2.魅惑のカレーパン
キーンコーンカーンコーン。
待ちくたびれた音が聞こえた瞬間、俺は自然と目が覚めた。
顔を上げると、そこはいつもの教室。
教壇には古典の老教師が、猫背で曲がった背中を更に曲げて、教卓の上の教科書などを片付けていた。
席から立ち上がるクラスメイトたちを見回して、今のチャイムが4時間目の終業を示したことを理解した。
やれやれ、これでようやく午前の授業が終わったのか。
思いっきり伸びをして、欠伸をした。
これから皆、それぞれ仲の良いやつらで集まって席を囲い、昨日見た番組の話をしながら持ち寄った弁当を食べるのだ。
俺も、家で雇っている料理人が毎日弁当を作ってくれている。
毎朝俺が支度をしている間に、景色がそれを受け取っているのだ。
それを二週間も繰り返していると、料理人が気を利かせて、いつの間にか景色の分の弁当も用意するようになっていた。
…ちなみにその豪華な弁当の材料費は、景色の分も含めて我が家が支払っている。
まあ、寝ていても腹は減るもんだ。とにかく昼食にしよう。
俺は前の席に座る景色に呼び掛けた。
「おい景色、弁当をくれ」
いつもなら昼休みに入るとともに弁当をサッと俺に渡してきたのに。
今日に限ってはこちらから呼ばないと振り向きもしなかった。
「おい、景色」
更に呼び掛けると、景色はゆっくりと後ろを向いてきた。
「凛太郎さん」
整った顔立ちなのに無表情な、いつものように微動だにしない目で、俺を見つめてきた。
「なんだ?」
何故かじっと見つめてくるだけの景色は、何か言いたいことでもあるのだろうか。
キッと結んだ口の端を緩めては、またキツく結ぶのを繰り返していた。
思っていることを、言おうか言うまいか迷っているように見えた。
「一体なんなんだよ、勿体ぶりやがって。言いたいことがあるのなら早く言っ」
「お弁当を忘れたわ」
「速く言うなよ!」
5分後。
俺と景色は購買に向かうため、校舎の一階までの階段を下っていた。
「たまにはパンと牛乳を買って食べるというのも、気分が変わって楽しいわね」
ニコリと笑う景色が、清々しいまでに、自分が弁当を忘れたことに罪悪感を持っていない発言をした。
「そもそも、お前のいつもの弁当代も強制的にウチが払ってるんだ。もっとありがたがれ」
「ありがたがっているわ。
でもこれはこれで楽しいじゃない」
何を言っても、こいつに精神攻撃は通用しないのだろうか。
一階に降り立つと、大勢の生徒の騒ぎ声が聞こえた。見ると、購買の方へと向かう狭い廊下が大混雑していた。
全校生徒の2割くらいはいるのではないかと思うくらい、何故かごった返していた。
「おいおい、なんだこれは。
この学校には昼休みに有名アイドルでもやってくるのか?」
ため息をつき、その混雑の中を割り込んで購買に向かおうとした。
「凛太郎さん、この中を通るつもりなの?」
景色が、普段人混みを嫌っている俺を意外そうに見てきた。
「購買へ行くにはこの廊下しかないんだ。仕方がないだろう」
生徒たちをかき分けて進もうとしたが、誰も道を譲ってくれない。皆が「前へ前へ」と、俺たちの行きたい方向に押し寄せていた。
「ちくしょう!通せよ!俺は購買に行きたいだけだ!どいてくれ」
叫んでも、誰の耳にも入らないようだった。
それどころか、混雑が更に酷くなった。
俺はその群衆の誰かに弾かれて、景色の足元で尻餅をついた。
打った尻をさすりながら、景色の手に捕まって立ち上がる。
「なんなんだこのアイドルオタク共は!?」
俺は憤慨して叫んだ。
「凛太郎さん、それは色々と偏見が入っている気がするわ」
景色が混雑を眺めたまま、冷静に言った。
「もしかしたら、この人たちは皆購買に向かっているのかもしれないわね」
俺は驚いて景色と混雑を交互に見た。
「はっ!?たかが購買で、毎日こんなに混雑しているっていうのか!?200人近くはいるぞ?
