第一章 迷子の手紙と世界の終わりの物語 -3-
喧騒の耐えないヴェストリ通りを一歩外に出ると、もうすっかり暗くなっていた。
背中に人工的な光を受けながら、長く伸びた自分の影から目を上げ、ソーマは影のように聳える図書館を見上げた。図書館にはまだ人が残っているのか明かりがついた窓がいくつか見えた。しかし、それでもヴェストリ通りの華やかな明るさとは違ってささやかな明るさだ。
この巨大な建物の中で一般に開架されているのは、一階と二階の部分だけだ。本をあまり読まないソーマはこの建物の中には数えるほどしか入ったことはないが、それでも本に埋め尽くされていて圧倒されたことを朧気に覚えている。
返却用ポストは図書館の出入り口の脇にささやかに備え付けられていた。この莫大な蔵書を誇る図書館において、ソーマの身長の三分の一程しかないこじんまりとした本ポストがひとつしか置かれていないのは不思議でしょうがない。
本を投函しようとして、ふいにソーマの手が止まった。
ナツメがどんな本を読んでいるのか好奇心が首をもたげたのだ。記憶にある限りナツメはそれほど本を読むほうではない。ましてやこんな分厚い本を三冊も借りるなんてことはなかった。意外なナツメの嗜好などが垣間見れるかもしれないと、ちょっとした秘密を覗く心地でソーマは投函しようとしていた本の題名を見た。
―――『カラスの生態・完全版』
「……カラスかよ」
思わずソーマは項垂れてしまった。カラスの生態について辞書ほどの厚さの本が書ける人間がいることにも驚いたが、それを借りてわざわざ家でじっくり読もうなんて考える人間がいるのも驚きだ。おそらく図書カードにはナツメの名前しか書かれていないに違いない。
「もしかして、残りの本もカラス関係なんじゃ……。いや、いくらナツメでもそれは無いだろう」
言いようのない不安を抱えたまま、ソーマは顔を引きつらせて恐る恐るもう一冊取り出してみる。
―――『身近な鳥シリーズ ―カラス・ハト偏―』
「……」
年頃の女の子がカラスについて書かれた本を、しかもこんな分厚い本を嬉々として読むのってどうなんだろう。……もう、これ以上見ないほうがいいかもしれない。
しかし、理性の警告に反して手は最後の本に向かった。
生唾を飲むと、ソーマは最後の一冊を抜き出した。
「……?」
『世界の終わりの物語』
予想外の題に、ソーマは一瞬文字の読み方を忘れた。
「世界の……終わり?」
何の本だろうと、ソーマは首を傾げる。とりあえずカラスの本で無いのは確かで、ほっとした。
ソーマはページを捲っていった。挿絵はない。細かい文字がびっしりとページを埋め尽くす、ソーマが一番苦手な形式の本。題名からするとおそらく小説なのだろうか。
昔から本を読む暇があるくらいなら、遊びでも仕事でもとにかく外で体を動かすのが性にあっていたナツメが何故こんな本を借りようと思ったのか、ソーマは首を傾げた。
「ナツメの奴、こんな本読んでるなんて意外だな」
「ソーマが図書館で本を借りるなんて意外だな」
「うわぁ」
息がかかるくらいのすぐ後ろから声がして、驚いたソーマは慌てて本を閉じると急いで三冊ともポストに押し込んだ。押し込んだ後で、やましい事でもないのだからそんなに慌てる必要がない、ということに気づいがもう遅い。
「さては、何か人にいえないような変な本でも借りていたんだな」
「いいえ、全然違います」
後ろを振り向くと、ソーマよりも頭一つ分くらい大きい青年が立っていた。眼鏡の奥の瞳は楽しそうに笑っている。色素の薄い癖のある髪と、淡い赤みがかった瞳の青年はカガチという。年が離れていることもありソーマ自身は遊んだ記憶はほとんどないのだが、家の近くに住んでいたカガチはナツメの幼馴染のような存在でよくパンを買いに来たことは覚えている。今は図書館で司書として働いていると聞いた。
「本当にナツメに言われて、代わりに本を返しに来ただけです」
「そうだね。そういうことにしておこう」
何やら難しい顔をして頷いている。
「本当にそうなんです」
「いいや、そんなに隠すことでもないよ」
「あのですね。証拠に、明日この中見ればカラスに関する分厚い本が二冊も入ってます」
「なるほど、確かにこの街でカラスの本を同時に二冊も借りるのはナツメくらいかもしれない。でも、確か本は三冊あっただろ?」
