第十五話 学院の便利屋さん③
放課後になると、三人は再び顔を会わせることになった。
カノンとモニカが学生食堂の前についた頃には、パトリシアは既にその場所におり、二人の姿を確認すると、彼女は手を振ってにっこりと笑って見せた。
「そういえば、自分だけ名乗ってお二人のお名前をまだ伺ってませんでしたね。依頼主の名前は知らなくても仕事はできますが、お友達になるお方とはそういうわけにもいかないでしょう?」
パトリシアはさりげなく二人のことを『お友達』と呼んだ。その事がなんだか嬉しくて、カノンとモニカはお互いに顔を見合わせて照れ笑いをしたのだった。
「そうですね。改めまして、一年のカノン・ノベルティと申します」
「同じく一年のモニカ・ハーベストです。よろしくお願いします、パトリシアさん」
二人が自己紹介を済ませるとパトリシアは、こちらこそ、と言って二人に握手を求めてきた。カノンは彼女の手を握ると、その柔らかな感触に少しばかり驚く。そして、彼女が隣にいるモニカの手を握ったとき、ふと思い出したように言った。
「そう言えば、昼休みは私が長く引き止めすぎたせいか、モニカちゃんはずいぶんとお腹が空いているように見えました。あの後はちゃんと食事は取れましたか?」
「実はお菓子のつまみ食いしかしてなくて……。腹ペコペコです」
「それはいけませんね。では、早速場所をどこか食事が取れるところに移しましょう。値段次第では奢って差し上げてもよろしいですよ。先輩ですから」
パトリシアはそう言って鞄を持つと、学院の正門に向かってストストと歩き出した。けれども、五歩ほど進んだところで、もう一度二人の方を振り返り、申し訳なさそうな表情をつくって告げた。
「すみません。近場で良さそうなお店知ってます?よく考えたら、私は通学に舟を使っているので、実はあまりこの辺に詳しく知らないっていう……」
パトリシアは恥ずかしそうに顔を赤らめる。後輩の前だからか先ほどから彼女は少しだけ空回りしているように見えた。けれどもパトリシアのそういうどこか抜けた一面を見ていると、学校中の生徒から頼られている彼女も絵に描いたような完璧超人ではないことがわかり、逆に不思議と親近感が湧いてくるのだった。
「それなら、学院の近くでちょうど良い店知ってますよ。もしかしたら、ノアくん……えっと、前に言った紋章術師の人にも会えるかもしれません。良かったらどうですか?」
カノンがそうアドバイスすると、パトリシアは彼女の意見を喜んで受け入れた。
カノンの言っている良い店とはもちろん、リリックス・カフェのことである。それはモニカにもわかったようで、彼女は立ち止まっているパトリシアに横を揚々とした足取りで通過すると、案内を引き受けるかのように先陣を切って正門を目指した。カノンも遅れて歩き出すと、パトリシアに優しく微笑みかけ、彼女と足取りを揃えながらモニカの後を追っていくのだった。
ラフォード学院の正門前。
教育機関という一種の閉鎖空間と人情あふれる生活空間のちょうど境界線。そこを一歩足を踏み出すと、そこはもう学院内とは違った趣が感じられる。目の前には水路がひかれており、彼女たちの耳には町の喧騒が届き始めたのだった。
「すぐ着きますからこちらから行きましょう。私たち二人ははこう見えても常連ですから道案内は任せてください」
モニカの掛け声とともに、三人は石畳の道を水路を横目に捉えながら歩き始めた。
道すがら、彼女たちに好奇の目を向ける人もちらほら。それらの人々はランクリットを訪れた観光客である。観光都市であるランクリットはそれゆえに外部からのお客も少なくない。彼らにとって学制服姿の三人は街の風景には少し異質に映るのだろうか。
「こちら側に足を運んだのは初めてですが、思ったよりも随分とおしゃれな店が多いんですね。外装的にもそうですけど、何と言っても人々に活気が感じられます」
「中心部ですし人も集まりますからね。外観に気を遣っているところも多いんだと思います」
「それは素晴らしいことですね。……これは意外なビジネスチャンスかもしれません」
「ビジネス……ですか?一体何をするつもりなんです?」
パトリシアはカノンの指摘に、てへっ、という表情を作って見せた。
「でもビジネスと言っても、学院でやっているのと同じことですよ。いわゆる便利屋さんです。それに学院と違ってこの町では大々的に宣伝もできます。需要があるのなら別に悪いことではないでしょう?……ってあれ?ちょっと待って下さる?」
パトリシアはあるものが視界に入り、思わず足を止める。
「でも……ここは全然おしゃれじゃありませんね」
彼女は残念そうにそうこぼした。
パトリシアの言う『町のおしゃれさ』というのは、あくまで表向きは、という但し書きがつくことに気付いたのだ。彼女が見ていたのは人通りの少ない裏路地と言われるような場所。表通りと違って裏路地には閑散としてぺんぺん草が生えているようなところもあるのだ。もっともそういう場所の存在はあまり知られていなかったりもするのだが、偶然にも彼女たちが通った道はそういう小道に面していたのだった。
