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短編No.61-

No.68 コタの三つの願い事

作者: 藤夜 要

 目覚めると、私は私でなくなっていた。胡麻色の毛で覆われた全身。手足の先だけが靴下や手袋をつけているかのように白い……これは。

(まるでコタじゃない!)

 と叫んだつもりだったのに、私の鼓膜が認識したのは「ヒャヒャヒャン!」と喚く犬の鳴き声。

「う~……ん、コタ、もうちょっと」

 と背後から夫の慎也が声を漏らした。これだけの大声なのに、まだ起きない。そして毛むくじゃらの手を呆然と見つめる私の前で、やっぱり寝息を立て続けているのは。

(私!?)

「キャン!」

「ん……お~い、瑠香。コタがお腹空いたって~。飯食わしてやってよ」

 違う! そんなことこれっぽっちも言ってない!

「ワン! ワワワワン!」

「瑠香ってば……っとにもう、しょうがないな」

 慎也がついに根負けして身体を起こした瞬間、私の体の上をもう一つの腕が通り過ぎて彼の腕をそっと掴んだ。

「……」

 腕の主は、私。正確に言えば、私の身体を持つ、誰か。この状況から察するに、とってもファンタジーな妄想に近い予測だけれど、中身はきっと多分、コタ。彼女はとても困った顔をして笑い、慎也をまっすぐ見上げて口を何度かパクパクとさせた。

「ひょっとして、声が出ない? 風邪か?」

 慎也がそう言って、コタな私の額にそっと手を当てる。その仕草がとても優しくて、見ているこちらがどきりとした。刹那ふつふつと沸き立つ嫉妬。

(私にはそんな心配そうに触ってくれたことない!)

「ワワワワワワワン! ワゥン!!」

 ああ、もう焦れったい! なんで「ワン」しか言えないの!?

 そんな私の雄叫びをよそに、だけどちゃんと反応はしてくれる慎也。私が吠えた途端またこちらへ視線を戻してくれ、

「コタ、腹が減ってるのにごめんな。もうちょっとだけ待てるか? ママの具合が悪いみたいだから、俺が作るよ」

 と私の頭も一撫でしてくれた。

「ママほど早く作れないけど、今日は俺が飯の用意をするから」

 しゅん、と音を立ててジェラシーが消える。私にも(見た目はコタだけど)優しく触れてくれた。

 私の姿をしたコタをよく見れば、私が久しく慎也に見せていない弱気な瞳で不安げに彼を見つめていた。これは……結構……グッと来るかも、知れない……。

「……」

 コタは無言のまま首を横に振って、「大丈夫」と言いたげに微笑んでみせた。そしてむくりと起き上がり、コタな私を抱きしめる。

“ママ、大丈夫。神様が三つのお願いを叶えてくれる、って。その一つ目なだけだから”

 なんという不思議。コタの想いが種族の隔たりを超えて私に直接響いて来た。

 今日は私の誕生日。それも、三十路の大台に乗る誕生日。そんな私が日頃から愚痴零しているあれこれを代わりにしてくれると言う。それが、コタの願い事。

「くぅん」

 愛しい私の一人娘、大切なコタ。それを抱きしめる想いで顔を胸に埋め、両の手を精一杯伸ばして私なコタの背に回し……回せない!

「あ~、やっぱ瑠香じゃないとダメかぁ~。すごいしがみつき方して俺の飯を拒否ってるな」

 解ってない慎也が寂しげにそう言った。

「やっぱコイツ、人間の言葉が解るんだな。昨夜の喧嘩、俺が悪いってコイツも思ってるんだ」

 盛大なる誤解だけれど、巧く伝えられないもどかしさでグルルと小さく唸ってしまう。

「コタ……昨夜は、その、酷いことを言って、ごめん」

 消えそうな儚い声で、今にも泣きそうな声で、慎也が言った。酷い胸の痛みが私を襲った。だけど今の私は「そうじゃない」と伝える言葉を紡げない。

 不意にゆるい拘束が解けたかと思うと、私なコタがコタな私を慎也の方へ向け直してくれた。

“私なママのうちに、素直になって”

