修道院送りの令嬢を四十年迎えてきました。今年の子は、本当に悪い子でした
「反省しております。けれど、あの子の退学まで、私のせいにされましても」
侯爵令嬢は、濡れた外套を畳みながらそう言った。
裾の泥が裏地につかないよう、丁寧に折り込んでいる。十八歳。エーデル・ヴェルツ。学院を休学し、二か月の寄宿に来た娘だった。
「あなたは、何をしたのですか」
院長イルマが尋ねると、娘は目を伏せた。
「刺繍を笑いました。奨学生のくせに、とも。口論になって、あの子の図案を破りました。そこは、私が悪かったと思います」
「そこは」
「盗みの件は別です。私のブローチが、あの子の道具袋から出たのですから」
娘は顔を上げた。
「学院が退学にしたんです。私が追い出したのではありません」
イルマは、差し出しかけた部屋の鍵を手の中で持ち直した。
四十年、修道院送りになった娘たちを迎えてきた。無実の者もいた。非を認める者も、認めないまま去る者もいた。
初日に聞かされる話だけで、どちらとも決めない。それでも、今の言葉は耳に残った。
娘が惜しんだのは、破った図案ではなく、自分が余計に責められたことだった。
「お部屋は二階です。お名前を、こちらへ」
イルマは台帳を開いた。二月二十八日。滞在は四月末まで。費用は侯爵家から前納されている。
「手紙は封を切らずに渡します。祈りと仕事の手伝いは、ご自分で選んでください。退去するときは、食事の支度がありますから前日に知らせてくださると助かります」
「出ていっても、よろしいのですか」
「ここは牢獄ではありません」
娘は窓の外へ目をやった。白楡修道院の門は、馬車を通したまま開いていた。
「父は、二か月はこちらにいなさいと」
「あなたも、それでよいと思っていますか」
「ええ。家では、朝から晩まで同じ話ですもの。こちらなら、静かに反省できます」
最後だけ、用意してきた言葉のように滑らかだった。
学院での騒ぎは、王都の茶会にまで広まっていた。家の別邸に隠すより、独立した修道院で慎むほうがよい。侯爵の依頼状には、もう少し回りくどく書いてあった。
娘にも、その二か月をやり過ごすつもりはあるらしい。
署名を終えたエーデルは、鍵を受け取った。
「院長。こちらでは、何をすればよろしいのでしょう」
「今日は荷ほどきを。夕食は六時です」
「お祈りをすれば、よいのですか」
「お腹は空くでしょうから、食堂にはいらっしゃい」
娘は少し困った顔をした。イルマは杖を突いて立ち上がった。
六十八の膝は、雪解けの季節に弱い。二階まで案内する役は、副院長のオーリアに頼んだ。
門は、日が落ちると閉まる。閉まるだけで、鍵はかけない。
出ていけることと、行き先があることは違う。そのことも、四十年のあいだに何度も見てきた。
*
三月に入って、エーデルは祭壇の前掛けを繕う仕事を選んだ。
布を表に返し、裏に返し、窓辺に寄せて見る。髪はきちんと編まれていた。修道院に似つかわしい濃灰の服も、自分で選んできたものだった。
「これは、ひどい。葉の形が途中から変わっています。継ぎ足すより、ここだけ解いたほうが早い」
「直せますか」
「できます。金糸を少し頂ければ」
針を持つ手は迷わなかった。左の人差し指には、小さな針傷の跡が重なっていた。
イルマは椅子を寄せ、隣で古着の釦を選り分けた。
「学院でも、こうしたものを?」
「もっと細かいものを。宮廷の式服なら、袖口だけで何日もかかります。私は、王立衣装庫に入りたかったんです」
名を聞いたことはあった。王家の婚礼や式典の衣装を仕立てる工房である。
王立工芸学院の刺繍科から推薦されるのは、年に一人。家の紹介では、その枠を買えないのだとエーデルは言った。
「私は二番でした。ロッテが一番」
「初日におっしゃった、図案を破いた方ですね」
「ロッテ・アーデン。あの子の針は、嘘をつかないんです。同じ図案を渡されても、私は三度やり直す。あの子は一度で合わせる」
娘は、ほどいた金糸を指先に巻いた。
「練習はしたんです。夜まで。先生にも、去年よりよくなったと言われました。けれど、選ばれるのは、去年よりよくなった人ではありませんから」
