第十八話 水先案内人の憂鬱②
舟は水路にそってゆっくりと進んでいた。
舟の波の上下運動に合わせて双子の体躯もゆるやかに振動しており、地上では味わえないようなその不安定な感覚に彼らは少し怯えたような表情を浮かべて顔を強張らせていた。リオはそんな彼らの表情を伺いながら慎重にオールを一漕ぎ、そして持ち上げまた一漕ぎする。
そのとき、ぴしゃりとはねた水滴が縁にかけていた二人の手のひらを濡らした。シンは思わず、ひゃあっ、という声を上げた。
「ははっ!怖がりさんだな、君は。もしかして舟に乗るのは初めて?」
「違うやい!でも、こんなに荒い運転の水先案内人の舟に乗ったのは初めて。舟が怖いんじゃなくて下手くそな運転が怖いんだよ!」
下手くそという単語を聞いてリオの眉間がわずかにピクリと動いた。
「言わせておけば、このクソガキ。乗せたばっかりだけど、この舟から突き落としてやろうか」
リオが手に持ったオールでついついとシンを小突くと、それに協力するかのようにランが目を輝かせながら弟の腕を掴んで言った。
「どうぞ突き落としてやってください。こいつは泳いで帰らせますから」
「うわっ!ランまでひどいぞっ!どっちの味方だよ」
「もちろんあっち。いつでも私は強そうな人の味方。子供は非力だから」
「裏切り者!それでも俺の姉かよ」
「二人とも同じ日に生まれた双子なのに何を言ってるの?」
ランは容赦なく弟を切り捨てるとリオに取り入った。それを不服そうな目で睨みつけていたシンだったが、リオが脅すように舟を左右に大きく揺らすと急におとなしくなり、それ以上の抵抗はしなくなった。
そうこうしている内に舟は既にワンブロック進んでおり、周りの舟も少しずつ増えてきていた。リオはそろそろ目的地を設定して舟を進めようと二人に問いかける。
「ところで、二人とも行きたい場所とかある?」
しかし、なぜか二人から返事はなかった。
本当に行きたい場所がないのかそれとも多すぎて選べないのかどちらかはわからなかった。こうなると水先案内人の腕の見せ所である。数ある名所の中からおすすめのスポットを紹介する、そういうのも仕事の一つとしてあるからだ。
「行きたい場所、ないの?」
「このまま舟に乗ってるだけじゃダメ?」
「うーん。それでもいいけど。やっぱりいい景色みたいよね?お姉さんがおすすめの絶景ポイントに連れて行ってあげる」
それを聞いた二人の表情が一気に明るくなったようにリオには見えた。そういう表情が見れるというのは水先案内人になって良かったと思える一つの特権である。
「よしっ!頼りがいのあるところ見せてあげるんだから!汚名返上!全力前進!」
リオは二人の期待に応えるべく目的の場所に向かうために一旦中心を通る大運河まで向かう。大運河まで出ると、辺りにはたくさんの人の姿が見える。その中にはもちろんランクリットの住民もいるし観光客だっている。
三人を乗せた船はそんな人混みを追い越しながら再び枝分かれした水路へと侵入していく。
「そういえば二人とも舟が好きって言ってたよね?自分の力で漕いでみる?」
「いいの?」
「ちょっとだけなら」
リオは手に持っていたオールを手渡すとそれを持たせた。そしてそれを一緒に水につけると、せーののタイミングで一緒に後ろ方向に動かした。その後二人はリオが指示する前にオールを持ち上げると再び水につけて後ろに動かす動作を繰り返した。
「上手だね。どこかで習ったの?」
「お母さんがね、水先案内人なの」
ランは自慢げな表情を浮かべてそう答える。
それを聞いて納得がいったリオ。今度はシンが目を輝かせながら母親との思い出を語って聞かせた。
「そのとおり、俺の母ちゃんすげえんだぞ!小さい頃から何度も母ちゃんの舟に乗ってるけど、運転も上手で景色がきれいのところいっぱい知ってるんだ」
「そうなんだ。それはいいお母さんだね。私も同業者として是非一度顔を合わせてみたいよ。ちなみにお母さんの名前はなんて言うの?」
「サーシャ・ティクルって名前。お姉さんもしかして知ってる?」
「サーシャ……ティクル……?」
リオはその聞き覚えのある名前に思わずハッとした。
そしてもう一度目の前にいる双子の顔を見つめると不思議な運命の巡り会わせに思わず表情が緩んだ。
「知ってるも何も、私はあなたのお母さんの舟に乗せてもらって、それで水先案内人ってかっこいいなあって思って家業を継ごうと思ったんだよ。私の憧れの人とでも言うのかな。そうかー、あの人だったんだ。じゃあ、君たちからお金なんか取れないじゃん」
「やっぱり、母ちゃんってすげえ!」
