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第三章 葬送式と消えたヒオウギ -4-


「ソーマ早かったわね。あら、カガチ君久しぶりじゃない」

 店に行くと、一番最初に顔を出したのは養母であった。いつもの溌剌とした笑顔を振りまいている。

「義母さん、クコの所に行っているんじゃないのか」

「ナツメが代わりに行ってくれているのよ。整理とかいろいろ大変だから、早速あなたたちも手伝いに行ってあげて」

「わかった」

「そうだ。差し入れよ。皆で食べて」

 養母は、パンを袋に包むと、ソーマに渡した。袋がはち切れそうなほどの、大量なパンだ。

「こんなに食べきれないと思うよ」

「大丈夫よ。今日は来客が多いと思うから。分けてあげて」

 養母はにっこりと笑うと、二人を送り出した。

ソーマとカガチは店を出るとクコの家に向かった。赤い屋根の店に備え付けられたショーウィンドウの中には、色とりどりの服が並んでいる。

「いらっしゃいませ」

 店に入ると一番最初にナツメのかっちりと型にはまったような営業スマイルが目に飛び込んできた。しかし、その顔が持ったのはほんの数秒で、訪れたのが誰か分かると、とたんに表情が崩れた。どうも疲れてが取れていないらしく、表情はさえない。

「ソーマにカガチまで。どうしたの?」

「養母さんがこっちを手伝ってやれって。クコは?」

「奥で休ませてる。今日くらいはお店休みにしたらって言ったんだけど、何か動いていたいからって聞かないの。でも、やっぱり疲れてて心配だったから、今無理やり休ませたところ」

「ナツメも休んだほうがいいんじゃないか?」

 カガチが心配そうに聞いたが、ナツメは首を横に振った。

「お店は私に任せとけって言っちゃったから……」

 しかし、そう言ったナツメの声には張りがない。あまり寝ていないのか、今にも倒れてしまいそうな感じだった。

「ナツメが倒れたらそれこそ大変だろ。店番は俺たちがしておくよ」

 ソーマの言葉にナツメは迷ったように考え込んだ。おそらく店番の経験がほとんどない二人に任せていいのか不安なのだろう。

「……こういうときぐらい信用しろよ」

 ソーマがため息混じりに言うと、ナツメはさらに考え込んだ後、ようやく頷いた。

「じゃあ、私はクコのこと見てるから、分からないことがあったらすぐに私のところに来なさいよ。後、形見分けをもらいに来た人には、この箱にあるものから選んでもらって」

 ナツメはしつこい位に念を押すと、箱を置いてようやく店の奥へ入っていった。

「信用ないなぁ」

「まぁ、ものを売ることに関しては僕たちは素人だからね。危なっかしいんだろう」

 結果から言うと、ナツメの心配は杞憂のものだった。訪問者は多かったが、そのほとんどがクコの様子を訊きに来たり、形見分けを貰いにきた人たちで、服を買いに来る客はいなかったのだ。

 どの訪問者も一様にお喋り好きな人たちだった。最後に来たのは商店街の名物おばさんの団体で、永遠に続くのではないかという、とりとめもないお喋りを延々と続けたときには、さすがにナツメに助けを求めようかとさえ思ったほどだった。いつも柔らかい笑みを絶やさないカガチでさえ、おばさん達の話題がカガチの結婚やらお見合いやらに移ったときには頬を引きつらせていた。

 クコが降りてきたのは、二人が丁度店じまいをしているときだった。

「ごめんなさい。二人ともまかせっきりになちゃって」

 申し訳なさそうに言うクコの青い瞳は、いつのも輝きはなく少し濁って見えた。

「いや、むしろあんまり役に立てなくて、こっちが謝りたいくらいだから気にしなくていいよ。ナツメはどうしたんだ?」

「上で寝てる。昨日はずっと私についててくれて、ナツメちゃん、ほとんど寝てないの」

 クコは店の奥に目をやって言った。

「ナツメは丈夫だから、心配しなくていいよ。クコの方こそもう起きて平気なのか?」

「もう十分休ませてもらったし、病気なわけじゃないから平気」

 ソーマの安心させようとクコは微かに笑ったけれど、やはりどこか翳りのある笑みだった。よく見れば、いつもきちんと編まれている三つ編みの髪が、緩くほつれてしまっている。

