3.あの日の事故
俺が非日常の中にいるという事実。
あの頃はまだ、それを自覚していなかった。
あれは約2週間前、俺が高校2年生になった日。
嫌な予感なんてしなかった。
だけどこの日、俺の人生は確実に変わった。
それはあの日に景色と出会ったということもそうだが、それだけではない。
なんだか確実に、破滅が音もなく動き始めたのだ。
2週間前の、私立野上学園。
幼稚園から大学までが入っていてる広大な敷地の中。
木々の間から降り注ぐ黄金色の光を浴びながら、俺は真っ直ぐ延びた桜並木を歩いていた。
ドラマのように咲き乱れた、一面の桜景色などはない。
実際にはそんな都合良く、新学期初日に満開の桜など咲いてくれるわけなかった。
それでもこれが、今日感じることのできる唯一の自然だと思うと、少し名残惜しいとも思えた。
地面には、生徒たちに踏まれた桜の花びらが散らばっている。
そして、そんなことには気づきもしない生徒たちの流れに従って、俺は正面に見える高等学校の校舎を目指した。
この日の私立野上学園高校は、前日に新入生の入学式を終えたばかりである。
校舎内では、まだ体に馴染まぬ真新しい制服を着た生徒たちの、ぎこちない会話が聞こえた。
その中を通って、俺は2年生の教室へと歩いた。
慣れた足取りで、行ったことのない教室に向かうのは些かの違和感があった。
教室の壁に、教師や生徒が貼ったプリントやポスターがあるわけでもなく、誰かが置きっ放した教科書や部活用具が散乱しているわけでもない。
クラスメイト同士の間に、風が通り抜けるほどの距離がある教室。
それは俺にとって、これから一年かけて彩られる無地のキャンバスのような感覚であった。
なんか校舎の全てが殺風景に感じるな…。
そんなことを考えながら二階の廊下を歩いていた頃。
目の前の職員室の扉から、ふいにある見知った少女の姿が現れた。
先月の終業式の日と変わらない、肩まで伸ばした流行りの髪型に、控えめな胸。
可愛らしい容姿と真面目そうな表情が、いつにも増して眩しく見えた。
彼女は、低い背に似合わない大きなダンボール箱を必死で抱えていた。
俺は彼女の元に近づいた。
そしていつものように、丁寧に優しく、紳士的に声をかけることにした。
「おはよう、マイハニー!
今日も君は、野に咲く一輪の花のように可憐で、春風のように暖かい笑顔だ!」
大きな声で彼女の後ろ姿へ声をかけた。
しかし彼女は俺の声を聞いても、何故かこちらを振り向きもせず、ただ溜息を一つついただけだった。
なので、俺は続けた。
「…その荷物はなんだ?人生ってのはとても長い。重い荷物は今すぐ捨てるべきだ!
『天は人に荷物を与えず』というだろう」
すると彼女はようやく、こちらを見ないままだが挨拶を返してきた。
「おはよう、最上くん。ニモツじゃなくてニブツよ」
「友、何を持っているんだ?」
俺は彼女の言葉には答えず、ダンボール箱を指差して言った。
彼女、竹馬友は何故かまた溜息をついた。
「中身は教科書よ。教室まで持っていかなきゃいけないの。
だから邪魔しないでね」
友が言い終わらないうちに、俺は奪い取るようにしてダンボール箱を抱えた。
「俺は例えどんなことがあろうとも!
運命の女に辛い顔はさせないと心に誓っている!
