第10章 大地と幻獣
時は流れ、大地の修行は最終段階に入っていた。
大地は今、オイガランと対に立っている。こんなことは初めてであった。この場に立つと、今までの修行の日々が心の底で蘇る。
あれ以後、徐々に過剰していった修行の苦しさ。途中、朧が見ていないことを見計らって約束であった海岸沿いを外れ、島の中心へ向かった挙句、中央のみ生息する強暴な魔物共に殺されそうになった恐怖心。後悔をバネにして修業して島中の魔物を一掃したときの爽快感。そして今、島最強を言われた幻獣――オイガランの前に立っているという緊張感。それらがすべて入り混じって大地の力となっている。
大地は天にも聳えるかのごとく立ち尽くすオイガランの頭を見上げた。戦闘開始である。
修行により、一層力をつけた足で地を蹴り、大地はオイガランに向かい始めた。ステップを踏んで、できる限りに高々と雄飛する。初めて《ギガ》を下ろして舞い上がった時の驚きを思い出す。10メートル以上もジャンプしたことなんか今までに体験したこともなかった大地にとってみれば、喜悦のほかに言えることがなかった。その時はあまりの高さに心が怯えてしまっていたのだが、今では高所も板に付いている。大地の剣先はオイガランの腹部を向いている。付ききろうとした刹那、この巨漢からは想像もできない動きを大地は目撃する事となった。近づく影は大きな手。影に包まれた大地は横見する隙もなく、叩き飛ばされた。猛烈に回転しながら、人が宙を舞って落ちていく。その光景はまさに人に叩かれた虫のようだ。
虫のように飛ばされた大地は島の森の中へと墜落する。
「ダイチ!」
朧が住していた洞窟から大地の卒業試験を眺めていたフィアラはオイガランの猛打を受けた大地に心配の声を飛ばした。その傍らに仁王立ちして見守る朧師匠は「大地があれほどでくたばる訳なかろう」と無論、フィアラに言った訳でもなく言ったのだが、それを聞いたフィアラの表情は変わらなかった。
「いってぇな。でもこれだけ強く攻撃受けても平気って正直すごいな」
大地にクレーター作るほどに叩きつけられたはずの大地は平気な顔して立ち上がる。2つの目が大地の方を見た。本気になったオイガランを大地は見たことがなかったが、今のオイガランはそのものだろう。 「ブォーン!」と唸り声を上げ、森を一掃しながら走り進んでくる巨人は破壊神とでも似つかわしい魔物だった。
大地は再臨す。再びオイガランの腹部を目指して雄飛する。同じ戦法しか頭にないのか、オイガランは動揺に大地に手を振ってきた。同じ戦法……? ダイチは違う。学習するのが人間だろ? ダイチは振ってきた手に向かって剣を振り返す。我が身へのダメージは想定してもオイガランに血を噴かせたのは、なんとも気持ちがいいというか。さっきほどでもないが、吹っ飛んだ大地は反射的に飛び出して唾液を拭って、地に足を着ける。
ダメージは健在のようだ。手を引っ込めたオイガランは「うぅ……」と疼く創に唸った。それを見て大地は、にっと笑みを浮かべる。調子に乗り始めた。大地は再びオイガランに立ち向かっていく。剣をぶんっと振ってさらに調子に乗った様子を周囲にふりまく。
オイガランの真横に回った大地は跳び上がった。オイガランの横腹を狙う。剛を意して大振りに剣を振った。さっきの創では済まんぞ! 大ダメージを期待できる大地の一撃は――。
カスッ。外れた。何!? 確かに大地の剣は当たる寸前までオイガランの皮膚に向かっていたのだ。それなのに当たらないはずがない。不意に大地は背後から近づく不吉な影に目線を走らせた。何でだよ!? オイガランの堅く握られた拳が大地の小さな体を地に叩きつける。
今の攻撃はさすがに大地の肉体にも精神にも多大なダメージを与えた。「げほっ!」と嘔吐する勢いで血を吐き捨てる。血を吐くことなどもう慣れ慣れたことなのに、大地にはそれに恐怖心を駆られた。息が荒くなる。心拍数が上がる。地に映る黒い巨大な影を見てもはっとしなかった大地に朧が「避けろ、大地!」と叫び伝える。突き抜けた声でハッと我に返って、大地は振りかかった巨大な影から身を躱した。島を揺るがす振動はオイガランによるものだ。こんなもの受けていたら大地も確実にぺちゃんこだった。 ごくっと息を呑んで、呼吸数、心配数は上がる一方だった。恐怖心が込み上がる感じを覚えた大地は戦意を失いかけていた。その時――。
