第十七話 水先案内人の憂鬱①
ある日の昼下がり
ノアが外で露店を出していると、ことん、と音をたてて彼の近くを流れている水路に一隻の舟が停まった。様子を見るように露店から顔を出したノアは、その舟に乗っていた少女の顔を確認して表情を緩める。
その少女の名はリオ・ポートフェリオと言う。
「久しぶり、リオ。今日は一人?……ってことは、またサボり?」
「しーっ!内緒ね。今日はちょっと疲れちゃったから休憩」
「今日も、でしょ?別に良いけど」
「違う!今日は本当に倒れそうなくらい疲れたの!ツアーだか何だか知らないけど、大人数をひっきりなしに案内してて大変だったんだから、もう!そういうのこそ、うちじゃなくて大手に行けと言いたい!」
そう文句を垂らしながら、リオは建物の壁にぐったりと寄りかかった。
それでも彼女がどこか満足そうな表情に見えたのは、それだけやりがいのある仕事だったからに違いない、とノアは勝手に推測した。リオはいつも「自分も一人前に扱って欲しい」と言っていた。それが今回の件で図らずも示すこととなり、その結果いつも以上にがんばりこんなにも疲労困憊な彼女なのだった。
「少し休んでいきなよ。見ての通りお客なんてほとんど来ないから、ここ」
「それは嬉しいような悲しいような。複雑……」
「うーん。でも事実だからなあ、仕方がない。それでもリオのおかげで前よりマシになったかも」
「やめてー。照れるじゃんか……」
ノアは少し前までは全く売れない部類の物売りだった。
今でも決して大人気とは言えないものの、昔と比べて今では考えられないほどの数の商品を売りさばく商人へと変わっていた。その理由をあげるとすれば、まず思い付くのがカノンとの出会い。彼女のデザインした商品は売り上げが好調である。彼女は女の子らしくて実に可愛らしいデザインをするのに長けているのだ。そんな彼女を一番に贔屓しているのがノアと言っても過言ではない。
そして、もうひとつ忘れてはならないのが、目の前にいる少女で水先案内人のリオの存在である。彼女がノアのお店を観光ルートに加えてくれたお陰で、観光客という固定客ができることとなり、それが売り上げに大きく貢献していた。リオに言わせれば「オススメの観光地を探す自分の利害とちょうど一致した。別に感謝されるようなことではない」ということなのだが、それでもありがたいのに変わりなかった。
「ふむ。今日もクロスセピアは平和だ。いい天気だしこういうときこそお客を乗せなくていいの?」
「…………」
ノアは尋ねたが、不思議なことに返事はなかった。
どうしたのだろう、と思って目を向けると、相当疲れていたのだろうそこには既に眠りに落ちたリオの姿あった。昼下がりの暖かい太陽の下で、無防備にぐうぐうという寝息を立てるリオの声がノアの耳には届いていたのだった。
「って寝てるし。本当に疲れてたんだな……。家に帰ればいいのに」
ノアは彼女の寝顔を見て笑った。
そんな彼女の寝顔を見ていると起こすわけにもいかなかったが、かといってそのままにもしておけず、通りの人の視線から彼女を隠すように少しだけ場所を移動させると、近くにあった布きれを優しく彼女にかけた。それでもリオは少しも目を覚ます様子を見せなかった。
ニ十分、いや、三十分……はっきりと時計を見ていなかったので時間は不明だが、それだけの時間が流れても誰一人ノアの店の前を通ることもなく、リオが目を覚ますこともなく、ノアは一人物思いにふけっていた。その間に二人のいる空間を過ぎていったのは近くを流れる水の音と頬にあたる風の香りと優しい時間だけだった。
そんな折、かたん、という音が再びノアの耳に届いた。
誰かが来たのかもしれない、とノアはゆっくりと顔を上げたが辺りに見えた人影は一つもなく、代わりに見えたのは波に揺られて上下に揺れるリオの舟だけだった。
水路に停めてあるその舟に視線を止める。
再び、かたん、という音がした。どうやらその音は舟が壁に当たる音らしいということがわかった。しかし、重要なのはそこではない。よく目を凝らしてみると、……何ということだろう!誰も乗っていないはずのその舟がゆっくりではあるが下流の方に流されているではないか!