 そんな想いに背を押される。これ、きっともし私の姿のままならば、顔を真っ赤にしているに違いない。

 娘に教えられるなんて。

 私は半分の情けなさと半分の勇気を持って、そっと慎也の手の甲を舐めた。

「くぅん」

 慎也、それはあなたの勘違いだよ? コタが愛しくて抱きしめたかっただけ。それが出来なくて悔しかっただけ。慎也を責めているわけじゃない。私も、コタも。

「あはは~、赦してくれる、ってことか? でもやっぱりパパ失格だ。ホント、ごめんな、コタ」

 そして優しい手がまた私を撫でる。くるりと私の姿をしたコタの方を見れば、彼女も照れくさそうに笑っている。そしてもう一度慎也を見上げれば、私なコタへ乞うような視線を送っていた。

「瑠香、昨夜は、ごめん。誕生日、おめでとう」

 なんとも言えない表情でそう告げる慎也の頬に、私の姿をしたコタが触れるだけの淡いキスをする。普段の私ならば唇を重ねてするゴメンねの合図を、そこではなく頬にした。

 昨日の深夜、誕生日前夜だというのに慎也と喧嘩をした。コタはそれに心を痛めていたのだ。愚かな親だ、私は。今頃それに気がついた。

「声、チョット、出ル。ゴ飯、作ルネ」

 コタは初めて片言を発し、ゆるりとベッドから抜け出した。そこに私の代弁はなかった。

“私こそ、ごめんなさい”

 それは、私自身から伝えなさいと諭しているような気さえした。




 コタ、とは私と慎也の愛する柴犬のことだ。正式な名前は、小太郎。見事に長男くさい名前だけれど、立派に我が家の箱入り娘、つまり、メスだ。女の子なのに顔が凛々しい、小太郎という名こそ相応しいなどと言って、慎也が妥協してくれなかったからだ。

 私たちは結婚して八年になろうとしているけれど、未だ子宝に恵まれない。そんな私たちが(というよりも、私が)三年前に子宝を諦めてペットショップへ赴いたのが、コタと出会うきっかけになった。

 柴犬が利発で躾も楽な犬種と聞いた慎也は冷静な判断のもと、そして私はコタと目が合った瞬間に運命を感じて即決した。親孝行なコタは仔犬のころから大病の一つもせず、とても元気。今年で三歳になる。人間で言えば、私と同い年くらい。室内犬として暮らしているからか、本当に私の気持ちをよく察してくれる。それはもう、慎也がときには嫉妬すら覚えるくらいに。昨夜の喧嘩も、それが遠い原因の一つだった。

『確かにコタは家族だよ、かわいいよ! でも、それと子どもとは別だろう!』

 結婚してからたった五年で子宝を諦めたことについて、慎也は今になって私を責めた。

『それはあなたの建前でしょう! ただ単にセックスを拒まれたから腹を立ててるだけじゃない!』

 私はもう妊娠している暇などない。子を諦めた段階で、職場にはその旨を伝えてガツガツ仕事をこなして来た。今では部下を抱えているんだから。

『おま、何、俺がそんなガキだと思ってたのか』

『実際そうでしょ。おかしいと思ったのよ。普段はコタをベッドで一緒に寝させるのにゲージに入れるから。可哀想だと思わないの? 親失格ね。そんな人に人間の親なんて務まりっこないわ』

『ふざ……ッ、てか、着床が難しいからすぐに流産しちゃうって、医者も出産まで腹ン中で赤ん坊が育つよう、色々案を出してくれてたじゃないか! なのに俺が一緒に受診しないときに治療を断ったのは瑠香だろう! 俺は一度も諦めたことはないぞ!』

『案って、安定期以外の殆どの期間を入院して絶対安静、っていうアレのこと? 冗談じゃないわ。共働きでなくちゃ生活も満足に維持できないっていうのに、妊娠を理由に肩叩きにあったらどうするの、って言ったら、あなたも黙り込んだじゃない!』

『俺の稼ぎが少ない、ってか』

『そうは言ってないわ。時代が時代なんだもの。欲張り過ぎると全部失くす、と言いたいの。コタがいるんだもの、いいじゃない。あなただってコタのこと、今では“ペット”じゃなくて“家族”って言い方をするでしょ。それでいいじゃない。何が不満なのよ』

 そうまくし立てた私に向かい、慎也はきっと衝動的に思ったままを理性で咀嚼することなく吐き出したのだろう。

『戸籍上の子どもがいなきゃ、手続き一つで幾らでも俺らは他人になれちまうんだぞ! おまえ、最近は新人の鶴橋とかいう野郎の話ばっかじゃないか!』

『な、なんでそこで鶴橋くんが』

『聞いてりゃソイツ、露骨におまえをタゲってるアピールしてるだろうが、むかつく。面倒見がよくて困ればすぐ助けてくれて飯も奢ってくれて、しかもダンナがいるから後腐れもなさそう、みたいな!』

