あの日の事故②
「失礼します」
友の挨拶と共に、俺たちは二階にある職員室の扉を開けて、中に入った。
「先生、最上君を連れてきました」
友は若い女教師に呼びかけた。
女教師は白髪の混じった初老の男と、深刻な表情でなにやら話しているところだった。
友に呼ばれて、2人でこちらを振り返った。
この男…見覚えがある。
確かこの学校の校長だ。
全校集会などはいつも抜け出していた俺でも、校長の顔は微かに記憶に残っていた。
「ああ、ありがとう。竹馬さんは戻っていいわ」
友が頭を下げて退室した。
それを見届けると、女教師が訊ねてきた。
「…あなたが最上凛太郎君ね?」
「ええ、そうですとも!新任の先生でしょうか?
教師にしておくのはもったいほどお美しいですね。失礼ですが彼氏はいらっしゃる…」
「最上君!」
女教師が真剣な顔で叫んだ。
「ごめんね、ふざけるのはあと。
急いで言わなくてはいけない用件があるの」
「ああ、そうですか。すみません」
真面目な口調で言われたことに面食らった。
そんな大事な用件があるのか。告白かな?
女教師が続けた。
「最上君。ちゃんと聞いてちょうだい」
彼女は口を開くのをためらっていたようだった。
何を言われるのだろうかと考えた。
だが、少なくとも叱られるようなことをした覚えは、今のところない。
放送で呼ばなかったことも関係あるのだろうか。
そう考えていると、やがて決心したように女教師がこちらに向き直り、俺の目を真っ直ぐ見て言った。
「さっきあなたのご自宅から電話があって、あなたのお兄さんが、飛行機の墜落事故に遭われたそうよ」
突然告げられた内容に、俺は言葉を失い、頭の中が真っ白になった。
え、何だ?事故?
最近忙しくて会っていなかった兄さんが、飛行機墜落事故…?
突然そんなことを言われても、理解ができなかった。全く実感が沸かない。
しかし現実を把握しきれない頭に、不安も同時に溢れ出ていた。
兄さんは、死んだのか…?
いや、まさか。あの兄さんが…?
静かにパニックを起こしていた俺に、女教師は続けて言った。
「今朝のことね。
外国に向かうはずの飛行機が、東京の空港を離陸した十分後くらいに、突然故障したらしくて…」
「それで!それで兄さんは…どうなったのですか」
喉が渇いていた。
ようやく絞り出た言葉が、いつもの自分の声とは思えないほど弱々しく発せられた。
「意識がないようだけど、幸い一命は取り留めたらしいわ。これから…」
彼女が言い終わるより前に、俺は廊下に向かって走り出していた。
良かった。最悪の事態は免れていた。
生存者がいるということは、想像したよりひどい事故ではなかったのだろうか。
とにかく一刻も早く兄さんに会いたくて、俺は考えもなく走り出していた。
「お家の方が学校まで迎えに来るから、正門の前で待っていなさい!」
後ろから聞こえてきた女教師の言葉で、一気に階段を駆け降りると、靴も履き替えずに正門まで走った。
門の前で待つこと十分。
今朝乗って来た黒塗りのリムジンが再び到着した。
運転席の老人が降りようとするのを止め、自分で後部座席のドアを開けて飛び乗った。
「携帯電話に何度もご連絡しましたのに」
運転席の老人に言われて、俺は今更ケータイの存在を思い出した。
「悪い。マナーモードにしてた…」
それ以上会話をする余裕もなく、俺はただひたすら黙っていた。
すぐに走り出す車の中で、俺は嫌な考えを巡らせては、何度も吐きそうになった。
高速を通って、一時間ほど経ったであろうか。
リムジンは空港最寄りの大病院に到着した。
車を飛び降りて走った。
受付で名前を伝えると、すぐに兄さんがいる病室まで案内された。
病室の扉を開けると、そこは広い一人部屋だった。
