第二十話 パトリシアの紋章術講座①
ラフォード学院は四年制で生徒の数もそれなりに多い。それに加え最高学府の名を持つ学院には、他にはない設備も整えられており、したがって学院の中が町の中枢を担う城と同じくらい広くなるのは当然のことと言えた。
そんな学院の中には、休み時間になると生徒であふれかえる、いわゆる生徒たちの憩いの場と呼ばれるような場所もいくつか存在していた。
ある日の放課後、パトリシアを始め、カノンとモニカを含む三人はそんな場所の一角を占拠していた。
「ごめんなさいね、こんな場所でしか授業ができなくて」
「いえ、全然構いません。教えて欲しいとお願いしているのはこちらの方なんですから」
紋章術講座。それが三人が一堂に会した理由だった。
パトリシアはそれを聞いていつものようににっこりと笑うと手元に持っていたプリントを二人に手渡した。そこに書かれていたのは、いくつかの紋章術のプログラムであったが、どのような作用があるのかは記載されておらずわからない代物だった。
「それでは授業を始めたいと思います!」
パトリシアは嬉しそうに語尾を上げて話し始める。
「どの教科書にも最初に書いてあると思いますが、紋章術というのは一見すると魔法のように見えますが当然魔法ではありません。紋章術というのは簡単に言うとショートカットです。つまり、紋章術を使用してできることは全て時間をかければ紋章術を用いなくてもできるということです。このことは知っていますね?」
パトリシアの話は初歩中の初歩から始まる。紋章術の授業を取っているカノンにとっては当然既に勉強していることであり、彼女の問いかけに、はい、と素直に答えた。けれども、生徒二人に対して聞こえた返事は一つだけ。カノンの横ではモニカが目から鱗が落ちたような表情で話を聞いていた。
「そうなの、カノン?私、知らなかった!」
「あれ?もう。ちゃんと復習しておかないと単位取れないよ」
「いや、私は紋章術の授業取ってないし」
「うーん。そういえば……そうだったね……」
ならば、なぜモニカはここにいるのか、とカノンは心の中で思ったものの、良く考えればモニカの尽力がなければこの授業が成立していなかったことを思い出した。そして、自分のために興味もない授業を一緒に受けているのかと思い申し訳なくなる一方で、なんだか微笑ましい気持ちにもなった。
「いいですか?では、次に行きますよ!前置きはこれくらいにして、紋章術はひたすら練習して慣れるしかないと私自身考えているので、さっそく実践に移りたいと思います!最初に基礎的な紋章術の一つ『切断の紋章術』というものを使って説明します」
そう言ってパトリシアは制服のポケットから小さな正方形の紙切れを一枚取り出した。
彼女はそれを手のひらに乗せると何も見ずに紋章術を発動させた。次の瞬間、彼女の手のひらに小さな魔方陣が現れて光を放つと、その後に残ったのは二つに切れた先ほどの紙切れだけだった。
「すっごーい!見て、カノン!手の上に乗せただけで紙が切れたよ!」
「わかったから、落ち着いてモニカ。あのくらいは誰でもできるから」
興奮気味のモニカに対し、カノンはなだめるように言った。授業を取っていないモニカにとってはそれだけのことで驚くのかもしれないが、パトリシアが言ったように紋章術においては基礎である。
ただ一点を覗いては。
「パトリシアさん、紋章術を発動させたとき何も見てませんよね?」
何も見ずに紋章術を発動させる、そのことはノアみたいな少数の人間しかできない荒業だったはずだ。そのことを疑問に思ったカノンは思わず口に出した。
「ええ、今のは簡単な紋章術なので、私ぐらいになれば頭の中に既に入っていて何も見ずに発動できますよ。けれども授業ではそういうわけにもいきませんから先ほどのプリントの一番上に、今の紋章術のプログラムを文字列を書き起こしておきました。この文字列を頭の中で再現できれば紋章術はあなたたち自身の手で再現できます」