「大地、何をやっとる! そんな攻撃受けただけで情けないぞ! しっかいせい!」
朧の声に意志が宿り、大地の闘争心を湧き上がらせた。立ち上がり、オイガランを一瞬見たものの、今の大地の脳に朧を見るという命令以外は身体に出せなかった。
「師匠、こんなの聞いてないよ!」
「幻の如く姿を消し、再び現れる。その生態ゆえに幻獣と呼ばれておるんじゃ」
「そんな、どうすれば」
振りかかった拳をひらりと避ける。策を頭の中で考える。オイガランが再び姿を消す。策が思いつかないが、自分の直感に頼ることを勝手に結論付けて迎え撃つ体勢になった。
オイガランの拳が背後から近づいてくるのを直感で感じ取ると、すぐさま剣を振った。だが、オイガランも剣が当たる前に煙のように姿を消し、攻撃を避けた。突然現れたと思えばいきなり振られた拳を避け、油断したオイガランの足を狙いに行ったが、避けられる。これではキリがない。何か先に考えを尽かせないと自分が先に倒れてしまう、と焦る気を擡げた。日が暮れればオイガランも消えてしまい、試験は終わりだというのに、それまでに斃せというのもまた大地の気を焦らせる。
「どうしたら……どうしたら」
まだまだ戦闘経験も僅かで未熟な大地にとってオイガランは難攻不落の魔物のように思えた。作戦を考案するのに頭を回していた大地は一瞬の気の緩みに惑わされて、オイガランの拳が迫ってきていることに気が付かなかった。オイガランの拳の直撃。「ぶへっ!」と血を吐き散らしながら、3回転ほど宙で回り、地に転落した。
「うぐ、うぐ……」
口へと上ってきた体内の血を吐き出す大地はまさに血反吐を吐く思いでいるであろう。
「ぐは、ぐは」
暢気の鳴き声出したオイガランが巨体を引きずらせながら大地の元へ接近している。万事休すだ。今にも意気消沈してしまいそうな大地も、今にも大地に鉄槌を下しそうなオイガランも、今も尚平然と最期を見守るような面で弟子を見る朧も、全てに見兼ねてフィアラは声を発した。
「おじさん、あのままじゃ、ダイチが死んじゃう!」
朧に聞こえていないことなど承知の上だった。組まれた腕の肘を叩いたフィアラに朧は反応して、「ん?」と下を眺める。
「ダイチが死んじゃう!」
「心配なのか?」
もう1度肘を叩いて返事したつもりをする。
「大丈夫じゃよ。ダイチは必ず勝つぞぃ。今までの修行を見てきたじゃろうに」
「でも……」
「それなら自分で応援すればいい」
いつになく何となく会話が成立したが、朧の言うことは正しいように思えた。ただ見ているだけで、時にピンチになった時だけ朧に頼るとは何とも頼りない、情けない、パートナーとしての自覚がないような気がしてフィアラは自我を立て直した。一時跪いていた上体を起こして、同じく跪いて大地に目一杯に声を飛ばした。
「ダイチ、しっかりしてー!」
フィアラの声が大地の耳に届いたのかは露知らずも、大地は落ち込んでいた膝を持ち上げて、立ち上がった。血に汚れた口元を拭う大地の表情は硬い。呼吸数も多いようだ。だが、強敵に立ち向かう勇気だけはへこたれてはいなかった。
「大地よ。今までの修行は何だったのじゃ! 得意の直感をさらに研ぎ澄ませ! そうすればきっと奴の気配も感じ取れる」
唐突に朧師匠の助言らしきものが大地に届く。
「助言なんて必要ないよ、師匠」
暗く澱んだ大地の顔にオイガランの拳が再び向かってくる。大地は何の変化球も使わず、普通に剣を振った。無論、オイガランは姿を消す……煙のように。そしてオイガランは姿を現す……。ダイチが避ける……。エンドレスバトルであり、どちらかの体力が尽きるまで(又は夕陽が暮れるまで)終わらない戦い……。1条件除いて、終わりは来ない。と思われたが……!
