあなたを特別扱いすることが勝負の上ではハンデってことになるけれど。それを認めるなら、わたしは先生指名を取り消してもかまなわないわよ」
敏腕代理人の如く交渉術で桜はプライドを刺激され
「ハンデなんかいらないわよ! いいわ! 元々安かろう悪かろうの目玉商品に飛びついてしまったのはあたしだし……この粗悪品でもあたしがあんたに勝てるってことを証明してあげるわ!」
俺を指差しとんでもない悪態ぶりである。
「差し詰め高級食材で三ツ星レストランのミシュランシェフが作ったフルコースVS料理のいろはも知らない似非主婦が冷蔵庫の残り物で作った猫飯ってところね。雲泥の差というものがどんなものかしらしめてあげるわ」
人のこと粗悪品だの冷蔵庫の残り物だの、勝手に巻き込んどいて散々だな……二人の言い合いにより俺へのダメージがハンパねえよ……
ほどなく俺たちは演習林から直ぐの元水田だった空き地に移動していた。
目の前には草がまったく手入れされず生い茂った景色が広がる。少し盛り上がった場所が周りを囲っているのは元水田のあぜ道の名残だろう。
この地域は斜面が多い土地柄の為、広い一枚の水田を作れないので高さの違う小さな水田が何枚も続く棚田地帯である。あまりに小さいものは機械化が進んだ近代では機械も入り辛く、その上収穫量もさほど見込めないということで使われず荒地となっていたりする。
つまり草を刈り放題の対決にはうってつけってわけだ。
「よしルールはOK? ここから用意スタートで、二人羽織の状態でエンジンを付け草刈り競争よ! 向こうの盛り上がってる元あぜ道が往復地点、そこまでは二人羽織による前半戦、エンジンを一端切ってそこからの後半戦は木下さんと咲崎さんのワンマッチでスタート地点のここに早く戻って来た方が勝ちよ」
そういうと姉ちゃんはどこから持ってきたのか二人羽織用のXLはあろうかという大きなTシャツを桜に手渡した。
「緑いい? 負けたら承知しないわよ!」
銀髪ショートの艶やかな髪をなびかせ、その美しい容貌とは裏腹に桜の瞳は鋭く獣のそれで……俺は覚悟を決めるしかなかった。
まあやるだけのことはやるしかないな……適当に負けたら何言われるか分からねえし……
「早く入ってよ!」
「はいよ」
どっかの民族衣装ポンチョのようなに大きなTシャツをジャージの上から着て背をパタパタしながら急かされる。とりあえず桜の背中から何とか頭を突っ込んでみた。だが二人入るには相当きつい……
「これ無理じゃねえか?」
「ほら、先生達はもう準備出来てるわよ! 押し込みなさい」
そんなこと言われても……
「不戦敗なんか御免だからねッ」
Tシャツを下に引っ張られ肩の下まで押し込まれ、顔面を目一杯桜の背中に押し付けられる……うぅ……息が出来ない。
「ぐるじぃ……」
「ちょっと変な気起こさないでよ」
「こんなじょうだいでぇ、起ごさねえよぅ……ぞんなことより、く、ぐ苦しい……んだけど」
スリーパーホールドで落ちる時ってこんな感じかな……酸欠か何だかで意識が遠のくのが分かった…………こんな時にこいつすげえ良い匂いがするとか考えてる俺……って変態か……もっ……
「ちょっと……緑ーッ……りょーくぅ……」
ダメだ……桜の声が遠く……に、
「ほんと役に立たないわね!」
圧迫して後頭部に巻き付くTシャツを勢い良く上に引っ張られ、
「ゲホゲホッ! ブゲホッ! 痛っ……」
開放されむせ返った俺に
「男なら我慢しなさいよね」
心配の代わりに無茶を投げかける……滅茶苦茶だ。
「XLっつっても所詮一人サイズに作られてるんだよ!」
俺は必死の抵抗を見せた。だが一瞬黙った桜はふうと嘆息し
「ええい、これなら問題ないでしょ」
とんでもない行動に出た――Tシャツの中でモジモジしだすと足元にバサッとジャージの上着とインナーに着ていた黒いキャミソールを投げ出した……
「だいたいゴワゴワして動きにくかったし丁度いいわ。あんたも上脱ぎなさい! そしたら何とか二人入るでしょ! さっきので多少Tシャツが伸びたし」
「ここで脱ぐのかよ! みんな見てるし! だいたいお前はTシャツの中にいるからいいだろうけど……」
「あたしだって恥ずかしいわよ」
両手で肩を抱き小さくなっている桜を見ると大きな白色のTシャツにクッキリと黒い下着が映っている。
「女の子にこんな思いさせといて恥ずかしいなんて言わせないわよ! あの陰険クソ木下に勝つの! 絶対!」
「おお! 咲崎の奴ブラ透けてんぞ」
「たまんねえな」
「ブラも取っちまえよ」
「まったく色づいたメス犬ね」
ギャラリー達の勝手知ったる無責任な野次に桜は恥ずかしそうに顔を赤らめ下を向いてしまう。
そうだよな、いくら気が強いって言っても一人の女子高校生だもんな。そんな一人の女の子が勝負の為に羞恥をさらしてるのに……俺は……
「お前らうるせえよ! これは真剣勝負なんだ! ヤラしさもへったくれもあるか!」
俺は上着とインナーシャツを二枚同時に脱ぎ捨て桜のTシャツに飛び込んだ。
「野次馬の言うことなんか気にすんな! やるからには勝つ! だろ?」
「……当たり前じゃない! あんな奴メッタメタにしてあたしの言うこと聞かせてやるんだから」
体を羞恥心で小さく縮こませていた桜がいつも通りの桜に戻る。
「とりあえず、手を袖から出しなさい」
「ああ……こうか?」
Tシャツの中から桜を後ろから抱きしめるような形で袖に手を通す、密着してひんやりする肌は柔らかく滑らかで少し汗ばんでいるが男の汗とは違い、不快感などはまったくない……桃源郷に誘う女子特有の清潔な石鹸の香りに目眩を覚えるくらいだ。
女の子と手すら握った事がない俺がほぼ裸でこんなに密着している……しかも超が付く美少女と……よくよく考えりゃ何だよこの状況……二の腕に当たる柔らかい感覚にさらに心拍が高まり、自分の心臓音が聞こえてしまったらどうしようとか訳の分からない心配をし出す始末だった。
「緑! りょ~くっ……」
桜は男に後ろからこんなことされるのどうってことないのかな……
「ちょっと、返事しなさいよ」
「痛っ! 何すんだよ!」
桜に足を思い切り踏まれ我に返る。
「聞こえてるなら返事しなさいよ! また窒息死しちゃうくらいラリッてるのか心配になったじゃない」
「ああ、悪りぃ悪りぃ」
現実世界に引き戻され冷静に状況を考える。しかし、まったく前が見えないってのはかなり怖いな……これで鉄の刃が高速回転する草刈り機を振り回すなんて狂気の沙汰じゃねえよ……
「二人とも準備はいい?」
姉ちゃんの声は木下の後ろからTシャツ越しの為、ドモり気味に遠く聞こえる。
「んじゃ。スタート位置に着きなさい! 待ったなしの一本勝負よ」
「ええ」
桜の返事と同時に身構える
「位置について……」
姉ちゃんの合図で腰を屈め足元に置いた草刈り機に手を掛けた。
「スタート!」
「よし、桜! リコイルを引くから腰入れろよ」
「言われなくったって分かってるわよ!」
ブルンブルルルンブルーン! ウウゥーン! ウウウウゥーン!