重症患者しか運ばれることのないであろう部屋だ。
広い空間にぽつんと、ベッドの上で全身包帯に巻かれ、点滴を打たれた兄さんが眠っていた。
「兄さん!兄さん!」
俺は兄さんを何度も呼びながら、傍へ駆け寄った。
「静かに。お兄さんの体に良くありませんよ」
注意されて初めて、点滴の交換をしている看護師がいたことに気づいた。
「兄さんの容態は?どうなんだ!」
看護師は少し考えた後、「とりあえず命に別状はありません」とだけ言った。
しかし、事故とは関係なく、身体が相当衰弱している、とも告げられた。
包帯を巻かれた兄さんの顔は、確かにげっそりとやつれて見えた。
兄さんは若いからと、仕事の予定を無理に詰め込みすぎていた。
ろくに休む暇もなく働き詰めであることは、以前家に帰ってきた時にこぼしていた。
だから、やはり身体には相当疲れが溜まっていたのだろう。
回復に悪い影響を与えないかが心配だった。
看護師から特別に許可され、俺は兄さんの隣で椅子に座った。
彼の、ほとんど包帯しか見えない顔をずっと見ていた。
どのくらいの時間が経っただろうか。
気がつけば、兄さんの顔色が徐々に回復していき、脈拍も安定していった。
「とりあえず安心していい状態になりましたよ」
看護師のその言葉で、俺は一気に緊張が解けた。
作業する看護師の横で、つい座ったままうたた寝をした。
昔のことが、うつろな夢に出てきた。
小さい頃の夏。
中学生だった兄さんが突然、「冒険に行こう」といって俺を連れ出し、電車で行ったあの田舎のことだ。
初めて行った場所だった。
海が目の前にあって、栄えてはいないが、小さな山や自然が近くにたくさんあった。
幼い俺の冒険には飽き足らない町だった。
そして兄さんが見つけた、使われていない古ぼけた屋敷に、二人でこっそり侵入したんだ。
その時兄さんが言った、「いつか俺はここにでっかい会社を作る」という台詞。
その野望を、何故か俺の頭の隅で忘れられずに残っている。
そんなことを思い出していたら、兄さんから小さく呻き声が聞こえた。
俺は、ハッとして飛び上がった。
いつの間にか看護師は部屋にいなかった。
俺はすぐにナースコールを押した。
駆けつけた看護師は、兄さんの一目見て急いで医師を呼びに行った。
医師が来る前に、兄さんは苦しそうに咳をした。
そして徐々に目を開いた。
「兄さん、大丈夫かい」
光が眩しかったのか、目をちゃんと開くことができないようだった。
再び目を強く閉ざしてしまった。
「…ここは、何処だ」
俺の兄、行人はようやく薄目を開けて、あたりを見回しゆっくりと呟いた。
「病院だよ、兄さん」
俺は嬉しくなって言った。
「病院…。何故」
まだ現状を把握していないようだったが、ひとまず意識が回復したことに、俺はつい顔が綻んだ。
兄さんがまだ焦点の定まらない目で、俺の顔を見た。
「兄さん、よかった。事故に遭ったんだよ。
でも良かった。回復してくれそうで」
「…誰だ?」
突然、予想外の言葉を突き付けられた。
俺はその言葉を理解できずに、その場で固まってしまった。
医者を連れて入ってきた看護婦に、部屋の外に行くように言われ、俺は為すがままに廊下の腰掛けに座らされた。
後に医者から、兄は事故で頭を強く打ったことによる記憶の混乱か、又は軽い記憶喪失であろうと聞いた。
だがこの時はただ、静かに衝撃を受けるのみだった。
兄に言われた言葉のショックで、俺は呆然として廊下の椅子に座っていた。
何も考えられずに、ただ茫然自失し、時間だけが経っていった。
どれほどが経ったのかわからない。
もしかしたらそんなに経っていなかったかもしれない。
そんな時だった。
突然、凍ったように空気の変わる感覚を覚えた。