大地は静かだった。瞼を閉じ、静寂な空間に心を落とし、心底に垂れ落ちる集中力を象徴する水が溜まる。直感が研ぎ澄まされていく。姿を露にしたオイガランの拳が大地の身体を砕きに入る。「ダイチ!」フィアラの声が響く。
刹那、大地の身体がゆらりと右へ傾いたかと思うと、それはオイガランの拳が当たるずっと前であり、当然のように攻撃を躱した。しかしながら、よくよく考えてみると大地は目をつぶっていたのだ。避けられるはずがなかった。が、現実にそれを避けたのだ。実に凄まじい現象。常識を覆すほどの直感を持ち合わせているようだ、大地は。
「ウガウガ」を「直感がすごいのは分かったが、それが何なのだ」と省略できそうな調子のオイガランは再び姿を消した。
限界域まで研ぎ澄まされた大地の集中力は剣に纏い、大地の元から虚空に向かって投げ飛ばされた。
「そこだー!」
我を覚ました大地の剣の切っ先は何もない空気にぶつかった。鋭い殺気の感じられる音と共に。斑に変色しながら透明な体を不可視から切り離したオイガランが疼き、島中の轟く悲鳴を上げる。横腹に突き刺さった剣は抜かれる訳でもなく、健在である。
「大地。オイガランの移動先を直感のみで見極めるとは、やはりできると思っておったぞ」
「ダイチ、やればできるじゃないの」
2人の感心を受け、大地は跳び上がってオイガランに刺さっている剣を引き抜いた。巨体に適って大量の血が噴出する。返り血を顔に浴びてもその冷徹な表情を崩さない大地はたんと地に足を着けた。
「一撃で決める!」
舞い上がった。大地的前人未到の速度で宙へ。疼痛を訴えるオイガランに姿を消す余裕はないようだ。腹のど真ん中めがけて繰り出された渾身の一撃は正確に急所に入り込んだ。幻獣と称されるオイガランが空中を半ば仰け反って飛んでいくのを3人は見た。悠然と見つめる大地に対して、フィアラと朧は飛び出しかねないぐらいに瞠若している。
島を破壊するんじゃないか、とも心配してしまうほどに大袈裟な転落を見せた。短くも呆気ない幕切れとなってしまったが、森林を一掃して横たわったオイガランを見る限りでは大地の勝利は確定のようだった。緊張感から解き放たれた大地の精神が弛緩し、表情も柔らかく温厚且つかつてない達成感に満ち溢れていた。
「よくやったぞ」
弟子の勝利に喜びを隠せない朧は頷き続ける。
「ダイチ、すごいじゃない。あんなおっきな奴斃しちゃうなんて」
いつの間にか寄って来ていたフィアラ。大地はにこやかに笑って見せた。フィアラも同じように笑い返す。
朧師匠も寄ってきた。
「大地よ。本当によくやったぞ。これで修業はすべて終わりじゃ。まぁ、お前さんたちももうそろそろ行かんといかんのじゃろう」
「師匠。もしかして……」
「いや、わしも正直、本当にオイガランを倒してしまうとは思ってなかったんじゃが、まさかあの一撃で倒れるとは予想外じゃったからのぅ。どっちみち倒せんでも合格のつもりではおったんじゃが」
「へへ……」
大地は軽く微苦笑した。
今回の勝利が何故現実のものとなったのか。さっき、最後の攻撃の際に大地は何かを言い放っていた。爆音にかき消された大地の言葉は空高くへと消えていき、誰一人聞く者はいないと思われていたのだが、ただ1人、唖然とした空気の中でもその言葉をしっかりと耳に入れていたようだ。真実はこの後明らかとなるだろう。