俺が目一杯リコイルを回すとエンジンが掛かり、激しいエンジン音が唸りをあげる。
隣からも同時にエンジン音が聞こえた。さすが姉ちゃん、この手の機械の経験値が高い、すんなりとこなしやがる。
左肩から斜め後ろにベルトを掛け支柱を右側に持ち手っ取り早く桜と連携を取る。
「いいか、桜。 足が絡まってコケるなんてロスしてたらおしまいだからな! 1で右足、2で左足、3で右から左に刈る、4で草刈り機の刃を浮かして右に戻す、それの繰り返しだぞ」
「何で? 4で戻すときにも刈ったらいいじゃない!」
「お前そんなことも知らねえのか? キックバックで大怪我でもしたらしゃれなんないどろ! これが草刈りの基本動作なんだよ!」
「キックバックって何よ」
不思議そうに聞いてくるが説明してる時間等ない。
「説明は後だ! 木下達の動きを見てみろ」
「ちょっとあいつ等、どんどん先に行っちゃってんじゃない! やばいわよ!」
姉ちゃんの素早い動きとそれに見事に合わせているであろう木下にギャラリーが沸く……
「おお! すげえ木下ペア早ぇ~」
「さすが先生!」
「超息合ってんじゃん!」
桜はチッと焦りと苛立ちの舌打ちを鳴らすと叫ぶ。
「ちょっと待ちなさいよ! 緑早くしてよ!」
「焦るな! あいつ等の動きを見ろ! 左から右には刈ってないだろ」
「確かに……。てかどんどん差付けられてるじゃない! 急いでよ!」
「あの動きだからな! いくぞ!」
俺は桜に動きのイメージを付けさせる為にわざと二人の動きを見せてから、追いかけることにした。短期決戦なんだ闇雲に動いて転倒なんかしたらそれこそ、取り返せない。
「「せーの! イチ、ニィ、サンッ……」
二人でイメージした右足からの動作で動き出す。見えないが何とか草が切れる音、感覚を頼りに前進しかない。
「だんだんペース上げてくぞ!」
「わかってる!」
「「イチ、ニッ、サン、シッ!」」
桜と運動会の二人三脚の要領で呼吸を合わせ徐々にペースを上げる。こいつかなり勘がいいな……全部吸収しやがる。
「ちょ、ちょっと緑! そんな急がないで! 前に倒れちゃうじゃない!」
「腰に手回せ」
「……うん」
見えなくとも周りのどよめきで状況が読めてくる。
「追いついてきたぞ!」
「咲崎、頑張れー」
「おっぱい見せろー!」
無我夢中で息を合わせシンクロ率50パーセントを超えようとしたその瞬間ついに木下達に追ついたらしい。
「ついに捕らえたわよ! 陰険女!」
「あなたの力じゃないでしょ。あなたはただ、しがみ付いてるだけで強くなった気になっている無力な存在、まるでコバンザメね……」
「うるさい! しがみ付くのも大変なんだからッ!」
そういうと腰に後ろ向きに回された手により一層力が入る。桜の細く、しなやかな腕にドキドキ感を覚えつつも、無心にただただ一動作一動作に集中する。
「先生。追いつかれるわ」
さしもの木下も焦りの声をあげる。
「いいの! 乱されちゃダメ! 集中しなさい!」
「緑、往復地点に着くわよ!」
「OK! 後は任せたぞ!」
俺は草刈り機のエンジンを切り、地面に置くとTシャツから素早くスルリと抜ける。
ブルンブルルルンブルーン! ウウゥーン! ウウウウゥーン!
木下に少し遅れて桜もエンジンを付けた。
後半戦タイマンレースがいよいよ幕を開けた。
「この勝負の成果が見れる時が来たわね」
横で膝に手を付き肩で苦しそうに息を付き姉ちゃんが呟いた。
「姉ちゃ、いや、先生、どういうことですか成果って」
「まあ、見てなさい」
姉ちゃんは含み笑いを浮かべ二人に視線をやる。
「成果?」
何を言っているのかよく分らなかったが二人を見て、ハッと気が付いた。
「二人とも早い、しかも的確に草を刈っている。本当に草刈り機使うの初めてなのか」
「ええ、初めてよ」
「何で? 初めての人間があんな軽やかな動き出来っこない……あっ……」
「……そうよ……ベストキッド」
俺は唖然と開いた口が塞がらなかった……そうベストキッドとは1984年に一斉風靡したハリウッド映画で弱虫の主人公がカンフーの達人に弟子入りし、雑用を淡々とこなす知らず知らずの内にすべての動きがカンフーの動きと連動しており、最後に自分を苛めた不良を倒すという青春カンフーアクション大作である。
「無駄のない型、力を入れない流れるようなスライドフォーム、滑らかな足踏み……完璧過ぎる……普通に草刈りをひたすらやって十年、いやニ十年でもこんな動きは出来ねえ……奇跡だ」
「これは奇跡なんかじゃないわ……絶対に負けられない、負けてはならないという極限的心理状態が肉体の潜在能力を引き出した、そして研ぎ澄まされた感覚で私達の動きを観察し、肌で感じ全身で吸収した。云わばこれは必然! まあ、一番驚いているのは本人たちでしょうね」
「二人羽織草刈り……バカにしていたけど……老師、あなたは最初からこれを……」
「伊達に林業高校の教師を務めてるわけじゃないのよ……」
「感服、賞賛、謝意。己の若輩さと老師の奥深き思念にただただ頭が下がる思いです。ありがとうございます……老師」
「まだまだ鍛錬はこれからよ……ん? て誰が老師よ! まだピッチピチの二十五歳よ!」
「ピッチピチとかもう死語だし……グヘェェッ」
姉ちゃんの渾身の脛蹴りをくらい俺は転げまわる……でもあの二人ほんとすげぇよ……
「いけー咲崎ー!」
「木下あと少しだぞ! 踏ん張れー!」
気付けば皆が二人の成長ぶり、デットヒートに熱い声援を送り一喜一憂している。
「あんたなんかに負けないんだからーっ! うぉー!」
「同じことよ! ぬぁー!」
桜が抜けば、木下も抜き返す。草が刈り倒された跡はモーゼの海の如く勢いで瞬く間に切り開かれていく。
「姉ちゃん、俺初めて見たよ」
「何を?」
「普段、常に冷静で冷ややかな表情しか見せない木下があんなに熱くなってるの……あんな顔するんだな……」
「互いが認めつつも負けまいと切磋琢磨し、高め合う……それがライバルってものよ」
「二人とも真剣だけど、何だが嬉しそうだね……」
「緑もあんな風に熱く成れるものが見付かるといいわね」
そう言った姉ちゃんは二人を見て嬉しそうににっこりと微笑んだ。
二人のデットヒートはゴールまで二メートル程に迫り、レースはさらに盛り上がる。
「うぉー!」
「うぐぐぐぅー!」
「ふんぬぅ! あたしが勝ぁーつぅ!?」
「負けなぁーいっ!?」
最後の草を刈り終え、二人がゴールに雪崩れ込む。
ウオォォォーーーーーーッ!!!
ゴールの瞬間、辺り一面が歓声に包まれた。
歓喜の旋風。後、静寂…………
「…………」
「…………」
「どっちが勝ったんだ?」
「木下の方が一瞬早く足がゴール地点を踏んでなかったか?」
「いや、空中戦だと咲崎の巨乳が優位か?」
皆一様にそれぞれの見解を述べてはいるが、思いは俺と一緒だろう。どっちが勝った等ということはこの際どうでもいい、この熱い戦いに敗者なんかいないんだ。どっちも勝者なんだよ……二人とも感動をありがとう……
ゴールと同時に倒れ込み、天を仰ぎ全身で息つく二人に姉ちゃんが駆け寄る。
「二人とも頑張ったわね。この勝負……引き分けよ」
そうだよな、うん引き分けだよ。
「すげぇ良い勝負だったぞー!」
「私感動しちゃった……グスッ」
「俺達も頑張んねえとな」
「そうだそうだ」
パチパチパチパチパチ~♪
ギャラリーの喝采が殺風景な草地を祝福色に彩っていく……よかったな桜、木下……なのに……なのに……それなのに
「いや、この勝負……あたしの勝ちよ! これが一対一の勝負だったら後半戦少し遅れてスタートしたのに同着になったってことはあたしの勝ちよ」
桜は立ち上がり、まだ仰向きに倒れたままの木下を覗き込み言い放つ。
「あなたはやはり何も分かっていないボンクラなのね。そんなクダらない見解であなたが勝ったと宣うのなら、わたしも言わせてもらうけれど……」
覗き込んだ桜を跳ね除けて立ち上がると木下も反撃を開始する
「これはどちらがリーダーに相応しいか決める対決……リーダーに最も大切な協調性という面では前半リードしてたわたしの方が上じゃないかしら」
まったくさっきまでの感動はどこにいっちまったんだよ……
やれやれと嘆息する姉ちゃんに
「先生! あたしの勝ちよね? 引き分けなんか逃げよ」
桜が詰め寄る。
「そうよ、時間と労力を消費した目的が優劣の確認である以上勝敗はきっちりと決めないとダメだわ。勝負において最も悪、それは引き分け。何も生み出さない、すべてが無駄になったのと同じ……」
木下もいつも通り冷静に、しかし淡々と意見を求める。
「「どっちですか!?」」
