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「っんぎぃゃぁぁぁああーーーーーー!!!!」
今朝、自らの凄まじい雄叫びにより、私は覚醒した。
乙女に有るまじき奇声であることは、重々承知しております。
しかし、こんな状況で冷静になれという方が、無理な話なのだ。
緑川君代、24歳、新米高校教師。
彼氏いない歴=年齢(べ、別にモテないわけじゃないんだからねっ!?)
キスもまだの純情乙女。
そんな私が今朝目覚めると、見知らぬ男のベッドに横たわっていたわけで。
半裸(全裸かしら?)の男は、剥き出しの胸板に私を抱き寄せている。
薄い布団の下で、私は生まれたての赤子のように、一糸纏わぬ姿のわけで。
自分の叫び声が今更ながら頭に響き、二日酔いであることを自覚し、私は強く目を瞑る。
落ち着けーっ、落ち着くんだ。
これは、恐ろしくリアルな夢なんだ。
確かに、私、欲求不満だったのかも。
うら若き乙女と言えども、女ですからね。ウフフッ。
もう私ってば、少女漫画やドラマの見過ぎね。テヘッ。
よっしゃ、現実世界に戻ろうか!
カッと見開いた私の瞳には、どアップの男の顔が映り込んでいた。
心配そうに覗き込む、均整の取れた麗しきお顔。
まあ、あなた、ジャニーズにスカウトされそうな顔面偏差値をしていらっしゃるわね。
「大丈夫?」
優しい声色で尋ねる男だが、
えーーっと…そうですね…
全くもって、
大丈夫では、
御座いませんわぁぁぁあああーーーーっ!!!
パンク寸前の頭でこれまでの経緯を思い出そうとするが、脳みその許容量を遥かに超えた事態に、私は意識を失っていった。
♪・♪・♪・♪・♪
「緑川先生は、災難ですなぁ。」
「はいっ?」
「いやはや、緑川先生のクラスには、学年一の問題児がいるでしょう。」
「ええっと…」
「初めて担任を持たれる緑川先生には、少々荷が重いでしょうが、何かあれば相談に乗らせて頂きますよ。
まあ、緑川先生は、音楽大学出身のお嬢様ですから、あいつを学校に来させるだけでも難しいでしょうがね。
ふぁっふぁっふぁっ。」
腹立たしい高笑いで去って行ったのは、でっぷりと太った蝦蟇蛙、いや蛙田先生である。
本校の古株教師である蛙田は温厚そうな顔とは裏腹に、かなり偏った思考の持ち主だ。
優秀な生徒を集めた特別講習を行う一方、出来の悪い生徒は情け容赦なく切り捨てる。
それだけでなく、極端な男尊女卑主義者であり、女性を軽視する言動が随所に現れる。
私は、はらわたが煮えくり返る思いで、蛙田の背中を睨みつけると同時に決心した。
――我がクラスの問題児、鬼市稜汰を必ず更生させることを。
手始めに、鬼市稜汰の個人名簿に目を通すが、私の頭にはクエスチョンマークが浮かぶばかりである。
「河北先生。
鬼市稜汰は、一体どんな生徒なんでしょうか?」
「うーーん…」
悩ましげな表情を浮かべる河北先生は、眼鏡と白衣がよく似合う理知的な男性だ。
私より二歳年上の草食系男子で、頼れる先輩教師だ。
「首席で入学したにも関わらず、低すぎる出席率に大量の赤点で、進級も危ぶまれていたみたいですけど。
内申書を見る限りでは、中学校では非常に真面目な生徒だったようですし。
この子って、間違った方向に高校デビューして、不良になっちゃったんですかね?」
「緑川先生の言うことは、半分当たっているかなぁ。鬼市君は、確かに優秀な生徒ですよ。
昨年、僕の授業に一度も出席することなく、科学の試験は満点でしたから。
赤点が多いのは、教科によって好き嫌いが激しいからじゃないでしょうか。
頭脳的には優れた生徒なんですが…問題は生活面にあるんですよねぇ。」
のんびりとした口調の河北先生は、話の切れ目で湯呑から緑茶を啜る。
「鬼市君は、昨年度だけでも10回以上補導されています。
女性との交遊関係も派手で、度々校内でも揉め事が起きました。
その結果、教師たちからは見放され、自堕落で暴力的な問題児の烙印を押されてしまったのです。
ですが、僕は緑川先生には、鬼市君に対する先入観を持たないで欲しいのです。」
河北先生の真剣な眼差しに、私は思わず姿勢を正す。
「鬼市君は、根は真面目で優しい生徒です。」
「あの、どうして、河北先生はそんな風に言い切れるんでしょうか?」
「それは、ズバリ勘です。
人間、眼を見れば大体が分かります。
あの子は、真っ直ぐな瞳をしていますから。」
全く根拠のないことを、自信満々に断言する河北先生に、私は暫し呆然としてしまう。
根っからの悪人は居ないのだと、信じて止まない河北先生。
甘過ぎる考え方だと、人は笑うかもしれない。
だけど、私は河北先生の純真さに憧れる。
私も、生徒を信じたい。
「分かりました。
私、鬼市君のことを理解するために、家庭訪問に向かいます。
近頃、全く学校に来ていないようですし、何か事情があるのかもしれませんよね。」
思い立ったら即行動、これが私のモットーだ。
「いや、あの、鬼市君は一人暮らしですので、あまり遅くに訪ねるのはどうかと…」
勢いよく駆け出した私の耳に、河北先生の声は届かなかった。
「えーーっと、確かこの角を右に曲がって…
ここ!?で、合ってるよね??」
地図を片手に、私は大きな独り言を漏らす。
到着した建物は、レトロというには古すぎる、耐震性の疑わしいボロアパートだった。
ぎぃい、ぎいぃい、ぎぃぃいい
一段ごとに軋む階段を上がり、301号室の前まで歩みを進める。
表札には、油性マジックで乱雑に書かれた“鬼市”の文字。
うん、ここで間違いないようだ。
意を決して私は、呼び鈴を鳴らす。
ぶびぃぃぃーーーーーーーーっ
かなり変な呼び鈴の音も気にならない程、私は緊張していた。
どんな子が、出てくるんだろうか。
入学時の写真を見る限りでは、あどけなさの残る少年だったけど…
心を落ち着かせるために、大きく息を吸い込んだ瞬間、ゆっくりと玄関扉が開かれた。
「あの、どちら様でしょうか?」
そう言って顔を覗かせたのは、予想外の人物だった。
透き通るような白い肌に、バラ色の頬。
くりっとした大きな瞳と天使の輪を描く髪は、艶やかな漆黒。
不安を滲ませる表情に母性本能をくすぐられ、不覚にもドキッとしてしまう。
えっ?