「ちょ……ちょ、ちょ!」
ノアは急いで舟に駆け寄ると、ほどけて見えたロープの端を掴み力いっぱい引き止めた。誰も乗っていなかったので引き止めるのにはそれほど重さは感じなかったが、流れに逆らってそれを引き上げるのにはなかなか苦労した。ノアはたまらず助けを呼ぶ。
「リオ!そこのぐうたらパンダ!起きろ!」
「むにゃあ、どうした?……ってやばっ!もしかしてわたし寝落ちしちゃってた?」
「おい!いいから早く手伝ってくれ!舟が流されてるってば!」
へっ?という素っ頓狂な声を上げるリオ。目覚めたばかりの彼女はいまいち状況を掴めていないようであった。ノアが口頭で叫びながら状況説明を始めると、やっと理解できたようで急いで飛び起きたリオはノアと共に舟を引っ張ってもう一度岸へとつないだ。
「はあ……。ありがとノア」
「見かけによらず力持ちだね、リオは」
「鍛えてますからっ!だってこの仕事ってけっこう筋肉使うんだよ」
「知らなかった。おみそれしました」
「それにしても何で外れたんだろ?今まで一度もこんなことなかったのに。……ってそんな目で見ないでよ。本当だってばっ!」
懐疑の視線を送るノアに対し彼女は精一杯の弁明をして見せた。けれども、どれだけ言葉を並べてもノアの横でぐっすりと眠りに落ちてしまうような疲れを溜めた少女に落ち度がないとは思えなかった。それがわかったのか彼女の表情もだんだんと曇ってきて、とうとう目に涙を浮かべ始めた。
「ぐすっ……、ごめんなさい。私の確認が不十分でした……」
「ちょっと待て。なぜそこで泣くんだ?」
「だって……お父さんにまた怒られるかと思うと……」
「言わないし、バレないし!だから心配ないし」
ノアも困った表情を浮かべながらそう言いかえした。それを聞いて少しだけ気が軽くなったリオはノアに対してにっこりと笑って見せた。
その時、ノアの視界の隅で建物の陰に隠れながらこそこそ動く小さな人影を見た。そのシルエットにひどく見覚えがあったノアは嫌な予感を覚えながらもその影を追いかけ始めた。すると、何かにぶつかるような音と小さな悲鳴が聞こえて、その後にノアの前に小さな人影が二つ現れたのだった。
「痛えな!放せよ、ラン!」
「だめ。ちゃんと謝まらなきゃ。ロープを外したこと」
片方に引きずられるようにして姿を現したのは、双子のシンとランだった。
その言動から察するにリオの舟のロープをほどいた犯人は彼ということらしい。しっかりもののランがこれまたしっかりと弟の腕を掴んでノアの前に差し出していた。
ノアが睨みを利かせるとシンはふてくされた表情を浮かべながらも観念したように抵抗しなくなった。
「ご、ごめんなさーい。……ほら、謝っただろ!だから離せ!」
シンは再び抵抗を始めランの腕をほどこうとする。しかし、姉の方もいい加減そんな弟の扱いに慣れているようで、一度だけ力いっぱい自分の方に腕を引き寄せると、パッと掴んでいた腕を離す。
「はい、離した」
「うわああっ。痛っ!」
案の定、力の加減がうまくいかずにバランスを崩したシンはそのまま盛大に地面にこけてうずくまることとなった。ランは得意げな顔でノアの方に顔を向けた。
「弟がいつもご迷惑をかけます」
「迷惑したのは俺じゃないし。というかどうしてこんなことしたんだ?」
「シンはね、水先案内人を目指してるの。だから舟を見つけて乗りたくなっちゃったんだと思うの。悪気は無いので……と言いたいけど、多分悪気はあるので盛大に懲らしめてやって下さい」
「おい、かばってくれないのかよ!ひどい姉だな」
起き上がって、手についた土を乱暴に払いながらシンは激昂していたが、ランは、そのつもりだけど、だからなに?、という冷めた視線を送るだけだった。
「だってよ、リオ。どうする?」
ノアは舟の持ち主であるリオの方に視線を向けた。今回の件は彼女に一任しようと思ったからだ。しかし、ノアはすぐに首をかしげることになる。その理由は単純、なぜならそれを聞いたリオはなぜか笑っていたからだ。
「なーんだ。水先案内人を目指してるのか。やっぱり彼は舟が好きなの?」
「うん。シンも好きだし私も大好きなの」
「じゃあ、決まりだね。二人とも私の舟に乗っちゃって!」
リオが元気な声で高らかにそう宣言した。
◇◇◇
シンとラン、そしてリオの三人を乗せた舟は水の流れに沿ってゆっくりと岸から離れていく。
リオは少し眠ったおかげで体力が戻ったのか、いつも通りの明るい笑顔をその顔に浮かべていた。一方で、その様子をノアは心配そうに眺めていた。彼女がどのような意図をもって彼らを舟に乗せたかは定かではないが、リオ自身にあまり深い考えはないように思えた。だから、ノアはリオの舟が三メートルほど進んだところでたまらず声をあげ最後に告げる。
「リオ!無理するなよー」
「大丈夫だって!私だって一人前なんだからーっ。おととっ!」
リオは両手を振ってそう応えたが、大きめの波が舟に当たったのか、左右に揺れる舟の上で一人両手をバタバタさせてバランスを巧みにとりはじめた。その後揺れが落ち着いたリオの舟はゆっくりと水路を曲がってその姿を建物の陰に消した。
ノアもそれを見送ると一抹の不安を抱えながらも放置していた自分の露店へと戻って客足の途絶えた店を再開したのであった。