イルマは娘の指を見た。怠けていたわけではない。だからといって、他人の図案を破ってよいことにはならない。
「ロッテさんが退学したあと、推薦は?」
「私には、来ませんでした」
金糸が切れた。娘は短く息を吐いた。
「図案を破ったことを、ほかの生徒が先生に話しました。前から何を言っていたかも。それで私も選考から外されて、休学です。推薦は別の生徒に決まりました。父にも、ずいぶん叱られました」
「ブローチの件とは、別に」
「ええ。別に」
娘は針を置いた。
「ですから、私だって、もう失っているんです」
その夜、イルマは寄宿の依頼状を読み直した。
繰り返しの侮辱と図案の損壊。学院の処分を受け、当家としても反省を促したく――。
窃盗の申告については、一行もない。
依頼状を書いたのは、学院ではなく侯爵家だった。
*
三月七日の朝、学院から封筒が二つ届いた。
一つは院長宛ての事務連絡。もう一つは、エーデル・ヴェルツ宛てだった。
ロッテが退学処分への異議を申し立て、再調査が始まったという。四月十日の審査に向け、新しい証言は三月末まで受け付ける。本人の依頼で、エーデル宛ての手紙も転送する。
事務連絡を読み終えたイルマは、もう一つを食堂へ運んだ。
エーデルは、粥の匙を置いたまま封筒を見ていた。
「開けないのですか」
「あなた宛てですから」
娘は封蝋を割った。二行で目が止まり、それから最後まで一気に読んだ。
「……読んでください。こんな手紙、初めてです」
イルマは眼鏡をかけた。
――エーデル・ヴェルツ様。
私は、あなたに謝罪を求めません。求めているのは、学院の記録の訂正です。
――昨年、私は窃盗の嫌疑で退学になりました。今は洗い張りと縫い直しで暮らしています。ですが、刺繍を任せる工房からは、学院の紹介状か、退学の理由を求められます。紹介状は発行されず、理由を書けば断られます。
――学院には異議を申し立てました。私の道具袋には、ほかの生徒も近づけました。それでも、あなたのブローチが中から見つかった理由を、私は説明できません。
――あなたが最後にそれを身につけていたのは、いつですか。どこで外し、誰に渡したのでしょうか。学院に伝えていないことがあれば、事実を書いてください。
――返事は私ではなく、学院へ送ってください。
ロッテ・アーデン。
紙は一枚だった。端まで書き込まれてはいない。余白に、頼む言葉をいくつも重ねることもしなかったらしい。
「あの子らしいでしょう。私を責めずに、追い詰める」
エーデルは、もう冷めた粥をかき混ぜた。
「お金を送ると父が言ったんです。受け取れば、もっとましな暮らしができるのに。訂正の話も一緒にしなければ、受け取れないと」
「工房の仕事に戻りたいのでしょう」
「私には、もう何もできません。学院が決めたことです」
「最後にブローチを外した場所は、答えられますか」
匙が、器の縁に当たった。
「……あの子の席で」
イルマは黙って待った。食堂の奥で、誰かが薪を足した。
「落ちていたのではありません。私が、袋に入れました」
顔を上げた娘は、泣いていなかった。
「ほんの少し、疑われればよかった。推薦の選考が終わるまで。私の物が出てくれば、先生も父も、あの子より私を信じると思いました」
「退学になったあとも、訂正しなかったのですね」
「そのときには、父が学院に手紙を出していたんです。厳しく処分してほしいと。今さら違うと言えば、私だけでは済みません」
口に出すほど、声が速くなった。
「それに、私だって推薦を失った。これ以上、何を失えばいいんですか」
イルマは手紙へ視線を戻した。
これまで迎えた誰かの、気の毒な事情を重ねてはいけない。この娘は、誤解されてここに来たのではなかった。
「あなたのことを書いてほしいのです。何を失ったかではなく、何をしたかを」
「書けば、私は嘘つきになります」
言ってから、娘は唇を結んだ。イルマが何か言う前に、顔を背けた。
「……皆に、知られます」
イルマは、事務連絡を娘のそばに置いた。提出先と期限だけを指で示す。
「今ここで答えなくても構いません。ただ、私に話しても、学院の記録は変わりません」
エーデルは手紙を二つに折った。もう一度折りかけて、やめた。