『後腐れ、って、どういう意味よ』

『昨夜だって遅くなる理由が、ソイツの“帰りたくないな”って、てめえは女か、って話だよ! そんでおまえは言葉のまんま受け取って朝まで飲みに付き合うとか、おまえもバカ! 男の下心に鈍過ぎ、無防備過ぎ! そんな会社、すぐに辞めちまえ!!』

『ば……ッかじゃないの? 人の愚痴を、そういう聞き方してた、ってこと? 信用してなかった、ってこと? 子どもがいなければ速攻離婚、私は慎也にそういう浅はかな女だと思われてたの!?』

『そ、そうじゃなくて。ただ、いや、話が逸れた。そ、そうだ、何が不満かっつったよな! おまえ、解ってるか? コタはどう頑張って俺らが家族だと思っても、現実は犬だ! 俺らより先に死ぬんだぞ!』

『な、なな、ななななななんてことを……ッ! もうコタが死ぬことを考えてるの? この人非人!!』

 甘い夜を、どころの話ではなかった。そこでコタが隣室のゲージから鳴きまくり、結局コタのお陰でその喧嘩はうやむやになって、昨夜はバリケードみたいにコタを挟み、背中を向け合った形で浅い眠りに就いたのだった。


 浅いながらも少し眠って、時間もおいた。冷静になった今、改めて思う。男勝りで生きて来たせいか、本当に男心が解ってない……多分。思い返せば高校でクラブ仲間としか思っていなかった慎也とずっと過ごしていたのに、彼から告白されて初めて異性として意識した……二十歳を過ぎた、いい大人になってから。それが私の初恋で、勢いのまま社会人一年を経過して自立を実感したときに結婚した。

“瑠香が鈍いお陰で、救われた”

“大学が別になってから、気が気じゃなかった”

“内定が決まったから、やっと伝える自信がついた。イエスをもらえる自信はないけど”

 ふと慎也に告白されたときの前置きが思い出された。そして当時の私は、ストレートな言葉を聞くまで前置きのそれらを理解出来ないでいたことも、思い出の引き出しからずるずると引き出されて来た。穴があったら入りたい。

「コタ、ホント、ごめんな」

 ソファでくつろぐ私の横でだらしなく座っていた慎也がそう言って、私の恥ずかしい回顧タイムを終わらせてくれた。

「くん?」

 彼に視線を合わせてみれば、眉間に皺を寄せて、でも口角だけは少しだけ上がっていて、笑おうと必死になっている顔が私の瞳に映った。

「パパ、本当にコタのことを家族だと思っているよ。でも、やっぱ、別なんだよな」

 ママはおまえに“千歳”って名づけたがっていた。もしお互いが生きていれば千歳になるであろう歳月まで、自分たちの愛情の結晶が、自分たちの愛情とともに脈々と受け継がれていきますように、という想いをこめて。

「でもパパはな、その名前は、パパとママの遺伝子を持った子にあげたかったんだ」

 手作りのドッグフードと人間用の朝食を作るコタの背をぼんやりと見つめながら、慎也は力なく、でもとても情感のこもった声で、きっと私には言えないでいたのであろう想いを零し続けた。

「それってやっぱ、パパのわがままかな。でもさ、安定期に入るまで入院して身体を大事にすれば腹ン中でちゃんと育つ、って。安定期過ぎてからも危ないから入院、って聞いて、瑠香は仕事を採っちゃったんだけど。だけど俺、思うんだ。会社って最終的には代替が利いちゃうんだよな。でも、家族の代替は、利かない。それは俺が瑠香みたいに正社員じゃないから、派遣程度のしょーもないクズだから、瑠香の会社での価値を理解してないだけかも知れない。俺がブラック企業なんて知らずに入社しちまって、すぐ辞めて派遣ばっかしてるから、やっぱ一番の原因は、俺が頼りないからかな、とか考えたら、そりゃ強気で言えないよなー。それにさ、代替が利く、なんていい方はきっと絶対、瑠香はバカにした、って怒るだろうし」

 しまいには、自称名詞が“パパ”“ママ”から“俺”“瑠香”に変わっていた。慎也はそのくらい、素で余裕ない様をコタに――私に晒していた。

 仕事の代替が利く。入院さえすれば、という軽い物の言い方。それはどれも当時にも一度だけ聞いた言葉で、そして当時の私は烈火の如く怒り狂った。それに怯んで子どもが欲しい宣言を撤回したのか。

「っていうかさあ」

 慎也は不意に口ごもった。


 ――俺、瑠香のダンナでいて、いいのかな。


 ……え?