……ふぅ。と姉ちゃんは一息整えると答えた。
「……確かにこの調子じゃどっちが指揮を取るか決めないと今後の作業効率も上がらないわね」
「「じゃあ……」」
「でも、このレースの結果が同着である以上。その内容で決めるのはナシ! 絶対にナシよ! このレースで求められたのはスピードなんだから! 野球にフィギュアスケートのような芸術点、技術点を持ち込むようなもの! だからこのレースは完全にドローよ!」
語尾を強く言い切った。
「じゃあ、何で決めるんですか?」
「今二人が完全で互角であるとすると、その差は運不運くらいしかないでしょうね。それに時間もない、となれば……」
「「……となれば」」
「ジャンケンしかないでしょ」
結局ジャンケンかよ……
「終わったみたいだし作業戻ろうぜ~」
「そうだな~。早く終わらして帰るか」
「良い勝負だったのに結局仲間割れかよ」
ギャラリーも不毛の運武天武勝負には興味を示さず、持ち場にぞろぞろと戻っていく。
「まぁ時間もない訳だし、運も実力の内っていうしね、いいわ! ジャンケンで勝負よ」
「もう無駄な時間を浪費する訳にいかないし……仕方ないわね」
「よーし! んじゃ、ちゃっちゃと決めちゃうわよ! 勝った方が今後第七班のリーダー待ったなしの一本勝負! 二人とも問題ないわね?」
「「ええ!」」
「ジャン! ケン! ポン!」
こんなガチガチに気合の入ったジャンケンは初めてだった。結果は……
「よっしゃー! 勝ったー! 勝った勝った! あたしの勝ち!」
桜が一発で決めはしゃぎまわる。
「これが実力よ! 運こそ実力っていうしね」
誰が言ったんだよ、その迷言……
「……ふん。運だけは良くてよかったわね」
木下は憮然とした態度で皮肉を言うが内心は面白くないのだろう。冷酷な目ではしゃぐ桜を睨む……
「そんな目しても結果は変わらないわよ! いい? あたしがこの班のリーダー! 神! 絶対的神! ゴット! 庶民は精々頑張って血ヘドを吐いて這い上がっても王止まり! キングとゴットの間には絶対に越えられない壁が存在するのよ! バーカバーカ!」
ジャンケンで勝ってここまではしゃぐ奴も初めて見たわ……
「じゃあ、一端リーダーは咲崎さんてことでいいわね! でもあくまで二人の実力が均等であるが故にジャンケンで決めたリーダーなんだから。実力差が出来れば交代するし二人とも気を抜かないようにね。それと桐谷君も頑張るのよ! んじゃ私は帰るわよ!」
そういうと姉ちゃんは先に演習林を下り帰っていった。
その後、遅れを取り戻すために桜の決めた役割分担で作業を終えた頃には、辺りはもう薄暗くなり他の生徒はすでに帰った後だった。
――そうそう、桜に説明し忘れたがキックバックとは草刈りの回転刃は反時計回りに回転していて、基本的に支柱を右に持っている為に左から右に移動する時に石や木等の硬いものに当たると自分のほうに刃が向かって来たり、石が跳ね返ってくることになり、大きな怪我に繋がる。それをキックバックというのだ。
焦らず、急がず規則正しく動いていれば防げる事故だ。
きっと木下と桜の関係もゆっくりでいいんじゃないか。そんなことを考えながら家路に着いた一日だった――
第三章 山ノ神
何もしなくても怒られない日、昼まで寝ていてもいい日、朝から晩まで遊んでいてもいい日、そしてそれは月曜から土曜まで頑張った者には平等にやってくる。当然、学業に励む学生にとっても待ちに待った束の間のオアシス、日曜日。
なのに……俺はいつも通り朝早くに起き、着替えを済ませ、朝食を摂っている。
相も変わらずリビングのソファで寝ている木の葉を起こさないように最小ボリュームに絞ったテレビから流れてくる春のお出かけスポット紹介コーナー。吉野山の千本桜が見頃か……俺が行くのも山なんだけどな……テレビに映る愉しげな光景と自分の置かれた状況との違いに暗澹たる思いを募らせつつ、味噌汁に手を付ける。
「あれ? お兄ちゃん?」
「わりぃ、起こしちまったか?」
眠そうに目を擦りながら、ソファから起き上がる妹。
「今、何時ぃ?」
「まだ八時」
「もう……もう~ぅ」
「はあ? 寝ぼけてるのか」
「まだじゃなくて、もうだよー! もう!」
最近の若者は皆こうなのか主語が抜けてて分かりづれえよ……
木の葉は飛び起きるとキッチンに向かい何やら冷蔵庫をあさり始める。どうやら主語は八時だったらしい。
「木の葉……? 何してんだ? 朝飯だったら俺が作った味噌汁が残ってるし、一段目にお前の大好きなバイエルンのウインナーがあるからちょっと待ってろ」
たくしょうがねえなと立ち上がったところで
「違う! 今日は大事なお客さんが来るからお料理作らなきゃなの!」
「お前が手料理? どうした? そんなのしたことねえだろ……熱でもあるのか?」
「したことなくてもやるの! お兄ちゃんの妹なんだから、いきなり料理が出来たって不思議じゃないでしょ。だいたい分量さえ間違えなければ木の葉にだって出来るんだから」
俺の愛読書――レシピ本(何度でも作りたい絶品レシピ365)をキッチンテーブルに置き、前もって見ておいたのか便箋を挟んだページを開きジィ~ッと小難しい表情で眺めはじめる。
「まあ、木の葉が自分から料理を作りたいなんていいことだしな。頑張れよ」
「……う~ん……茹でる……? ゆでる? ユデル? お兄ちゃん! ユデルって?」
「……そんなことも知らねえのかよ。沸騰させたお湯に入れて加熱することだよ」
「ああ、なるなる~♪」
おそらくレシピ一行程目で躓き、首を傾げて聞いてくる残念過ぎる妹に嘆息しつつも答えてやるとバカ丸出しの返事が返ってきた……顔以外は本当に残念だなこいつ……
「ところで何を作るんだ?」
「えっとね~、茄子とトマトのラタトゥイユ風パスタ」
「んじゃ、茄子とトマトを一口大に切って炒めないとな」
「イタめる……? イタめ? つける? シバく? ぐしゃぐしゃ?」
「んっと……だな……たぶんお前が思ってるのとは……違う……」
「はへ? どう違うの?」
教育テレビの教えてお兄さんどうして君ばりのはてな顔にやれやれと、茹でる、炒める、煮る、焼く、燻すといった調理方法を一通り説明してやる。ふんふんと分かった風の頷きを見せて「OK~!」と生返事も早々に覚束無い手つきで茄子とトマトを切り始める。
「ああ、ああ! 危なっかしくて見てらんねえな。包丁はしっかり握って抑える方の手は猫手でこうだよ」
木の葉の後ろから手を取り教えてやるところで……あれ? そういや昨日もこんな場面あったよな……相手が妹だと何のことなくサラリと出来てしまうんだよな……
「お兄ちゃん? どうしたの?」
心配そうに下から覗き込む妹に「わりぃ、何でもないよ」と軽く頭を撫でレッスン再開。
「ほら、チラチラ後ろ見るな! 手元見てろよ」
「はぁ~い。わあ! サクサク切れる~ぅ」
「当たり前だ! 俺が切ってるんだから! んじゃ、手離すから一人でやってみろ」
「え~。無理だよ~」
「ところが驚け! この方法で教えるとスパッと出来ちまうんだよ」
「何それ……?」
俺は自信満々に木の葉の手を包むように抑えていた手を離してみる。
「えっ! うそっ! 体が覚えて…………ない」
当たり前にただただザンバラに茄子が切り刻まれていくだけだった。あいつ等は特別か……
「よーし! ちょっとイビツだけど、炒めたら一緒一緒~」
「一緒じゃねえよ」
「で、誰が来るんだ? てか昨日も大事なお客さんって言ってなかったっけ?」
「気になる?」
「一応、親父にお前のこと任されてるからな」
「それだけ?」
「他に何があるんだよ」
「それだけじゃ教えてやんないもん」
なんだそれ……? 木の葉は頬を膨らませそっぽを向くと今度はトマトを切り始めた。
「お兄ちゃん怒るかもしれないし……」
「彼氏でも出来たか? 何で怒るんだよ。お前が家事に興味持つのはいいことだし応援してるぞ」
「違うし、お兄ちゃんのバカッ」
思春期の妹に精一杯のエールを送ったつもりだったのだが……またしても地雷を踏んでしまったらしい……まったく難しい……
「んじゃ。俺はこれから出かけるから」
「どこ行くの?」
「今日は特別演習林で下刈り作業をしなきゃいけねえんだよ……せっかくの日曜なのに自称神が煩くてな」
「神?」
「ま、安心しろ! 夕方までは戻らないから」
「安心って何よ! そんなんじゃないし」
「はいはい、んじゃ行ってきます」
「ちょっと、お兄ちゃん!」
何か言いたげだったが待ち合わせの時間もあるし、昨日の晩に用意しておいた弁当を鞄に入れ家を出た。
今日は第七班に割り当てられた特別演習林の下見を兼ねて下刈りをしようと昨日の帰りに桜が言い出したのだ。