翌日も、その次の日も、学院宛ての郵便は出なかった。
*
三月十一日、侯爵家から院長へ書状が届いた。
――娘の回答につきましては、当家の顧問と事実関係を確認するまで、お待ちいただきたく存じます。
使者を派遣すること、以前から相談していた倉庫の屋根への寄進は、事情が落ち着いてから改めて検討したいことも書いてあった。
イルマは二度読んだ。二度目には、寄進のくだりで指を止めた。
「屋根は二十八枚です。春のうちなら」
オーリアが見積りを広げた。四十七歳の副院長は、来春にはこの机を引き継ぐ予定だった。
「修繕の積立は十四枚。教区から来月入る分を足しても二十枚です」
「生活費からは出せませんか」
「出せば薬代を削ることになります」
オーリアは見積りの隣に、もう一枚置いた。
「雨漏りしている西側だけなら、今の積立で直せます。東は秋に。ただし足場を二度組むので、合わせて三十二枚になります」
「四枚、余計にかかる」
「はい。院長が正しい返事を書いて、それで済む話ではありません」
イルマは、開きかけた口を閉じた。
屋根の下には亜麻布と羊毛がある。濡らせば、修道女たちが冬のあいだに用意した売り物を失う。寄宿者の誰かに無理をさせて埋められる穴でもなかった。
「東側の荷物は?」
「空いている納屋へ移します。掃除は、いつもの荷運びの人に頼みます。その費用も入っています」
「では、その案で。発注も、あなたに任せます」
「侯爵のお返事を待たなくてよいのですか」
オーリアの声に非難はなかった。決めるなら、今決めてくれという顔だった。
「手紙を渡したことは変えられません。娘さんが返事を書いたら、送ります。それを待たせる約束はできません」
「屋根の寄進と交換だとは、書いていませんよ」
「ええ。ですから屋根は、寄進のない予算で進めます」
便箋に向かうと、指先が少し震えた。
娘本人の回答を修道院が差し止めることはできない。使者との面会は、本人に希望を確かめて取り次ぐ。屋根は分割して修繕することにした。
そう書いて、オーリアにも読んでもらった。
「礼を失していますか」
「いいえ。少し、字が読みにくいだけです」
「それは困りましたね」
「清書します」
オーリアがペンを取った。
隣で見ているだけになると、イルマの手が空いた。落ち着かなかったが、取り返さずに膝へ置いた。
その晩、書庫から古い台帳を一冊出した。
二十年前の四月二十日。書簡の受領欄に、イルマ自身の字があった。
――市織物検査所より。本人への交付、保留。
欄外に、あとから赤い字で処分の記録が足されている。
イルマは、そこに栞を挟んだ。
*
三月十四日から、春の配り物の支度が始まった。
近隣の村へ届ける種芋と塩、古着。村によっては種や糸も足す。袋を並べる広間は、乾いた土と羊毛の匂いがした。
「札なら、私が書きます」
エーデルが言った。祭壇の前掛けは、図案を直したところで止まっていた。
「刺繍はよいのですか」
「同じところばかり見ていると、かえって分からなくなります」
イルマにも覚えはあったので、控え帳を渡した。
エーデルは村の名と中身を写し、袋の口に札を結んだ。字はきれいで、揃っていた。
三月十七日の夕方、荷物が玄関に並んだ。翌朝、村々から迎えが来る。
イルマが台所の火を落としていると、エーデルが控え帳を抱えて入ってきた。
「ミルテ村の方は、明日、何時に来ますか」
「昼前でしょう。遠いので、夜明け前に出るはずです」
「……そうですか」
娘は帰りかけた。戸口で止まり、帳面を胸から離した。
「二つ、札を逆につけました。種の袋と、糸の袋です」
イルマは火箸を置いた。
「もう直しましたか」
「まだです。袋を開けるなら、数も確認し直さないと。控えには、副院長が確認の印をつけています」
「私が立ち会いましょう」
娘は、叱られるのを待つように立っていた。
「いつ気づいたのですか」
「夕食の前に。……そのときは、朝、気づいた人が直せばいいと思いました」
玄関は冷えていた。イルマは椅子を持ってきてもらい、数を読み上げた。エーデルが袋の口を解き、中身を確かめる。
「往復で二日もかけさせるのは、さすがに」
誰にともなく、娘が言った。
