全ての始まり
薄く目を開けると、視界は一面の灰色だった。
部屋中に立ち込める煙が、俺の視界と酸素を奪っていく。
全身を激痛が襲った。
薄く開いた目を、俺はまた強く閉じてしまった。
…ああ。もうダメだ。
後悔が止まない。
全てが無駄に終わったのだ。
悔しがる俺とは対照的に、何者かの笑う声が聞こえた。
「…フフッ」
うつ伏せの俺は、煙の中でなんとかして、ソイツの顔を見ようとした。
しかし身体は全く動かなかった。
そこで初めて俺は、自分が何か大きな物の下敷きになっていることを知った。
おそらく、この研究室で一番大きい実験装置が倒れているのだ。
うう…。
声にならない唸りをあげた。
そんな俺をあざ笑うように、ソイツはカツンカツンというゆっくりとした靴音で近づいて来た。
「フハハハハ!」
今度は嬉しそうに、高らかな笑い声を出した。
「無様な姿だな…。最上凛太郎」
ヤツの声が真上から聞こえた。
俺を見下ろしているのだろう。
ちくしょう…。
こんな言葉でさえ、この弱った身体からは発することができなかった。
ヤツの声には聞き覚えがある気もした。
しかし朦朧とする意識の中では、それが誰の声だったかを思い出すこともできない。
バチバチと、炎が全てを灰にする音が聞こえる。
息もかなり苦しくなってきた。
あの炎は、あとどれくらいでここまでやってくるのだろう。
あとどれくらいで、動けない俺の身体を焼き始めるのだろう。
煙に覆われた視界で、着実に近づいてくる死の音を感じた。
さらに俺の目はもう焦点が定まっていない。
たった1メートル先のヤツの顔さえ、見ることはできなかった。
悔しさと虚しさだけが、俺を支配した。
「…散々、手こずらせてくれたな」
ヤツの声がさらに近くで聞こえた。
わざわざ屈んで、俺の耳元で話してやがるらしい。
「はぁ…はぁ…!」
俺は叫ぼうと、精一杯の声を出した。
しかしそれは、到底言葉とは言えない、ただ荒いだけの呼吸だった。
「わかるよ…。言いたいことがたくさんあるのだろう」
ヤツが厭らしい口調で言った。
「しかし、あいにく私には時間がないのだ。
あの炎に囲まれないうちに、この部屋から出なくてはならないのでね」
鼻で笑う音が聞こえた。
「はぁ…はぁ…!」
声にならない声で、俺はヤツを罵倒した。
…つもりだった。
俺の目の前に、ヤツの手がゆっくりと伸びてきた。
初めて、俺はヤツの姿の一部を見ることができた。
細くて色白の手だが、声の低さと同じように、その手も男の手特有のゴツさがあった。
ヤツは俺の顔の前に手を伸ばした。
目の前に転がっている、5cmほどの小さな機械を手に取った。
「触るな!返せ!」
そう叫んだつもりだったが、結局声は出ていなかった。
ヤツの顔は煙で見えないが、なんとなくニヤッと笑ったような感覚があった。
「こんな小さな機械が"タイムマシン"か…。
天才であるお前の人生最高傑作だなぁ?」
ヤツが嫌味ったらしい口調で言う。
「そして同時に、その天才の"遺作"だ。
…凛太郎、お前は良いなあ。
ここから脱出する方法を、考える必要がないのだから」
俺は今からこの場所で死ぬということだ。
そんな皮肉ぐらいなら、今の俺でも理解はできる。
俺を嘲笑する声と共に、ヤツの立ち上がる音がした。
ヤツの靴音が、俺から離れていく。
せめて、せめてヤツの顔だけでも知りたい…。
飛びそうな意識と全身の痛みに抗いながら、俺は目を細めて声のする方を見た。
しかし、視界はやはり灰色の煙で埋め尽くされていた。
「ちくしょう…ちくしょう…!」
ようやく口から出た言葉は、敗者によく似合うセリフだった。
この声が聞こえたのか、靴音が一度止まった。
ヤツはおそらく、振り返らずに言った。
「…その言葉は、まさにお前の人生そのものだな」
一拍おいて、ヤツは続けた。
「あらゆる災いを招く、その傲慢な性格。
それが結局は、お前自身の身を滅ぼしたのだ」
「魔王…!ちくしょう…。お前を、お前を殺して…!」
俺のか細い声をかき消すように、ヤツがまた笑った。
「瓦礫に埋もれ、身体は衰弱。
目はほぼ見えていないし、呼吸も苦しいだろう。
そんなお前が私を殺せるのか?」
ヤツがまた、カツンカツンと靴音を鳴らして歩き出した。
ちくしょう…待て…。
「ここで死ね。凛太郎」
俺は…。
俺は結局、お前の顔すらわからずに…。
靴音は既に聞こえなくなっていた。
もう俺の声も届かない。
炎が近づいているのはわかる。
とても熱い。全身が痛い。
そして意識はもうなくなる…。
魔王…。お前は一体誰なんだ。
俺は…誰に殺されたんだ…?
薄れゆく意識の中。
これまでのことが、走馬灯のように頭を巡った。
顔を知らない"魔王"への、復讐の人生。
過去にすがるだけの惨めな人生だった。
いつかこの手で、ヤツの顔面をブン殴ってやりたかった。
しかしそんな願いも叶わずに、俺はここで野垂れ死ぬのだ…。
俺はついに、考える力もなくなった。
もう、ヤツへの恨みすら考えられない…。
しかし最後に、頭をよぎる思い出があった。
魔王のことなどではなかった。
八年前、高校二年生の時のことだ。
今にして思えば、一番幸せな時だった。
しかしあの時から、俺の人生の歯車は狂い始めていたのだ。
もう、俺は死ぬだろう。
せめて、せめてもう一度、会いたかった…。
下敷きになった身体で、左手だけがなんとか動かせた。
俺は無意識のうちに、首からぶら下げている蒼いペンダントを握りしめた。
そして、意識を失った。
人類史上最高の天才であるこの俺「最上凛太郎」が、 憎しみと絶望の中で、人類史上最も惨めに死んだ日だった。