魅惑のカレーパン②
非日常への誘いは、気づかないうちに突然やってくる。
いや正確には、自分が今、非日常の真っ只中にいるということを自覚させられたと言えるだろう。
それはその日の放課後に、俺の眼前に現れることとなった。
「ねえ、凛太郎。最近誰かに後をつけられているって感じることない?」
退屈な一日の授業がようやく終わった直後。
知らない男子生徒に、突然話しかけられた。
目にかかるウザったい前髪を整髪料で固めた、チャラそうな背の高い男だった。
誰だコイツ?馴れ馴れしい男だな。
俺は訝しげな表情でそいつを見た。
それを察したのか、前の席の景色が振り向いてきた。
「凛太郎さん、桐林健二くんよ」
「知らないやつだ。何の用だ?」
「いい加減覚えてくれよ…。でもちょっと慣れてきた…」
前に話したことがあったらしい。桐林健二ががっくりと大げさに項垂れた。
「いいから早く用件を言え。トイレに行きたいんだ」
俺は欠伸と伸びをした。
「いや、だからね。最近誰かにさ、尾行されてたりした覚えはない?俺らちょっと困っててさ」
そこで初めて気が付いた。
桐林健二の後ろにもう一人、背は低いが太って体格の良い男もいた。
「臼田源太くんよ」
景色の言い方からして、こいつとも話したことがあるようだ。
「ねえ桐林くん。凛太郎さんに陰気臭い話を持ちかけないでくれないかしら。
どんな時も無駄に明るいのが、桐林くんの唯一の長所でしょう?」
景色が微笑みながら言い放った。
「む、無駄って…」
健二は死にそうな顔をしていた。
救いを求めるように、再び俺を見てきた。
「尾行された覚えか。ああ、あるぞ。景色だ」
俺は興味なくそう言って席を立った。
バンッと机を叩いて、景色も立ち上がった。
「私は凛太郎さんの側に居たいだけだわ!
なにしろ私は、凛太郎さんの妻になる女なのだから」
景色が心外だと嘆いてきたが、俺はそれを無視して廊下へ向かい歩き出した。
妻ってなんだよ。いつの間にそこまで話が膨らんでいるんだ。
ストーカーはマジで怖いな。
景色の言葉は無視して行こうとしたら、背中から低く野太い声がかかってきた。
「話くらい聞いたらどうなんだ。
ナンパ野郎にはその程度の脳味噌もないのか?」
太っている方、臼田源太が喧嘩腰で嫌味を飛ばしてきたのだ。
この男、見たところ太っているだけではなく、結構がっしりとした筋肉があった。
なるほど。俺とは対照的な脳筋か。モテなさそうだな。
「何か言ったか筋肉馬鹿。
お前の背が低すぎて、俺の耳まで声が届いていないぞ」
俺は振り向き、わざととぼけて、声の主を探すような素振りを見せた。
「話ぐらい聞けと言っているんだ色ボケ。
こっちは頼みごとがあって話しているんだ」
臼田源太が苛立ちながら突っかかってくる。
「お前らを尾行している奴など、全くもって興味がなーい。
ナンパ野郎は、そんなくだらん話を聞く脳味噌など持ち合わせていなぁーい!」
「なんだ、やっぱり聞こえてるんじゃねえか」
なんだコイツ。物凄くムカつく野郎だ。
睨み合う俺たちの間に桐林健二が割って入り、仲裁した。
「まあまあ、その辺にして。ねえ凛太郎、話だけでも聞いてよー」
チャラくて弱そうでヒョロヒョロな男が、必死で俺たちをなだめようとしている。
「…じゃあ凛太郎たちは、変な男たちに尾行されていると感じたことはないんだね?」
俺は源太から目を離すと、ため息をついて言った。
「ないな。女なら俺のファンだろうが、男につけられることはない。源太のファンじゃないのか?」
「ふざけやがってこの能無し野郎!」
飛びかかろうとする源太を、健二が全体重を使って何とか抑えている。
「待って待って!落ち着けってば!」
俺には、このヒョロヒョロの腕の骨が折れるまで、そう時間はかからないように見えた。
「凛太郎、実は俺らはここ最近なんだけどさ。
下校中に時々、黒い服を来た二人組につけられていることがあるんだ」
健二は源太を押さえながら苦しそうに言った。
「警察にでも言え」
「いや、それが何かしてくるってわけでもないから、警察も動いてくれないんだよ。
でも知らない人たちに遠巻きに見られているのは気分が悪いしさあ…」
健二の身体は、ほぼ源太の胴体の下敷きになっていた。
腕で必死にしがみ付き、源太が俺に襲いかかるのを辛うじて食い止めていた。
「あの人たちを一度捕まえて、尾行をやめろって言いたいんだ。協力してよ」
再び歩き始める俺の背に向かって言ってきた。
だが俺は足を止めなかった。
「そもそも俺は車で通学しているから、もし後ろに誰かが追いかけてきたとしても気付かん。
もういいだろ、俺は友一緒に帰るのだ」
「ちょっと凛太郎さん、トイレに行くんじゃなかったの?」
景色の冷たい声が背中に飛んできた。
「お前に行動を指図される覚えはない。俺のカバンは置いていっていいぞ。家で勉強するわけないしな」
俺は気にせず背中を見せたまま答えた。
「またあの女なの?