「それにしても、今日ぐらい店を閉めてもよかったんじゃないか?」

 カガチは三人分の紅茶を入れながら訊いた。

「うん。でも、今日休んじゃうといつまでも店を開けられなくなりそうで……。それにもうすぐ季節が変わるから、ちゃんとお店は開けておきたいの。お店に一番お客さんが来てくれるときだもの」

 クコは紅茶を受け取ると、静かに口にした。

「そっか、もうすぐ寒くなるんだな」

 しばらくの間、三人は窓の外の流れる雲を眺めていた。小さな静寂が訪れた。ソーマはふと、店で客を前に笑顔で仕事をしているおじさんの姿を思い出した。それは、多分おじさんのことを思い出すとき、誰でも一番に思い出す表情だ。

「クコ、おじさんの荷物の整理は終わったのか?」

 その静寂を壊さないようささやかに、カガチがいった。クコは「うん」、と小さく頷く。

「それじゃ、手伝うよ。ナツメも起こしてさ」

 ナツメを起こし、四人がかりで整理しても、なかなか作業ははかどらなかった。物はあまり多くは無かったのだが、作業はどこまでもゆっくりと、一つ一つ吟味するように進められ、日が暮れてしまっても、ほとんど終わっていない。

「ごめん、クコ。全然終わらなかった」

「ううん。こっちこそ、こんなに遅くまで手伝わせちゃって、ごめんね」

 結局作業は、三分の一ほどしか進んでいないまま、解散することになった。飲み屋でさえもう店を閉め、商店街は闇に沈んでいた。

「ね、本当に私泊まっていかなくて大丈夫?」

「うん。ありがとう。でも、ナツメちゃんも疲れているでしょう?私は大丈夫だから、ちゃんと家で休んで」

「クコ、本当に遠慮することなんてないんだよ」

 ナツメの申し出に、クコは頑ななほどに断り続けた。ソーマにとってもクコを一人で家においておくのは心配だった。

「なんなら、クコが家に泊まればいいんじゃないか? 俺の部屋あいているし」

「うん。そうしようよ、クコ」

「ありがとう、二人とも。でも、私はここにいたいの」

 クコはちょっとしたところで頑固だ。どんな些細な事でも、自分の意思を曲げないことがある。

「分かった。でも、明日も絶対に手伝いに来るからね」

 しぶしぶといった感じで、ようやくナツメがいうと、ありがとうと、もう一度クコはいった。

 三人はクコに別れを告げると、歩き出した。

「クコ、本当に大丈夫かな」

 ナツメはまだ飽きずに心配している。

「クコが大丈夫だっていったんなら、大丈夫だろう」

 ソーマの言葉にナツメは睨み返した。ソーマは小さく首を竦める。

「クコがそうしたいって言うんなら、僕たちは何もいえないよ。それより、ナツメは大丈夫なのか? すごく疲れてるみたいだけど」

「そうだよ。ナツメがそれじゃあ余計クコに迷惑かけるだけだ」

 二人に責められる格好になって、ナツメは分かってる、と拗ねた感じでぶっきらぼうに答えた。

 パン屋はもう閉まっていたが、部屋の窓からは明かりが漏れていた。朝が早いこの家で、こんな時間まで起きているのは珍しい。ナツメの帰りを待っていたのかもしれない。

「じゃあな。あんまり無理して皆に迷惑かけるなよな。ヒオウギもちゃんと散歩に出してやらないと怒るんじゃないか」

「え?」

 ナツメはきょとんとした顔をしていった。

「ヒオウギなら、ちゃんと散歩に出したわよ。お昼には」

「そうなのか? 今日一日ヒオウギの姿を見ていないけど……」

「そういえば、僕もヒオウギの姿は見ていないな」

「でも、ちゃんと散歩には元気よく出て行ったわよ」

 そういうと、ナツメは眉をしかめて少し考え込んだ。

「一日ずっと外に出してたのかよ。ナツメがいなかったら家に入れないんじゃないか?」

「ヒオウギは頭がいいから、私がどこにいても呼べば来るもの。昨日はクコの家に泊まったんだけど、ちゃんとヒオウギはクコの家の方に戻ってきたわよ。それに、私が外にいるときは大抵近くに飛んでくるのに……」

