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短編集

ゆびきり

「――――!!?」

 唐突な寒気と言い知れぬ恐怖に、彼はベッドから体を起こした。その体は酷く汗ばみ、喉は粘着いた痛みを覚え、先程の叫び声すら擦れたような声であった。彼はまず、汗ばむ額を拭おうとして声の出ない喉を押さえた。空咳を二度、三度した時に、偶然にも部屋の鏡を見る。

「ぁ……」

 ひゅーひゅーと出来損ないの音を漏らしながら見たその鏡の向こうに、自分とは思えないほど恐怖に歪んだ顔が映っていた。



 ****




「おはよう」

 結局、一睡もできなかった彼は普段よりも早くベッドから身を起こした。鏡に映る自分の顔は夜中に見た時よりも幾分かマシになっており、朝が来た事に安堵しているかのようだった。

「あら、珍しいわね。普段は起こしても起きてこないのに」

 階段を下りて一階のリビングに入ると、朝食の支度をしていた母親が鍋の中をかき混ぜながら言った。

「ちょっとね」

 その姿を一瞥した後、自分の椅子に座った。母親は時計に目をやり、「もう朝ご飯食べちゃう? 一応、出来ているわ」と聞いてきた。以前ならまだ寝ている時間なので、母親も朝食を出すタイミングを計りかねているようだった。

「食べる」

 彼は一言、小さく返すと母親はかき混ぜていた鍋の中身をすくって、皿に盛って彼の前におく。それを見て「うわ、またトマトスープかよ……」と呟いた。「あら? 昨日もしたかしら」と母親は呟きながら、既に焼かれていたらしいトーストをトースターから取り出して、冷蔵庫にあるレバーペーストと一緒に彼の前に並べた。

「準備が良いね。タイミングもばっちりだ」

「何だか、早く起きる気がしたのよねー」

 レバーペーストをトーストにたっぷり塗り、一口食べる。最初は妙な味だと思っていたが、ここ最近ではかなり美味しく感じるようになってきた。机を挟んで彼の対面に座る母親は笑顔を浮かべ、何やら機嫌が良さそうだ。

「父さんは?」

「もういっちゃったわ」

 父親の話題を出しても笑顔を崩さない母親を見て、少し前に些細な事で喧嘩状態であった両親は仲直りしたのだろうと勝手に納得した。そもそも、息子である彼の前でもいちゃつくバカップルぶりなので、それほど心配はしていなかったのだが。

「そっか」

 それでも息子として嬉しい事に変わりなく、照れ隠し故にそれを悟らぬように努めて素っ気無く返した。母親もまた、子の心を知ってか知らずか「うん」と笑顔で頷いた。いくら息子と言えど、母親に見つめられるのもなんだか気恥ずかしい。

 母親の視線から身を隠すようにトマトスープがたっぷり入った皿を口へ近づけて一気に飲み干していく。ゴロゴロと口の中で転がる固形物はトウモロコシや玉ねぎ、人参などが多く占めたが、珍しく肉の味がした。「菜食主義」を主張して、なかなか肉を買ってきてくれない母親がスープに肉を入れる事は昨日以来だろうか。よっぽど父親との和解が嬉しかったのだろう。

 母親の熱い視線に晒されつつ食事を終え、学校へ行く身支度を済ませて玄関へ向かう。廊下を歩く彼に、母親が「今晩はいないから、晩御飯は好きに済ませない」と言ってきた。彼はそれに適当に答え、「行ってきます」と、「いってらっしゃい」と母親の声を背中に受けて家を出る。

 今日もまた、変わらない太陽の熱い日差しに晒される。昨日も晴れだった。ここ最近、ずっと晴れてる気さえして、気分が滅入った。

「あれ!?」

 そんな彼へ声をかけたのは、今まさにインターホンを押そうとしたポーズで固まっている幼馴染だった。

「今日はぴったり合ったな。昨日はお前が来る前に扉を開けたし」

「もう! 珍しく早起きをしてるなら言ってよ! 私がわざわざ起こしに来なくて済むのに!」

 幼馴染はそんな本心で無い事を口にしつつ、笑った。「おはよう」「おはよ」といつものように挨拶を交わす。

「今日はどうしてこんなに早起きが出来たのかな?」

「何か怖い夢を見てさ。それから一向に寝付けなくて」

「へぇ、どんな夢?」

 横に並ぶ幼馴染は少し真面目な顔をして彼の顔を覗き込んだ。予想外の行動にややまともに対応してしまう。

「いや、思い出せないんだ。思い出そうとすると頭がズキズキするし。それを考えてる時だけ、だけど」

 まるで拒絶反応のように痛む頭痛は、不思議な事に幼馴染を前にすると少し引いた。

「あ」

 と、同時に。

「何か思い出した気がする……。確か、俺の――俺の部屋での出来事だったかな?」

 暗いベールに隠れた夢の世界が、少しだけ見えた。しかしまた、それ以上を思い出そうとすれば再び頭の痛みが自己主張を始める。

「あー、ダメだ。これ以上は思い出せない」

「そっか……」

 心配そうな、悲しそうな顔をした幼馴染を見て、咄嗟に手を頭へ回して撫でる。すると、その表情はやがて溶けるような柔らかい微笑へと変わった。少し彼の方へ身を寄せるようにして、目を閉じながら歩く。

