第五章 世界の壊れる音と世界の生まれる音 -2-
「え?」
ソーマは驚いた。人形がしゃべったのだ。しかも、その言葉には聞き覚えがあった。ナツメが言っていた、ヒオウギがしゃべったという台詞に似ているのだ。ソーマは人形の姿を見た。すると、人形の半分は毛糸になってしまっている髪に、赤いリボンが巻かれているのが見えた。小さい人形には少し不恰好なほどの長さのリボンだ。
「お前が、あの言葉の正体だったのか」
ソーマは人形に話しかけたが、やはり何の反応も返っては来ない。人形は本当にただの人形のように、ピクリとも動かずにそこにうずくまっていた。
「お前は一体、どこに行くつもりなんだ? この世界は旧世界なのか? どうして、そんな中途半端な格好をしてるんだよ」
それでもソーマは話しかけ続けた。
少女は朝日を浴びて起きると、歩き始めた。
何の面白みもないこの変化のない世界を歩く中で、少女は昔の思いに浸っていた。そうしないと、歩みを止めてしまいそうだった。
思い出されるのはやはり、おばあさんのことだ。
まだ小さかった少女は、おばあさんと買い物をしに町に出た。少女は沢山の人と家と者に溢れた街を物珍しげに歩いたことを思い出した。おばあさんはあまり少女を街には連れて行ってはくれなかった。おばあさんの家の近くには、町が三つあって、一番小さいときに訪れたのは一番近くに在った小さい町だ。しかし、そこもしばらくすると、少女は連れて行ってもらえなくなった。 代わりに少し遠い、大きな町に連れて行ってもらえるようになった。でも、おばあさんは少女を連れて行かなくなった町を嫌いになったわけではない。少女を連れなければ、その小さい町にはよく行っていたことを知っている。今思うと、『お前は私とは少し違う』ことがその理由だとわかる。
なら、自分はおばあさんとどこが違ったのだろう。少女は思考を続けた。
おばあさんは年に一回、少女の身長を測った。とても満足そうな顔をしながら。でも、少女がおばあさんの身長を測ろうとすると、おばあさんは笑いながら『私は生まれたときからこうだからいいんだよ』と言った。
思い返せばおばあさんはいつだって変わらずにいた。そして、多分町の人もそうだったのだ。少女は、町に出たとき店にいた子供に身長が五センチも伸びたんだと自慢したら、変な顔をされたのを思い出した。
そこが違うのだ。
少女は理解した。理解してしまえば簡単で、なぜ自分がそんな事にも気づかなかったのか不思議なくらいだった。自分は違うから、だから、今こんな風に一人誰もいなくなってしまった世界に取り残されたのだ。
誰も、どこにも、もう居ない。
少女はそう悟った。
ソーマは相変わらず少女の後をついていった。
「それにしても、もうちょっと風景に変化があってもいいんじゃないか?」
ソーマはため息混じりにそう愚痴を零した。相変わらず景色は変わらず、人形は同じ方向を歩き続ける。代わり映えのしない単調な時間。
「いつまでこの道を歩き続けるきなんだ?」
独り言のような質問も、こう変化がないと同じものばかりになってしまう。人形は何を考えて歩いているんだろう。いや、そもそも何かものを考えるのだろうか。一日は長く、規則正しく回り続けている。
「そういえば、ナツメ達はどうしているんだろう」
ここにきて、ずいぶん時間が経つ。それとも、この世界の時間は止まっているのだろうか。向こうの世界では、一体どんな時間が流れているのだろう。そもそも、今のこの状況はどんな状況なのだろう。無益に思えるな時間が進めば進むほど、不安が広がった。
もしかしたら、永遠に人形は歩き続け、ソーマはその後を永久に追いかけ続けるのかもしれない。そんなことも思う。
「どこでもいい。とりあえずどっかに辿り着いてくれ」
ソーマの願いもむなしく、その日もまた何も変化は見えず、夜が来た。いつものように人形はうずくまり、ソーマはその隣に腰をかけた。百年ぐらい同じことを繰り返しているような錯覚に陥る。
人形はソーマに会う前からこうして歩いていたのだろうか。そんな疑問がよぎった。どのくらいこの人形はこんな事を続けているのだろう。人形は絶望しないのだろうか。
ソーマは横でうずくまっている人形に目をやった。もしかしたら、この人形はとっくの昔から絶望しているのかもしれない。だから、一日が終わるとこうやって何も見ないように膝を抱えているのだ。そう思うと、ソーマは人形がとても儚いものに思えた。
「お前、がんばれよ」
ソーマは人形の頭を撫でると、小さく言った。人形の髪は毛糸のごわごわした感じと、つややかな細い髪が混じった不思議な感触がした。
頭から手を離したとき、ソーマは自分が初めて人形に触れたことに気づいた。
少女は夢を見た。
一人外に出たときから、いつも夜うずくまっていると寝ているのか起きているのか曖昧な霧のかかった世界に陥って、夢など見た覚えはなかったのに。
その日、少女は夢を見た。
小さな小屋の中の、大きな暖炉の前、おばあさんと二人で過ごした日々の暖かな夢。思い出とは違って、夢は自分がその場所に戻ったような幻想を見せる。それがあまりにも幸せで、少女は涙を流していた。
その暖かさに、少女は再び歩き続ける希望をもらった気がした。
人形に会って、この奇妙な旅を続けてどれくらいになるのだろう。ようやく風景の中に異物が混じって、ソーマは安心した。人形もそれに気づいたのか、初めて一度立ち止まり、しばしその光景に見入っていた。
「家だ」
ソーマはそう呟くと、人形の頭に手を置いた。人形は、もうほとんど人形になっていた。身長もさらに縮んでいたし、髪の毛も毛糸の部分が多くなりリボンはずれ落ちそうだった。
人形はしばらくすると、再び歩き出した。
おそらく、あの家を目指しているのだろうと、ソーマにも理解できた。
あの場所に人形は何が待っているのか知っているのだろうか?