 ナツメは空を見上げた。ソーマとカガチもナツメに習って空を見上げる。あたりは暗く、星明りではどこにヒオウギがいるのか分からなかった。

「ヒオウギ!」

 空に向かって叫んだ。しかし、返ってきたのは沈黙だけで、鳴き声だけでなく羽音さえしなかった。

「ヒオウギ! いるの?」

 再びナツメが大声で叫んでも、空しく商店街に響くだけだった。

「養母さんがもう家の中に入れてるってことはないのか?」

 ソーマの質問に、ナツメは目を落として首を横に振った。口元にあてた手が、微かに震えている。

「どうしよう。私がずっとほうっておいたから、ヒオウギどっかにいちゃったのかも……」

「ヒオウギはいつも、どこら辺を飛んでいるんだ?」

 カガチが落ち着いた声でナツメに訊いた。

「グラスヘイムの中だけだと思う。そんなに遠くには行ったことがないもの」

「いつもはどれくらい散歩をさせているんだ?」

「その日によるけど、だいたい夕方には戻ってきてる」

 ナツメの声はか細く頼りない。

「そうか、もしかしたら久しぶりに長く散歩しすぎて、疲れて何処かで休んでいるのかもしれない。少し街の中を探してみよう」

 カガチはいつもの穏やかな調子でナツメに言った。ナツメはようやく顔を上げると、頷いた。

「そうね。早く見つけて休ませなきゃ。二人とも、今日はありがとう、じゃあ、私はヒオウギを探しにいくわ」

「え、一人で探すつもりかよ」

「だって、二人とも明日は仕事でしょう? 今日はちゃんと休まなきゃ」

 ナツメはきっぱりとそう言い放つ。

「少しぐらいなら大丈夫だよ。僕はアウトリ通りとノルズリ通りの方を探す」

「じゃあ、俺はスズリ通りと街の周りの開発地をグルッと一周してくる。前に、南の開発地でヒオウギを見たことがあるんだ。ナツメは残りね。一時間後に中央のニゼル図書館に集合でいいよな」

 有無を言わせずにそういうと、ナツメは頷いた。

「分かった。……ありがとう、二人とも」

 何かが解きほぐされたかのように笑うと、「じゃあ一時間後にね」と手を振って駆けていった。

「僕たちも行こう」

 ナツメが走っていった後、険しい顔でカガチは言った。ソーマは無言で頷くと、自転車にまたがり、急いで街に漕ぎ出した。

 ヒオウギが帰ってこないのは、ヒオウギに何かがあったと考えるのが一番妥当なことだ。もしかしたら、遠くに行き過ぎて迷子になったのかもしれないし、怪我でもして動けないのかもしれない、もっと最悪の状況だってありえるのだ。カガチが言ったのはナツメの不安を取り除くための、一番楽観的な可能性だ。もちろんナツメだってその事に気付いているだろう。

 ヒオウギがどんな状況にいるとしても、早く見つけるに越したことはない。

 ソーマはスズリ通りをヒオウギの名を呼びながら駆け抜ける。大通りにいないと分かると、一歩中に入り、迷宮のよな住宅街に入っていった。そこはさらに濃厚な闇に包まれて、見慣れたはずの道は違った表情をみせ、ソーマでさえ今自分がどこにいるか分からなくなりそうだった。いくら名を呼んでも、あたりを注意深く見渡しても、ヒオウギの姿は見えない。

「そうだ、もしかしたら郵便局に来ているかもしれない」

 ソーマはそう思い立ち、急いで郵便局へと向かった。ヒオウギはナツメに連れられて、何度か郵便局に訪れたことがある。ナツメが言うには、カラスは賢い生き物らしい。なら、もし休憩するとしても、少しでも知っている場所を選ぶ可能性が高い。