「もう一冊もナツメが借りたものです!」
むきになると余計誤解を招くと分かっていても、気が焦って思わず声が大きくなってしまう。後ろめたいことなど無いはずなのに、気がつけば追い詰められて赤面している。そんなソーマの表情を見て、カガチは堪えきれないといった様子でお腹を抱えて笑い出した。
「分かってる。分かってるよ。だから、そんなに必死に否定しなくても大丈夫」
指で涙を拭きながら、笑いを噛み殺してカガチは言った。どうやら最初からからかわれていたらしい。ソーマの顔はそれこそ熟れた烏瓜よりも紅く染まった。肩の力が抜けて、安堵のため息がでる。
「からかわないで下さいよ」
ソーマの弱弱しい抗議に、カガチは「ついね」と悪びれずに答えた。
「それにしてもナツメが本を三冊も借りるなんて驚いたな。昔は外で遊ばないとふやけるとか言ってところ構わず連れまわされたのに」
カガチは手を顎に当てて不思議そうな顔をした。
「そうですね。俺もよく寝ているところを叩き起こされました」
ソーマが大げさに肩を落として見せるとカガチは苦笑いした。
「カガチさんはこんな時間まで仕事ですか?」
「ああ、今日はちょっと仕事が溜まっていてね。こんな時間になってしまったんだ。この図書館は規模の割りに働く人間が少なすぎるんだよ。そして、それ以上に仕事を増やす人間が多すぎるんだ」
建物を見上げながらカガチは呟いた。真っ黒い影には穴のように、ぽつりぽつりといくつかの頼りない明かりが灯っている。
「まだ、仕事している人もいるんですね。いつも図書館はこんなに遅くまで働いている人がいるんですか?」
「この図書館には家に帰るよりここで仕事しているほうが幸せだ、っていう本中毒者が沢山いるんだ。あと、四六時中自分の研究について考えている研究者とか。半分ここで住んでいるような奴も多いしね。あと、夜に図書館に来る人も多い」
「この時間も図書館はやっているんですか?」
「登録された限られた人だけね。朝早く行くと、机に突っ伏して寝ている人とか、よくいるよ。幸せな顔してさ」
「俺は自分のベットで寝ているのが、一番幸せです」
きっぱりとソーマがいうとカガチは笑った。
「僕も寝るときはそっちのほうが幸せだな。さて、そろそろ僕は帰るとするよ。君も早く帰らないと、トウワタ老が待ちくたびれてるんじゃないか?」
「そうだ、待ってはいないだろうけど、早く帰らないと俺の分の夕飯がなくなる」
「じゃあ」とカガチに別れを告げる。ソーマはアウトリ通りへと去っていくカガチが、腕に本を何冊か抱えていることに気付いた。図書館で働くようになってからカガチは家を出て一人暮らしをしている。おそらくカガチはそこで誰にも邪魔されずに読書に耽るのだろう。
本人がそういったとおり、この図書館には本を手放せない本中毒者が多くカガチもその例に漏れないのだ。
空を見上げると真っ黒な空と無数の瞬く星が広がっている。暗い夜は昼と違って、空と地上の境目が曖昧だ。ソーマは闇に侵食されてくすんだ赤い自転車にまたがると、その一つの闇に向かって漕ぎ出した。
すんと澄み渡る夜の空気を肺いっぱいに吸い込んで、誰もいない静かな大通りを郵便局へと帰るそのときがソーマはとても好きだ。
しかし、いつもの配達帰りの時のように夜風を受けながら、滑空するように道を行くソーマの胸に、夜よりも暗い色をした小さな塊が張り付いていた。
―――世界の終わりの物語
夜のイメージに近い、ナツメのイメージとはかけ離れたその本が、影のようにソーマに寄り添って離れない。本の内容をもうちょっとよく見ておけばよかったと、慌てて本を返してしまったことを後悔した。
大通りを離れ、一層暗い曲がりくねった道の先にあるギフ郵便局の二階には、図書館の明かりよりもさらに鈍い光が燈っていた。
「ただいま」
一階にある職場は灯りを落とされてもう暗い。薄暗い部屋にかかっている古びた時計は八時を指している。さすがに帰る時間にしては遅すぎた。
ソーマは仕分けされた手紙の山を崩さないように気を付けながら、部屋の端に設けられた人一人がやっと通れるほどの階段に向かい、足音を立てないように慎重に上がった。
顔だけを伸ばして、恐る恐る部屋の様子を伺う。
明かりはついているのになぜか人影は見えない。
けちなトウワタ老が明かりをつけたまま、出かけることはない。ソーマは不思議に思って首をさらに伸ばした。