それを聞いてリオも思わず嬉しくなった。
サーシャ・ティクルという意外なつながりを持った三人が、同じ舟に乗っている。しかもその誰もが等しく水先案内人という職業に憧れを抱いていた。
リオはこのときほど自分の職業の影響力というものを感じたことはなかった。
「だったらさ、お姉さんは俺たちなんか載せてていいの?それにさっきはあんな所でのんびり昼寝なんかしてたし。母ちゃんみたいになりたいんでしょ?母ちゃんはいつも忙しそうにしてたよ」
「あの人と比べられたら、私は暇そうに見えるかもね。ってか恥ずかしくなるから比べないで……。技術とか知識とかいろいろなことに関して雲泥の差だから」
「つまり、下手くそってことでしょ!」
「そうじゃないって!調子に乗るなクソガキ!」
リオが再び睨みをきかせるとシンもまた身を小さく縮こまらせた。
リオはそれを見て弁明するように仕方なく自分の置かれた状況について語り始めた。
「うちはお父さんが経営してる小さな会社なの。だから依頼も少ないし、もしあってもお父さんが大抵の仕事持っていく。私はそのおこぼれを少しもらえるだけ。暇そうに見えるのはそのせい」
「じゃあ、俺がお客になってやるよ。そして俺が鍛えてやる。いつでも練習に付き合ってやるからその時はタダで乗せてくれよな」
「調子に乗るなクソガキ」
先程と同じセリフが聞こえた。けれども今度はリオの口からではなくランの口から弟に向けて発せられた言葉だった。
「ランが真似したじゃんか!ほら、お姉ちゃんの言葉遣いが悪いから!母ちゃんはそんな言葉遣いしたことなかったぞ!ダメダメだな」
「うるさい、黙れクソガキ」
「うるさい、黙れクソガキ!」
今度は二人口を揃えて言い放った。
ランはどうやらクソガキ、というフレーズが気に入ったようでその後も楽しそうに何度も口に出してはその度にシンをいじめていたのだった。当のシンはリオとランに挟まれて今度こそ居場所がなさそうにしゅんとして下をうつむいたのであった。
◇◇◇
三人を乗せた舟は入り組んだ水路の奥の方で止まった。
目の前には高い建物。そして、屋上まで続く長い階段が見えた。
「さあ、ここから舟を下りて少しだけ歩きましょー」
「おー」
リオは舟をきっちりと港に固定し手に持ったオールもしまって、そう言った。
絶景スポットと言われてリオが二人を連れてきた先は町外れにある四階建ての建物だった。ランクリットの街にはここよりも高い場所が展望台として設置してあって、その場所は水先案内人を含む街の住民の間では有名なのだが、ここは違う。知る人ぞ知る、街全体を見渡せるポイントだった。
三人は建物横に設置された階段を四階までゆっくり歩き始める。
階段周りの景色は殺風景でところどころ薄汚れていることが確認できるところがあまり利用されていない証拠でもあった。
しかし、三階から四階にかかる階段に差し掛かった時だった。シンが息を切らして文句を垂れ始めた。
「はあはあ……。水先案内人が普通客をこんな所に連れてくるかよ!この階段、結構急じゃねーか!そのうえ手すりもねーし!」
「いちいちうるさいなあ、チビ助。もうすぐ屋上に着くんだから我慢しろっつーの」
「チビ助は余計だっ、そんなんだから姉ちゃんはいつまでも半人前なんだよ!」
「違う!私は、もう一人前なの!チビ助!」
「何だと半人前!」
二人はお互いに譲ることなくキッとした目つきで睨み合った。
そして二人がそんなやり取りをしている間に後ろをついてきていたランは弟の横にまで歩みを進めると息を切らしながら大声を上げる弟に向かって優しく手を差し伸べる。
「大丈夫、シン?手を貸そうか?」
「断る!こんな階段ランや姉ちゃんより早く登りきってやるよ!」
そう宣言してシンは速度を上げて登り始めるとあっという間に折り返して姿を消した。
残されたランは一人心配そうに溜息をついていた。
「もう、前に来た時もそんなこと言って一人でこけて泣いてたくせに」
リオは『前も』という言葉が少し引っかかったものの、いなくなったシンのことが放っておけなかったので彼女自身も急いで階段を登りはじめたのだった。
そして、リオは階段を登りきった先、屋上の入り口で呆然と立ち尽くすシンの姿を見つけた。あとで追いついてきたランもそんな弟の姿を見て同じように立ち尽くした。
リオの耳には何やらぶつぶつと呟くシンの声が聞こえていた。
「知ってる。この景色……。ここ前にも来たことあったんだ……」
リオはにっこりと笑った。そしてランと一緒にのころ少ない階段を登り切る。そして同じ場所に立った三人の目には同じ景色が広がっていた。
