究極下での選択(エイノ版)
インジュン様の設定の下、執筆させてもらいました。
「あなた、起きて下さい」
優しい妻の声で目覚めた私は、眠い目を擦りながらもベッドから身体を起こした。
キッチンからは、朝食の目玉焼きの匂いが漂い、私の食欲を刺激する。
私は定位置のソファーに腰を据えると、用意されたトーストを口に運びながら新聞に目を通す。
いつもと変わらない、朝の風景だ。
「父さん、おはよう」
「うむ。剛志、最近野球の方はどうだ?」
「うん。今年こそ、甲子園行けそうだよ。最後だから頑張るよ」
「そうか、そうか。応援必ず行くからな」
私は、満面の笑みを浮かべながら一人息子の剛志に返した。
「二人とも、喋ってないで早く食べて頂戴」
私と剛志は、子供のように妻に促され、急いでトーストを口に運ぶ。
「はい、二人ともお弁当よ」
妻の作る弁当は、私に生きる活力を与えてくれる。
剛志に取っても、同じことだろう。
私と剛志は、弁当を受け取ると玄関のドアを開いた。
「あなた、剛志行ってらっしゃい」
妻は毎朝必ず私達二人を、姿が見えなくなるまで見送った。
私は、妻の作った弁当の温もりを感じながら、駅までの道程を歩く。
満員電車に揺られながらの通勤に慣れることはないが、夢のマイホームを手に入れた私にとって、この程度のことは何でもないことだった。
私の勤める某食品メーカーは、不景気の煽りを受けることなく順調に売り上げを伸ばしていた。
私の所属する製造部門は、歩留まり98%を掲げており、先日遂に達成することが出来た。
私はこの実績が認められ、ライン長から一気に製造課長にのしあがった。
ここまでこれたのも、私について来た部下達のお陰だ。
常に私は謙虚な気持ちを忘れなかった。
何もかもが上手くいっていた。
全てが思い通りに、ことが進んでいた。
定時を一時間ほど過ぎ、パソコンに日報を打ち込み、大きなアクビをする。
こうして、私の一日の業務が終わる。
最近ハマッている居酒屋で焼酎を呑んだ後、終電で帰宅する。
どんなに帰りが遅くなっても、私に文句一つ言わず、妻は出迎えた。
多少なり、申し訳ないなと思ってはいたが、こればかりはやめられない。
妻に感謝しながら、私は眠りに就いた。
翌朝、本来なら妻の声で目覚めるのだが、この日は目覚まし時計に起こされた。
「こんな時計、いつ買ったんだ?」
と、思いながらも私は、その目覚まし時計の停止ボタンを押した。
目覚まし時計の音は消えたものの、デジタルの液晶部分には理解不明な文字が表示された。
『三途の川へのセレモニーは、始まった。もう一度ボタンを押せば、お前の妻が死ぬ。押さなければお前の息子が死ぬ。制限時間は二十四時間。後はお前が決めること』
私が、液晶部分に書かれた文字を一通り読み終わると、文字はフワッと消え変わりにカウントダウンが始まった。
私は半信半疑で、その目覚まし時計を手に取り、電池を取り外そうと試みるがのっぺりとした外観からはそれらしき物が見当たらない。
「何の悪戯だ!」
寝起きにも関わらず、腹の底から怒号した。
私は階段をかけ降り、妻と息子の剛志を探した。
静まり返るリビング。
いつも居る筈の妻と息子の姿はない。
「どういうことだ?」
私は家中、叫びなら二人を探した。
しかし、見つけることは出来なかった。
再度、寝室に戻りあの忌々しい目覚まし時計に目をやると、確実に時間は刻まれていた。
「何かの間違いだ、落ち着け」
私は自分を落ち着かせる為に、コーヒーを口に含んだ。
〈これは悪い夢だ。早く覚めてくれ〉そう願うが、やはりこれは現実らしい。
私は、脱け殻のように途方に暮れた。
私は会社へも行かず、デジタルと睨めっ子していた。