「帰ったんならさっさと部屋に入らんか。いつまでそこいるつもりだ。鬱陶しい」
真上からの唐突な声に、ソーマは伸ばしたばかりの首を亀のようにすくめた。声のほうを見上げると、屋根裏へ続く梯子からトウワタ老がちょうど降りてくるところだった。
「びっくりしたなぁ。俺の部屋に用でもあったのかよ」
「お前の部屋じゃない。わしの部屋の一室を貸してやっているだけだ。それにしても、遅かったな。飯はもう冷めとるぞ」
いつもよりも二割り増しの厳格とした口調で言った。
「あはははは。まぁ、それはしょうがないかな」
ソーマは愛想笑いを浮かべながらトウワタ老の表情を盗み見た。相変わらず老人の表情は固まってしまったかのように動かない。この三年、ソーマが一緒にすごして唯一分かった表情の変化は、常に不機嫌なトウワタ老が取り返しがつかないくらい怒ると眉間の皺が二本から四本に増えるということだけだ。
ソーマはトウワタ老の眉間を注視した。皺は二本。安全圏だ。
「配達が遅くなると相手にも迷惑だ。ちゃんと早くに配達に行けといつも言っておるだろう」
「分かってるよ。ほら、最後にナツメのところに行ったら遅くなったんだ。帰りにパンくれた。二人で食べろってさ」
「そうか」
ソーマはトウワタ老にパンの詰まった包みと空になった郵便鞄を渡すと、急いで食卓に着いた。
今日の夕飯はシチュー。配達終わりの夕飯は一日のうちで一番楽しみな食事だ。もう冷めてしまったシチューを火にかけて温める。長年やっているが、夕飯が出来たときに配達から帰ってこれることは滅多にないのだ。
「うん、おいしい」
いつもより配達量が多かった分、ソーマの食欲は旺盛だった。熱いシチューを一気に掻き込むと、二杯目に取り掛かった。
「ソーマ」
二杯目のシチューをよそおうとしているソーマを、トウワタ老の太い声がとめた。
「何?」
「これは何だ?」
トウワタ老はソーマの郵便鞄から封筒を取り出すとソーマに差し出した。ソーマは訳も分からず受け取ると、その封筒をためつすがめつした。
封筒は、多分白かったのだろうと思う。相当古いものなのか、何か封筒の上にこぼしたのか分からないが、随分色あせてしまっている。何よりも奇妙なのは、その封筒に宛先が書かれていないことだ。裏にも差出人の名は書かれていない。
「今鞄の中を見たらそんなものが入っていたのだが。一体どこでそんなものを拾ったんだ?」
ソーマは恐る恐るトウワタ老を見た。眉間に皴が四本。どうも怒っているらしいが、ソーマはこの件に関しては怒られる筋合いはない。
「俺が配達に行ったときにはこんなもの入っていなかった」
「じゃが今見たら入っておったぞ」
「知らないよ。それに、入っていたとしても宛て先が書かれていないんじゃ配達できない。そういうのってトウワタじぃさんが仕分けした時にちゃんと弾いとくべきものだろ。俺は何も悪くないぞ」
「わしのミスだと言うのか、お前は。何年この仕事をしていると思っているんだ? たかが三年しか働いていないお前とは違う。いいか、わしが仕分けして鞄に詰めたときには、そんな封筒は入っていなかった」
トウワタ老の表情が更に険しくなる。皴は五本。
「お、俺がわざわざそんな物を入れる訳ないだろ」
一応反論は止めないが、皺五本は未知の領域でいまいち声が小さくなる。下手をすると今朝のように、顔面に辞書を落とされるだけではすまない。
お互い睨み合ったまま――ソーマはどちらかというと蛇に睨まれた蛙であったが――沈黙が訪れた。
その沈黙を解いたのはトウワタ老であった。
「分かった。この封筒はいつの間にかこの鞄の中に入っていたのだな」
「まあ、じぃさんも俺も知らないっていうんならそうかもな」
知らぬ間に封筒が紛れ込むなんてことは、普通に考えればまず無い。ソーマは自分入れる訳がないから、原因はトウワタ老の方にあると確信しているのだが、それを言ってまた睨まれるのはごめんだった。
「で、その封筒どうするんだ?」
恐る恐るソーマは聞いた。トウワタ老はいつも通りの表情に戻ったが、問題は消えたわけではない。差出人の名がないのだから、返すこともできない。
「封を開ける」
ソーマの質問にトウワタ老は簡潔に答えた。
「いいのかよ。勝手に開けて」
「良くはないが他に方法はない。もしかしたら急ぎの用かもしれん」