そこから見える景色は中央を流れる大水路、そして無数に分かれた小水路……だけではない。そこからみえるのは街の端っこ、空に浮かぶクロスセピアの周りを取り囲む青い空と白い雲である。それに加え三人の目の前には、そんな空に向かって流れ出る水路の水の一部がまるで小さな滝のように映っていた。
「もしかしてと思ったけど、やっぱり二人はこの場所知ってたか……」
「うん。お母さんに連れてきてもらったことがあるんだ」
「あはは。私もサーシャさんに連れられてこの場所を知った身なので……」
リオは苦笑いを浮かべた。そんな彼女の頬を風が吹き付ける。
三人はしばらくその場所から動くことはなかった。目の前の景色がそうさせたのだ。ちょうど前にこの場所を訪れたときもそうだったように。
五分か十分か……、とにかくそれぐらいの時間が経ったころ、やっとリオが動いた。
「うーん、帰ろうか?」
二人は黙って頷いた。
地上につながれた舟の元まで三人が屋上から降りる間の時間は、来た時と打って変わって静かだった。会話がなかったわけではないが、また来たいね、や、それに対する返事など短い言葉しか交わされなかった。
舟のところに戻るとすぐにリオが最初に乗り込み、彼女がサポートしながら残りの二人を舟の上に乗せた。準備が整うと舟をつなぎとめていたロープを外す。そして舟はゆっくりと動き出し街の中心である大水路を目指した。
◇◇◇
大水路に近づくにつれ町の喧騒が聞こえてきた。
「今日はありがとうな、姉ちゃん。ここで降りるよ」
「ダメだよ。ちゃんと家の近くまで送ってあげるから」
シンの提案にリオは振り向いて答えた。しかし、二人はお互いに顔を見合わせたまま、どうする、という表情を浮かべながら相談していた。今度はランの方から口を出した。
「お言葉はありがたいんですけど、やっぱり家まで送ってもらわなくて結構です。寄っていく所があるので大水路に出た所で降ろして下さい。あとは自分たちの足で帰ります」
リオもそれを聞いて、ランが言うのなら仕方がないという顔で受け入れた。二人の様子が少し変だとは思ったがそこまで深く追及することはしなかった。
リオは小さくため息をついて後ろに向けた顔を再び前に向ける。
その時だった。彼女の視界の端にあるものが映った。そちらの方に顔を向けると見えたのは水面にプカプカと浮かぶゴミだった。
水路に紙くずが浮いていた。
「仕方がない、拾っちゃお。よいしょっ、と」
リオは手に持ったオールでそのゴミを手繰り寄せると手で拾って舟の上に乗せた。ゴミ拾いは水先案内人の義務ではなかったが、放置しておくのも気が引けるし、何より悪質な不法投棄は重大な事故につながる恐れもあるのだ。
街の浄化に貢献し清々しい気持ちで再び舟をこぎだすリオだったが、もう一つ問題が起きていた。
「お姉ちゃん。こっちにもゴミが浮いてるよ。拾ってあげる」
そういうランの声が聞こえたのでもう一度振り返ってみると確かに彼女の手にはリオが拾ったものと同じようなゴミが握られていた。
「ありがとう。普段はあまりこの水路を通らないからわからないけど、水路の流れ的に下流に位置するし、意外と拾われないでゴミが溜まってるのかもね」
ゴミが転がっている風景は決して珍しいものではないものの、なんだか少し嫌な感じを覚えながらリオは進行方向に顔を向ける。そして彼女の嫌な予感は悪い方向に的中した。目を細めたその先に見えたのはヘドロのように溜まったごみだった。
リオは思わず言葉を失った。そんな様子を双子も見かねたのかシンが高らかに言った。
「うわー汚い!掃除しなくちゃ!俺も手伝うから掃除しようよ!」
「掃除、する!」
「あは、ありがとう。一度ちゃんと掃除しないといけないね。でも、今はこの舟に掃除道具なんて乗ってないし掃除するにしてもまた今度ね」
リオが二人にそう言うとシンとランも渋々頷いてくれた。リオも掃除をすると口約束をしたものの実際掃除をするとなるともっと多くの人手が必要だと思っていた。それこそ会社総出の大掃除規模である。そのためにはまずあの堅物の父親を説得しなければならず、リオの肩には一気に重い責任がのしかかったのだった。
そしてそのときの三人はごみに意識を集中させるあまり気づいていなかった。その場所にいたのはリオ達だけではなかったことに。その様子を見ている小さな一つの人影がいることに。
「あ、あの!良かったらお手伝いしましょうか?」
そこにはシンやランと同じ年代くらいの少女が立っていた。