イルマは、次の数を告げた。
今は、袋を間違いなく届けるのが仕事だった。この場で娘の心根まで褒める気にはなれなかった。
札を付け直し、エーデルは控え帳へ訂正を書いた。イルマは、その下に確認の名を添える。
「私の名前も、要りますか」
「はい。私たち以外が見ても、何を直したか分かるように」
小さな署名が入った。
娘は、それを手で隠しかけてから、帳面を閉じた。
階段の手前で、エーデルが振り返った。
「院長。あの子の記録を直したら、王立衣装庫に入れますか」
「今年の推薦は、もう別の方に決まったとおっしゃいましたね」
「来年なら」
「来年のことは学院に聞かなければ分かりません。少なくとも、今断られている工房には、盗んでいないと説明できるでしょう」
娘の手が、手すりを滑った。
「また、自分の刺繍を見せて、選んでもらうんですね」
「そうなるでしょうね」
エーデルはしばらくそこにいた。
「紙を、頂けますか。学院に出すものを、一度書いてみます」
イルマは便箋を渡した。
翌日の夕方になっても、娘の机の上には、何も書かれていない紙があった。
*
三月十八日の夜、エーデルが書庫の戸を叩いた。
「院長は、父の言うことを聞かなかったのですか」
イルマが顔を上げると、娘は戸口から動かなかった。
「屋根を一度に直せなくなった、と聞きました。私のせいですか」
「寄進は、まだ約束されていませんでした。修繕は修道院の判断です」
「私に書かせるために、断ったのでは?」
イルマは眼鏡を外した。
「あなたが何も書かなくても、工事の予定は変えません。見積りは、あなたへの請求書ではありませんよ」
娘はようやく椅子を引いた。
「副院長から聞きました。手紙の規則を作ったのは、院長だと。ご自分で、一度破ったからだと」
オーリアには、引継ぎの際に古い台帳も渡してあった。忘れないようにするには、自分一人で覚えていても足りない。
それでも、この娘に話すとなると、イルマの手はすぐには動かなかった。
「破ったあとで、作ったのです」
栞のある頁を開き、受領欄と処分の箇所だけが見えるように、別の紙で名前を覆った。
「二十年前です。私はまだ院長ではなく、寄宿者の世話と書簡の取り次ぎをしていました。病気のあとで養生していた織工の方に、市の検査所から採用試験の通知が来ました」
採用されれば、織機に一日座り続けなくても、身につけた技を使える仕事だった。
通知には、十日以内に返事をするよう書かれていた。
「その方のお父様も、応募したことは知っていました。届いた日に訪ねてきて、先に家で今後を話したい、通知は渡さずにいてほしいと」
「家に、帰したかったのですね」
「そう聞きました。私は本人に尋ねませんでした。家族に任せれば穏便に済むと思って、二週間、引き出しに入れておきました」
事情は、今なら短く言えた。当時は、もっと長い言い訳をいくつもした。
病み上がりだから。父親が心配しているから。家で話し合ってからでも遅くないから。
期限のある通知なのに、遅くないと考えた。
「その人は、ご自分で問い合わせました。私が手紙を止めたと知ったのは、そのあとです。期限は過ぎ、試験も終わっていました」
エーデルは赤い字を読んでいた。
「書簡の仕事から、一年……」
「評議会に事実を報告しました。本人が負担した費用を払い、仕事から外されました。復帰するとき、家族の頼みでも本人宛ての手紙を止めない規則を定めたのです」
「それで、許されたのですか」
「いいえ」
イルマは台帳から手を離した。
「三年後に、もう一度謝りました。返事には、二度と書かないでほしいとありました。それきりです」
「……けれど、あなたは院長になれた」
娘の声が硬くなった。
「相手の方は、その仕事に就けなかったのに」
「ええ」
その先へ逃げられる言葉はなかった。
自分も処分を受けた、と言えば、この娘が口にしていたことと同じになる。
「私は、当時の処分も含めて、院長を選ぶ評議会に記録を出しました。それでも、就任を認められました。相手の方が納得する理由にはなりません」
エーデルは膝の上で両手を組んだ。
「私も、書いたらそうなりますか。ずっと、許されないまま」