下刈りとは植林して五、六年くらいまでのまだまだ一人前でない若い木や古い木でも環境がひどい場合は邪魔な草を刈ってやる作業のことなのだが、これまた中々の重労働なのだ。
まあ、今のところ草刈りスキルオンリーの桜と木下でも出来る作業っちゃ作業な訳だが……
草刈り機を借りる為に一端学校の物置小屋に集合だったので向かうと、既に二人は待っていた。
「やっと来たわね!」
「待ちくたびれたわ。まったく……」
「ああ、すまん」
待ち合わせ時間には間に合ってるのにどんだけ早く来てたんだこいつ等……
「んじゃ、早速準備して特別演習林にいくか」
俺が二人に言ったところで桜がちょっと! と咎めた。
「その前に二人とも喜びなさい! 今日はリーダーのあたしから特別にプレゼントがあるから……」
そういうと桜は手に持っていた紙袋を俺と木下に差し出した。
「プレゼント?」
「あなたにプレゼントを貰う義理なんてないわ」
「あたしが昨日帰ってからパパに頼んで特注で作ってもらった第七班刺繍入り作業着よ! せっかく作ったんだから着てもらわないと困るわ! てかリーダー命令よ!」
なるほど、手渡された濃い緑の作業着には何やら背に刺繍が施されている。〔第七班 愚民〕なんだよ愚民て……
「それぞれ階級を背中に刺繍してるなんてオシャレでしょ」
作業着にしては派手過ぎるピンクに身を包んだ桜が背中の刺繍を見せつつ息巻く。
「第七班 神……?」
神って……でも、なるほど華やかなピンクは桜の派手な顔立ちと女らしい体のラインには似合過ぎるほどに似合ってはいる……
「木下は何て書いてるんだ?」
渡されたこれまた濃い緑の作業着を見て、隣で苦悶の表情を浮かべる木下の手元を覗き込んでみた……〔第七班 下僕〕。
「あら? ありがとう。これわたしが貰っても本当にいいのかしら」
感謝の言葉を発するには真逆過ぎる声のトーン、表情……ヤバイ、また始まる。何で桜もそんなことするかな……
「桐谷君! 着替えるわよ。神様の言うことは聞かないとね」
あれ? 素直に受け入れる反応が逆に不気味だが……とりあえずは良かったのか……
「はは……そうだな、動き易そうだし、作業着買うお金が浮いたし、有難く着るか」
「早くその大量生産タイプのザク色した作業着に着替えてきなさいよ!」
肩透かしな反応に虚を衝かれたのか桜は不機嫌に言い放つ。てか色にまでそんな皮肉込めてたのかこいつ。
「わたしは小屋で着替えるわよ」
木下はそういうとそそくさと小屋に入っていってしまった。
「あんたも向こう向いてるから着替えなさいよ」
「ああ……」
俺はジャージを脱ぎ作業着に袖を通しながら、桜に何となく聞いてみる。
「なあ、桜。何でいつも木下に喧嘩売るんだ?」
「別に……あたしが間違ってないってことを証明したいだけよ!」
「じゃあ、あんなやり方しなくても……」
「いつもみたいに歯向かってくるかなって思ったんだもん」
「たしかに妙だな……」
「まあ、あたしのような容姿端麗、才色兼備なパーフェクトソルジャーに歯向ったところでどうしようもないってことに気付いたんじゃないかしら」
「それならそれで丸く収まっていいかもしれねえけど……」
なんか違う気がする。
「さあ、行きましょう」
小屋の戸が開き作業着に身を包んだ木下が姿を現す。長い黒髪を団子状に束ね、華奢な体には少し大きいようでダボっとしている。袖も掌の三分くらいまであり、働く男の正装作業着は可愛らしさと相反するはずなのに……何というか……ギャップが女らしさ可憐さを際立たせ……その……たまらなく、可愛かった。
「緑! りょ~くぅ!」
「……ん?」
木下に見惚れていたのかようやく桜の呼びかけに気付き目が合うとフンとなぜか不機嫌にそっぽを向き
「行くわよ」
とつんけんした口調で一言……背を向け歩き出す。
「なんだ? 木下、俺何か桜の気に障るようなことしたっけ?」
「知らないわよ、わたし達も行くわよ。エンジン持ち要員」
「その呼び方止めろよ」
「早くしないとほってくわよ」
木下もそっけない態度で桜の後を追っていってしまった。
「ああ、重い~」
「ご苦労!」
良いように使われているとは思いつつもしょうがなく重い機械を一人で運び終えた俺に桜は義務感バリバリの礼を言う。
特別演習林と呼ばれる姉ちゃんが勝手に地主と交渉して借りてきた山は学校の演習林をさらに登った山奥にある訳で、なるほど伐採した木を運ぶにはコストが掛かる立地に現在放置されていたのも頷けた。
そこから桜の支持でまず午前中に七班に割り当てられた一ヘクタールを見て回り、どの辺にどれくらいの密度で大きさ、樹齢がどれくらいの木が生えているのかチェックすることになった。といってもそんなスキルはまだ二人にはない訳で俺が見て木下がメモを取る。
「しかし、ひどい有様だな」
「何が?」
「かなりの間、除伐もしなければ枝打ちもしてないんだろう。木々が鬱閉されてそれぞれが邪魔し合い育っていない……」
「あたしは山奥に入るの初めてだけど。何だか薄暗くて気味が悪いわね」
初めて森林に入った桜でも気付くほど、そこは暗く木々の葉に邪魔されて陽の光が入らない閑散とした地帯となっていた。
「森が死んでいる。これじゃ地面の微生物も育たなければそれを食べる昆虫も……さらにそれを食べる鳥、動物も生きられない……」
いつもの冷徹さとはまた違う哀しい表情で木下は誰に言うでもなく呟いた。
「ちょっと! 死んでるってここの木売れないの? 緑!」
木下の言葉の意味が分からず焦燥とした声を上げる桜。
「いや、小ぶりで品質が良くはないが売れなくはない。その点は問題ない」
「じゃあ、いいじゃない。伐採方法覚えたらさっさと全部売っちゃえばお金に成る訳だし万事解決! 問題なしよ!」
桜は心配が晴れたのか意気揚々と息巻く。
「あなたはやはり分かってないわね。大バカ、マヌケ、ウスノロのおめでたい能天気、何もかもがズレてる」
そんな桜にいつもの調子で木下が口火を切った。
「ちょっと何よ! あたしが何か間違ったこと言った?」
「全部を一度に伐採する、皆伐。その後はどうなるの? 山の木々をお金に替えたその後は……」
「知らないわよ! 売れる木を伐採して売る、それ以外に何があんのよ」
「違う。それでは一瞬潤っても森林は消え、自然な森林が戻るまで何百、何千年掛かるか分からない。もしかするともう木々が育たないかもしれない」
「じゃあ、どうしたいのよ! あんたは人の意見を否定できても自分の意見なんかないんでしょ」
苛立ちから勇み足になる桜に、「あるわ」とぼそりと前置きし木下は小さく答える
「……択伐」
「択伐って何よ」
「俺が説明するよ。一度に全部伐採してしまわないで選別した一部を伐採しては植林し、それを繰り返しちょっとづつ、ちょっとづつ永久的に収入を得れる森林経営方法、それを択伐って言うんだ」
「意味くらい知ってるわよ! 何で択伐で解決出来ると思ってるのよって言ってるの! そんな方法じゃ木の運搬コストも製材コストも掛かるじゃない! 現実的に林業経営を考えたら皆伐しかないのよ」
「一端ハゲ山を作るってのがどんなマイナスをもたらすか分からないの。 植林しても崖崩れが起きるような根の張らない土地で木々が育つ可能性を考えてみなさい。動物がいなくなれば生態系にだって大きな影響が出る。そのマイナスは計り知れない。己が利益のみに縛られ、行動して許される範囲を超えてるわ」
二人が揉めるのはいつものことだが、こと真面目な林業の事となるとより一層激しいものになる。俺はといえば林業に真剣に成れない自責の念からかこういう時、割って入るのに躊躇いを感じるのだが……
「あの、二人に……」
「「何よ」」
同時に睨まれ怯みつつも言ってみる
「見せたい場所があるんだ」
「今はそれどころじゃないのよ! この分からず屋の陰険女に現実の厳しさを叩き込んであげなくちゃダメなのよ」
「十六、七の小娘の薄い経験則に基づく現実なんて参考にするに値しないわね」
「あんただって十六、七じゃない!」
「二人ともいい加減にしろよ! いいから着いてこい!」
俺は半ば強引に二人を引き離し、ある場所に連れてくことにした。特別演習林より東に険しい山道を三十分程のところ。そこに案内してどうなるって策略なんかない。ただ、林業にこれだけ真剣に取り組む二人には見て欲しかった……その場所を。
山に慣れていない二人には少々辛い道のりだったが、長尾谷に着くと二人の顔はぱぁっと明るくなる。
「何これ……綺麗」
「驚いた。こんなところがまだあったのね……」