「ひどいなあ。前までこういう壁の落書きはなかったはずなのに」
そう口に出したのはモニカだった。彼女が目にしていたのは、お店の外壁に描かれた五十センチ四方ほどの大きさの落書きだった。文字だか記号だかわからないような模様がそこには描いてあった。
「ちょっと違うかな。モニカが気づいてなかっただけでこの落書きは前からあったよ。毎日通る場所でも意外と気づかないっていうか、私たちが勝手に目をそらして見ないようにしてるだけかもだけど」
カノンも悲しそうに呟く。
しかし、そのなかで一人、パトリシアだけが自分の鞄の中を漁って一生懸命何かを取り出そうとしていた。そして、しばらくして彼女が得意気に取り出したのは、たくさんの羊皮紙がまとめられた冊子であった。
「ありました。『洗浄の紋章術』。前に一度依頼された仕事があってそのときに作っておいたんです」
「それで何をしようとしているんですか?」
「壁の落書きを消してみようと思います。まあ、見てて下さい……」
そう言って彼女は手元の紙に目を通し始めた。しばらくして確認を終えたパトリシアはそれを脇に置いて両手を落書きのされた外壁へと添える。
そこから数秒後、変化は起きた。
外壁を覆うような大きな魔方陣が生成し、まばゆい光を放ったかと思うと、あっという間に落書きを消し去った。
モニカには何が起きたのかよくわからなかったが、カノンにはこれが『紋章術』による作用だということが理解できた。パトリシアは仕事を終えると誇らしげな表情を浮かべて取り出した冊子を鞄に戻したのだった。
「よし、完了。紋章術にはこういう使い方もあるんです。まあ、知らない人には魔法みたいに見えるかもしれませんけど。まあ誰にでも扱えるものではないからビジネスとして成り立つんですけど」
「やっぱり、紋章術ってすごいです」
「紋章術がすごいんじゃなくて、私がすごいんですよ」
パトリシアが冗談めかしてそう言うと、カノンもモニカも、その通りかも、と笑ったのだった。
◇◇◇
途中の予定外の出来事もあり、本来なら十分ほどで着くはずの道程も、一行がリリックス・カフェについた頃には、すでに三十分近くが経過していた。カノンが遠目から店の中を覗くと、ちょうど店内にノアの姿を確認することができた。彼女はパトリシアに、いますよ、と伝えると扉に手をかける。しかし、ノアの姿を確認したパトリシアがそれを優しく制止した。
「待ってください。一度私一人で店内に入っても良いですか?一人のお客として彼と話してみたいので」
「構いませんよ。どうぞ扉を開けて入ってください。私たちは外で待機していますから」
「ありがとうございます」
カノンが扉にかけていた手を離し、パトリシアは店の前に立った。ドアを開けると、からん、とベルの音が店内に響き渡り、彼女は一斉に店内の注目を集めることとなった。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「ええ。学校帰りにおしゃれな店が見えたもので、つい一人で立ち寄ってしまいました」
「ありがとうございます!すぐ準備しますので空いている席にお掛けになってお待ちください!」
パトリシアの流れるような嘘に、応対したシズカは嬉しくなって軽い足取りで店の奥へと向かった。パトリシアはそれを見届けたあと、店内の空いている席の中でもノアが座っているテーブルと同じ場所に座ったのだった。ノアもそんな彼女に何かしらの意図を感じたようで、含みのある笑みで彼女を見つめ返した。
パトリシアは早速ノアに話しかける。
「こんにちは。あなたもここの店員さん?」
「いいえ。残念ながら違います。俺はここの人と知り合いで頻繁に通ってるいわゆる常連です。本業は小物売りの商売人です」
ノアは手元にあったアクセサリーを彼女に見せながら答える。
「小物売り……ですか?私が聞いた話ではあなたは紋章術師だと伺いましたが」
ノアはそれを聞いて少しだけ身構えた。目の前の少女は偶然などではなく、はっきりとした意図を持ってノアに接触してきたのを理解したからだ。彼女は優しく微笑んで続けた。
「そんなに警戒しないで下さい。私はある商談があってここに来たんです。あなたの紋章術の実力はビジネスとして十分通用します。ですから私の父の会社で働きませんか?」
パトリシアはノアに名刺を差し出した。
「確かに、俺は紋章術も少し使えますが、あなたが期待しているほどのものでは……」
ノアはそこまで口に出して、受け取った名刺のある文字の上で視線を止めた。それは『クラウド』という彼女の姓だった。カノンやモニカは知らなかったが、紋章術師のクラウドといえば、紋章術を勉強しようとすれば必ずといっていいほど目にする有名な名前だった。その実力は折り紙つきで、王室の紋章術の専任講師として選定されているほどだ。しかし、ノアが驚いたのはそんな高名な一族の一人が目の前にいることではなかった。
(もしかして、彼女は俺の正体を知っている……?)