「それは、ロッテさんが決めることです」
イルマは台帳を閉じた。指が、厚い表紙に少し引っかかった。
「返事を欲しがって、また手紙を書いたのは、私の勝手でした。あの方は、別の暮らしを始めていたのに」
娘はしばらく黙っていた。
やがて椅子を戻し、礼だけを言って出ていった。学院宛てに書くと、約束はしなかった。
*
三月二十日、侯爵家の差配人ヘルマン・ブラントが到着した。
王都から馬車で一日半。外套の裾は乾いた泥で白くなっていた。
エーデルは面会に応じ、院長にも同席してほしいと言った。
「父は、私がやったと、思っているのですか」
挨拶が済むと、娘が尋ねた。
ブラントは手袋を膝の上へ揃えた。
「確かめたいと仰せです。まず、ブローチがどこにあったのか。学院にお話しになったことと、違いはございますか」
エーデルは、イルマを見なかった。
「あります」
「でしたら、本日伺ったことを顧問に伝えます。私どもで文面を整えてから、学院へ」
「私が、袋に入れました」
差配人の指が、手袋の縫い目で止まった。
「……お間違いはありませんか」
「ありません」
ブラントは一度だけ目を閉じた。それから、持ってきた書類を鞄へ戻した。
「では、なおさら、この場で何かをお約束することはできません。侯爵に報告いたします」
「父は、あの子が盗んだと思って、処分を急がせたのですね」
「はい。お嬢様のお話を信じて」
娘の肩がわずかに動いた。
イルマは口を挟まなかった。父が娘を信じたことまで、この娘の免罪には使えない。
「補償は、家として話し合う準備があります」とブラントは続けた。「学院にも確認を求めます。ただ、お嬢様の名前で故意に仕組んだと認めれば、もう、友人同士の争いでは済みません」
「でも、お金だけでは嫌だと、あの子は」
「承知しております。ですから、まずは当初の申告に誤りがあったとして、再調査への協力を申し出る。そのうえで顧問が、必要な説明をいたします」
話の筋は、穏やかだった。
嘘を書けとは言わない。娘の責任をどこまで明らかにするか、家が先に決めたいのだ。
「それで、袋に入れたことは書くのですか」
「顧問に相談いたします」
「いつまでに」
「顧問の判断を待たず、お約束はできません。期限の延長も、必要なら学院に願い出ます」
エーデルは、膝の上で指を組み直した。
「そのあいだ、私は帰れますか」
「侯爵の監督のもとに戻られるなら、衣食住に不自由はさせないと。ただし、社交と学院への連絡は、当面ご相談いただきます」
「自分で書いたら?」
ブラントは即答しなかった。
「今までどおりの仕送りと縁談の後押しは、お約束できません。お嬢様を外で自由に暮らさせながら、家が何も知らなかったとは言えなくなります」
イルマは娘の横顔を見た。
帰れる場所はある。食べ物も、暖炉も、上等な糸もある。今すぐ真実を書くより、ずっと安全な道だった。
「今日は、帰りません」
それだけを、エーデルは答えた。
ブラントが辞去したあとも、娘は応接間に残った。
「父に任せれば、あの子の記録が直るかもしれませんね」
「その可能性はあります」
「院長は、任せるなと仰ると思いました」
「私には、ご家族が何を答えるかは分かりません」
娘は椅子の背に体を預けた。くたびれたような姿勢を、初めて見せた。
「私は、何を答えればいいか、分かっています」
その晩、応接間の灯りは遅くまで消えなかった。
*
三月二十一日の朝、エーデルが紙を持ってきた。
「これを出したら、協力したことにはなりますか」
字はきれいだった。紙の右上に、消し跡の皺があった。
――昨年、私とロッテ・アーデンとの間には、行き違いがございました。双方に思い違いがあり、そのために学院にご迷惑をおかけしました。関係者の皆様に、深くお詫び申し上げます。
イルマは、同じ箇所を二度読んだ。
「ロッテさんは、何を思い違いしたのですか」
エーデルは答えなかった。
「この文だと、相手にも誤りがあったことになります」
「……そう書けば、私一人のせいではなくなります」
娘は紙を引き寄せた。
「これでいいと、言ってもらいたかったんです。院長が読んでくださったと父に書けば、私が逃げただけには見えないでしょう」