「急ぎの用なら直接相手の所に行くんじゃないか」
慌てるソーマに対してトウワタ老は冷静だ。戸棚から鋏を取り出すと、躊躇いもなく封を切った。ソーマはトウワタ老の行動を息を呑んで見守った。
誰かの秘密が今、開け放たれたのだ。
トウワタ老は封筒から一枚の便箋を取り出すと、黙読した。
「なぁ、何が書かれているんだ?」
好奇心を抑えきれず、トウワタ老に訊いたが、答えは返ってこない。待っていたところでトウワタ老は何も教えてくれないと悟ったソーマは、トウワタ老の脇に行くと手紙を覗き込んだ。
封筒と同じく飾り気のない無地の便箋も古く色あせている。字は簡素で綺麗だ。男と女のどちらが書いたのかも分からない。
「えーっと。……なんだこれ?」
ソーマは顔をしかめた。ざっと見たところ、手紙の中にも差出人の名は書かれていない。手紙の内容は、他愛もないものだった。日記、と言ってもいい。何の変哲もない日常について書かれたものだ。
「急ぎの用ではなかったようだな。が、なかに宛名も何も書かれていないから、届けようがない。お手上げだ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「ここで保管しておくしかあるまい。むやみに捨てるわけにはいかんからな」
トウワタ老はそう言うと、便箋を封筒に戻し、戸棚の奥からブリキ缶を取り出すとそこに入れた。缶の中には古びた手紙がいくつか入っているのが見えた。
「こういう行き先不明の手紙ってよくあるのか?」
「たまにな。届けてやりたいが、どうにもならん」
行き場のない手紙を溜め込んだブリキの缶が、トウワタ老の手によって暗く狭い戸棚の奥にしまわれるのを複雑な心地でみた。普段何気なく使っていた棚に隠されていた手紙。
「見ていい? それ」
トウワタ老が蓋をする瞬間、ソーマは思わずそう口に出していた。
「人の手紙など、無闇に見るものじゃない」
「それは分かってるんだけど、ちょっとだけ、さ。それにほら、筆跡見たら誰の手紙かわかるかも知れないし」
しばらくの沈黙の後、トウワタ老はソーマにブリキの缶を差し出した。見てもいい、ということらしい。ソーマは受け取ると、手紙を取り出した。
「多いんだな、結構。一番古いのはどれくらい前のものなんだ?」
「恐らく、一番底にあるやつだろうが、いつきたのかは知らん。……わしが働く前だ」
ソーマは缶の一番底にある、一層古ぼけた封筒を取り出した。丁寧に手紙を取り出すと、開けた。小さな字が行儀よく並んでいる。ソーマは手紙を読むと、目を丸くした。思わず顔を上げて、トウワタ老を見る。トウワタ老は何も言わず、黙ったままだ。
ソーマはその手紙を戻すと、手当たり次第に封筒から手紙を出して読んだ。便箋も封筒も様々。筆跡も、同一人物が書かれていると思われるものもあるが、ほとんどが別の人物によって書かれていた。不思議なことに、これだけある手紙に知っている筆跡は一つもなかった。まだ三年しか働いてはいないとはいえ、ソーマは仕分けで様々な人の字を見て覚えている。一番奇妙なことは、これだけ様々な人の手紙があるのに、内容がどれも似通っていることだった。どれも手紙ではない。日記なのだ。『帽子を作ってもらった』、『街でお菓子を買ってもらった』、『秋が来たて涼しくなった』など、取りとめのないことばかりが書き連なっている。
ソーマはため息をつくと、トウワタ老の顔を見た。トウワタ老は、いつもと変わらず世の中に不満しかないかというようなぶっちょう面で、黙ってソーマのほうを見ていた。
「これ、一体何なんだ? 集団のいたずらとか?」
「かもしれんな」
そう、酷くつまらなそうに一言だけ言った。
「こんな手紙をよこしてどうしようって言うんだろう。こんな手紙、もらっても困るだけだと思うけど……」
「さあな。気が済んだら元に戻せ」
ソーマは最後にもう一度手紙を見直すと、封筒に入れ、元のようにブリキの缶の中に戻した。きっちりと蓋をすると、そのブリキ缶はトウワタ老の手で再びもとの棚の奥にしまわれた。ソーマは不思議な気分でそれを眺めていた。暗い暗い棚の底にあんなものが眠っていたのだ。
ふと、ソーマの脳裏にある言葉が甦った。
世界の終わりの物語。
それは誰も受け取る者のいない、ブリキ缶にしまわれた手紙達のための言葉のような気がしてならなかった。