パトリシアに言われたとおりに、二人は手元のプリントに目を落とした。そこには確かに『切断』の作用を及ばすであろう短い文字列が書かれてあった。
「では二人の能力判定もかねて実際にやってもらいますね」
パトリシアはそう言って二人に先ほどの様な正方形の紙切れを手渡した。
カノンとモニカはそれを手のひらにおいてプリントに書かれた文字列を見ながら頭の中でそれをなぞる。
すると、二人とも難なく紋章術を発動することができて、紙切れは真っ二つになった。
「できた!できたよ!」
モニカは初めて使用する紋章術に喜びを隠せないようであった。
カノンも授業でやったことはあるものの、自分の力で紋章術を発動させるのは何度やっても気持ちのいいものだった。
「よくできました。『正方形』の紙を『二分の一』の大きさに切断するという限定的な紋章術でしたけれど、不具合は何もなかったようですね」
パトリシアは再び嬉しそうに声を上げた。
「けれども、問題はここからです。普通は紋章術というのは今のような簡単なプログラムの組み合わせでできてます。つまり『切断』だけではなく他にも『接着』、『着色』などの紋章術を組み合わせて使えば……」
そう言ってパトリシアはポケットの中から今度は布きれを取り出した。そしてそれらを両手の上に乗せてプリントを見ながら紋章術を発動させた。
「このように一瞬にしてクマのぬいぐるみを作ることもできます」
彼女の手の上には可愛らしいクマのぬいぐるみが置かれていた。
「簡単な紋章術やよく使われるような紋章術は丸暗記しても問題はありませんが、複雑になれば先ほどのように文字列として書き起こさなければうまく発動しないことが多いです。まあ、ノア・ビスケットさんのような例外もいますが」
パトリシアは言った。それを聞いてモニカは、難しそう、と漏らす。
パトリシアも残念そうに呟く。
「そこが紋章術が敬遠される理由の一つですね。しかし、誤解の無いように言っておくと、紋章術は文字列を作るのが面倒で難しいのであって、最低限のことを理解していれば使用するのはそれほど労力はいりません。じゃないと、私の商売は成り立ちません」
そして、彼女は続けた。
「紋章術を文字列を作るのがなぜ難しいのかという理由は、文字列を記述するのに少し特殊な『言語』を使用するからです。それらを記述する『言語』というのはいくつか存在します。もっとも、一般的に広く使用されているものは限られています。それらの『言語』を使って目的の作用が出るような紋章術のプログラムを組んで、そして、デバックしてエラーが出なければ完成です」
そこまでいうと、パトリシアは手を、ぱん、たたいて二人の注意を自分に向けた。そして彼女は言った。
「では、ここで二人に宿題を出しておきたいと思います。先ほど配ったプリントの二枚目以降に基礎的な紋章術のプログラムの一覧を乗せておきました。それらを組み合わせて私が作ったようなクマのぬいぐるみを作ってきてください。プログラムの記述の仕方は一通りではありません。それぞれ自分のオリジナルの紋章術を完成させてくださいね」
カノンはそれを聞いて素直に、はい、と返事をしてものの、モニカは否定とも肯定ともつかない曖昧な返事をした。
それが合図となり、パトリシアによる第一回目の紋章術講座はお開きとなったのだった。
◇◇◇
モニカはこの日も寄り道をせずに家に帰った。
家に着くとすぐに制服から着替えてエプロンをつけて夕食の準備を始める。母親が仕事に出ていて帰りが遅いハーベスト家では、夕食は時々はモニカが作り、稀にラミアが手伝い、それ以外は外で買ってきたありあわせの物で済ますのが慣例であり、現実的な妥協点だった。
モニカはいつも通りに夕食の準備を始めた。しかし、今日のモニカはちょっと違う。いつもなら料理に必要のないものを持ち込んでいた。それは紋章術のプリントである。
料理の合間に少しでも時間ができたら、ちらっと覗きまた料理作りに戻る。そんなサイクルをもう五回以上続けていた。彼女が勉強熱心なのではない。ただ、内容が気になるのである。