 ギフ郵便局はすっかり闇に包まれていた。

 ソーマは家の前でヒオウギの名を呼んでみたが、何の反応も返ってはこなかった。諦めて他を当たろうと考えたとき、窓に灯りがともり、中からトウワタ老が顔を出した。

「ばか者。こんな夜中に何を騒いでおる」

 幾分抑え気味ではあるが、低く響く声でトウワタ老が声を発した。

「なぁ、ヒオウギ来てないか? ナツメの飼っているリボンをつけたカラスだよ。どこかに行っちゃったみたいなんだ」

「カラスなんぞ来ていない」

 夜中に起こされて、トウワタ老はすこぶる機嫌が悪いらしい。いつもよりも語気が荒い。しかし、今はそんな事にいちいちかまってはいられなかった。

「じぃさん、もしヒオウギが来たら捕まえておいて。あの、紅いリボンをしたカラスだから、わかるだろう」

 それだけを言うと、ソーマは再び踵を返して町の細い路地にくりだした。後ろで、何かトウワタ老が文句を言っているような気がするが気にはしない。

 何も見つけられぬまま、迷路のような狭い路地を抜け、ソーマは開発地に出た。

 前にヒオウギにあった場所を自転車を降りて、念入りに見回す。あの時よりもさらに開発は進み、高い塀が築かれつつあるその場所にもヒオウギはいなかった。ソーマは再び自転車に乗ると、開発地を回った。

 グラスヘイムを囲むようにしてある開発地は、ソーマが思っていたよりも急速に広がっていたらしい。ぐるりと一周したときにはすでに一時間をとっくに過ぎていた。何の成果もないまま、残る二人に望みをかけて、ソーマはニゼル図書館へと向かった。

 ニゼル図書館の前にはもう二人が待っていた。ソーマは目を凝らしたが、二人のそばにヒオウギの姿はない。

「どうやら、開発地区にもいなかったみたいだな」

「はい」

 ソーマがそう答えると、カガチは顔を曇らせた。

「もしかしたら、遠くに行き過ぎて帰ってこれないのかもしれない」

 最初にヒオウギがいないと分かったときよりも、表面上は幾分落ち着いた様子でナツメがポツリと呟いた。

「迷子……か」

 カガチは手を顎に当てて、真上を見上げた。

「遠くまで行ったとなると、森のほうか」

 ソーマの言葉にナツメは小さく頷いた。

「二人とも、遅くまでつき合わせちゃってごめんなさい。今度、陽が高いときに森まで出て探してみる。大丈夫、そんなに遠くまでは行かないから」

 ソーマは何か言おうとして口を開きかけたが、何も言葉が見つからずに口をつぐんでしまった。カガチも何も言わない。重い沈黙が訪れる。誰もが打ち破りたいのに、誰も破る一言を持ち合われてはいないように無意味な間が続いた。

「帰ろう」

 結局、その一言を言ったのはナツメだった。「そうだな」と、ソーマは奥歯に何かが詰まったような歯切れの悪い言い方で答えた。

「カガチ、どうしたの?」

 ナツメが先ほどから無言で上を見上げているカガチを覗き込むようにいうと、カガチはようやく顔を下げた。

「声がしないか? 小さな」

「え?」

 ソーマとナツメがカガチの見ていた方へ顔を上げ、耳を澄ました。ニゼル図書館にはこの時間にもまだ灯りのついた窓がいくつかあった。風が少し強い。耳元でざわざわと耳障りの悪い音が邪魔をして、カガチのいう声らしいものは聴こえない。

「あ」

 隣でナツメが何か耳にしたのか小さく声を上げた。ソーマは更に集中して耳を澄ませた。ざわめく風音の隙間に、なにか高い音が混じっている気がする。聞き覚えのあるそれが、一体何の発する声なのか、ソーマは思い出そうと霧をかくように記憶を探った。そして、その思い出せそうで思い出せないジレンマを絶ったのは、またしてもナツメの一言だった。