王室での紋章術の専任講師ということは、ノアに紋章術の技術を教えたのはクラウド家の人間、つまり目の前に座っている少女の父親ということになる。
「あなたの父上のことは存じ上げております。何といっても現国王やその弟もあなたの父上に紋章術を教わったとか」
「ご存じだったんですか?自慢できることじゃないですけど父に連れられて私はあのお城に遊びに行ったこともあるんですよ」
その言葉はノアにとっては、より悪い想像を掻きたてる原因となった。
彼女は自分の素性を知っているのか否か。それを確かめるためにノアは目の前に座る少女の瞳の奥を見やった。けれども、そこに見えたのは全てを見透かした者のソレでもなければ、初対面の人に向けるソレでもなかった。そこにあったのは本気でビジネスパートナーを説得しようとする強い意志、それだけだった。
どうやら、パトリシアはノアのことを腕の立つ紋章術師としか認識していないようであった。
「残念だが今の状況では君のところの会社で働くことはできない。でもここで会ったのも何かの縁だ。お客としてなら俺はいつでも君を歓迎するよ。そして……」
まずはお互いのことをより深く知ることが大事だ、と言いかけて彼はやめる。その言葉はいずれ自分の墓穴を掘るような気がしたからだ。やっぱりなんでもない、とお茶を濁すようにしてノアは話をまとめた。
「そうですか。ちょっと強引過ぎたかもしれませんね。何といっても私たちは、『初対面』ですものね?」
その言葉を聞いてノアは再び不安に駆られた。彼女が初対面の言葉をやけに強調したように聞こえたからだ。別に特別な意味はないのかもしれない。けれども今のノアにとっては深読みせずにはいられなかった。
「あ、あの……」
「なんでしょう?」
「いや、やっぱり何でもないです」
正直に、一度お会いしたことがありますよねお城の中で、なんて聞けなかった。というよりもパトリシアはノアの正体を知った上で、わざとこんな聞き方をして楽しんでいるようにも見える……というのはノアの考えすぎなのだろうか。
ちょうどそのときだった。
シズカが店の奥から紅茶を一杯持って現れた。そこで二人の会話は一旦中断される。シズカはとびきりの笑顔で応対し、ティーカップがパトリシアの目の前に、かたん、と小さな音をたてて置かれた。
「お待たせしました!」
「良い香りですね。ありがとう、お嬢さん」
「いえいえ。話が聞こえてきたんですけどあなたもノアくんと同じ紋章術師なんですね、頼もしいです」
パトリシアはそれを聞き、ありがとう、と答えると懐からもう一枚名刺を取り出す。
「パトリシア・クラウドです。紋章術のプログラム作成を請け負っています」
「ご丁寧にありがとう。私はシズカと言います。リリックス・カフェへようこそ、パトリシアさん」
お互いに頭を下げ、挨拶を交わすパトリシアとシズカ。それが終わるとパトリシアは顔を上げてティーカップに一口くちをつけると再びノアの顔を見た。
「紅茶もおいしいし、店員さんもかわいい。私この店のこと気に入ってしまったようです。あなたもこの店の常連なようですし、私も足繁く通ってみようかしら。もちろんお客として」
「そう言っておいて、実は俺に会うことが目的だったりしますか?」
「さあどうかしら?」
そんな二人の会話が交わされる中、二人の話を横に立って黙って聞いていたシズカが突然何かを言いたそうにそわそわしだした。彼女はまるで触れてはいけない秘密を明かす子供のように口を開いては閉じ、ノアにアイコンタクトを送った。ノアがそれを見て首をかしげると、彼女は意を決したように話し始めた。
「ところで、さっきから外でカノンちゃんたちが窓から見てるんだけど……」
シズカが指差した先の窓にはカノンとモニカがひょこひょこと顔を覗かせていた。なぜ二人は店に入ってこないのか、ノアやシズカには不思議に思っていると、パトリシアだけは納得がいったように明るい顔をして答えた。
「忘れていました。彼女たちを外で待機しているように私が言ったんです。中に入ってくるように言わなければいけませんね」
そう言ってパトリシアは店の出入口の方へ赴き、彼女たちとの間を隔てる扉を開けたのだった。