イルマは背筋を伸ばした。
「読んだとは書けます。賛成したとは、書かないでください」
「はい」
娘はうつむいた。言い返さないので、かえって、その場が長かった。
「書けば、この先ずっと、人に盗みを着せた令嬢です。仕事を探しても、結婚の話が来ても。もう、なかったことにはできません」
イルマは、娘の持つ紙を見ていた。
ロッテは今、同じように応募のたびに退学の理由を書いている。そのことを口にしかけて、やめた。娘のそばには、あの手紙も置かれていた。
「私、まだ、あの子が嫌いです」
エーデルが言った。
「先に縫い終わって、私を待っているのも。教えましょうかと聞かれるのも。親切だったのかもしれません。でも、嫌でした」
指が、便箋の角をつぶしていた。
「今、あの子が立派だったと書いたら、それも嘘です。まだ、私より上だったことが悔しい」
「好きだったと書く必要はありません」
娘が顔を上げた。
「あなたが入れた、と書くことと、相手を好きになることは別です」
それきり、イルマは黙った。
エーデルは紙を畳んだ。破らず、あの手紙と一緒に持っていった。
その午後、祭壇の前掛けを持って、娘が食堂に来た。
ほどいた部分に、新しい図案を当てている。金糸を通す前に、端布で針の間隔を確かめていた。
「三つ目です」
イルマが見ると、娘は試し縫いの布を三枚並べた。
「まだ揃いません。今、あの子がいたら、一度で縫うと思います」
娘は笑わなかった。イルマも慰めなかった。
しばらく針が動いて、また止まった。
「私は、あの子を外せば、一番になれると思いました」
娘は糸を切った。
「あの子がいなくなっても、私の針は同じだったのに」
切った糸を拾い、娘は小皿に入れた。それからもう一度、端布へ針を刺した。
翌日の夕方、エーデルは新しい紙を求めに来た。
今度は、何に使うかを聞く前に言った。
「学院に、袋へ入れたことを書きます。父への写しも。文を直してもらうためではなく、何を出したか知らせるために」
「ご家族の返事を待つこともできますよ」
「待っても、私がしたことは変わりません」
声は強かったが、紙を受け取る手は汗ばんでいた。
「返事が来たら、たぶん、書かなくてよい理由を探します。だから、先に書きます」
娘は紙を胸に抱えた。
「でも、明日になっても怖いと思います。書き終えるまで、そばにいていただけますか」
「ええ」
「副院長にも。私が、自分で頼んだと知っていてほしいので」
イルマは、机の上の仕事を明日の籠へ移した。
*
三月二十三日の朝は晴れていた。
応接間の机を窓のほうへ動かし、インクとペン、吸い取り紙を置いた。
エーデルの前には、前夜に書いた下書きがあった。
イルマは少し離れて座った。書き始めてから、娘は一度だけ、窓の外を見た。門が開いていた。
そのあとも、何度もペンは止まった。
清書の途中で、エーデルが紙を差し出した。
「署名の前に、読んでいただけますか。私が言ったことと、違うところがないか」
イルマは眼鏡をかけ、声に出して読んだ。
――昨年十二月、王立工芸学院刺繍科の実習室で、私は自分の銀の薔薇のブローチを、ロッテ・アーデンの道具袋に入れました。彼女が糸庫へ行ったあいだです。返却された作品を各自の席へ戻す係だったため、私は彼女の机にも近づけました。
――袋の口は開いていました。中の布包みの下へ、私が押し込みました。翌朝、学院に盗まれたと申し出ました。持ち物を調べられ、彼女の袋から発見されました。私の申告は嘘でした。
娘が、両手を膝へ移した。指を組もうとして、やめた。
――私は、王立衣装庫への首席推薦を望んでいました。ロッテ・アーデンの技量は、私より上でした。盗みの嫌疑があれば、彼女は選考から外されると知っていました。私の身分と、私の物が出てきたことで、学院は私を信じると考えました。
――侍女のトーニには、盗まれたと申し出た日の朝、家を出る私がブローチをつけていたと話すよう命じました。彼女は、その朝には確かめていません。家で失くしたのではないと思わせるため、私が証言をさせました。彼女は、袋に入れた場面にはいませんでした。
イルマは顔を上げた。