まさか流石にそんなことはないだろう…」
俺たちは愕然として、その群れをただ見つめていた。
「あれっ?凛太郎と景色ちゃん」
そんな中、群れから出てきた一人の男に名を呼ばれた。
「凛太郎みたいな金持ちが、購買で飯を買うの?珍しいこともあるんだな」
俺を馴れ馴れしく下の名前で呼んでくるが、初めて見る男だった。
男は混雑でぺちゃんこになったパンやサンドイッチを、腕で5、6個抱えて歩いてきた。
「凛太郎さん、言っておくけど初対面じゃないわよ。
同じクラスの桐林健二くんよ」
俺のキョトンとした顔を見て、景色が何かを理解して言った。
「ん、聞いたことがある名前だな」
「ウソでしょ!?」
桐林健二というヤツが、「信じられない」という言葉を顔で表現していた。
「男の顔などいちいち覚えてはいない」
桐林がガックリと項垂れた。
「新学期初日に自己紹介したじゃないか!
友ちゃんの友達の桐林健二だよ」
友というのは同学年の女友達だ。その友達と聞いて、思い出した。
「あー、あの馴れ馴れしいチャラ男か。久しぶりだな」
「凛太郎、この2週間毎日教室で喋ってたの、本当に覚えてないのかい?」
同じクラスだったのか。
しかし男に落ち込まれても、面倒臭いだけである。
そういえば、毎日誰かに話しかけられていた記憶はあるが、この男のことなど特に眼中に入っていなかった。
「健二くん、そんなことよりもこの混雑はなんなのかしら」
景色が言った。
「そ、そんなことって…ヒドい」
景色にぞんざいに扱われ、桐林はまた肩を落として落ち込んだ。
こいつは中々に面倒臭い野郎だな。
「いいから質問に答えなさい」
景色の冷たい、ナイフのような言葉が飛んだ。
景色は俺以外の人間には大体こんな感じだ。
敵に回すと恐ろしい女なのだが、それにしても桐林には特別キツい物言いな気がする。
「ひぃいっ!ごめんなさい!」
桐林が景色に対して悲鳴をあげた。
きっと景色にとっては、桐林は良い下僕タイプの人間なのだろう。
「今日の購買は、月に一度の清水屋のカレーパンの日なんだ」
桐林が怯えながら言った。
「カレーパン?」
景色が気になったようだ。
「そうだよ、清水屋のカレーパンってすっごく美味しくて有名なんだ。
だから皆、月に一回はこんなにごった返すんだよ」
桐林が胸を張って鼻を膨らませた。
「その程度で情報通を気取らないでね、健二くん」
目が笑っていない景色の言葉のナイフが、容赦なく桐林の精神に突き刺さった。
「ほう。カレーをパンの中に入れるのか」
俺もそのカレーパンとやらに興味を持った。
しかし、景色と桐林がこちらを向いて、目を見開いていた。
「ん、なんだ?」
突然二人から見られたことに疑問を持った。
「凛太郎、もしかしてさ、カレーパンを知らないのかい?」
桐林はまた「信じられない」という顔をしてきた。
「そりゃあ購買に来たのは初めてだからな。
当然だろう」
「…」
桐林が黙った。
「美味いのか?カレーパンて」
桐林に質問をすると、ヤツがまた胸を張って答えた。
「そりゃあ美味いさ!