 想定外の問い掛けに、コタな私は身を固くする。

「瑠香が子どもを諦めたのは、俺のせい、なんだよな、結局のところ」

 仕事を辞めたくない。それは遣り甲斐があるからだと瑠香は言ったけれど、俺の甲斐性が少ない分を、俺に引け目を感じさせない形で背負おうとしてるのが、解ってた。

「だから強く言えなかった、ってのもあるし。俺も、瑠香が仕事をバリバリこなすなら、将来子どもに手が掛かるようになったら、俺が融通利かせる方がいいだろうし、なんて自分に言い訳をして、ちゃんとシューカツしてなかったしなあ」

 情けない俺だから。そして、そういうダメ男にこそ引っ掛かるオトコ経験皆無の瑠香だから。

「あいつ、すごい生き下手で損してるんじゃないか、って。鶴橋とかいうヤツは絶対に認めねえ。けど、ああいうヤツにこそ、瑠香ってコロンといきそうなんだよなあ」

 聞き捨てならない慎也の吐露に、吠え掛かろうと思ったそのとき。

「でもさ、瑠香を幸せにしてくれる男なら、諦められる、かな……」

 どくん、と心臓が高鳴った。この人、今、なんて言った……諦め、られる?

「あいつがいい男を見つけられないのは、俺が厄病神みたいに張り付いて来たせいかな、とか。瑠香はまだ三十になったところだし、今からでももっといい男を掴まえられるんじゃないかな、とか」

 ぐじぐじ、うじうじと、垂れ流される吐露。情けないことこの上ない。なのに。

「くぅん」

 万感の想いをこめて、慎也の手を舐める。千歳と名づけたかった理由を、この人は今も昔も変わらず覚えていて、そして私以上にその理由を真摯に受け留めてくれていた。言わないのに、察してくれる。甘え下手な私を、そういう形でたくさん甘やかしてくれた。そして今も甘やかし続けてくれている。慎也は、そういう人だ。自分よりも私のことを大切に思ってくれる人。

「なんだ~、パパのくせに娘に愚痴ってんじゃないよ、ってか?」

 少しだけ元気な声になった慎也が、愛しげに私を抱き上げた。

「わっ、あは、ちょ、コタ。くすぐったいって」

 大好き。愛してる。口に出せないのがもどかしい分、私はしつこいほど慎也の顔を舐め回した。一緒にいることが当たり前になり過ぎて、忘れ掛けていた根本的なそれを訴えた。

「あはは……って、ちょ、ま、お……い、息、ぐぁ」

 バカな慎也。愚かな慎也。私は、あなたがあなただから愛してる。好きになったことに理論なんて必要ない。言葉に置き換えられる理由を探さなきゃならないことも、きっとない。

「ゴ、ハン」

 コタがそう声を掛けてくれなかったら、コタ化した私は危うく自分のダンナを舐め狂った挙句窒息死させるところだった。




 ご飯を食べてから、私は慎也とコタに散歩をねだった。多分、コタの言語能力はコタの認識範囲なのだろうと推測した。声枯れもないので風邪じゃない。となると、心配性の慎也のことだから、医者に行こうなんて言い出しかねないからだ。

「考えてみれば、三人揃って散歩なんて久し振りだな」

 弾んだ声で慎也がそう言った。

 ここ数ヶ月の私は社の決算を目前に控え、どうにか黒字決算で今期を締めるべく残業と休日出勤続きだった。そのせいで夜の散歩しか出来ず、朝の散歩を慎也に任せていた。その間の私はと言えば、出勤ギリギリまで寝こけていた。

「ウン」

 その一言で精一杯なコタ。

「会社の期締めで忙しかったんだろう? 休みが取れてよかったな」

「ウン」

「昼になっちゃうな~。午後からでもどっか行く?」

「……ウン」

「どこがいいかなー。コタも一緒に入れるところのがいいかな。それともペットホテルにちょっとだけ預かってもらう?」

「……」

「あ、でも、誕生祝なのにコタだけ仲間外れってのはコタに悪いよなあ」

「……」

 困った。複雑な会話はきっと無理だ。戻る方法なんてあるのだろうか。コタは“神様に三つのお願い事をした”と言っていたけれど、きっと二つ目か三つ目が元に戻ることだよね? それを今使っちゃダメなのかしら?