できればこの人形の目指したものがその場所に待っていてくれればいい。
ソーマはこの小さく一生懸命な人形のために、そう祈った。
少女は家を見つけてほっとした。
ようやくこの何もない草原で、何か目指すものを見つけられたのだ。右足はもうほとんど動かなくなっていた。きっともうすぐ動けなくなるだろう。少女は覚悟を決めていた。
少しでも、人の匂いのする場所にいたい。それは少女のささやかな願いだ。
きっと、あの場所に行ったら、もうどこにもいけなくなるのだろう。動けなくなったら、自分もおばあさんたちのように消えてしまうのだろうか。
少女はいまだに、どうしても思い出せないことがあった。
おばあさん達はどうやって消えてしまったのかと言うことだった。
その家はもう廃屋になってしまっていた。壁の漆喰は剥がれ落ち、屋根には穴があき、窓ガラスは割れてしまっている。とうの昔に打ち捨てられたようなその場所が、人形が目指していた場所だとはとても思えなかった。
人形は落胆しただろうか。
ソーマは隣に佇む人形を見つめた。しかし、人形は止まることなくまっすぐに廃屋に向かっていった。
薄く開いたドアに向かい、その一回りも二回りどころじゃない大きさの扉を開けようとしていた。しかし、もうソーマの四分の一ほどの大きさになってしまっていた人形に、そのドアはびくともしない。
「ほら、どうぞ」
見かねてソーマは扉を開けてあげた。人形は驚いたのか、首を左右に振り、あたりの様子を伺っている。
「大丈夫だよ。ほら、入らないのか? それにしても、本当にお前には俺が見えないんだな」
ソーマの声が聞こえたのか、人形は開け放たれた扉から、ゆっくりと壊れた家の中へと入っていった。
巨大な扉を前に、少女は呆然としていた。こんなにも大きな家が世界にあったとは知らなかった。それとも自分が縮んでしまったのだろうか。
少女はその巨大な廃屋に近づくと、扉をつかみひっぱろうとした。しかし、当然のように扉は固まったように動く気配がない。
少女はこれでもかというほど力いっぱい扉を引いた。
ふいに、扉が軽くなり、少女は驚いて手を離した。それでも、扉は自然に開いてゆく。風もないのに。少女は驚いて辺りを見回した。しかし、何も変わったものは見えない。
少女は、しばらく辺りを見回した後、中に入る決心をした。
中は物で散乱していた。もうずっと前、それこそ世界がこんな風になるずっと前から、この家は打ち捨てられていたのだろう。床には所どころ穴が開いていて、気をつけないと落ちてしまいそうだ。
少女はそんな家を見つめながらため息をついた。町から離れた一軒の廃屋は、まるでおばあさんと暮らした小屋の残骸のようで、少女の胸を締め付けた。
家の中はどうしようもないほどごみで散らかっていた。
床にはガラスや木屑などが散乱して、おまけに穴まで開いているものだから、ソーマは人形が転んだり落ちたりしないだろうか、心配で目が離せなかった。
それにしれも、こんなところが本当に人形が目指していた場所なのだろうか。
この世界にほかの住人はいないのだろうか。
荒れ果てた廃屋に、この人形はたった一人で辿り着いたのだ。
人形は奥へと進んでいく。階段の目の前に来て止まった。いつの間にか人形は階段を上れないほど小さくなってしまっていたのだ。手助けをしようか、ソーマは迷ったが結局やめた。いきなり人形を持ち上げたりしたら、必要以上に驚かせてしまう気がしたのだ。人形にはソーマが見えないのだから。
人形は、しばらくすると諦めたのか、方向を変えた。 人形の進む先には壊れて開け放たれたドアがあった。どうやらそこに向かうことにしたらしい。
しかし、なぜかその扉にたどり着く前に、人形は足を止めた。
壁に掛かった姿見の前で――