「目を開けろよ。危ないぞ」

「平気だよ。ちゃんと分かってるから」

 理解不能な自信に彼はため息を吐いた。しかし、撫でる手は休めない。昔は、幼馴染が泣きそうになると良くこうして撫でたものだった。歳が上がるにつれてその頻度も減ったが、ここ最近は毎日のようにしている。

 変化の無い平和な今日の学校は昨日に右倣え。変わらない時間割、いつものように退屈な授業。あっという間に時間は過ぎ去り、お昼時となった。

 変わらずに近付いて来るのは幼馴染だ。普段は何人かの仲の良い友人と一緒に食べている幼馴染だが、今日は一緒に食べようと誘って来た。その背後では仲の良い友人が「頑張れ!」と小さく声援を送っている。そんな姿に苦笑しながらも、無下にする理由も無くその申し入れを快諾した。

 近くの机を動かしてくっつけ、向かい合うように座る。最近はこうやって食べる日が続いているが、一番新しい記憶と言えば幼少の頃の遠足以来だ。歳を重ねた現在、もはや男と女という関係になった二人は気恥ずかしさが目立って思うように行動に移せない。

 幼少の頃からずっと同じ学校へ通っているため、ずっと一緒に登下校しているので何を今更と思うかもしれないが、それはそれ、これはこれ、である。

 そうこうしている間に周りは昼食を始め、近くに座るギャル同士のグループでは恒例のおかず交換を行っていた。普段から声の大きい彼女らは、今日もやはり大きな声で壊れたスピーカーのように意味の無い言葉を垂れ流している。

「ねー、このウインナー。マジうまくね?」

「え、マジ! うわっ、本当に美味いんだけど!!」

 ぎゃあぎゃあとさえずるギャルがウインナー如きに声を上げる。しかし、絶賛されるようなウインナーがどんなものかと見た瞬間、彼の動きが止まった。唐突にこみ上げた吐き気を、何とか抑える。

「あれ? どうかした?」

 会話の糸口を探していた幼馴染は彼の様子の変化に機敏に反応し、声をかけた。

「い、いや。何でもない……」

 彼が見たのは、ウインナーだった。腸に肉を詰め込み、それを香ばしく焼いたもの。それはどこにでもあるウインナーで、しかし彼はそのウインナーの何かに引っかかった。パキッと、食欲をそそる良い音を出してウインナーを頬張っていたギャルが彼の視線に気付いた。驚いた顔をしたのは彼が食い入るようにウインナーを見つめていたからか、あるいは。

 少し空白があり、ギャルが恐る恐るといった風に「ウインナー、欲しいのか?」とためらいがちに聞いてきた。その言葉でようやく我に返った彼は慌てて「いや、大丈夫。気にしないでくれ」と言う。ギャルは「変なの」と言ったが、それ以上は何も言ってこなかった。

 意識を幼馴染に戻すと、不機嫌たっぷりにお弁当を開けて食べ始めていた。彼もお弁当を食べようと、蓋を開ける。

 そこには香草焼きしたアバラ、胸肉の煮込み料理、野菜炒めに少し多めのご飯。

 彼が見たのは、お弁当だった。ただの、お弁当。

「……」

 しかし彼は、そっとお弁当に蓋をした。理由は無い、もはやただの直感。ただ、何故か確証があった。これを食べれば、心の中の何かが少しずつ壊れていく気がするのだ。

「ぁ……ぐ――!!」

 途端、猛烈な胸焼けがした。口を手で塞ぎ、教室を飛び出すとトイレへと走った。酸っぱい胃酸が逆流し、口や喉で暴れまわる。ボトボトと朝食べたトマトスープやトーストが洗面台へと吐き出されていく。

 一分ぐらいの激しい嘔吐に見舞われ、一度口の中を水道水で濯いだ。粘つく嫌な酸っぱさは洗い流され、それでもまだ胸のムカムカは治まる気配を見せない。顔を上げた先に写る自分の顔はやはり、酷く疲れて見えたのだった。




 ****



 夜。

 その後は教師に事情を説明し、午前で帰宅した。既に母親の姿は無く、ただ一度学校からの電話を受けて夕方頃に家へ電話をしてきただけである。時間もいい具合だというのに父親は帰ってくる気配をみせず、ただ一人で暇を持て余していた。

「なんだかな……」

 もう胸のムカムカはなりを潜め、今は何ともない。

 それにしても今日はなんとついていない日なのだろう。朝は悪夢を見るし、昼は意味不明な吐き気に襲われた。「安静にしなさい」と保険医に言われた手前、大人しくベッドに入って天井を見ていたが、確か最近も、こうやってベッドに寝転がって天井を見上げていた気がする。