俺の女には笑顔が一番似合っているぞ。
これから先も困ったことがあれば、何でもこの最上凛太郎に任せてくれ!」
俺は重い荷物で額に汗を滲ませながらも、笑顔で言い放った。
しかし、俺自身の格好良い台詞に酔いしれていた俺の後ろで、友は何故なのかまたしても溜息をついた。
「はいはい。最上くんは『運命の女』がたくさんいていいわね」
彼女は重いものを運んで疲れたのか、頭を抑えていた。
「安心しろ。運命の女はお前一人だけだ。
ただお前に辿り着くまでに、たくさん寄り道をしてきたってだけさ」
意気揚々と歩いていく俺の後ろ姿を見ながら、彼女は立ち止まり、さらに大きなため息を吐いたことを俺は知らなかった。
これが俺の性格であり、生き様であり、才能ある完璧超人の、その信頼関係である。
女は皆、俺の言葉に酔いしれ、俺の笑顔に眩み、俺の背中についてくる。
それが何の変哲もない日常なのである。
ダンボール箱をある教室に届け、友と別れた俺は、新しい自分の教室に来ていた。
案の定そこは居心地の良い空間とは言えなかった。
殺伐とした空気の流れた見知らぬ部屋であり、時間の流れをやたらと遅く感じさせる異世界だった。
「えー、君たちも今日から二年生になり、後輩もできたわけですが。
えー、中だるみの年とならないように…」
また教師の偉そうな話を聞く毎日か…。
今日から担任となった教師のつまらない話が始まり、それを聞き流して俺はこっそりと窓の外を見た。
都会のど真ん中でも、空だけは綺麗だった。
幼い頃、兄さんと二人で電車を乗り換えて行った田舎の空には勝てない。
それでもまだ、校庭の真上の空はビル街よりも広く、壮大に映った。
この空は遠い国の全てにつながっているのだと思うと、空を飛んでどこまでも冒険したくなった。
小さい頃からは俺は、冒険が大好きだった。
「…外を見るのも結構だが、俺の話を聞いているのか?え?出席番号二十七番、最上!」
突然俺の名前が叫ばれた。
俺を壮大な大自然から窮屈な学校へと連れ戻したのは、さっきから雑音程度にしか聞いていなかった声である。
気づくと、目の前で教師が睨んでいた。
五十くらいの男だが、体育の教師なのだろうか。白いポロシャツと対照的な浅黒い身体に、二十代のような筋骨隆々の太い腕を組んでいる。
「あー、ごめんなさい。気をつけます」
すぐに謝って前を向いた。
「ったく、そんなに外が見たいならグラウンド走らせるぞ」
ブツブツと小言を言いながら、担任が教壇へと戻っていく。
まったく教師というのは、面白い話の一つもできないくせに、態度だけは大きい人種だ。
そう心の中で呟き、こっそり教師を睨みつけた。
仕方がない。この教師の話を聞いている素振りを見せておくか…。
ん?
そこで初めて、俺は自分の一つ前の席が空席であることに気がついた。
なるほど、だからあの教師は、俺が窓の外を眺めていたのが見えたのか。
くそ、こいつが初日から欠席したせいで、俺は初日から怒られてしまった。
どんなやつか知らないが明日来たらまず最初に文句を言ってやる。
やがて退屈な朝のホームルームが終わり、一時間目の授業までの時間ができた。
ようやく可愛い子たちと話せる時間が出来たわけだ。
今日から同じクラスになった女の子たちを見回した。
なるほど、このクラスもけっこう可愛い子たちがいるじゃないか。
これから一年間楽しそうでなによりだ。
とりあえず、目についた美女たちに片っ端から声を掛けることにした。
「おはよう!君は俺の運命の女かな。
俺は最上凛太郎。君の名前はなんて言うんだい?」
「あ、ねえ君。すごく可愛らしいね!俺の運命の相手は君かな」
「とても美しい女性だ。こんな人と一年間同じ教室だなんて幸せだな。運命を感じるよ」
「どうも、貴女の運命の相手、最上凛太郎です」
「最上くん?」
そんなことをしていたら、隣にいた背の高い男子生徒に、突然名前を呼ばれた。
知らないやつだったが、目にかかるうざったい前髪を揺らすそいつは、馴れ馴れしく俺の傍に近寄ってきた。
「さっきは窓の外で何を見ていたんだい?」
