ラウンド3:人間は何を見ているのか ~集団心理と『信じたい』心~
(スタジオの照明が微妙に変化し、より内省的な雰囲気を醸し出す。壁面に投影された映像が、霧に包まれたネス湖から、人間の脳のシルエットへとゆっくり移り変わる)
あすか:「それでは、ラウンド3に入ります」
(クロノスを操作し、新しいテーマを表示する)
あすか:「テーマは『人間は何を見ているのか』。これまでの議論で、首長竜がネス湖に生存している可能性は極めて低いことが確認されました。しかし、それでは数千件にのぼる目撃証言は、いったい何だったのでしょうか」
(ホログラムに、さまざまな目撃者の証言が浮かび上がる)
あすか:「『長い首が水面から突き出ていた』『巨大な黒い影が湖を横切った』『波を立てて泳ぐ生き物を見た』——これらの報告をした人々は、嘘をついているのでしょうか。それとも、本当に『何か』を見たのでしょうか」
(フーディーニに視線を向けて)
あすか:「フーディーニさん、人を騙すプロとして、また騙されないプロとして、人間の認知についてどうお考えですか」
フーディーニ:「いい質問だ。これこそ俺の専門領域だからな」
(立ち上がり、スタジオを歩きながら)
フーディーニ:「まず言っておきたいのは——目撃者の大半は、嘘をついてるわけじゃないってことだ」
あすか:「嘘ではない、と」
フーディーニ:「ああ。彼らは本当に『見た』んだ。問題は、彼らが見たものと、そこに実際にあったものが、同じとは限らないってことさ」
キュヴィエ:「認知と現実の乖離、ということかね」
フーディーニ:「そう、先生。俺はマジシャンとして、その乖離を利用してきた」
(手を動かしながら説明する)
フーディーニ:「人間の脳ってのは、目から入ってきた情報をそのまま処理するわけじゃない。過去の経験、期待、感情——いろんなフィルターを通して『解釈』するんだ」
ドイル:「それは認めよう。しかし——」
フーディーニ:「待ってくれ、ドイル。まず説明させてくれ」
(ドイルが口を閉じる)
フーディーニ:「例えばな、俺のショーで使う古典的なトリックがある。『消える硬貨』ってやつだ。俺が右手から左手に硬貨を移したように見せる。観客は左手を見つめる。でも実際には、硬貨はずっと右手にある」
あすか:「ミスディレクション、ですね」
フーディーニ:「その通り。観客は『硬貨が左手に移った』と期待する。だから、左手を見る。見ていないものを見たと思い込む——これが人間の脳だ」
クストー:「興味深いですね。しかし、それはあなたが意図的に誘導した結果です。ネス湖の目撃者を、誰が誘導しているのでしょうか」
フーディーニ:「いい質問だ、船長。答えは——『物語』だよ」
キュヴィエ:「物語?」
フーディーニ:「ああ。『ネス湖には怪物がいる』っていう物語が、何百年も前からこの地域に伝わってきた。人々はその物語を知った上で湖を見る。すると脳は、その物語に沿って目の前の光景を『解釈』しちまうんだ」
(具体例を挙げながら)
フーディーニ:「例えば、湖面に浮かぶ流木を見たとしよう。普通なら『流木だな』で終わる。でも『怪物がいるかも』と思って見ていると、脳は流木の形を『怪物の首』に見立てようとする。逆光で輪郭がぼやけていれば、なおさらだ」
ドイル:「しかしフーディーニ、それは一部の目撃を説明するかもしれないが、すべてではないだろう」
フーディーニ:「なぜそう思う?」
ドイル:「目撃者の中には、ネッシーの存在を知らなかった人もいる。先入観なしに、純粋に『奇妙なもの』を見た人が」
フーディーニ:「本当にそうか?」
(鋭い目でドイルを見て)
フーディーニ:「1933年以降、ネッシーの話はイギリス中に広まった。新聞、ラジオ、口コミ——『知らない』人間がどれだけいたと思う?しかも、わざわざネス湖を訪れる人間は、多かれ少なかれ興味を持ってきている。完全に白紙の状態で湖を見た人間が、果たしてどれだけいるか」
クストー:「確かに、期待が認知に影響を与えることは科学的に確認されています。心理学では『確証バイアス』と呼ばれますね」
キュヴィエ:「我々は見たいものを見る。そして、見たものを見たいように解釈する」