「瑠香、まだ、怒ってる?」

 私は焦った。せっかく(謝罪の言葉を互いに口にはしなかったものの)仲直りが出来たというのに、これではまた喧嘩になってしまう。

「キャン! ワワワワン!!」

 私は邪魔するように二人のぎこちない会話を遮った。喋らなくてもいい状況……そうだ!

「あっ!」

 咄嗟のことに大きな声を出す慎也。心の中でゴメンと思いつつ、私はいきなり走り出した。

 コタは日頃、とってもいい子だ。今までリードを最大まで伸ばしてしまうほど勝手に走ったりなどしない。特にこんな車通りの多い国道沿いの歩道では一緒に歩いて散歩をする。だから私も慎也もリードを軽く握る程度にしていた。

 思った通り、リードの巻き込み部分がガシャンと派手な音を立てて割れた。路面に落ちたリードの取っ手部分を引きずりながら、私は一目散で駆け抜ける。

「ちょ、コタ! 待て! ウェイト! ストップ!!」

 その声はもう随分遠くなった。だけど油断をしちゃダメ。慎也は高校時代陸上部でトラック競技ならなんでもござれのランニング専門の選手だったのだ。きっと追いつかれる。だって私、この身体では走り慣れてないんだもの。

「うわっ!?」

 迂闊だった。背後から迫る慎也とコタに気を取られ過ぎた。突然前の方から聞こえた小学生くらいの子の叫び声。そして迫り来る自転車のタイヤを、こんなに恐いモノとして見たのは初めてだった。

 その次に見た光景は、まるでサイレント・ムービーを見ているようだった。

 自転車に乗った男の子が、私を避けようと咄嗟に左へハンドルを切る。自転車は転倒した瞬間、タイヤが転倒の勢いでコタになっている私の身体を車道の方へ弾き飛ばした。

 今度目の前に飛び込んで来たタイヤは、自転車の比ではない太さだった。


「キャン!」


 私はフィールド競技の中でも、空を翔けるようなハイジャンプが好きだった。遠い昔、学生時代に味わった懐かしい感覚を思い出す。不思議なことに、血は飛び散っていなかった。だけど、お腹がすごく痛い……。

「コタ!」

 この世の終わりかと思わせるような、青ざめた慎也の顔。それと相反するように哀しげな笑みを浮かべている、私なコタ。


“二つ目のお願い事、神様、ありがとう”


 その向こうに、更に場違いな青い空。晴天の中に浮かぶ羊雲。そこに描かれる雲で構成された絵の中に、コタみたいなちいさなわんこが翔けていた。

 それが、最後にコタの瞳を通じてコタな私を見た最後の光景だった。




 最悪の誕生日。節目となる三十路を迎えた十三時二十分。私は私の姿のまま、慎也と動物病院にいた。

 コタの入った私は、コタが自動車に轢かれた直後に倒れたらしい。慎也は流しのタクシーを止め、まずは動物病院を行き先にした。移動中に慎也から説明を受けた運転手さんは、血相を変えて直ちにコタをそっと抱き上げてくれたそうだ。

『兄ちゃん。取り敢えず姉ちゃんを後部座席に寝かせてやりな。そんであんたは助手席だ。この子、多分内臓を潰してるぞ』

 出血がなく腹部が幼児腹になっていると教えてくれた。それに気づかないほど慎也も動揺していたらしい。その運転手さんもやっぱり愛犬を交通事故で亡くした過去があるらしいと支払いのときに知ったそうだ。とても親切だった運転手さんは、慎也がコタを先生に託すまで支払いを待ってくれたらしい。そのやり取りをしているときに私が目覚めた。自分の身体に戻っていることにも混乱し、私が寝かされた長椅子から呆然としながらゆっくり身を起こすと、運転手さんは