 それがいつ、なぜだったのか自問自答をしたが、直ぐに興味を失ってやめた。

 そんな折、インターホンが鳴った。「こんな時間に誰だろう?」と不思議に思いながらもベッドから身を起こして玄関へと急ぎ、扉を開ける。

「あ、動いて大丈夫だった!?」

 てっきり彼の母親が出てくると思っていた幼馴染は、母親の不在を知らずにインターホンを押したそうだった。実は幼馴染は家の合鍵を持っているため、いつでも入る事が出来る。だからしばらく、幼馴染は彼をベッドから動かさせた事を謝り続けた。

 自室に招いて、泣きそうな顔で謝る幼馴染の頭を撫でて落ち着かせる。するとやはり、幼馴染は彼へと身を寄せて目を閉じてなすがままになった。彼は、完全無防備となった幼馴染の左手に包帯が巻かれている事に気が付いた。

「左手、どうしたんだ?」

「あぁ、これ? ちょっと料理でね」

「へぇ。料理が得意なのに、そんなこともあるんだな」

「あ、そうだ。今日は食べて欲しいものがあったから持ってきたの!」

 彼の手を離れ、持って来たバッグをごそごそと探す。机に出されたのは小さなタッパケースだった。中身は見えないが、晩飯が無い彼にとって幼馴染の差し入れは嬉しい事だった。

 それを机の上において、しかし直ぐに開ける事は無かった。

 幼馴染は言う。

「昔さ。約束したよね、私たち」

「約束?」

 彼は聞き返した。

「そう。子供の頃、ゆびきりしたでしょ」

 幼馴染のその顔は、何かの決意に満ちた表情でもあった。彼も同様に応じた。

「そうだね」

「約束、覚えてる?」

 一歩一歩試すように、少しずつ少しずつ確認するように、幼馴染は言葉を区切った。

「あぁ」

 彼は言う。

「勿論だとも」

 それは。

 先程の幼馴染の問いの、その真意への回答でもあった。幼馴染はそれを聞いて、笑った。涙をこぼしながら。嬉しそうに、幸せそうに。

 幸せな空気に包まれた中、幼馴染はタッパを開けて持参していた箸でたった一つ、中に入っていた何かの天ぷらを摘まんだ。

「これが、私が貴方に捧げる愛です」

 はにかみながら、照れながら、恥ずかしくて目を逸らしつつ、それでも「あーん」と言いながら彼の口元へと差し出してくる。彼はこの行為にどんな意味があるのか分からない。しかし、そんなことは彼に関係が無かった。女の行為は男に理解出来ない事が多く、しかし女からすればその行為は必要なのだろう。

 故に抵抗などしない。やはり照れながら、差し出された天ぷらを頬張った。

 ガリィ、ボリィ、と骨の断つ音がした。モゴモゴと口の中で転がるそれは、塩コショウで味付けされて、噛み応えもあり美味しい。彼はこの心和む温かい瞬間が、幼い頃からの夢がデジャヴになった気がした。

 だから、その感想を無駄に飾らず、不要な形容もせず、あるがままに伝えた。

 それを聞いた幼馴染は嬉しそうに笑った。

「マズイと言われたらどうしようかと思った――」

 幼馴染の顔は本当に幸せそうで、しかし何故か、彼はこの先を聞いてはならない気がした。今までの何がが壊れるような、積み上げた物が崩れ去るような、そんな感覚。しかし、何をするよりも幼馴染の口の方が速かった。

 その顔は、嬉しそうで、幸せそうで、何より愛おしそうに。



「私の……小指」



 彼の眼球だけが、ギョロリと動く。包帯を巻かれた幼馴染の左手へと。

「――――――ッッッッッ!!?」

 そこには、あるべきはずの小指が第一関節から先が存在しなかった。彼は声にならない悲鳴を上げて幼馴染を突き飛ばし、自室を飛び出した。きっと彼は、一階の洗面台へ向かうのだろう。

 一方、突き飛ばされた幼馴染は今までの幸せそうな顔が一変する。力無く、魂の抜けた人形のように、しかし顔に悲しみの表情だけを残して。

「嗚呼、どうすれば私の『愛』を受け取って貰えるの?」

 切なく、苦痛にも満ちたその呟きは、一階から聞こえる絶叫にかき消される。

「でも、でも……!」

 それでも幼馴染は諦めない。

「今日は全部、食べてくれた! 昨日までは口に入れた時に違和感を感じてたのに。今日は美味しいって、笑って言ってくれて――!!」

 もう少し、と。あとちょっとだけ、と。

 幼馴染は自分に言い聞かせる。全ては自分の夢を叶えるため。全ては彼と結ばれるため。

 止まない絶叫すらも、幼馴染には愛おしい彼の声だ。後を追って一階の洗面台へ向かう。狂う彼の背にぴたりそっと寄り添い、「愛してる」と囁いた。彼の奇声は咆哮となり、幼馴染を引き剥がそうと暴れ狂う。

 別に、殴られても良かった。蹴られても良かった。彼が愛してくれるのならば。



 彼の自室。

 主のいない部屋でカチ、カチ、と時計が進む。

 時計の針が十二時を指す時、今日が終わる。そして、また今日が始まるのだ。この物語がハッピーエンドを迎えるまで。

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