フーディーニ:「まさにそれだ、先生。俺はこれを——」
(一瞬言葉を切って、ドイルを見る)
フーディーニ:「……いや、先に進もう」
あすか:(その視線の意味を感じ取りながら)「フーディーニさん、何かおっしゃりたいことがあるようですが」
フーディーニ:「……」
(少し間を置いてから)
フーディーニ:「ドイル。俺はずっと、あんたに聞きたかったことがある」
ドイル:「何だ」
フーディーニ:「なぜだ。なぜあんたほどの頭脳を持つ人間が、あんなにも簡単に騙される」
(空気が張り詰める)
ドイル:「……何の話だ」
フーディーニ:「とぼけるなよ。コティングリーの妖精。降霊会の霊媒師。そして——」
(一瞬ためらい、しかし言葉を続ける)
フーディーニ:「そして、あんたの奥さんの降霊会で、俺の母さんの霊が出てきたって話だ」
(スタジオに重い沈黙が落ちる)
あすか:「……お二人の間に、何があったのでしょうか」
ドイル:「……フーディーニ、今ここで話すのか」
フーディーニ:「ああ。ずっと避けてきた話だ。でも今夜のテーマは『人間は何を見ているのか』だろう?なら、避けて通れない」
(キュヴィエとクストーが、固唾を飲んで見守る)
ドイル:「……わかった。話そう」
(深く息を吸って)
ドイル:「1922年のことだ。私とフーディーニは友人だった。彼は超自然現象に懐疑的、私は信じていた。立場は異なったが、互いを尊重していた——少なくとも私はそう思っていた」
フーディーニ:「俺もそう思ってたさ。あの日までは」
ドイル:「私の妻ジーンには、霊媒としての能力があった。彼女は自動書記——霊の言葉を紙に書き取る——ができた。私はフーディーニに、彼の亡くなった母親と交信してみないかと提案した」
フーディーニ:「俺は……」
(声を詰まらせる)
フーディーニ:「俺の母さんは、1913年に亡くなった。俺はその死から立ち直れなくて、何年も降霊会を回った。母さんともう一度話したかったんだ」
クストー:「それで、ドイル卿の奥様の降霊会に参加されたのですね」
フーディーニ:「ああ。ジーン——ドイルの奥さん——はトランス状態に入って、紙に文字を書き始めた。『母からのメッセージ』だと言ってな」
ドイル:「ジーンは誠実にやっていた。彼女は——」
フーディーニ:「待ってくれ。俺に話させてくれ」
(苦しそうに、しかし言葉を絞り出す)
フーディーニ:「ジーンが書いた最初の言葉は……十字架だった。キリスト教の、十字架」
あすか:「十字架……?」
フーディーニ:「ああ。ページの一番上に、大きな十字が描かれていた。それを見た瞬間、俺にはわかった——これは母さんじゃない、と」
キュヴィエ:「なぜそう確信したのかね」
フーディーニ:「俺の母さんは——」
(感情を抑えるように)
フーディーニ:「俺の母さんは、ラビの妻だったんだ。ユダヤ教のラビ——聖職者の妻だ。生涯、敬虔なユダヤ教徒として生きた。そんな母さんが、死後のメッセージをキリスト教の十字架で始めるか?」
(沈黙)
フーディーニ:「ありえない。絶対にありえない。母さんを知っている人間なら、誰でもわかることだ」
ドイル:「……ジーンは、君のお母様の宗教については知らなかった。彼女は——」
フーディーニ:「だからだよ、ドイル!」
(声を荒げる)
フーディーニ:「だから、あれは本物じゃなかったんだ!本物の霊なら、自分がユダヤ教徒だったことくらい覚えてるだろう!ジーンが知らなかったから、『霊』も知らなかった——つまり、あのメッセージはジーンの無意識が作り出したものであって、俺の母さんじゃなかったんだ!」
ドイル:「しかし——」
フーディーニ:「しかも!」
(さらに感情が高ぶる)
フーディーニ:「あの日は母さんの誕生日だった。もし本物の母さんなら、『今日は私の誕生日ね』くらい言うだろう。でもメッセージには、そんなことは一言も書いてなかった。ジーンが知らなかったからだ!」
(テーブルを叩く)
フーディーニ:「あんたの奥さんは——あんたの奥さんは、俺の母さんのふりをしたんだ!母さんに会いたかった俺の心を、弄んだんだ!」
ドイル:「フーディーニ、ジーンに悪意はなかった!」
(ドイルも声を荒げる)