勤続二十年にして、初の欠勤。
でも、そんなことはどうでも良かった。
愛する妻と息子を失う訳にはいかない。
悪戯に時間だけが過ぎて行き、デジタルは残り十時間を切っていた。
順風満帆だった人生で、こんなにも究極の選択を迫られたことがあっただろか。
自問自答していると、私の携帯に知らないアドレスからメールが届いた。
私は恐る恐るメールを開いてみると、
『あなた、助けて』
と、ただ一言。
やはり妻の身に何かあったのだと確信すると、続けてもう一通のメールが届いた。
一通目と同じく、知らないアドレスからである。
開いてみると、
『父さん、助けて』
と、一言。
私は困惑しながらも、メールを返したがメールは届かなかった。
続けて、電話を掛けるも電源は切られていた。
「万策尽きたか……」
丑三つ時だというのに電気もつけず暗闇の中、私は液晶のバックライトの光だけをただ見つめていた。
『残り4:05』
無情にも確実に、時間は刻まれていく。
「妻も息子も、選べる訳ないだろう」
私は気が狂ったかのように、何度も壁に額を打ち付けた。
顔を伝う血。
この痛み、間違いなく現実だ。
「最悪だ……」
私はようやく現実を受け止め始めた。
すると、それを待っていたかのように、再びメールが届いた。
妻からだ。
『あなたと過ごした時間は、楽しかったわ。最後の我が儘を聞いて下さい。ボタンを押して下さい』
私はそのメールを見て背筋が凍った。
そして、息子からも同じような内容のメールが届いた。
『父さん、母さまを救ってあげて。僕はいいから、ボタンを押さないで、お願い』
〈なんということだ。ここに来て、お互いを庇い合うなんて〉
私は妻と初めて出会った時のこと、息子が産声をあげた日のことを思いだし、涙を流した。
『残り0:04』
残り五分を切っていた。
気が付くと私は、裸足のまま目覚まし時計を持って、明け方の繁華街を走っていた。
「誰か……変わりに死んでくれ」
そう叫ぶ私は、変質者に見えたのだろう。
私の走る先は、皆人が避け綺麗な道が出来た。
「そうだ、壊せばいいんだ」
残り三分を切って、ようやくその事に気付いた。
人気のない路地裏まで、駆け出し、手頃な石で目覚まし時計を叩き付けた。
『残り0:01』
残り一分。
ここから先は、何秒残っているかわからない。
私は全てを諦め、目覚まし時計を放置して、その場を立ち去ろうとした時、何かを踏んだ。
柔らかくて生暖かい感覚が、素足から伝わる。
それは……妻の生首だった。
既に息絶えた妻は、私を睨むからの表情をしている。
「ひぃ……」
私は腰を抜かし、壁に凭れ掛かった。
その凭れ掛かった壁に、ベットリとした何かが付いていた。
血糊だ。
更にその延長線上には、変わり果てた息子の生首が。
私は発狂した。
その瞬間ピーッと、目覚まし時計から終了の音が発せられた。
〈何もかも、終わったんだ〉
私は虚ろな表情で、裏路地を出た。
「おい! 危ないぞ」
誰かが私に注意を呼び掛けた瞬間、私はタクシーに引かれ宙を舞っていた。
全身に走る痛み。
人が皆集まり、私の顔を見て言う。
「こりゃ、ダメだな」
〈そうか、私は死ぬのか。それならそれでいい〉
私は静かに目を閉じた。
二度とその瞼は、開かないものだと思っていたが、瞼は開いた。
〈ここは何処だ?〉
道行く人が私を、哀れみる。
視線を正面に戻すと、ゴミ集積所の生ゴミをあさっている私がいた。
髪はボサボサで無精髭を生やし、色褪せた灰色シャツにジーパン。
そう、私は長い長い夢を見ていたのだ。
これこそが、本当の私の姿。
何も始まってもいなけりゃ、何も終わってもいないのだ。
私は腐りかけの弁当を食べ、微笑んだ。