科学男と霊能少女②
高校生活2年目にして初めて訪れた音楽室は、想像と違わぬごく普通の音楽室だった。
ただ最初に疑問に思ったのは、始業前の音楽室には教師だけでなく、生徒が俺と景色の他に5人もいたことだ。
ピアノのイスに腰掛けた女生徒や、その側で楽譜を手に持つ男子生徒。
俺たちの入ってきた扉の近くには、大きなラッパを持っている男女二人組がいた。
すぐに吹奏楽部の朝練だと察しはついた。
そして残りの1人の女生徒は、教室の真ん中で屈み、床に座り込む女教師の肩を支えていた。
教師はまるで膝から崩れ落ちたようにへたり込んでいた。
俺はその教師の顔を見た。
成る程景色の言った通り、美人な教師だった。
しかし何故か、顔面蒼白といった表情だ。
虚ろな目を見開いて、何処か一点を見つめて呆然としてるように見えた。
「先生、何かお困りですか?」
俺はすぐさま彼女に近づき、彼女の肩をそっと抱いた。
しかし彼女は、俺の言葉が耳に入っていないようで、呆然としたまま空を見つめていた。
「…何があったのかしら?」
落ち着いた口調で、景色がラッパを持った男女に尋ねた。
「いや、僕たちもわからないんだ。
先生が突然『ない!どこにも無い!』って叫び出したんだ」
男子生徒も状況を把握していないようで、困惑したように答えた。
「何かはわからないが、先生は物を無くしたことに気がついて取り乱したんだな」
俺は景色に近づいて言った。
「そうみたいね」
本来であれば、他人の事情などどうでもいいと思っている。
下手に関わって面倒ごとに巻き込まれるのが大嫌いだからだ。
しかし今回は話が別だ。
何故なら音楽の先生がかなり美人だからである。
俺はこの人の授業をとっていないので、仲良くなるにはこの機会を逃すわけにはいかなかった。
「そうだ、お前のオカルト能力で探してみろ」
俺は、嫌味を込めてそう言った。
もちろん、そんな能力などこの世に存在しないとわかってのことだ。
俺は景色のそういうオカルト言動に嫌気がさしていた。
そのうちこいつのスピリチュアルな妄想を打ち砕いてやりたいと、常々思っていたのだ。
「そうね。いいわよ」
困るだろうと思っていた俺の期待とは裏腹に、景色は静かにそう言った。
そしてぐるりと教室中を見回して、ゆっくりと目を閉じた。
「お、おい、待てよ。冗談だって。
まさか本当にやろうってんじゃないだろうな」
科学が作り上げたこの世界で、まさかそんな能力を本気で信じているのか、この女は。
流石にもう少しまともな頭をしているはずだ。
引くに引けなくなって、内心焦っているに違いない。
そう思っていた。
しかし景色は、滑稽にも目を瞑ったまま両手を前に出した。そして掌を開いて、力を込めた。
「おいおい…景色」
「凛太郎さん、静かに」
駄目だ。この女本気だ。
いつも言ってる「霊能力」とやらで、本気で霊と会話をするつもりなのだ。
他の5人の生徒が困惑しながら景色を見ている。
その隣にいるのが恥ずかしくなり、頭を抱えた。
「な、なにやってるの…?
本気で、無くした物の在りかがわかるって言ってんの?」
ピアノの側にいた、楽譜を持った男子生徒が言った。
キノコ頭で、太い黒縁のメガネをかけている生徒だ。
とても気弱そうな性格に見えるが、景色のあまりのおかしな言動に、つい口を開いてしまったのだろう。
ほら見ろ。変な目で見られてしまった。
俺は景色にあんなことを言ったのを後悔した。
突然教室に入ってきて「霊の力で探せ」と言うなんて、完全に俺まで変な奴だと思われている。
大体、あの美人教師が何を無くしたのかすら、まだわからないというのに。
景色が瞑っていた目をゆっくりと開けた。
そして、今喋った男子生徒の顔を見た。
「あなた、昨日の晩ご飯は何を食べたのかしら」
景色が、冷静な声で彼に言った。
「えっ?」
突然わけのわからない質問をされて、彼は動揺していた。無理もない。
「昨日の晩ご飯が何か聞いているのよ」
景色が繰り返し冷静な声で言った。
「なんだよいきなり、今全然関係ないだろ!」
男子生徒は動揺して言い返した。
「いいから答えなさい、ボンクラ」
冷たい言葉が、ナイフのように突き刺さった。
知らない奴にもお構い無しで、冷徹な言葉を浴びせる残酷人間。
それが景色だ。
言われた男子生徒が硬直した。
女からこんな罵声を浴びせられたのは、恐らく初めてのことだろう。
答えないでいる彼を見て、景色がわざと聞こえるように大きなため息をついた。
「…この音楽室にいる霊が、そっちの方向を指差しているのよ。
疑われたくなかったらすぐ答えなさい」
景色が伸ばしていた両手を動かし、掌を彼に向けた。
こいつ本当に頭おかしいな…。
「景色、アホなことはやめろ。こっちまで恥ずかしい」
俺は景色の両手を降ろそうと、彼女の二の腕に手をかけた。
「邪魔しないで凛太郎さん。
サイキックパワーが上手く使えなくなるわ」