ドイル:「彼女は本当に霊を感じていたのだ!それが君の母上だったかどうかは——確かに、間違いだったのかもしれない。だが、彼女は騙そうとしたわけではない!」
フーディーニ:「悪意があろうがなかろうが、結果は同じだ!俺は——」
(声が震える)
フーディーニ:「俺は母さんに会えると思ったんだ。もう一度、声を聞けると思ったんだ。それが——あんなデタラメだった」
(長い沈黙)
クストー:「……フーディーニさん、少しよろしいでしょうか」
フーディーニ:「……何だ」
クストー:「あなたの怒りは、理解できます。愛する人を失い、その人に会いたいと願い、そして裏切られた——それは深い傷だ」
(穏やかに、しかし真摯に)
クストー:「しかし、私は一つ聞きたいのです。ドイル卿の奥様は、なぜそのようなことをしたのでしょうか。あなたを傷つけるためでしょうか」
フーディーニ:「……いや。そうは思わない」
クストー:「では、何のために」
フーディーニ:「……ジーンは、本当に霊を感じていたんだろう。少なくとも、そう信じていた。自分の能力を信じていた」
クストー:「つまり、彼女もまた——」
フーディーニ:「騙されていた。自分自身に」
(苦々しく)
フーディーニ:「人間は、自分の脳が見せる幻を、現実だと思い込むことがある。ジーンはトランス状態で、自分の無意識から湧き上がるイメージを『霊からのメッセージ』だと解釈した。悪意はなかった。でも、だからといって——」
ドイル:「だからといって、許せない、か」
フーディーニ:「ああ」
(二人が向き合う)
フーディーニ:「俺が許せないのは、あんただ。ドイル」
ドイル:「私を?」
フーディーニ:「あんたはホームズを書いた男だ。論理と観察の権化を生み出した作家だ。なのになぜ、こんな明らかな矛盾を見抜けなかった?ユダヤ教徒の霊がキリスト教の十字架を描く——こんな馬鹿げた話を、なぜ信じた?」
ドイル:「……私は」
(言葉を探すように)
ドイル:「私は……信じたかったのだ」
フーディーニ:「何を」
ドイル:「死後の世界を。愛する者と再び会えることを」
(静かに、しかし深い感情を込めて)
ドイル:「君は母上を亡くした。私も——私は息子を亡くした。キングズリー。第一次大戦で負傷し、スペイン風邪で死んだ。1918年のことだ」
フーディーニ:「……」
ドイル:「息子を失った悲しみは、言葉にできない。私は——私は、息子がどこかにいると信じたかった。消えてしまったのではなく、別の形で存在していると。そして、もう一度会えると」
(目に涙を浮かべながら)
ドイル:「降霊会で息子の霊と話したとき、私は確かに息子を感じた。それが本物だったのか、私の願望が作り出した幻だったのか——正直に言えば、今でもわからない」
フーディーニ:「……」
ドイル:「だが、あの瞬間、私は救われたのだ。息子はまだどこかにいる、と思えた。その希望がなければ、私は——」
(言葉が詰まる)
ドイル:「私は、生きていけなかったかもしれない」
(長い沈黙がスタジオを包む)
あすか:「……お二人とも、大切な人を亡くされている。そして、その喪失が——」
ドイル:「違う道に導いた。そうだ」
フーディーニ:「俺は降霊会を回って、全部がインチキだと知った。だから二度と騙されないと誓った」
ドイル:「私は降霊会で息子と話し、死後の世界を確信した。だから、その存在を伝えようとした」
フーディーニ:「同じ悲しみから、正反対の結論に達した——ってわけか」
ドイル:「そういうことだ」
(二人の間の空気が、少し和らぐ)
クストー:「お二人の話を聞いて、私は一つのことを思います」
あすか:「何でしょうか、クストー船長」
クストー:「人間が『何を見るか』は、その人が『何を求めているか』に深く影響される。フーディーニさんは真実を求めた。だから偽物を見抜いた。ドイル卿は希望を求めた。だから希望を見出した」
キュヴィエ:「興味深い視点だ。しかし、科学者としては問わねばならない——どちらが正しいのか、と」
クストー:「両方が正しいのかもしれません。あるいは、両方が間違っているのかもしれない」
キュヴィエ:「どういう意味かね」