谷を見下ろす不動滝の上流に出たところで景色が開けると、桜も木下も感嘆の言葉を漏らす。
あたり一面古来から変わらず新芽を実らせ、瑞々しい若葉が、川のせせらぎが、春の木漏れ日を眩く反射させる。
「ここは長尾谷といって傾斜が激しい為、戦後の造林事業の時にも後回しにされ、そのまま時が過ぎ、人間の手が加えられることなく今も尚、原生林を残す場所なんだ」
「何でこんな場所知ってるの?」
自然を前に珍しく和らいだ表情の木下が聞いてくる
「子供の頃はよく遊びに来たんだ。夏は滝壷で泳いだり、クヌギの木に群がるカブトムシを取ったり、春や秋は釣りをしたり、渓流釣りってやつだ。天然のアマゴやヤマメなんかが釣れて塩焼きにするとけっこう旨いんだぜ。ここは人工林と違い勝手に立ち入っても大人に怒られないしな」
「「……」」
黙り込む二人。
「ああ、俺の話なんかどうでもよかったな」
「いいえ、そんなことないわ……素敵な思い出、大切な場所がまだあるなら守らなきゃね」
まだと付けたのは少し気になったが、初めて見せた木下の笑顔は刹那的でどこか儚く、だけど……優しい。そんな笑顔だった。
「今まで人間がしてきたこと、あたし達がこれからしようとしてることって間違ってるのかな……」
美しい原生林を目の当たりにし、紡がれた桜の言葉は曇りがちで小さい……。
「そんなことはない! 人にとって住居はなくてはならないし、それを効率よく作る為に人工的な森林を創ることだって極自然な流れで悪いことじゃない! ただ人が手を加え、管理なしには死んでしまう、そんな状態にしてからの放置が問題なんじゃないか」
俺が言えることでないのは分かっていたが、思うより早く言葉を発していた。
「わたしも同意見ね。伐採の後に森林再生への手助けとなる植林をすれば次の世代に繋がる林業が出来るはず……わたしはそう信じている。コストを削減する方法も他にもあるかもしれない。何軒かの森林所有者で協力し合うとか、作業道を広げて外国のタワーヤーダーのような大型集材機を導入するって手もあるわ」
喧嘩とは違いまともな意見交換となれば桜も真面目に答える。
「でも大型機械を導入するには斜面が多い日本の地形は難しいし、ヘリコプターも高級木材でもない限り費用対効果を考えれば厳しいんじゃないの?」
「そうね、もちろん日本の地形にあった機会は今のところないわね、ヘリのコストも高い、それに林業家同士の意思疎通など問題点は山積みだけど……だけど……解決策はある。そう信じて模索すれば、きっと何か良い答えが見つかるはずよ」
二人の会話に入っていけない状況に自分の知識不足が露呈されていくが……現状の森林を変えることが出来たらいいな――漠然とそんなことを思った。
「みんなが足並みを揃えて同じ方向に進めば、見つかるかもしれないな。よし! この辺で特別演習林に戻るぞ」
「リーダーはあたしなんだから命令しないでよね! んじゃ戻るわよ」
「はいはい」
「さっきまで自信暗鬼で落ち込んでたと思ったら、まったく現金な奴。沈みっぱなしよりはいいけど……」
木下は俺にだけ聞こえるように耳打ちした。
かくして俺達は少しだけ、ほんの少しだけ結束力みたいなものを強め特別演習林に戻るのであった。
帰りの山道、木下が妙なことを言い出した。
「ねえ、桐谷君。この辺は狩猟区域なの?」
「いや、違うけど。どうした?」
「さっきから誰かに見られてるような気がしたから……」
「ちょっと変なこと言わないでよ」
後ろを振り返り立ち止まった木下を見て桜が不安そうに言う。
「春だし、誰かが山菜取りに来てるんじゃないか」
「こんな何もない山に……?」
そういわれれば確かに辺りは日当たりが悪く、植物が生えない場所だ。
「ちょっと、あんたの勘違いじゃないの? あたしをビビらせようとしてるんだったら止めなさいよ! 怖くも何ともないから!」
めちゃくちゃビビってんじゃねえか。
「まあいいわ、気にしないで。行きましょう」
「ちょ、ちょっと。嘘なら嘘って言いなさいよ」
「今わたしがそんな嘘付いて何の得があるの?」
「あたしを怯えさせて……」
「怯えさせて、帰りが遅くなって。で、どうなるの?」
「……知らないわよっ!」
どうしても嘘だと言って欲しいらしい桜は涙目だった。
「何かの勘違いだろう。こんな山奥に俺たち以外に人が居るとは思えないし……」
「……アガリビト」
木下がぼそりと呟いた言葉には聞き覚えがあった。
「まさか! アガリビトなんて都市、いや村伝説だろ?」
「何よ、そのアガリビトって」
桜が恐々とした声で聞く
「アガリビト……。地方によっては山人と言ったりもするみたいだけど。昔から山に入る人間は沢山いて狩猟、山仕事や山登り。そして必ず出てくるのが遭難する者、自ら死に場所を探し入る者もいる。当然、多くは亡くなるのだけれど……その中には極稀に山に順応し生き長らえてしまう者がいる、野生に返る人――アガリビト。獣と化した彼等には言葉も通じないし、獣の臭いをまとい完全に理性を失っている……目はもはや焦点があっておらず遭遇すると自分が何者なのかも忘れて人を襲うそうよ。猟師の間では彼等に出会ったらまず逃げろと教わるって聞いたことがあるわ……」
木下はそう説明すると自分の見解を付け足す。
「まあ、有り得ない話じゃないわね。ヨーロッパで狼に育てられた少女が見つかったなんて話は実際にある訳だし……」
「バッカみたい! 全部作り話よ! アガリビトって名前からしてもう怖がらせる為に付けたような名前だし! あたしはそんなの信じないから!」
アガリビトの名前までディスり始める桜の手は、俺の裾を掴みつつ震えていた。
「気味が悪いしさっさと先を急ごう」
「ええ、そうね」
「あたしは別にこんな山何ともないけど。仕方ないわね」
「じゃあ、咲崎さんは一番後ろをお願いね」
「ちょっ、ちょっと! あたしが先頭行くわ! リーダーなんだし」
そういうと桜は先頭を切って歩き出した。やれやれ分かり易い奴……
桜を追いかけるように特別演習林に戻った頃には昼飯時をとうに過ぎていた……
「飯にするか? 残念だったのかラッキーだったのか下刈りをする程の草も生えてないし、調査は午後からでも余裕だろう」
「あたし、お腹ペコペコ~」
ホッとしたのか俺と木下が地面に座ったのを見て桜は木にもたれると座り込んだ。
「あれだけ、逃げるように走ればお腹も減るでしょうね」
「別に逃げていた訳じゃないわっ! あたしは無駄な時間が嫌いなの! 移動時間短縮よ!」
「じゃあ。お昼休憩を利用して山の怖い話でもする?」
「何だか、面白そうだな!」
ついつい乗ってしまったが、横を見ると桜の顔は青い……
「また今度にするか。桜の調子も良くなさそうだし……」
「何言ってんのよ! あたしは絶好調よ!」
どんだけ負けず嫌いなんだよ……。
こうして、特別演習林の入り口付近、演習林から僅かに日が差し込む山道にて三人で円を囲み、弁当を食べつつ山の怖い話大会が始まった。
「よし、俺からいこう!」
俺は木下の怖がる顔も見てみたいという欲求にかられ。自分の中で出来るだけ怖い話を取り繕い話し始める。
「これは日本各地で伝わる話なんだが……山に入ると民家などあるはずもない場所にふと民家が現れることがあるらしいんだ。それは迷い家といわれてて古い日本家屋だったり、現代の西洋式住宅だったり様々だが、不思議に思いつつも玄関を尋ねてみても誰も返事をしない」
チラリと横目で木下を見るも澄ました表情からは恐怖の微塵も感じられない……
「そして……吸い寄せられるように家に入るとついさっきまで人が居た気配はするらしい……が、やはり誰もいない。家の中には高価な装飾品やお椀などの日用品なんかがあり、それを持ち帰ってしまうと一週間以内に家の住人である“人ではない者”がそれを取り返しに来て……」
「……来て?」
桜は怖がりながらも好奇心だろう相槌を入れてくる。
「その対価として命を取られるんでしょ」
「そう、なんと命を……って木下! 先にオチ言うなよ! それは怖い話において最もやってはいけないタブーだろが!」
俺は木下がまったく怖がっていない残念さもあり、激しく抗議した。
「誰でも知ってるような話をするのが悪いのよ。知ってる話をなぞられる程苦痛はないわ」
強く言われると言い返す言葉がない。たしかにネットでいつか見た話だから……さらにそんな苦痛を与えてしまって御免なさい的な、なぞの罪悪感まで生まれてくる始末、恐るべし……木下マジック……
「な~んだ! 全然怖くないじゃない! 緑の話し方、トーン、タイミング、表情すべてにおいてゼロ点だわ」