「サ、サイキックパワー…だとぉ…?」
俺は恥ずかしさの限界だった。
しかしこれ以上、変なスイッチの入った景色と会話していると、こっちまで変な目で見られそうだ。
いやもう見られているか。
もう俺は黙っていることにした。
「さあ、あなた。昨日食べたものはなあに?」
景色が3度目の同じ質問をした。
「えっ、えっと…」
景色の放つ異様な雰囲気に圧倒され、男子生徒は目を逸らして思い出そうとしていた。
「肉じゃが…だった。母親が作った肉じゃが」
男子生徒が答えた。
「今夜は何を食べたいかしら?」
景色が表情を一切変えずに、別の質問をした。
「は、はあ…?」
「いいから答えなさい」
景色の冷たい声に、男子生徒が明らかに怯えていた。
「ら、ラーメン…かな…うん」
なんだこの質問は。
景色は一体何をしているんだ。
仮に霊が存在したとして、一体こいつは霊に何て言われたというのだ。
「ふぅ…」
景色が息を吐いた。
そして男子生徒に向かって歩き始めた。
「な、なんだよ…」
男子生徒が動揺していた。
彼の目の前まで行くと、景色は彼の目を見て言った。
「指輪の場所を知っているかしら?」
俺を含めた他の生徒は皆、事の成り行きを黙って見ていた。
何が起きているかを理解している人間が、今この中にどれだけいるだろうか。
少なくとも俺にはわからなかった。
何の脈絡もなく突然出てきた「指輪」という単語が、更に事態への理解を阻害していた。
「えっ?はっ?知らねえよ俺。何の話だよ…」
景色に目の前まで詰め寄られて、彼は目を泳がしながら困っていた。
「両手を出して」
景色が言った。
「えっ?」
「いいから」
景色の冷たい声に、男子生徒は否応なしに両手を前に出した。
景色が彼の両の手首を掴んだ。
「なに、なんなの?」
男子生徒はかなり緊張しているようだった。
突然女の子の両手に触れられたら、慣れていない男なら確かに緊張してしまうだろう。
それが例え景色であっても。一応美人だし。
「指輪の場所を教えて」
景色が彼の手首を掴んだまま、ゆっくりと後ろ向きに歩き出した。
まるで小さい子供を歩かせるように、彼を誘導していた。
「知らねえってば…」
彼が言っても、景色は無視していた。
「こっちかしら?」
景色が彼の右手首を軽く動かした。丸の字をなぞるように、ゆっくりぐるぐると回した。
そしてその腕の方向、景色から見て左側へ、後ろ向きのまま進んでいった。
室内に並んだ生徒用の椅子の間を進み、時折さっきのように手を回しては、またどちらかの方向へ向きを変えていった。
時間の進みが異様に遅い。
正直、恥ずかしさなどもうどうにでもなれと思った。
霊能力でも何でもいいから、早くこの空気を終わらせてくれ。
というか、これは本当に霊能力なのか?
「このリコーダーケースの中なの?」
景色が右手を彼の手首から離し、戸棚を指差した。
「…何のことだよ」
男子生徒はうんざりしていた。
景色の指差した戸棚には、確かにリコーダーの入っている布製の袋はあった。
しかしぱっと見ても40以上のリコーダーケースがある。
景色はまた彼の言葉を無視して、戸棚に並んだ大量のリコーダーケースの中から、たったひとつを取り出した。
そしてケースのチャックを開け、中に手を入れた。
すると。
景色は中から、小さなダイヤのついたシンプルな指輪をひとつ、指で取り出した。
ニコリとようやく笑う景色。
俺を含めた皆が唖然とした。
「あなたには正直な霊が取り憑いていたみたいね」
何が何だかを、誰一人理解する前に、全てが片付いたらしかった。
誰も状況を飲み込めないうちに、どうやら「男子生徒が隠した音楽教師の婚約指輪」の在り処を、景色が霊と交信して見つけてしまったようだ。
こういうところなのだ。
俺がこの女を苦手としている最大の理由。
ただの不思議ちゃんならいい。それならまだわかる。
「霊が見える」なんて特に珍しい設定ではない。
しかしこの女は、実際に俺の目の前でワケの分からないことをする。
そして、誰も状況がわかっていないうちに、物事を本当に解決してしまう。
この女と出会ったせいで、まるで自分が今まで信じてきた世界がひっくり返ったようだった。
俺はオカルトは信じない。認めない。
だがこの女は確実に、俺の目の前で、俺が知らない理屈で物事を対処している。
それが腹立たしくて仕方ないし、悔しいし、超ムカつくのだ。
科学と霊能。
こんな真逆のものを信仰している俺たちが一緒にいて、話が合うはずもなければ、分かり合えるはずなどない。
これからも、ずっとこんな日常が続くのかと思うと、俺はこいつから逃げ出す為の作戦を本気で考えたくなった。
ただ、残念なことに…。
これから俺が過ごす、「何の変哲もない非日常」は、この時まだ始まったばかりだったのだ。
今の俺には、数メートル前にいるだけの景色が、はるか遠くにいるようで、ただ呆然と眺めているだけだった。