そして、馴れ馴れしい言い方で尋ねてきた。
「なんでそんなことを聞く」
俺は訝しんで質問をし返した。
男と会話をする気などないんだ。早くどっかいけ。
貴重な休み時間をこの男に割かなければならないことで、少し気が立った。
しかしこいつは、そんな俺の気分など気づいてもいないようだった。
「さっき、いきなり先生に怒られてたでしょ。
そんなに面白いものが窓の外にあったの?」
馴れ馴れしい男はまたしても質問をしてきた。
「そうだ、外は面白いもので溢れている」
ぶっきらぼうに答えて離れようとした時、彼が俺の目の前に手を差し出してきた。
「ならその面白いものを俺にも見せてよ。
キミが凛太郎でしょ?キザで女好きの最上凛太郎。
そして将来は世界的科学者と噂されるほどの科学の天才。
家は大金持ちで、通学はリムジンの送迎。
外を見るのが好きで、天然パーマ。
首からは校則違反の蒼いペンダントをいつもぶら下げている。
色々な面で有名だよね、キミ」
ウザったい前髪をした野郎は、ニコニコしながら勝手に話を続けてきた。
「俺、桐林健二っていうんだ。
趣味はお洒落なファッションをすることかな。
読者モデルをやっていて、将来の夢は俳優。仲良くしようよ!」
「天然パーマではなく、美容院でかけたパーマだ」
それだけ言うと握手は応じず、俺は歩き出した。
「ちょっと待てって。変わった人だなあ」
馴れ馴れしい笑顔を浮かべたまま、桐林健二という男はついてきた。
いきなり俺の素性と自己紹介を長ったらしくし始めたと思ったら、もう友達ヅラしてくっついてきやがる。
「お前に言われたくない。俺の詮索をするな。
俺は女の子と話したいんだ」
「まあ待ってよ。キミに用事があるんだ。
聞いてってば。廊下で友がキミを呼んでるんだよ」
俺は足をぴたりと止めた。
「なに?なぜそれを早く言わない」
廊下を見てみると、そこでは隣のクラスになってしまった友が、確かに俺の方を見て待っていた。
「やあ、誰かと思えば運命の女じゃないかあ!」
俺は困った顔をしながら言った。
すぐさま廊下に出て友に駆け寄り、彼女の手を取った。
「待たせたな。どうした、俺に会いたくなったのかい」
友は握られた手を何故か嫌そうに離しながら、口を開いた。
「先生が呼んでいるわ。急いで職員室に来なさいって」
友は心配した表情で言った。
「何故だ?だったら友を使わずに校内放送で呼び出せばいいのに」
わざわざ友を寄越すなんて、教師まで俺達の恋を応援しているのか。
「何か理由があるみたいよ。
校内の人に呼び出しが聞こえないほうがいい理由が。
だから、ちょうど用事があって職員室に行っていた私に頼んだみたい」
なんだそれ。呼び出さない方がいいワケなんてあるか?
疑問が顔に出たのか、友はさらに続けた。
「それにもし放送で呼ばれても、最上くんどうせ先生の言うことなんか聞かないじゃない。
いい?ちゃんと行かないと許さないからね」
「どうせ俺に会いたかったんだろう?わかるよ、俺も会いたかったところだ」
「ばか!先生の頼みでもなかったら、わざわざあなたに会いになんて来ないわよ!」
「思ったより強気なんだな。そういう女も好きだぞ」
友は何故か呆れた様子で歩き始めた。
「逃げないようについていくわ!さあ早く来なさい!」
友は俺の腕を掴んで引っ張って歩いた。
強引な友もなかなか素敵だった。
引っ張られながら廊下を歩いていた時、ある疑問が浮かんできた。
「…そういえば、さっきの桐林とかいう男、友の名前を知っていたようだが、友達か?」
「ええ、そうよ。この学園の中等部からのお友達よ」
友はまた俺を見ずに答えた。
「ふむ。あんなに軽そうな男と知り合いだとはよろしくないな。
付き合う友達は考えるべきだぞ」
「あなたの方が何倍も軽いわよ!」
今度は突然勢いよく振り返って俺を睨んできた。
「ようやく俺の目を見て会話してくれたな。照れる友も素敵だ」
「…本当に付き合う友達考えたいわ」
彼女が今日一番の大きな溜息をつくので、俺は今度、この子の友達選びを手伝ってやろうと決めた。