「侍女の方のことは、これまで聞いていませんでした」
「書かなければ、あの子が嘘をついたことだけ残るので」
エーデルは紙を見ていた。
「父にも、私が入れたとは言いませんでした。父が学院に処分を求めると聞いても、止めませんでした」
その部分は、次の行に書かれていた。
イルマは続きを読んだ。
――退学になれば、その後の就職にも響くと知っていました。それでも、自分が推薦を得ることを優先しました。処分が決まってからも、嘘が知られるのを恐れ、訂正しませんでした。
――ロッテ・アーデンが私のブローチを盗んだという申告を、撤回します。本人の訴えを再調査し、学院の記録を訂正してください。照会があれば、私が答えます。
読み終えると、水を注ぐ音がした。
オーリアが、娘のそばに杯を置いた。
「書いてあるのは、ご自分の意思で伝えたいことですか」
「はい」
「この内容を、学院と、お父様に送ってよろしいですね」
エーデルは杯に触れなかった。
「……はい」
日付を書き、最後に名前を書いた。
エーデル・ヴェルツ。
最後の一画が、普段より長く伸びた。
イルマとオーリアは、その下に立会いの記載を添えた。本人が自分の意思で書き、署名したことを確認する。事件の真偽を修道院が認定するものではない。
学院へ送る原本とは別に、本人用と父宛ての写しを作った。エーデルは一通ずつ読み直した。
「これで、あの子は戻れますか」
「学院が調べます。あなたの書面や、ほかの方の話を確かめてからです」
娘は頷いた。
封蝋を押す手が震えて、印は少し斜めになった。
「押し直しますか」
オーリアが聞くと、娘は首を振った。
「読めます。このままで」
午後の郵便を、三人で門まで見送った。
エーデルは封筒が鞄に収まるまで目を離さず、馬の足音が遠くなっても、そこに立っていた。
「戻してください、と言いたくなりました」
娘が小さく言った。
イルマは、杖を持ち替えた。
「言いませんでしたね」
娘は答えず、冷たくなった両手を外套の下へ入れた。
*
翌日からも、朝は来た。
エーデルは祈りに出ない日があった。粥が薄いと顔をしかめ、ほどきかけの糸に苛立った。言い過ぎたと気づいて、黙ることもあった。
学院から確認の手紙が届くと、日付と位置を調べ直して返事を書いた。
三月末、父からの返書が来た。
エーデルは、開いたままの便箋をイルマに見せた。
家として調査に協力すること。四月から小遣いの送金を減らすこと。縁談は先方に事情を知らせ、いったん白紙に戻すこと。
末尾には、帰宅するなら迎えを出す、とあった。
「父は、まだ私を帰すつもりです」
「どうしますか」
「今は、帰りません。あちらの部屋で、また父が何とかしてくれるのを待ちそうなので」
娘は便箋を畳んだ。
「家のせいにするのは、簡単でした。父を騙したのも、私だったのに」
四月十日に学院の審査があり、その日も、十一日も、修道院では何も変わらなかった。
倉庫の西側には、新しい瓦が並んだ。東の荷物は納屋に移したままだった。
エーデルの祭壇の前掛けには、ようやく金の葉が二枚戻った。
結果が届いたのは、四月二十二日だった。
宛先はエーデル。娘は読み終えると、イルマのところへ持ってきた。
――ロッテ・アーデンに対する、窃盗の嫌疑を理由とした退学処分を取り消す。
イルマは、次の行もゆっくり読んだ。
新しい供述と当時の記録を照合し、トーニにも改めて話を聞いたという。侯爵家は、娘の申告に基づいて処分を求めた経緯を認め、その申し入れを撤回した。
学院もまた、ロッテの否認を十分に調べず、反証の機会を与えないまま処分したことを認めていた。
窃盗を事実として扱った記載は訂正される。退学は取り消され、紹介状の発行も再開される。旧処分を通知した先には、学院から訂正を送る。
ロッテ本人へ、同じ決定と謝罪が届けられた。
「……直りましたね」
エーデルが言った。
イルマは頷いた。
当年の推薦枠は、別の生徒が既に使っていた。そこを取り上げることはできない。ロッテには復学と次年度の選考について案内し、失った期間の補償は、本人、学院、侯爵家のあいだで話し合うとあった。
エーデル自身への処分は、休学から退学へ変更されていた。