モッチモチでサックサクの揚げたパンの中に、パンチの効いた激ウマカレーが入ってるんだぜ?食べないと損だよ!」
うーん、食べたくなってきた。
そもそも腹も空いてて、そろそろ限界なのである。
「よし景色、カレーパンだ。俺らも買いに向かうぞ」
身体の柔軟体操をして、未だ群がる群衆に特攻する準備を整えた。
「この人数の中で、果たして売り切れまでに購買に到達できるかしら」
「んー、カレーパンは限定50食だからなあ。もう間に合わないと思うよ…」
桐林が、景色に恐る恐る言った。
「なんだと?じゃあなんであいつらはまだ群がっているんだ?」
俺は群衆を指差して言った。
「購買のおばちゃんは一人だからね。
たった50食しかなくても、売り切るまでには時間がかかるんだ」
「お前は買えていないのか?カレーパン」
桐林はいくつかパンを抱えているが、カレーパンの見た目がわからない俺には、そのうちどれがカレーパンなのかは特定できない。
「俺はあの戦いには参加したくないからね。
カレーパンを奪い合う人混みの横で、とっとと他のパンを買って逃げてきたんだ。
本当は俺もカレーパン食べたかったけどね」
「なるほど…前線はそれほどすごい戦況なのか」
何か手はないだろうか。
俺はもう、この空いた腹をそのカレーパンで満たしたくてたまらなくなった。
「凛太郎さん、私が道を作るわ」
そう言うと、景色が突然群衆に向かって歩き出した。
いつものように綺麗な姿勢でゆっくりと歩く。
「待て景色!身体を前屈みに構えろ。
その姿勢では横からの突撃に不利だ!」
細身の景色が真っ直ぐに立っていたのでは、あの群れの衝撃にとても耐えられないのは確実であった。
もっと前屈みになって腹に力を込め、衝撃に備えてすぐに踵で踏ん張れるように脚を開きながら、上半身を捻って片方の肘を前に突き出して特攻するべきなのだ。
しかし、景色はそのままの姿勢で颯爽と歩いて、群れの中に身を投じてしまった。
俺はおもわず目をつぶった。
とても見ては居られない。いくら恐ろしい景色と言えども、所詮は腕力のないただの女。
あの飢えた野獣の群れの中に入ってしまっては、次に俺の前に現れた時は見るも無惨な姿になっていることは確実だった。
1秒、2秒が経った。
まだ景色の悲鳴は聞こえてこない。
そのまま3秒が経過し、やがて5秒が経っても声は聞こえてこなかった。
俺は薄目を開けた。
恐る恐る前を見ると、景色の無惨な姿はなかった。
それどころか、景色の姿が一切見えなかった。
「景色!?景色はどこに消えた!?」
俺は辺りを見回した。
「凛太郎、景色ちゃんはあそこだ」
桐林が指をさしたのは、あの群れの中だった。
背伸びをして群れの中央を覗くと、そこには歩みを止めずに進む景色がいた。
群れた生徒たちは、景色の姿を見ると、ササッと彼女に道を作っていた。
「あ、あいつ…どうやって…」
耳を済ますと、景色の方にいる生徒たちの声が聞き取れた。
「ふっ、古山景色だ!古山景色が出たぞ!」
「古山だあああ!」
そして、景色に道を譲るために横にズレようとした男子生徒が、誰かの足につまずいて景色の目の前に倒れこんだ。
「あ…あ…」
男子生徒が恐怖に打ち震えながら、景色を見上げた。
俺の場所からだと後姿しか見えないが、景色はおそらく、あのゴミを見るような冷たい目で男子生徒を見下ろしているのだろう。
「あ…あああ…」
男子生徒は固まって動けなくなっていた。
そして景色がゆっくりと言った。
「どきなさい、虫ケラ」
その瞬間、全身の力が突然抜けたように、彼はその場で意識を失い、白目をむき泡を吹いて、気絶した。
「…」
再び無言で歩き出す景色に、その周りの生徒たちはまた勝手に道を譲り出していた。
「いったい何だこれは…」
思わず呟いた。
「…いや、だって景色ちゃん怖いから。
もう学校中で畏れられてるよ」
そんな理由で、ここまでのことが起きるのか…。
「あいつ、まだ転校してきて2週間だぞ…」
俺の疑問は、まるで春風に飛ばされる花びらのように。
あるいは、この学園に来訪した悪魔の前で気絶するかのように。
大いなる恐怖と絶望を前にして、自分の無力を思い知らされるのみであった。
ちなみに、景色はカレーパン以外のものを買って戻ってきた。
景色が購買に着く頃には、ちょうど売り切れてしまったらしい。
俺はこれを「カレーパン戦争」と名付け、近いうちでのリベンジを心に決めた。