凛太郎さんの運命の女ならここにいるのに。
何故わざわざ他の女と下校するのかしら」
背後から聞こえてくる景色の冷たい声が、俺の背中にさらに深く突き刺さった。
「うるさい!俺の運命の女も俺が決める。ではさらばだ」
言いながら、俺は心を弾ませて友の待つ隣の教室へと向かった。
◆◆◆◆◆
凛太郎はスキップをしながら廊下を駆けていった。
それを悔しそうに眺めていた景色に、健二が言った。
「ねえ、あんな奴じゃなくて俺と付き合ってよー。
俺なら景色ちゃんを大切にするから!」
「黙りなさい。桐林くん風情が私と釣り合うわけがないわ。ゴミが移る」
「ふ、風情って…ゴミって…」
がっくりと項垂れる健二を無視して、景色はカバンを持って一人で帰ろうと歩き始めた。
「普段からこんな扱いを受けていて、よく古山に告白できるな。お前も頭おかしいぞ」
源太が呆れて言った。
「こんな奴らに相談など間違っていたんだ。
黒服の男たちは俺らだけで何とかするぞ」
苛立ちの収まらない源太が、健二に言った。
だが健二は落ち込んでいて、その言葉が耳に入っていないようだった。
「女に振られたぐらいでいちいち落ち込むな!シャキッとしろ」
健二の背中を叩いたが、彼は未だ項垂れたままであった。
「あ、そうね」
教室を出かかった景色が、突然何か閃いたように立ち止まり、健二の方を振り返った。
「ねえ桐林くん。凛太郎さんが今後、あの女じゃなくて私と一緒に帰るように仕向けてくれたら、付き合ってあげてもいいわよ」
「えっ、本当かい!オッケーわかった!任せてくれ!」
ほんの1秒前とは打って変わり、健二が元気になった。
「絶対嘘だ。そんな話に乗せられるな。 黒服のことはどうする」
そう言っても聞こうともしない健二に、源太は溜息をついた。
そして景色が帰った。
放課後の教室には、意気揚々と帰り支度をする健二と、すっかり機嫌を損ねた源太のみが残っていた。
しばらくして、二人が帰ろうとした時、何故か凛太郎が教室に戻ってきた。
「やあお前たち。黒い服の男たちにつけられているんだって?
この凛太郎に任せなさい。そんな奴ら俺が一瞬で倒してやろう」
先程までとは違い、凛太郎は上機嫌ではっはっはと笑った。
「気が変わったのか。助かるよ!」
健二が嬉しそうに言った。
健二が喜んでいる理由は、凛太郎が了承したことよりも、先ほど景色から言われた言葉の方が大きいだろうと、源太には見て取れた。
「やあ、なあに。友に頼まれたんだ。
お前たちが困っているようだから助けてやれってな。
もし相談に乗ってやったら、今度デートしてくれるんだと」
「なるほど!そういうことか。お互い頑張ろう」
夕暮れ時の静かな教室に、健二と凛太郎の上機嫌が笑い声が響く。
「俺の周りは、女に騙される馬鹿しかいないのか」
源太は溜息をつきながら呟いた。
◆◆◆◆◆
大学から帰宅して、相澤礼二という青年は自宅にいた。
玄関の呼び鈴が鳴る。
ドアホンに出ると、何度か見た顔が映っていた。
またあの男だ、と礼二は思った。
「今日も来たんですか、渡邊さん」
礼二は半ば辟易して玄関の戸を開けた。
三十歳くらいだろうが、父の生前の知り合いだと言う男である。
父が飛行機事故でなくなってから、この二週間。
ほぼ毎日のように相澤家を訪れるので、礼二も飽き飽きしていた。
礼二が抱いた印象では、この男はこれといった特徴がないのが特徴だ。
背が高いわけでもなく、低いわけでもない。
太っているわけでも、痩せているわけでもなかった。
髪型も社会人に流行りのありきたりの七三分けで、特にこだわっているわけでもなさそうな安物のスーツを着ている。
はっきり言ってつまらない人間だった。
父親とどんな関わりがあったのかは知らない。
だが少なくとも、あの豪快な父と仲良く酒を酌み交わすような間柄には思えなかった。
仏壇のある部屋へ通すと、彼は線香をあげた。
渡邊は度々、生前の父の話をしにやって来る。