「これ、ヒオウギの声だわ」

 図書館を見上げながら、ナツメの声が空にぴんと張り詰めた。確かに、よく聞けば、それはカラスの鳴き声だった。どこから聞こえるのか、ソーマは目を見張った。

「中に入ってみよう」

 カガチはそう言うと、図書館の裏へ回っていった。そこは大きな正面玄関とは違って、小さい従業員用の入り口だった。

「俺たちも入っていいんですか?」

「大丈夫だ。この時間そんな細かいことを気にする人間は中に残っていないよ」

 カガチの後に続き、二人は暗い通路を歩いた。一歩角を曲がると、ようやく鈍いランプの光が見えてきた。

 夜の図書館は、ばたばたという騒がしい音に支配されていた。

「図書館なのに夜はこんなにうるさいなんて……」

 ナツメは沢山の本を抱えて行き来する研究者を見て呆然としながら、呟いた。暖色のランプの灯りが支配するその空間には、いつもの図書館とは違う不思議な空気が流れていた。昼間の図書館のような、騒音を立てないように気を使うよそよそしい感じはそこにはない。ただ、自分のやりたいように本を選び、本棚にもたれかかって本を読んでいる人や、片っ端から本を選び取って自分の周りに本の山を築いている人、誰一人として周りの迷惑も考えず好き勝手に自分の世界に入り浸っている。

「毎朝、あの本を元に戻すのが大変なんだよ」

 そう言った、カガチの顔は笑っていた。

「こんなに研究者っていたんですね」

 ソーマは呆然としながら、カガチに言った。

「ああ。純粋な研究者ばかりじゃないからね。昼間は学校で教師をしている人や他に仕事を持っている人もいる。夜にはいろいろな人が集まってくるんだよ」

「もう図書館は閉館しているのに、こんなに人を入れていいの?」

「夜、図書館を使うにはいくつかの規則があるんだよ。どういうことを調べたいのか登録しなきゃいけなかったりね。あと、貸し出しは禁止。図書館から本を持ち出してはいけないんだ」

 カガチはそういうと、奥へと案内した。そこは前にヤツデ女史に会いに行った時と同じ道順であった。階段は、前に上ったときよりも多くの人とすれ違った。ここは夜のほうが活発になるらしい。

 カガチは行きかう人を止めて、カラスの鳴き声を聞かなかったか聞いて回った。大抵の人はカラスになんて興味はないと言うようにそっけなかったが、ただ一人、鳴き声を聞いたという人物を見つけた。よれた黒いスーツと蝶ネクタイの、どこか場違いな感じのする紳士だった。

「どこで聞きましたか?」

「私の書斎のある階ですよ。では、失礼」

 紳士のような人物は、それだけを答えるとそそくさと下へ降りていった。

「あの人のいるのってどの階なの?」

 ナツメはじれったそうにカガチに詰め寄った。

「ヤツデ女史の部屋のある所だよ」

 場所が分かったというのに、カガチの顔色はどこか優れない。ナツメはそれだけを聞くと、急いで階段を駆け上っていった。

「待てよ」

 ソーマは、そんなカガチの様子を横目で気にしつつ、ナツメの後を追って駆けていった。疲れているはずのナツメの足は速く、追いつくのに一苦労だった。

 息を切らして、上り終わるとナツメがヤツデ女史の部屋の前に仁王立ちしているのが見えた。表情は険しい。

「もしかして、そこにヒオウギはいるのか?」

 ソーマの問いに、ナツメは頷いた。耳を澄ますと、確かに、か細いカラスの鳴き声がする。ナツメはドアノブを掴むと、勢いよくそれを押し開けた。

 相変わらずの本の山。

 埋もれるように机があり、突っ伏すようにしてヤツデ女史が寝息を立てているのが見えた。そのヤツデ女史の後ろに埃で汚れた窓がある。そして、そこに見慣れた赤いリボンを付けたカラスの姿があった。

「ヒオウギ!」

 ナツメは本の山を崩すことも構わずに、ヒオウギの元に走っていった。ソーマもその後に続こうとしたが、崩れた本が雪崩のほうに伝播して、足元がすべて本に埋まってしまい、中に入ることができず、その場でナツメを見守ることしかできなかった。