少し安心してるくせに桜が難癖を付け、木下も追撃してくる。なぜか俺を攻撃するときだけは凄まじいコンビネーションを見せる。
「まず《らしい》っていう人から聞いた表現を多用するのが大問題ね。人伝の話だと強く印象付けしてしまうとそのワンクッションが臨場感、信憑性を削いでしまい白けるわ。そう、それはまるで《たら・れば》表現が多いギャンブル必勝本のような物……」
「あははは……たしかにそれ白けるわ! もしあの時あの馬券を買っていたら、あのパチンコ台に座ってさえいれば! ないない! あはははっ! とんださらし者ね!」
「うるせえよ! 何か恥ずかしくなってくるじゃねえか! どんだけ言われるんだよ!てか後半、俺関係ないし……」
二人にからかわれ、自信満々に話した自分が急に恥ずかしくなる
「そんなに言うなら木下の話を聞かせてもらおうじゃねえか!」
返す刀で木下を指名してやった。
「いいわ。じゃあ、わたしの番ね」
「え? まだ続けるの? もうよくない?」
「いや、続けるに決まってるだろ!」
桜はまた緊張した真顔になるが、俺はムキになり木下に話を促す。
「これはわたしの母が幼少期に体験した話なんだけど……」
「ちょっと待て! さっき人伝の話は怖くないとか言ったくせにお前の体験談じゃねえのかよ」
「あなたバカなの? そうそう都合よく身の回りに怪奇なことなんて起きないものよ。だからこそ今から話すのは本当の話なんだけどね」
今のやり取りにより本当のことだと擦り込まれた桜は、なるほどと頷く。
「母が小学五年生の頃に父、わたしのお祖父さんに当たる人だけど。その祖父と一度だけ女人禁制の山に足を踏み入れたことがあるらしくてその時の話なんだけど……」
「何、女人禁制って」
桜の質問に答えつつ木下は続ける
「昔から女性は立ち入ってはいけない山があるのよ。今は女性差別だとか言われてあまり目立たない風習だけど……山の神様は女でそれも相当な醜女であるから女性が入ると嫉妬して厄をもたらすと恐れられているの」
ふんふんと桜。
「それでもその年、国語の授業で父親の仕事を題材にした作文を書くためにどうしても山仕事をする祖父の姿が見たいと連れて行ってもらったらしいの。最初は古株の仕事師さんに止められたけど、棟梁をしていた祖父は押し切ったらしいわ……半ば無理矢理立ち入った山はちゃんと手入れされた日の当たる見事な杉林で祖父の支持で他の職人と木を切る間は安全な場所から見ていたらしいのね」
「てか、お前も《らしい》多用してねえか? いや、なんでもないです」
冷酷な視線で俺を一瞥する木下はまた話し出す。
「巨木を倒すときは木を倒す方向を予め決め、二本のロープをそれぞれ木に括り付けて二箇所から引っ張っておくんだけど。巨木が倒れる瞬間、片方のロープが切れてバランスが崩れもう一方のロープ側に木が倒れてきて職人の一人が下敷きになった……」
「それ別に怪奇現象って訳じゃないよな? でその職人はどうなったんだ?」
「そうここまではただの事故と思われた……そして、その職人さんも幸い打ち所がよかったのか命に別状はなかったんだけど。妙だったのがロープは新品だったにも関らず切れたことで……切れ目が引っ張られたとは思えない何か鋭い刃物で切ったような後だった。皆が一様に山ノ神の仕業だと口々に話したらしいけど。母はその日見たものを怖くて言えなかったそうよ……」
「何見たのよ」
桜は少し震えた声で聞く
「事故の寸前、切れたロープを括り付けていた木の陰に……全身黒い装束に身を包んだ女の姿が……」
桜はごくりと唾をのみ怯えた表情で聞き入る。
「それはお世辞にも美しいとは言い難い歪んだ鼻に出目金のような目をぎょろつかせ、幼い母の方を見て薄気味悪い表情でにやりと笑った。その瞬間母は気を失ったらしいわ。無論そんなことを知らない祖父達は事故を見たショックで気を失ったと思ったそうだけど」
木下は真剣な顔で続ける
「そして、当時母が昔住んでいた地域では未だに女人禁制の山があるらしいの……それが……」
木下は大きく一息付くと
「……ミツエムラなの!」
「きゃー! わぁぁぁぁー!」
桜は両手を耳に当て、涙目で叫んだ。
「作り話に決まってるじゃないそんなの!」
もう、涙目どころか完全に泣き顔になっていた……
俺も淡々とした口調からオチでいきなり大声というベタさが木下から出されるとは意表を突かれ、驚いた拍子で腰が抜け後ろに倒れ込んだ。
「咲崎さんには残念だけど作り話でも嘘でもないのよ。そして、一つあなたに残念なお知らせがあるのだけれど……」
「何よ。残念なお知らせって!」
顔面蒼白の桜に木下は微笑む。
「今この三人の中で山ノ神醜女に最も呪われる可能性があるのはあなたなのよ」
「はぁ? 何言ってんのよ! いい加減なこと言わないでちょうだい!」
桜は怒りを露わに否定する
「いい加減じゃないわ。いつもあたしは美少女だって散々賜わっているじゃない。もっとも山ノ神に嫉妬される存在は美しい女性……さらに」
「まだ何かあるの!」
「その背中の刺繍、神という文字。これは山ノ神への冒涜、挑戦状と捉えられて然るものよね。桐谷君は男だし、わたしの背中に書かれてる下僕というのは男の召使を指し示す言葉だから、この中ではあなたが圧倒的にヤバイわよ……それだけ条件が揃ってれば呪われてもおかしくないどころか至極当然。もうどこかであなたのことを見ているかもしれない、醜い顔で目をぎょろつかせてね。そうこんな風に」
木下の目を見開く子供騙しな悪戯にも桜は顔を強張らせ叫んだ。
「やだ! あたしはブスよブス! そんでこれも違うの! ほら、脱ぐし」
「おい! 何してんだ! 止めろよ」
男の俺が居るのも忘れて作業着のツナギを脱ぎだす桜。俺の制止など聴く間もなく下着姿になった。
「これで大丈夫でしょ」
まったく大丈夫じゃねえよ……露出狂と何も変わらんぞ。
「ええ、わたしも安心したわ。でも、その格好じゃ山から降りられないでしょうから、わたしの作業着を着なさい」
「いいの? そんなことしても恩になんかきないからね」
「わたしの慈悲の心がそうさせるだけよ……気にしないで」
そういうと困惑する俺に目を向ける
「そこで存在感を消して状況を見守ってるドスケベ君。わたしも脱ぐから向こう向いててくれるかしら……」
「勝手に脱ぎ出したんだろ! 変態呼ばわりされる覚えはない!」
「見ていたかどうかの事実だけでけっこう。お回りさん、ここに変態がいます……」
わざとらしく電話を掛ける仕草をして見せると、ジト目で俺を睨む。
「向くから、はいはい……」
どんな言われようだよ! まあ、桜の下着姿に思わずラッキーとは思ってはしまったが……
「あんた、ちょっとは良いところあるじゃない」
まんまと下僕作業着と自慢の作業着を交換し、お礼まで言い出す桜はこの上なく残念だった……
そして、山に向かい声高々宣言する
「あたしは醜い女です! 神でも何でもありません、ただの下僕です!」
「もっと、声を張り上げて。そして醜い女よりも醜くなくちゃ嫉妬の、呪いの対象よ」
「あたしは世界一醜い、見た者を不幸にするレベルの顔面化け物です。下僕として生きさせて頂けることに感謝しています!」
「いいわね、これで大丈夫。わたしも咲崎さんが心配だったからよかったわ」
携帯でムービーを撮りつつ、嘘の笑顔と安堵の言葉を投げかける木下は、背中の神という文字とは程遠く悪魔にしか見えなかった。
「二人とも満足か? もうそろそろ調査するぞ」
山に向かい、傍からはバカにしか見えない二人に焦燥しながらも、弁当箱を片付けた。
「んじゃ。午前の続きで森林のチェックをするから木下はノートにメモ頼む」
「了解」
「緑、あたしは?」
「そうだな、桜は俺が何か見落としてたら指摘してくれるか」
「要するに何をすればいいの?」
「俺が気付いてないことで思ったこと、感じたことを何でも言ってくれればいい。この木は枝が多くないかとか腐ってないかとか……些細なことでもいい。一人じゃ見落とすこともあるだろうし」
「何かどうでもいい役割ね」
「そんなことない。これは調査の最後の要! 頼れるリーダーにしか出来ない大仕事だ」
「じゃあ仕方ないわね」
不満顔の桜に分かり易い程のご機嫌を伺い、調査を開始した。
樹種は檜が一割ほど、残りはほぼ杉で伐採時期の五十年は過ぎてはいるが、やはり周りの木が密集している為そんなに大きくは育っていなかった。
「全体をおおよそ見た印象だけど。とりあえず、除伐は必要だな。三十パーセント程度は減らさないと厳しいだろな」
「そうね、後は枝打ちもここ十年はされてないみたいだから枝打ちも必要ね」
「なかなか重労働だぞ……こりゃ」