「カノンはもう作り始めてるのかな?私だって絶対に可愛いぬいぐるみを作ってやる!もぐもぐ……」
モニカはすでに出来上がった料理の味見をしながらプリントと睨み合っていた。そのとき、がたん、と音がしてモニカのいるリビングの扉が開いた。
「何やってるの、姉ちゃん?ぶつぶつ独りごと言ってて怪しいよ」
「ラミア、おかえりー。もぐもぐ……」
「ていうか、晩ごはん勝手に食べちゃだめでしょ!お姉ちゃん!減っちゃう!」
「ただの味見だって。私が作ったんだからいいでしょ?嫌ならラミアが作ればいいじゃーん」
「うっ……何も言い返せない……」
ラミアは姉のモニカに対してぶつぶつと文句を言いながら冷蔵庫まで足を進めると、そこからお茶を取り出し、自分のコップを手に取って注いだ。わざとらしく大きな音を立てて冷蔵庫の扉を閉めては見たものの、それでももぐもぐと口を動かすのをやめない姉に愛想を尽かしながら、ラミアはお茶を一気に飲み干した。
「そうだお姉ちゃん。あとで勉強教えて。学校で習ったところでわからないところがあるんだ」
「しょうがないにゃあ、教えてあげましょー」
「ありがと」
そしてそのとき彼女はモニカの持っていたプリントに気付き何気なく目を落とす。
「それでお姉ちゃんは何の紙を見てるの?私にはわからない文字ばっかり」
「紋章術だよ。お姉ちゃん、紋章術が使えるようになったんだ!」
モニカは、どうだ、と言う表情を浮かべて自慢げに妹に話した。
けれども、ラミアにはちんぷんかんぷんだったようで、軽く頭を捻ると、モンショウジュツ?としきりに口に出して呟いていた。
「えーと、紋章術というのは、魔法みたいなものなのです」
「へえそうなんだ。すごいねお姉ちゃん!さすが、ラフォード学院に通う優等生さんは違いますねえ。私みたいな出来の悪い妹と違って」
「ラミアだってきっとできるよ!だって、私だってできたんだから!それにラミアは出来の悪い妹なんかじゃないし」
モニカは取り繕うように慌てて言った。
しかし、ラミアはそれを聞いても喜ぶ様子もなくただ笑うばかりだった。モニカもそんなラミアの表情を見て思いついたようにプリントを一番最初のページまで戻すと明るい声で言った。
「もう、ラミアったら信じてないんでしょう?だったら、今から見せてあげるから見てて」
モニカは手近にあった紙切れを取ると手のひらの上にのせた。
そして、深呼吸を一つしプリントの一番上にかいてある紋章術の文字列を頭の中で再現する。
それは切断の紋章術だった。
「いくよっ!」
モニカの手のひらに魔方陣が現れて、光を放つ。それを見たラミアは一瞬だけ驚いたような表情を浮かべ、興味深そうに覗き込んだが、光が散ったその後に目に入ってきたのは何の変化もしていない先程の紙切れだった。
それを確認してラミアは明らかな落胆の表情を浮かべた。
「……ダメじゃん。」
「あれ?なんで?」
「でもお姉ちゃんならきっとできるよ。期待して待ってるよ」
一方でモニカは頭が混乱して慌てるばかりだった。学校にいるときはできたのにぃ、とぶつぶつ言いながら何度か挑戦したものの結果は同じだった。そのときの彼女はひとつ大きなミスをおかしていることに気付いていなかったのだ。パトリシアに教えてもらったのは、『正方形』の紙を『二分の一』の大きさに切る紋章術。彼女が持っていたのは不定形に切り取られた紙屑だった。
そんなことは今のモニカにはわかるはずもない。そんな姉を見て再び大きなため息をつくラミア。その後の何度も試行錯誤をしたが一度も成功しなかった。
「何だかよくわからないけど凄いんだね、紋章術って」
「ごめんねちゃんとしたもの見せられなくて」
「いいって。とりあえず晩御飯を作りましょ」
「そうだね。夕食が終わってからまたゆっくり教えてあげるから」
「はーい。楽しみに待ってるよー」
ラミアは明るい声で返事をするとモニカの横に立って姉の様子を見てニコニコし始めるのだった。
そしてモニカは妹に紋章術を見せられなかったことに関してむっとした表情を浮かべながらも夕食作りに戻ったのだった。