 ヒオウギはナツメの声を聞くと、ばさりと羽音を立てて舞い上がり、寝ているヤツデ女史を通り越してナツメの腕の中に降り立った。

 その騒ぎにようやくヤツデ女史は気付いたのか、ゆっくりと起き上がり、ずれた丸い眼鏡を直した。

「あら、貴方たち、こんな時間にどうしたの?」

「それはこちらの台詞です。どうして、こんな所にヒオウギがいるんですか!」

「昼間、そこにとまっていたから、中に入れたのよ。その子が前に言っていた話したカラスでしょう? カラスが話したなんて興味があったから、ちょっと観察してみようと思ってね。またしゃべらないかと観察していたの」

 ナツメはヒオウギを抱いたまま、顔を真っ赤にしてヤツデ女史を睨み付けた。対するヤツデ女史は何を考えているのか、いつもの調子で話し続ける。

「残念なことに何も言ってはくれなかったわ。カラスは他の神話にも天からの啓示を伝えるものとして出てくるから、ちょっと期待していたのだけどね」

 心底残念そうにそういった。

「そういえば、その子なんでリボンなんてしているの? お店で買ったものかしら」

「貴女、一体何を考えているのよ。ヒオウギが消えちゃったんじゃないかって、こっちはすごく心配したのよ。それに、ヒオウギを貴女のわけの分からない理論を証明するための道具に使わないで下さい!」

「わけの分からない? 貴女も思うところがあったから、この子の言葉の意味に興味を持ったんじゃないの?」

「来て見て、あなたの言っていることはとんでもない酔狂な事だと分かりました」

「いいえ、貴女は自分に正直になるべきよ。貴女は不安に思っている。この世界についてね」

「どこも不安なんてありません。ヒオウギの事もきっと私の勘違いだったんだわ」

 ソーマは入り口で呆然と二人のやり取りを聞いていた。興奮しているせいか、ナツメの怒りにはどこか的外れなところがある。ヤツデ女史の対応も本筋からそれえていき、お互いの討論はすれ違ったまま進んでいくようだった。隣を見ると、カガチもどうしたものかというように二人の成り行きを見守っている。

「そうかしら。だって、そこの子だってそうなんでしょう?思い出したわ、確か、十三年前……」

 ヤツデ女史はソーマに目をやってそう言った。不意に話を振られてソーマはうろたえた。何がそうなのか、さっぱり分からない。ナツメは一瞬息を吸うのを忘れたかのように、目を丸くした。そこには恐怖に似た驚愕の色が宿っていた。

「ソーマは関係ありません! 貴女の言っていることは全てでたらめです!」

 一段と強い口調でナツメは言うと踵を返して、ソーマにもカガチにも目をくれず、下へ走っていってしまった。ソーマはどうしていいのか分からず、ただナツメの背を見送るだけだった。助けを求めようと、カガチを見るとが、ただため息をつくだけで何も返してはくれなかった。

「あら、カガチ。貴方もいたの?」

「ええ。僕もヒオウギを探していましたから。ヤツデ女史は今度しっかりと彼女に謝るべきでしょうね」

「私の主張は正しいわ」

「貴女の主張の事ではなくて、ヒオウギをこの部屋に閉じ込めていたことですよ。この部屋の片付けは僕も手伝います。少しは借りた本を下に返してください」

 カガチはやれやれと肩を落とすと足元の本を拾い始めた。

「ソーマ、悪かったね。僕はここの片づけを手伝うから、君はもう帰ったほうがいい。明日の仕事もあるだろう?」

「はい。……あの、カガチさんは犯人があの人だって、分かっていたんですか?」

「図書館から声が聞こえたときから薄々ね。研究者って言うものは、思い込むと人の迷惑なんて考えずに行動することが多いんだよ」

 ソーマは小声で訊くと、カガチは苦笑して言った。

 ソーマはヤツデ女史に目をやった。ヤツデ女史は倒れた本を取り出すと、脇に押しのけていった。それは整理整頓というよりは、雪を掻き分けて道を作る作業に似ていた。ソーマは、ヤツデ女史が言おうとしていたことがどういうことなのか、訊こうか迷っているうちに、女史のほうからソーマに話しかけてきた。