「まぁ、食え。食うがいい。今日はいつも以上に大サービスだ!」
「おじさんいっつもサービスじゃない」
フィアラの声も耳に入っているのかいないのか、「そんなこともないぞ」と会話成立したため、フィアラも初めて姿を見られたと勘違いしてしまうほどだった。
「当たっとるだろう?」
骨付き肉をフィアラに指した朧はもごもご口調だ。
どうやら見えていないようだ、と安心する。……かしないか。まだまだ人間と生活した時間が短いことを改めて自覚した。欲望も何もないのだが、フィアラは少しだけ大地の方へ体を寄せた。
肉を頬張る大地。「フィアラ、どうしたの?」と訊く。
「えっ、いや、あたしっていつになったら他の人にも見えるようになるのかなって」
「フィアラは他の人に見えるようになりたいの?」
「当たり前でしょ。全ての者に見えるようになることこそが妖精としての義務であって、一人前になった証拠なんだから」
「じゃあ、僕が一緒にいればいいってこと?」
「まぁ、そういうこと。大地はパートナーとしていてくれればいいの」
それ以後フィアラは話さなかった。後は肉の火の通りの悪さに無言で怒気をラゴスで代用して、生焼けたどうしようもない肉をジューシーな焼き加減に調整して召し上がっていただけだ。
右に目線を移した大地は朧が何か話したがっているような妙な気配を洞窟中に発しているのを感じ取って、耳を傾けた。
「それで、大地よ。あの時に発した言葉は何じゃ?」
「えっ、し、師匠、あれは……」
止めようとした大地を無視し、朧は例の言葉を口に出した。
「確か……不死鳥斬と言っておらんかったか?」
無論。黙り込んだ大地はまさに「正解です」と言っているも同然の態度だった。
「技名か?」
「何となく」
「根拠は?」
「特にない」
「本当か?」
「はい」(途中までのセリフが実に素晴らしい並びに思える)
「……勝因はそれか?」
「何がですか?」
「『名に魂籠めし技出せば、大いなる力生まれし』っちゅうわしの考えた言葉がある」
って、師匠が考えたんかい、とツッコみを入れたくなる気持ちは心の片隅に、大地はその言葉の意味を脳漿絞って考えた。せっかく使った脳味噌も考え付く前に朧に答えを言われてしまったせいで空しく無駄なしようとなった。
「まぁ、適当にでも自分の気に入った技名を付けてやった方が運気的なものが上がるということじゃ」
「確かにそれ言った時、体中に力が漲ったような気がして」
「気のせいじゃがな。イメージじゃイメージ」
「イメージですか。今後もう1回使ってみます」
「おぅ、何度でも言い放つがいい。力を強くしていくにつれて技名もかっこよくした方がいいかもな。余談じゃが、わしはそんな余分なことは言わんぞ。口を動かしとる暇があったら、体を動かせって思うな。言っておくが、もっともっと上級者はそんな幼稚なことは言っておらんぞ」
「え~じゃあ、呪文はどうなんですか?」
「呪文なんかは元より体を動かす必要はなかろう。はぁ、わしも一度で言いから呪文も使ってみたいもんじゃ。剣術も魔術も使える大地は羨ましいわい」
逆に尊敬されているような気になって大地は思わず呵々した。流れに乗ったのか、フィアラも何故か笑う出し、朧も呵々大笑し出す。3人(2人)の小さな宴は一晩中、ほっこりした洞窟の中で続いていた。