娘はその一行を、指で隠さずに読んだ。
「私には、紹介状が出ません」
イルマは返す言葉を探さず、娘が続きを話すのを待った。
「町の仕立て屋に、仕事がないか聞きました。縫い直しなら、人手が欲しいそうです」
「学院のことは?」
「話しました。そのうえで、一度、縫って見せなさいと」
エーデルは、膝の上の手を開いた。
「院長にも、ここでのことを聞きたいそうです。書いていただけますか。良いことだけでなくて、構いませんから」
イルマは、机の上の布へ目をやった。
「まず、引き受けた前掛けを仕上げましょう」
娘は布を抱き寄せた。以前なら、そんなことくらい分かっていると言いそうな顔だった。
その顔のまま、頷いた。
*
四月の終わりに、祭壇の前掛けができあがった。
解いて縫い直した跡は、近くで見れば分かる。けれど、つれていた布は平らになり、葉の形も揃っていた。
イルマは、娘に手を借りて祭壇へ掛けた。
「これなら、次の祭日から使えますね」
「まだ、直した跡が」
「そこは見えます。でも、使えます」
娘は布を指先で撫でた。今度は解かなかった。
仕立て屋への手紙は、オーリアにも見てもらって書いた。
寄宿中に引き受けた仕事と、その仕上がり。間違いを申し出て直したこと。学院への撤回文書を本人が書き、送ったこと。
仕事を任せて大丈夫だとまで、保証はできなかった。試しに縫わせて判断してほしいと結んだ。
エーデルは読み終え、折り目を揃えた。
「もう少し、褒めていただけると思っていました」
「私が見たのは、その分です」
「分かっています。不満なだけです」
娘は手紙を袋へしまった。
イルマは少し笑った。娘も、つられたように口元を緩めた。
四月三十日、エーデルは修道院を出た。
仕立て屋での試し縫いを終え、ひとまず一か月、住み込みで働くことになった。食事と部屋のほかには、わずかな給金しか出ない。預かり物の管理は任せず、親方の目の届く仕事から始めるという。
娘は条件を聞いて、それでも行くと決めた。
補償の話し合いは終わっていなかった。今後の連絡を受け取れるよう、学院には新しい住所を届けた。
門で荷物を持ち直したとき、エーデルが言った。
「ロッテからは、何も来ませんでした」
「ええ」
「来ないと分かっていたのに、郵便が来ると見ていました。受け取った、と。それだけでも書いてくれないかと」
娘は、外套の留め具を触った。銀の薔薇ではなく、木の釦だった。
「でも、あの子の返事がなくても、直ったものは直ったんですよね」
「学院から、本人へ決定は届いています」
エーデルは坂の下を見た。
「世話になりました」
礼の言葉は、最初の日より少し下手だった。
イルマが頷くと、娘は一礼して歩き出した。坂を半分下りたところで荷物を持ち替えたが、戻ってはこなかった。
「院長。東の屋根の見積り、こちらで詰めます」
オーリアが門まで来ていた。
「私も見ますよ」
「見ていただきます。ただ、先に私が決めます。来年からそうなるのですから」
イルマは口を開きかけ、閉じた。
「では、お願いします」
事務室には、寄宿者宛ての手紙が三通あった。
イルマは宛名を読もうと近づけ、眼鏡を忘れたことに気づいた。
「仕分けは、私が」
オーリアが手を出した。
イルマは、その手に三通とも渡した。
封はどれも閉じていた。午後には、それぞれの名宛人へ届くだろう。
外では、若い葉が風に鳴っていた。
今日も日が落ちれば、門を閉める。明日の朝には、また開ける。
その役も、もうイルマ一人のものではなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、いつもなら物語の終着点になりがちな「修道院送り」の、その先を描いてみました。
イルマ院長が四十年間迎えてきた娘たちには、それぞれ違った事情と、その後の人生があったはずです。
もし反応をいただけるようでしたら、白楡修道院を舞台に、さまざまな事情を抱えた女性たちの物語を連作長編として描くことも考えています。
「長編でも読んでみたい」と思っていただけましたら、評価や感想で教えていただけると嬉しいです。
お読みいただき、本当にありがとうございました。