『ショックなのは解るけどよ。倒れるくらい大事な子なんだろ? 逃げてないで、ちゃんと傍にいてやんな』

 と言い残して帰っていった。

 その言葉からは敢えて“最期まで”という一言を割愛してくれる優しさと哀れみが滲んでいた。


 今夜が山です、と執刀した先生に言われた。傍にいさせてくれる許可もくれた。どうしますか、という先生の問いに、私たちではなくコタが「くぅ」と拒絶の返事をした。私が出来たことと言えば、彼女の代わりに人間の言葉で

『小太郎が頑張っている間は、どうか家族三人で過ごさせてください』

 と伝えることだけだった。

 なぜ、あの瞬間で入れ替わってしまったのだろう。

 心の中でそう言って運命を嘆けば、コタが声なき声で訴えて来る。

“ママ、泣かないで。二つ目のお願い事は、パパとママが仲直りしてくれることだったの”

 子ども代わりに育てて来たコタが消えれば、私と慎也が仲直りをして本当の意味での子どもをと考えるとでも思ったの?

 浅い息を短く繰り返すコタの頭にそっと触れて問い掛けてみれば。

“ちょっとだけ、当たり。だけど、私もパパとママの傍にいたい”

 そんな想いが返って来て、居た堪れなくて涙がとうとう溢れ出した。

「瑠香」

 さっきから私以上に泣いている慎也が、コタの頭に触れている私の上から大きな手を覆い被せてキュっと握った。

「……え?」

 慎也の頓狂な声が耳元に響く。私ははっとして彼の方を振り返った。

「コタ……の、声が、聞こえる?」

 さっきから何度もコタが私に伝えて来る想いが、コタと触れ合う私の手を通じて、慎也にも伝わっていた。

「ど、どういう。いや、それより、そんな」

 声を荒げる慎也の気持ちはすごくよく解った。私も同じくらいに動揺していた。

「どうしよう。ねえ、慎也。どうしよう。だって、だからって」

「でも、コタがそう強く願うなら」

「でも、見てられない!」


“お願い。ママのお誕生日と私の死ぬ日を一緒には、しないで”


 それだけのために、コタは苦しんでいる。ただそれだけのために、死神と戦っている。

「コタ! 三つ目! 三つ目は!?」

 私は人目もはばからず叫んでいた。何事かと看護師さんが集中治療室へ顔を出す。それを慎也がどうにか取り繕いながら、目で私へ「コタを説得しろ」と訴えていた。

(お願い、コタ。そんなの、どうでもいいから。あなた自身が楽になる方を選んで、そして、決めて)

 酷なことを伝えているのは解っていた。自分で死を覚悟しろ、だなんて。死にたくない、という理由がコタの生への執着であれば、私たちはいくらでも見守り続けられる。だって、家族だもの。一秒でも、ともに在りたい。だけど生きることに拘る理由が、私たちが誕生日のたびに偲ばなくてはならないのが嫌だから、だなんて。

(コタ、愛してるわ)

 コタにしか言葉に出来ない想いを、今日ほど切々と訴えたことはない。

(だから、あなたが私たちのために苦しいのが、つらい。毎年あなたを哀しい想いで思い出すことよりも、つらいの、だから)

「くぅん」

 くぐもった細い鳴き声が、マスク越しに私の耳に届いた。

「コタ!?」

 私の声で、慎也が我に返る。彼と話していた看護師さんも、慌ててコタを寝かせていたストレッチャーに近づいた。

「先生!」

 看護師さんはコタの様子を見るなり、先生を呼びに隣の診療室へ駆けて行った。


 そんなやり取りを何度か繰り返すうちに、気づけば夜更けになっていた。

 慎也と私、傷に触らぬようコタに触れたまま、うとうととしていた。泣き疲れていたのだ。思い返せば夕飯も忘れて付きっ切りになっていた。看護師さんに勧められてコンビニのおむすびを齧ったものの食欲も失せていた。

 コタに触れたまま、人よりもわずかに高い彼女の体温を感じながら、夢うつつに彼女の声を聞く。


“三つ目のお願いはね、パパとママの子になりたい、ということ。だから、そろそろ逝くね”


「はっ」

 声で実際にそんなことを口走るんだ、と、あとで感心したくらい、ハッキリと声にして、その声で私自身が飛び起きた。隣で私の肩に頭を預け、触れることでコタの想いを受信し続けていた慎也も同時に勢いよく頭を上げて目を覚ました。