そして、張り詰めた廊下に響き渡る、ゆっくりとした靴音が小さく聞こえてきたのだ。
音の聞こえてくる方向を見ると、遠くから五十歳ぐらいのスーツ姿の男が三人歩いてくるのが見えた。
その中でも、先頭で一際貫禄と威厳を放つ男は、もう生まれた時から知っている男だった。
俺と兄さんの実の父親、最上長太郎である。
白髪が少し混じったオールバックに、高級そうな縦縞入りの黒いスーツ。
背が高いのにそんな服装をして、さらには常に険しい表情をしているから、いつも威圧感を振りまき、周りに恐れを持たせている。
空気が変わったのを感じたのは、彼が近づいてくるからだった。
残りの二人は父の秘書や部下であろう。
颯爽たる風格を持って歩く父の後ろを、そそくさとついてきていた。
「父さん…」
俺が立ち上がったが、父さんは俺に目もくれず、兄さんの病室に入っていった。
「行人、大丈夫か」
病室に入るなり低い落ち着いた声で、父さんが言った。
「父さん…」
俺は室内まで追いかけ、もう一度力なく呼びかけたが、耳に入ってすらいないようだった。
「父さん…?」
医師に診察されていた兄さんが、なんとか首を動かし、父さんの方を見た。
その様子を見て安心したのか、父さんは一度大きな息を吐くと、兄さんの隣まで歩いた。
「命が無事ならいい。具合はどうだ。
仕事は少しの間部下に任せるがいい。
早く復帰するためには、完治するまで治療に専念することだ」
父さんがベッドの隣の椅子に腰掛けて、語りかけ始めた。
父さん…。
俺は居場所がなくなった気がして、病室を出た。
静かに扉を閉め、暫くの間呆けたようにその場に立ち尽くしていた。
足に力が入らず、扉の横の腰掛けに再び座った。
兄さんが無事だったことは不幸中の幸いであった。
しかし、久々に父と兄と三人で居合わせたことで、俺は長いこと忘れていた感情を同時に二つも蘇らせてしまった。
それは、父さんの俺に対する冷たい感情。
そして俺の中にある、兄さんへの強い劣等感だ。
深いため息をつきうなだれる。
父さんはいつでも、俺より兄さんを愛した。
兄さんは幼い頃からなんでも完璧にこなしてしまう、所謂「天才」だった。
父さんは、そんな兄さんに期待し、幼い頃から英才教育を徹底した。
その結果、兄さんは高校まで常に成績トップを貫き、大学も国立の超一流を出た。
そして大学に行きながらも、父さんの下で社会勉強をした後、自分の開発した機械製品を売り出すため自分で会社を設立した。
起業して僅か二年ですでに社員二十人を抱える会社へと成長している。
父さんが兄さんを大事に思うのも無理はない。
こんなにも完璧な兄さんに、誰が不満など持つだろうか。
父さんは心から兄さんを愛している。
しかし。俺に対しては違う。
無理はなかった。
兄さんと比べると、俺は落ち着きがなく、理解力に乏しい。
たいしたことも学び取れず、俺はついに、父さんの望むような人間には成れなかった。
そんな俺を、いつしか父さんは諦めたような疲れた目で見るようになった。
「もうわかった。おまえはその程度か。もういい」
父さんの目がそう言っているような気がして、中学の反抗期に突入した頃などは、怒り狂って殴りかかりもした。
そのせいで、今では父さんとはろくに会話も出来ない。
父さんが昇進し、代表取締役社長に就任してからは仕事が格段に忙しくなった。
会う機会すら減っていったのを、俺はむしろ好都合だとさえ考えていた。
いつものことだ、と頭では理解していても、どうやら子供というものは、どうしても自分のことを親に認めてもらいたいものらしい。
いつかあの父さんに、認めてもらおうと考えている。
でもそんなことを考えても辛いだけで、兄さんと比べられる悔しさは少しも薄れてはくれなかった。