第四章 名前のない名簿と萌芽したばかりの町 -4-
女史の説明を聞いて余計混乱した。それがソーマの正直な感想だった。
旧世界と今の世界の関係と、落し物の話は何となく分かったけれど、その話はどれも本当にソーマが知りたいこととは僅かにずれていた。ソーマが今一番切実に知りたいのは、結局自分が何者なのかと言うことだ。しかし、女史はそれはソーマ自身が一番知っていることだと言い切ったのだ。
一番の頼みの綱があっさりと切れてしまった感じだった。
ヤツデ女史に礼を言い、部屋の外に出ると、ソーマは窓の外を見た。一番高い建物だけあって、グラスヘイムが一望できる。町には音楽があふれ、町中の人が祭りを楽しんでいる姿が見える。この世界すべてが、旧世界のかけらで出来ているなんてことを、町の人は知っているのだろうか。
「何か珍しいものでもあるかい」
「カガチさん。お祭りはもういいんですか?」
「おや、驚いてはくれないか。残念だな。最初から午前中だけの約束だったんだよ。今日は、午後からは仕事でね。で、来るときナツメに君の様子を見ておいてほしいっていわれたんだ。喧嘩でもしたのか?」
ソーマは振り向いて、カガチの顔を見た。
「あの、カガチさんは、知っていたんですか。俺が、旧世界の落し物だって……」
しばらくの沈黙の後、カガチは窓から外を見たまま答えた。
「なんとなくね。前に女史に聞いたことがあるんだ。最初に人が落し物としてこの世界に生まれてのなら、今もそんな風に生まれてくる人はいるのかってね。そうしたら、十三年前に一人いたって。君が養子としてナツメの家に来たときと同じだったから、もしかしたら……ってね」
「その時は、もうカガチさんはヤツデ女史の説を信じていたんですか」
「ああ、そうだな。見てごらん」
カガチはグラスヘイムを囲むようにして存在する開発地区を指した。
「この町は広がり続けている。最近は特に急速にね。……ずっと、不思議だったことがあるって前に言ったよね。それはこの町そのものについてだ。この町がどこにも続いていないことだよ」
「普通、じゃないんですか。この町は最初からそうなんだから」
「そうだね、普通だと思うよ。でも、何冊も本を読んで、思ったんだ。本の世界はいくつも町が存在する世界があるんだ。道で繋がった沢山の町がある世界がね。この世界に最初からグラスヘイムと呼ばれる一つの町しか存在しなかったら、そんないくつもあるなんて想像できるだろうか」
「それで、ヤツデ女史の話を聞こうと思ったんですか」
「ああ、どうやら前の世界はこことは比べ物にならないぐらい大きかったらしい。いや、ここはこれから大きくなるのかな。本の中にあるような、自転車を使っても一日で回りきれないように広く」
「そうかもしれないですね」
ソーマは前にヤツデ女史に言われたことを思い出した。「従業員を増やした方がいい」といったその意味が漸く分かった。
「僕はね、全面的にヤツデ女史の説には賛成だけど、一つだけ腑に落ちないところがあるんだ」
「なにがです?」
ソーマは首を傾げた。
「『落し物』って名前だよ。それは間違いなく僕たちを形作っているものなのだから、『贈り物』のほうがあっているんじゃないかと思うんだけどね。一番最初に自分が『落し物』と命名したんだから、変える必要はないってさ。頑固で困るね」
「確かにちょっと自分勝手ですね」
そういうと、カガチは笑った。
「君はこれからどうするんだ? 僕は、もう仕事に行かなくちゃ……」
「あの、また、見せてもらってもいいですか?」
「なにをだい?」
「地下にある、落し物のある部屋です」
「ああ、かまわないよ」
カガチは思いのほか、すぐに了承してくれた。
地下には前と変わらない静けさが漂っていた。
ソーマはそれらの『落し物』を端から順に見て回った。蓋の壊れた鳥かごがあった。錆付いたコンパスが、レンズのない眼鏡が静かに並んでいる。
物言わぬもの達。自分はこれらと同じなのだと、そう思ったその途端、背筋に何か冷たいものが走った。トウワタ老が信じなかった理由がわかる。断崖から闇深い谷底を見つめるような、どこまでも広い草原を歩いていると思っていたら、実は、はるか上空にある、幅五十センチの板切れを歩いていたような、そんな最低な気分だった。
十三年間気づくことのなかった、そして、普通に生活していれば一生気づかずにすんだことに気づいてしまったのだ。
ソーマはその遺品達を見つめた。
これらは旧世界の人々が使ったものなのだろうか。ならこの世界が生まれる前は、どういうように扱われていたのだろう。大切にされていたのだろうか、それともぞんざいに扱われていたのだろうか。どちらにしろ、今となってはもう使うものも無く、こうやって地下に閉じ込められた不要なものたちだ。どこにもいく当てもなく終わってしまったものだ。この世界にあっても、悲しいだけの何の役にも立たないものだ。
どうしてこんな悲しいものが混じりこんだのだろう。ここでは、何の役にも立たないのに。どうして、今でもそれはこの世界に降り落ちてくるのだろう。どうして、自分は今更そのように生まれたのだろう。
ソーマは一つの人形に目が留まった。毛糸で編まれ、中に綿が詰まった素朴な人形だ。なぜか下を向いてしまっていて、それが妙に気になった。
ソーマはそれを手に取ると、壊さないように丁寧に人形の顔を持ち上げた。人形の頭は、やけに重い。人形を顔を見て、その理由が分かった。なぜか不恰好にも毛糸の人形の両目には、硝子の瞳が埋め込まれていたのだ。その硝子の瞳が重過ぎて、人形は下を向くしかなかったのだ。一体誰が、こんなバランスの悪い人形を作ったのだろう。
こんなもの、誰が作ったのだろう。ソーマは不思議に思った。硝子でできた瞳は、蒼くきらきらとランプの明かりに不気味に光っていた。
でも、これが旧世界から来たものなのなら、ソーマの知りたいことを知っているのかもしれない。なぜ、新しい世界にまで受け継がれたのか。その意味を、この奇怪な人形が知っているのかもしれない。
ソーマは人形のガラスの瞳を見た。瞳には自分の姿が映っている。抜け殻のような、なんとも情けない顔だ。おまけに、ランプの灯りが揺れるたびに、瞳に映った顔も揺れる。
じっと見つめているうちに、やがてそれが溶け出した。ソーマの顔であったはずのそれは黒く変形し、融合し、離れ、それらを繰り返しながら奇妙な文様を刻みつけてゆく。ぐらりと足元が揺らぐ。それはいつの間にか人形の瞳から広がって、人形の体を、ソーマの立つ床を、たくさんの落し物が置かれた棚を、天井を、それを持つソーマの手を、足を、すべてを埋め尽くしてゆく。
そして、とうとう世界はそれに取り込まれてしまった。