「貴方、ギフ郵便局に勤めているんだったわよね」

「はい、そうです」

「あの、頑固じいさんと一緒に」

「はい」

 頷きながら、さすがにトウワタ老もこの人に頑固と言われたくはないだろうと思った。それにしても、この年中図書館にいて外のことなど関心のなさそうな女史が、トウワタ老の事を知っているのは驚きだ。

「まだ、あそこは二人しかいないの? 配達はあなただけで」

「ええ、そうです」

 相変わらず、ヤツデ女史の質問の意図は分からない。ただ、質問されたことに最低限の言葉で答えていった。

「あの偏屈じいさんに言っておきなさい。早く従業員は増やしておかないと大変なことになるわよって。全く、どうしてあの人は私の親切な忠告を聞かないのかしらねぇ」

「はぁ」

 ソーマは間の抜けた返事をすると、それでも女史は満足したのか笑顔で頷いた。

「早く帰ったほうがいい。もうすぐ一日が終わってしまうよ」

 カガチが申し訳なさそうにそういうので、ソーマは挨拶もそこそこに図書館を出ることにした。結局、ヤツデ女史の言おうとしていたことがどんな事だったのか、ソーマには理解できなかった。

 薄暗い廊下を抜け、裏口を出るとナツメがそこに立っていた。ヒオウギは疲れているのか、ナツメの腕の中で丸まっている。

「ナツメ、もう帰ったのかと思っていたよ」

「カガチは?」

「上で、部屋の片づけを手伝うって。あの人、後でちゃんと謝りに来るんじゃないかな。カガチさんに謝りに行けっていわれてたから」

「ふぅん。どうせなら、あの場でそういってほしかったわ。……他に何か話したの?」

「いいや、もうすぐ日が変わるから、早く帰ったほうがいいって」

 ナツメの顔には疲れの色が見えていた。そんなナツメの横顔を見ながら、ソーマは先ほどのナツメと女史の口論を思い出した。あんなにすれ違いのやり取りをしていたナツメは、それでもヤツデ女史の言わんとすることを理解していたようだった。それが何なのか、聞きたいのだが、どうしてもナツメの驚愕の表情が忘れられず、聞けずにいた。

「じゃあな」

 最後までそのことに触れることができないまま、ソーマはナツメと別れ、郵便局へと帰った。ペダルをこぐ足がひどく重く、思った以上に今日一日で体力を消耗したことが分かった。

 意外にも、ギフ郵便局には灯りが点っていた。どうやら、トウワタ老はソーマの言ったようにヒオウギが来ないか起きて見ていてくれたらしい。

「ただいま」

 ソーマが中に入ると、奥からのっそりと出てきた。思えば、出迎えをされるのも珍しいことだ。

「ヒオウギ見つかったよ」

「そうか」

 ソーマの短い言葉に、トウワタ老は短く答える。

「図書館のヤツデっていう研究者の所にいたんだ」

「あの、世迷いごとをほざいている研究者か」

「じぃさん、あの人の説知ってるのか?」

 ソーマが驚いて聞き返すと、トウワタ老は眉間の皴を六本にして低くうなった。どうやらトウワタ老は女史を嫌っているらしい。

「知っている。この世界には人でも物でも旧世界から落ちてくるとか言うやつだろう。そんなわけあるか。人は親から生まれてくるものだし、物は人が落としたものだ」

「それはそうだよな」

 ソーマが頷くと、トウワタ老は「寝る」と言って背を向けていってしまった。トウワタ老の背中が完全に消えてしまったところで、ソーマは女史からの伝言を伝えるのを忘れたことに気づいた。

「まぁ、いつでもいいか。女史がそんなこと忠告してたなんていったら、皺が一気に十本ぐらいになりそうだ」

 ソーマはベットに横になると、一分もしないうちに深い眠りに落ちていった。



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