任された一ヘクタールを歩きまわり、データを集め終える頃には日が沈み始めていた。通常であれば伐採 時期まで五年毎に十から二十五パーセントほどの除伐が繰り返えされ、一ヘクタールあたり五百本前後にまで厳選されているのだが、放置されたこの森は二千本近くも木が残されていた。これからは成長を取り戻す為に三十パーセント程度の除伐が適度だろうと判断した。
調査の間、桜は色々と興味津々に聞いてくるものの、特に役立つことはなかった……。
「ちょっと緑! こっち来て」
「何だ? 今度はキノコかムカデか?」
「違うわよ! あれ何かしら?」
桜が指差した、三十メートル程離れた杉の大木の遥か上を見上げる。
「何だあれ!」
「……人?」
俺と木下の視界にほぼ同時に入ってきた光景に二人して絶句する。
大きな杉の木、その上方の枝に座る後ろ姿。夕日の逆光で微かに見えるそれは確かに人の姿に見えた。こちらに気付いたのか奴が振り返ったところで目が合う。体が動かない……と次の瞬間、蜃気楼のようにふっと消えてしまった。
「「きゃあぁぁぁぁ」」
桜と木下は目の当たりにした恐怖に叫んだ。
「何よ、今の! たしかに女の子がいたわよね」
「わたしも見たわ」
あの木下も困惑の色を隠せない。
「アガリビト、ヤマノカミ、バケモノ、アガリビト……」
震える手で頭を抱えしゃがみ込むと、微かに聞こえる声で呟く桜は恐怖で立ち上がれない。
「木下! 戻るぞ!」
俺もよくないことが起きそうなそんな予感に苛まれ、歩けない桜を担ぐと呆然と立ち尽くす木下の手を引っ張り坂道を駆け出した。
「はあはあ……木下、桜大丈夫か?」
「「うん」」
何だったんださっきのは……とりあえず学校の物置小屋まで逃げ帰った俺たちは息が整うまで小屋の前に座り込む。
「あれはアガリビトでもないし、そもそも人じゃない。かといって山ノ神とも違うわね」
しばらくすると、ようやく肩で息しながらも冷静さを取り戻した木下が呟いた。
「何でそんなこと言えるのよ! じゃあ何者なのよ、あいつは!」
桜は木下の釈然としない答えに涙目でうったえる
「まず、一瞬にして消えたでしょ? 人ではないってことでアガリビトでもない」
「じゃあ、山ノ神?」
「それも違うと思うわ。わたし顔を見たもの」
「うそっ! どんなだったのよ」
どうやら桜は恐怖で直視出来なかったらしい。
「整った顔。美人と呼んで遜色ない、幼い顔立ちと体格からは美しいよりかは可愛いという方が適切だとは思うけれど……」
「ああ、俺も見たから間違いない!」
「美的感覚なんて主観なんだから分からないわよ! あれは山ノ神よ! てか、何で作業着を着替えたし、醜い宣言したあたしがまだ狙われなきゃいけないのよ!」
「「あっ! 木下!」」
俺と桜はほぼ同時に木下を見た。こいつは確かに美人尚且つ、桜と交換した不謹慎な刺繍入りの作業着を着ている。
「いいえ、やはり山ノ神なんてことはありえない」
「何でよ! だいたいあんたがまず視線を感じるとか言い出したじゃない! それにあんたのお母さんが見た山でしょ!」
「視線? ああ、あんなの嘘に決まってるでしょ」
「何でそんな嘘付いたのよ」
「より自然に尚且つ恩を着せながらも作業着を交換する為に怖い話をする為の伏線」
「あんた、あたしを騙したの! 怖い話まで創作して!」
「あの話は本当よ」
「じゃあ、やっぱりさっきのは山ノ神なんじゃない」
「いいえ、母の話は嘘ではないけれど。あの場所がこの山なんて言ってないでしょ。女人禁制の山は別の地区……」
「うぅぅ~……それも騙してたのね……あたしの作業着返しなさいよ!」
「それに関しては騙した訳ではなく勘違いするように誘導されてまんまと思い込んだだけでしょ。わたしは御杖村に女人禁制の山があるとしか言ってないわ」
たしかにそれは一理ある……にしても何て奴だ! 目的遂行の為に伏線を張るタイミングといい、回収するまでの流れすべてが完璧過ぎて気付かなかった。木下の読み、実行力、演技力に驚愕したが……桜が可哀想に思えたので肩を持ってやることにした。
「木下! 桜がはじめに侮辱したのも悪いけど。返してやれよ」
「全然構わないわよ。わたしもさっきの見たら怖くなってきたし……」
「やっぱいい! そのままでいいわよ別に」
桜は慌てて撤回する。
まあ、そりゃそうか……木下の見解では女人禁制の山でもなけりゃ醜女でもないことから山ノ神じゃないということだが……じゃあ何なのかはっきりしないとなると神様説も否定は出来ない。
「とにかくだ! もう日も暮れてしまったし、今日はさっさと用具を締まって帰ろう」
そう言ったところで俺はふと気付いた。
特別演習林に草刈り機を置いてきてしまった。
「草刈り機……どうしよう」
「「……」」
一瞬、三人の間に沈黙が流れる。
「何してんのよドジ! バカ!」
「どうするの? 雨でも降ったら故障しかねないわよ」
二人の罵倒を受けたが一人で取りに行くのは俺も怖いから行きたくなんかない……
「みんなで取りに……」
「嫌よ! 絶対に嫌!」
「三人で行く意味はないわ」
食い気味に断られ、俺は自棄になって叫んだ。
「何だよ! 薄情者! もういい! 俺一人で取りに行くよ」
道具小屋の壁に掛けてある懐中電灯を手に取り
「じゃあ、お前らは先に帰っていいからな」
しょうがない一緒に行ってやるかという返事が返ってくることに期待を寄せ、捨て台詞を吐いてみた……
「そうね、こんなところで待ってても意味ないし。緑……あとはよろしくね」
「わたしも帰るわ」
「帰り道。途中までは一緒だし、しょうがないわね。一緒に帰ってあげる」
別の方向に向けられた一緒にという言葉に最後の望みも消え去り、俺は先程逃げ帰った特別演習林に一人で向かった……
「しかし、暗くなるとより一層気味が悪いな……」
誰に言うでもなく独り言を呟き。急ぎ足に水田横のあぜ道を進み演習林に入る……
御杖村は標高が高い山間部で、春の夕方といえど少し肌寒いのだろうが。状況が状況だけに霊的なものに感じ全身が寒気立つような悪寒を覚える。
「あった! さっさと持って帰ろう!」
特別演習林入り口の山道の小脇に置かれた草刈り機にライトをあて一先ず安堵の息を付く。
「うわぁぁ!」
ライトを当てた草刈り機から人影のような物がすぐ横の茂みに飛び込むのが見え思わず叫んだ。
「誰だ! 誰かいるのか? なぁ……おい! いるんだろ!」
恐怖で自分の声が震えているのが分かったが茂みに行き確かめる程の勇気はなく、とりあえず不安を消そうと虚勢を張り何者かに叫ぶ。
人は本当の恐怖に直面した時、逃げることも出来ず目線を逸らさず相手の反応を伺うものだと身を持って体験した。
「さっきの君か? 何か用があるのか?」
「……一人?」
「え? 一人? あ、ああ俺一人だ!」
話しかけたのは自分だがまさか返答があるとは思っていなかったからとっさに反応した
「えっと……君はさっき木の上に座ってた子……だよね」
「……うん」
沈黙の後に聞こえた微かな声は女の子の高い、そしてあどけない子供の声だった。得体の知れない恐怖から少し開放された俺はさらに諭すように話しかけてみた。
「よかったら、姿を見せてくれるかな」
「…………」
「やっぱ恥ずかしいかな……」
「…………」
「んじゃ、少しこのまま話そう。君、名前はなんていうの」
「……ない」
「ないのか? そうかそうか」
「お父さんとお母さんは?」
「……いない」
「家はどこなの?」
「……この山」
やはりおかしい……名前がない、両親がいない、家もない。再びつかみ所のない存在に得体の知れないものへの恐怖が自分の中に蘇えってくる。
「君は人じゃないんだろ?」
俺はかまをかけて答えやすい聞き方をしてみた。答えは否定文であって欲しい。
「……うん」
やっぱりというかマジかよ……じゃあ何なんだよ……再び背筋にゾット戦慄が走る。
「人じゃなくて何なんだ?」
「…………」
沈黙が続き、茂みから気配が感じられなくなった。
「わあぁぁぁっ!」
次の瞬間、背後に気配を感じ振り返った俺はいきなりのことに悲鳴を上げ崩れ落ちた。そこに木の上で見た少女が立っていた。
「……やまのかみ」
少女は着物の袖を恥ずかしそうにもじもじしながら、下向き加減な視線を俺に向け言った。
「山の神様? ……本当に?」
少女はコクリと首を立てに頷く。本当にこの子が化け物と言われる山ノ神なのか? 決して醜くない……それどころか可愛いの中でもかなり上位に属するであろう愛くるしい顔、くるりと巻かれた綺麗な赤髪をシュシュで後ろに束ね、ピンク生地に菫柄の着物が非常によく似合う普通の女の子だ。