高校生相手に、ときめいてんじゃねーよって?
いやいやいやいやいや、違いますから。
目の前にいるのは、どう見ても10歳にも満たない男の子である。
「ぼく、ここは鬼市君のお宅で合ってるよね?」
少年、大きく首を縦に振る。
「ええーーっと、君は、鬼市稜汰君の弟さんかな?」
少年は、数回、首を横に振る。
私はますます混乱した頭で、思考を凝らす。
一体どういうことだ?
兄弟でもない幼子が、何故高校生の自宅に?
もしかして、ショタコンが転じて幼児誘拐?
いやはや、そりゃあシャレにならんぜ。
若しくは、高校生にして子持ちなのか?
うーーん、そっち線の方が有力かなぁ。
「あの、お姉さんは、どちら様ですか?」
小首を傾げ、潤んだ瞳で問いかける少年。
うはっ、ぐはぁっ、かわゆ過ぎる。
お姉さん、鼻血出しちゃうわよ。
「私は、鬼市稜汰君の担任を受け持つことになった、緑川君代です。
えっと、鬼市君は今、お留守なのかな?」
「…うん。」
力なく頷く少年。
アンニュイな雰囲気も、堪りませんな。
むふふふふふふふふっふ、ふ?
あれっ、何か、少年が不審者を見るような目付きで私を見てるよ、ね?
ううぅ、気まずい雰囲気…
ぐぐぅうううーーーーーっ!!
沈黙を破ったのは、大きな腹の音。
「クスッ。随分、お腹が空いてるみたいね。
簡単なもので良かったら、お姉さんが作ってあげようか?」
私の言葉に、少年は眩し過ぎる笑顔を見せる。
「いいの?」
ええ、ええ、ええ、ええ。
良いに決まっているではありませんか。
あらん、私の足元にすり寄っちゃって…
もうっ、堪らんですな。
鼻息荒く玄関に足を踏み入れるが、そこで私は言葉を失う。
所狭しと置かれたゴミの数々、カップ麺の容器や割りばし、飲みかけの飲料……etc.etc.etc.
ワァ――オゥ、こっちのペットボトル、カビルンルンが増殖中。
万年床周辺には、用途不明の丸まったティッシュ。
恐ろしすぎる光景に立ちくらみ、足元にあった缶をひっくり返すと、大量のボウフラ地獄。
うおおおおおーーーーーーーっ!!!!
なんだなんだ、なんなんだーーーっ!!!
こ、これが、巷で噂の汚部屋かぁ。
ここは、人の棲むとこじゃねーぞ、おい。
料理なんかしてる場合じゃねーよ、本当に、切実に。
掃除だ掃除だ掃除だ、ゴミに送辞だぁぁーーーーっっ!!!
―――二時間後。
私は、燃え尽きていた。
立つんだ、立つんだ、ジョーーッ、いや君代ーー!!
いや、もう、無理っす。
見たこともないような、毒々し過ぎる害虫たちの駆除、駆逐、駆除、駆逐………。
もう、今の私は、どんな生き物も怖くないぞぉ!
「凄いっ!床が、床が見えるよ!」
興奮状態で駆け回る少年であるが、床は普通見える物だからね。
もう敢えて、ツッコミませんがね。
「お姉さん、ありがとぉーーっ!」
力無く床にへたり込む私の胸に、天使な少年が飛び込んでくる。
ああ、神よ。これは、ご褒美なんですね。
有難く頂戴しますとばかりに、少年を抱きしめる。
「チッ、Bカップか。」
ぅんっ?
何にやら、不思議な呟きが聞こえた気がするんですが。
相変わらず、少年はキラキラの笑顔ですし、私の空耳かぁ。
気を取り直してキッチンに向かうが、冷蔵庫の中身を見て、ムンクの叫び。
うん、見なかったことにしよう。
人間、諦めることも大事だって、ことわざにもあるしね。
さぁーて、まだ近所のスーパーは開いてるかな?
ちょっくら、買い物に行ましょうか。
ねっ、謎の美少年君。
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