「コタ!?」

「コタ!」

 叫んでいる間にも、先生と看護師さんが処置室に入って来た。瞳孔と心音の確認。そうか、わんこも人間と同じようにしてくれるものなんだ……。

「ご臨終です。小太郎ちゃん、よく頑張りましたね。お悔やみ申し上げます」

 先生の心からの哀悼の意は、私たちの涙腺を再び緩ませた。




 コタは最期まで、よく頑張った。私のために。慎也のために。

 だけど、そんな切ない傷を遺していっただけじゃない。


“パパとママの傍にいたい”

“パパとママの子になりたい”


 あれから二年以上が経つ。そして何事もなかったかのように、私たちは手を繋いであの歩道を歩く。お散歩だ。コタがいなくなってからも、リードを掴む代わりに互いの手を握り、毎日この道を歩く。だけど今日が最後の日。明日から当分は、もう散歩も許されない身の上である。

「結構目立って来たな、お腹」

 涙も切なさもすっかり乾き、明るい口調で慎也が言う。

「来週で丸七ヶ月だしね。産休も有給プラスでガッツリ取ったし、引継も鶴橋に全部任せたし、早産になっても全然問題ないわ」

「早産とか縁起でもないこと言うなって」

 もう鶴橋の名前を出しても不機嫌にならない私の夫。彼は派遣仕事の傍らで保育師の免許を取り、この春から施設保育園で保育士をしている。これなら、私が職場復帰したあとも育児をしながら働ける、と。園内に職員の託児エリアも設けているところを探して応募してくれたらしい。園長先生には、貴重な男手として、またイクメンの先駆けとして保護者からも好感触と、職場でよい関係を築けているようだ。

「でも、ものすごく願ってくれていたからね。早く出て来たくて仕方がないんじゃないかしら、なんてね……あ」

「どした?」

「また動いた。っていうか、暴れてる、ってレベル。元気よ過ぎ」

 お腹に触れていた手のひらが、ぐにょんとうねる感触を掴み取る。これは絶対にキックしてるわ。

 そう言ったら、慎也が大きな声で笑った。

「コイツって、前はよっぽど俺らに気を遣ってお利巧さんをしてたんだなあ」

「そうねえ。今度は思い切りおてんばをさせてあげましょうね」

「って、やっぱ女の子だと思う?」

「もちろん」

 だって、きっとコタの生まれ変わりだもの。それはお互い口にはしなかったけれど、なんとなくそう決め付けていた。

「それにね、お母さんが言っていたの。お兄さんがお腹にいるときは、やたら前後に出ていたんだけど、私がお腹にいたときは、横広がりにお腹が膨らんでいって、お父さんに鏡餅みたいだなんて言われて喧嘩をした、って」

「鏡餅……お義父さん、マジ発想の天才」

「ちょっと!?」

「あはははは、鏡餅か~。めでたいモンの象徴みたいでいいじゃん」

「……」

 なんでも、ポジティブに受け留めるようになった。慎也のそんな変化にふと気づき、私は怒る気も萎えて一緒に笑った。

「ねえ、慎ちゃん」

 最近、ちょっとだけ私も変わった。

“ママ、素直になって”

 コタの教えを忘れない。その命を賭してまで教えてくれたことを、少しずつ照れることなく甘える自分が、ちょっと好き。

「名前、千歳で、いいよね」

 きっと生まれて来る子は女の子だろうけれど、もし男の子だったとしても、千歳がいい。


 幾千年も、お互いの愛が受け継がれていきますように――。


 愛の象徴に、愛ある名を。

 なんて臭いことを音にするほど若くはないので言わなかったけれど、慎也は少しだけ頬を染めながら、

「もちろん」

 と言って繋いだ手を大きく振った。

「早く叶えたいな、コタの三つ目の願い事」

 慎也があの日と同じ、真っ青な空を仰ぎながらそう言った。うろこ雲の中に、ちょっと違う雲の形を見つけた私。それに向かって私も願う。

「コタ。早くおいで」

 今度は未熟な夫婦だった私たちを甘やかさない、子どもらしい子どものままで。私たちと同じペースで成長する人間として、愛しい魂ともう一度触れ合いたい。

 神様、どうか早く私たちに懐かしくて新しいニューフェイスを。今度は子の前で喧嘩をしないよう気をつけます。

 私たちの願いが神様に届いたのか、わんこ形をした雲だけが、青い空に解け消えた。

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