「お父さんに貸していたものを返して欲しいんだけどなあ。何処にしまったんだろう」
また始まった…。
渡邉はウチに来るたびにこれを言われる。
父に貸していた物がどこにあるか知らないかと僕に聞いてくるのだ。
だけど僕は、父が借りたものを保管していた場所なんて知らない。
そもそも、この男はその貸したものが何なのかを言わないで誤魔化すから、僕は父の部屋で探すということもできなかった。
「ところでね」
座布団に正座し、湯飲みに入った茶を一口すすると、渡邊は礼二の目を見て話し出した。
「君ももう大学生になった。少し大人の話をしよう」
なんだかいつになく勿体ぶった話し方をするな、と礼二は思った。
だが大人の話というのが気になり、黙ったまま渡邊を見た。
ふうっ、と息をついて、渡邊は続けた。
「魔王という人物を、知っているかい」
礼二は首を傾げた。
「…魔王?なんですかそれは」
渡邊はそこでもう一度茶をすすった。
「そうか、やはり知らないか。
では、今日は時間がないから後日また詳しく話そう」
そう言うと彼は、正座して屈めていた上半身をいきなり起こした。
しかし、足を動かし立つ素振りを見せたと思ったら、再び身体を屈めて、ぐいっと礼二に顔を近づけた。
「ただひとつだけ、とても重要なことを今教える」
そして彼は、台所にいる礼二の母親には聞こえないよう、声を小さくして言った。
「KTB飛行機の墜落は事故じゃない。そいつの仕業なんだ」
突然の言葉に、礼二は驚いた。
何が言いたいんだこの人は…?
「どういうことです?」
小声だがつい身を乗り出して、礼二は聞いた。
「あとは後日話す内容さ。焦らなくていい」
…この男、今まで何度も貸した物についてしつこく聞いてきたくせに。
自分が教えるとなったら、急に勿体ぶり始めたな。
「今すぐ教えてください。
だって、飛行機を墜落させたということは、つまり…」
「そう、あの飛行機に乗っていた君のお父さん、相澤照彦さんを殺した張本人だと言っていいだろうね」
渡邊は間髪入れずに、礼二の思うことを言った。
そして茶をすすりながら、上目遣いでジロリと礼二の顔を見た。
礼二は戸惑った。少し冷静になろうと、一旦深呼吸をしてから尋ねた。
「誰です。教えてください。お願いします」
「知ってどうするんだい」
小声で訴える礼二に、渡邊は困ったような表情を浮かべた。
「仕返しします。復讐したいです」
渡邊は言葉に詰まり、一拍おいてから言った。
「復讐って、殺すってことかい?」
ゆっくりと言葉を発して尋ねる渡邊に対し、礼二は自分が言った言葉の真意がわからないでいた。
「わかりません」
ただそう呟くしかなかった。
「殺すかもしれないということかい?
まさかそれが、犯罪だってことを知らないわけじゃあるまいね?」
彼はまたしても茶をすすり、上目遣いで礼二を見てくる。
「ええ、わかっています。殺人は犯罪です。
もちろんやってはいけないことです…。
…でも、僕の父を殺した人間を、野放しにするのは…耐えられません」
礼二は重々しく呟いた。
事故だと思っていた父の死が、誰かによって人為的に引き起こされたものなら、それは許せることではない。
父を殺した殺人犯がいるなら。
この行き場のない悲しみと絶望を、怒りという形に変え、その者にぶつけることができる。
礼二は無意識に、整理のつかない感情の逃げ場として、渡邊の話に縋ろうとしていた。
「そうか。君はお父さんを愛していたんだね」
茶をすすったあとの温かい息と共に、渡邊が呟いた。
「世界で一番、尊敬していました」
やや高揚する自分の気持ちを抑えられないまま、礼二は亡き父のことを思い出し悲しんだ。
と同時に、礼二は自分が見たこともない魔王のことを、既に恨んでいることにも気づいた。
そんな礼二の表情を見て、渡邊は意を決したように頷いた。
「わかった。ならば教えよう。
魔王という者について、私が知っている全てを」
飲み終えた湯呑を、からんと置いて、渡邊は礼二に語り始めた。