「俺に何か用があったのか?」
聞いたところで遠くから声が聞こえてきた。
「緑~! りょーくぅ!」
「桐谷くーん。居たら返事しなさい~」
演習林から上がってくる木下と桜の声だった。
少女は声のする方に目線をやると
「……この森を救って」
囁くような声。その瞬間少女はまた蜃気楼のようにふっと消えてしまった。
「あ、ちょっと、待って」
森を救ってってどうすればいいんだよ……
「緑~!」
「何かあったのー」
近づいてくる声に俺はホッと胸を撫で下ろすと
「おーい! 木下! 桜! こっちだこっち」
山道の下から上がってくる二人に答えた
「緑! 居るじゃない! 何してんのよ! 遅すぎ!」
木下の持つライトに照らされ、桜に浴びせられる文句も少し懐かしく思えた。
「お前ら帰ったんじゃなかったのか」
「あまりに遅いから一応見に来てやったんじゃない」
「遭難して死なれでもしたら寝つきが悪いですものね……」
寝つきが悪いだけで済むのかよ、もっと後悔に苛まれる日々を過ごせよ……
「そりゃ、ありがと。この通り無事だ」
素直にお礼を言っておく。
「別にあたしはあんたなんかどうでもよかったんだけどね! あんたが居なくなったら班長としての責任を問われるから。それだけだから変な勘違いしないでよね!」
「しねえよ! 一応お礼が言いたかっただけだ」
そんなことで勘違いする程めでたい男じゃねえよ……
「ところで桐谷君。随分遅かったけど何かあったの? 話し声が聞こえたような気がしたけど……」
「今、ここで……いや何でもない。俺独り言多いからな! どこに草刈り機をどこに置いたか忘れちゃって暗がりで探すのに戸惑っていただけだ。でもほら見つかったし」
「それならよかったわ。帰るわよ」
「ほんと、置いた場所くらい覚えときなさいよね」
「すまんすまん」
俺は先ほどの顛末を話しかけて飲み込んだ。桜がパニックになりかねない……それに一人かって聞かれたことと消えてしまった少女の行動から言うべきか悩んだからだった。
家に着くと夜の七時になりかけていた。
「ただいま~!」
返事がない……
「木の葉~。いないのか?」
玄関で靴を脱ぎ、浴室の前を通ったところで明かりがついてることに気付く。風呂か……
「やだやだ、木の葉こんな大きいの初めて見たよぅ~。きゃはは」
風呂場から聞こえてきた妹の声に俺は動揺し忍び足でとりあえず廊下正面のリビングに向かった。あいつ誰と話してたんだ――誰か風呂場にいるのか? 朝のことといい悪い妄想ばかりが膨らむ。一緒にお風呂に入るってことはもう……しかも……“こんなに大きいの”という言葉が頭の中をぐるぐる駆け巡る。とにかく、とにかくだ。この状況どうすればいい……
「お兄ちゃん! 帰ったの?」
風呂場から呼びかけられた木の葉の声に俺は返事が出来ず。息を潜めた……何で俺が自分の家でこそこそしなきゃならんのだ……
「あら、木の葉! 緑帰ってるわよ」
「……姉ちゃん」
リビングの扉を開き顔を見せたのは椿姉ちゃんだった……
「姉ちゃ……雨宮先生」
「姉ちゃんでいいわよ! プライベートなんだから」
「ああ、何でこんなとこにいんの?」
「昔からよく来てたんだし別に珍しいことでもないでしょ」
「てか、姉ちゃん! 服!」
俺は赤面し視線をキッチンにやり、まさに目のやり場に困った……木の葉に頼まれてリビングの様子を見に来たらしい姉ちゃんはバスタオルを頭に巻いているものの……その……全裸だった。
「何恥ずかしがってんのよ! 昔は緑も一緒に入ったでしょ、お風呂」
「いくつだと思ってるんだよ! 俺はもう高校生だぞ! 服着ろよ服!」
「あら、高校生だったら何が違うわけ? ねえ、緑の体に何か変化でもあるわけ?」
にやりと笑うとからかうよう姉ちゃんは屈んで見せ俺の足元より上…つまり…あれな部分を凝視した。
「何言ってんだよ! 頭おかしいんじゃねえのか」
「きゃははは。純粋でかわいい子に育ってるわね! 木の葉~! 大丈夫よ、泥棒じゃなかったわ! ただの変質者だったわ」
そういうと姉ちゃんは風呂場に戻っていった。
「どっちが変質者だ! 変わったのは見た目とその……体だけで……昔のまんまじゃねえか!」
俺の訴えなど聞くこともなく……風呂場からはまたきゃっきゃと楽しそうな声が聞こえてくるのだった。
この日は色々あり、いろんなことが分かった。
木の葉が最近入れ込んでいた彼氏の正体もわかった、木下と桜の林業に向けた方向性みたいなものも分かった。そして、分からないことも分かった。山で出会った山ノ神だと言ったなぞの少女の願い……森を救うってどうすりゃいいんだ。風呂上りに三人での夕飯時に何気なく姉ちゃんに聞いてみた。
「なあ、姉ちゃん。山ノ神って知ってる?」
「山に居てる神様のこと?」
「そうとっても醜い女の神様って聞いたけど。そうなのかな?」
「う~ん……私はそうとも限らないと思うけどな」
「何で?」
「神様なんて迷信かもしれないけど。もし居たとして美人だったとしても人から伝え聞くときに人間の都合が言い様に変えられることもありうるんじゃない」
「ん? どういうこと?」
さっぱり意味が分からず聞きなおした。
「妖怪なんかがそうで昔は子供が危ない場所に行かないように大人たちが聞かせた話から発生したって説があるの。水辺にはカッパがいるから近づくなとかね」
「じゃあ、何で山ノ神が醜い方が都合がいいんだよ」
「単純に山に人を近づけたくない理由があって、人間が作り変える時に怖さを増す為に見た目を醜くしたってことも在り得るってこと」
「山に近づけたくない理由……それも子供騙しじゃなく大人を……そんなのあるのかな」
「徳川埋蔵金みたいに殿様が山に金塊を隠したり、歴史を紐解けば大人の事情なんていくらでもあるでしょ」
「木の葉も金塊ほしい~♪」
黙って話を聞きながら夕飯のおかずに手を付けていた木の葉が金塊に食いついて瞳を輝かせた。
「ばか。ただの例えばの話だよ」
「な~んだ、つまんない」
木の葉は頬を膨らますとまたもくもくとご飯を食べ始める。
「姉ちゃん……森を救うってどういうことかな」
「今日は変なことを聞くわね。それは……まあ救うって言葉を使うってことは現状が死んでいるんじゃないのかしら」
「そう! そうなんだ! 今日特別演習林に行ったんだけど」
「あら、やる気なのね。どうだった?」
姉ちゃんの顔は何だか嬉しそうだった。
「うん、何と言うか森全体が暗くて陰惨で日の光が通ってなくて……元気がなかった」
「あんた達三人には期待してるのよ」
姉ちゃんの顔は真面目だ。
「何で俺たちに? てか姉ちゃんは何でそんなに林業に拘るんだ」
「私はね、林業に拘るというかは御杖村に拘っているのかもね……私が子供の頃にはもう既に村の林業は衰退していて元気がなかったけど。お父さんが子供の頃の話をする時はとっても楽しそうで……活気に満ちた村の話をわくわくして聞いていたのを今でも覚えてるの……だからもう一度林業を復活させれば活気に満ちた村になるかな……」
遠い目をしながら話す姉ちゃんの表情は亡くなったおっちゃんとの思い出に触れたからなのか少し痛々しかった……
「緑、この村から若者たちはなぜ出て行くのか分かる?」
「んん、仕事がある都会に通うのには不便だし……」
「そう、根本のところで村が嫌いとかそういうのじゃないの。みんなこの自然豊かな御杖村が好きだけど。仕事がなくて都会に出て行かざるおえないのよ。雇用さえあれば……だから私は林業に掛けてみたいの」
「でも、どうにかなるもんなのかな」
「あの二人、木下さんと咲崎さんの熱意。そしてあんたの小さい頃からの経験。それが噛み合った時……きっと林業復興、そして御杖村にもたらす大きな変革の架け橋になってくれると私は信じているわ」
「そんなこと言われても……」
そこで姉ちゃんはにっこり笑った。
「まあ、緑の人生は緑が決めるものだけど。どうせ高校三年間はどう過ごしてもここに居るんだから頑張ってみてその後のことは卒業の時に決めればいいのよ」
「今のとこ特別やりたいことがある訳でもないし、そうだな! 姉ちゃんの期待に応えるのも悪くないかもしれないね」
素直に答えたりは出来なかったが……半信半疑でやらされるより、出来る限りはやってみるか! ただし、姉ちゃんの言うとおり期間限定で。
木下や桜を見て何かに熱くなれることへの憧れ、姉ちゃんが話した御杖村復興への期待、山ノ神だと言った少女の願い、そして自分自身の幼少期家族全員が笑っていた過去への攣れない……林業に打ち込む理由、根拠が大きく飛躍した――そんな夜だった。
第三章までご購読ありがとうございます。