クストー:「フーディーニさんは偽物を見抜いた。しかし、すべてが偽物だと結論づけることで、本物を見逃す可能性はないでしょうか。ドイル卿は希望を見出した。しかし、希望を求めるあまり、偽物を本物と信じてしまった」
(二人を交互に見ながら)
クストー:「人間の認知には、二つの危険があるのです。疑いすぎて真実を逃すこと。信じすぎて偽物を掴むこと。どちらの極端も、真実から遠ざかる」
フーディーニ:「……船長、あんたは俺が疑いすぎだと言いたいのか」
クストー:「いいえ、そうは言っていません。あなたの懐疑心は、多くの詐欺師を暴いてきた。それは正しいことでした」
(しかし、と続けて)
クストー:「ただ、私は問いたいのです。すべてを疑うことで、あなた自身が失ったものはないでしょうか。お母様との再会の希望を、あまりにも早く諦めてしまったということは——」
フーディーニ:「……」
(長い沈黙の後、静かに)
フーディーニ:「俺は……俺は10年間、毎年母さんの命日に降霊会を開いた。死後の世界から連絡があるかもしれないと思って」
あすか:「10年間も……」
フーディーニ:「ああ。俺が死んだら、必ず妻のベスに連絡すると約束した。秘密の暗号も決めた。『ロザベル、信じなさい』——俺たちだけが知っている言葉だ」
(苦笑いを浮かべて)
フーディーニ:「でも、俺が死んでから10年経っても、ベスは連絡を受け取らなかった。俺は——どこにも行ってないんだ」
ドイル:「フーディーニ……」
フーディーニ:「俺は結局、疑り深いまま死んだ。でもな、ドイル——」
(真剣な目で)
フーディーニ:「あんたが信じて死んだことを、俺は否定しない。あんたにとっては、それが真実だったんだろう。俺には俺の真実があり、あんたにはあんたの真実がある」
ドイル:「それは……私たちが和解できるということかね」
フーディーニ:「和解?」
(少し考えて)
フーディーニ:「わからない。でも、少なくとも——あんたが息子を亡くした悲しみは、理解できる。俺も母さんを亡くしたから」
ドイル:「……ありがとう、フーディーニ」
あすか:「お二人の間にあった因縁が、少し解きほぐされたように感じます」
(場の空気が和らいだところで)
あすか:「ここで、議論をネッシーに戻したいと思います。今のお話を踏まえて——人々がネス湖で『怪物』を見るのは、何を求めているからなのでしょうか」
キュヴィエ:「私から一つ、仮説を述べさせてもらおう」
あすか:「お願いします」
キュヴィエ:「人間には、『未知への憧れ』とでも呼ぶべき根源的な欲求があるように思う」
クストー:「おっしゃる通りです。私も海でそれを感じてきました」
キュヴィエ:「この世界がすべて解明され、地図の空白が埋め尽くされ、神秘が消え去ることへの——ある種の恐怖。あるいは寂しさ。人間は、未知が残っていることを望んでいるのではないか」
ドイル:「だからこそ、ネッシーを求める」
キュヴィエ:「そうだ。ネッシーは、『この世界にはまだ発見されていないものがある』という希望の象徴なのかもしれない。科学が万能ではない、人間が知り尽くしていない領域がある——そう信じたい心が、波の影を怪物に変える」
フーディーニ:「皮肉だな。先生は科学者なのに、科学への不信を擁護してるように聞こえるぜ」
キュヴィエ:「擁護ではない。分析だ。人間の心理を理解することは、科学の否定ではない。むしろ、科学の一部だ」
クストー:「キュヴィエ先生のおっしゃることは、私の経験とも一致します」
あすか:「どのような経験でしょうか」
クストー:「私がドキュメンタリーを作り始めたころ、視聴者から届く手紙の多くは、こんな内容でした——『海にはまだ知られていない生物がいると信じています。あなたがそれを見つけてくれると期待しています』」
(懐かしむように)
クストー:「人々は、発見を待ち望んでいるのです。未知の生物、未踏の領域、解明されていない謎——それらが存在すること自体が、人々に希望を与えている」
フーディーニ:「でもな、船長。その希望が詐欺師に利用されてるって話を、俺はさっきしただろう」
クストー:「その通りです。希望が悪用されることはある。しかし、希望そのものを否定すべきでしょうか」
フーディーニ:「否定はしない。ただ——」
(言葉を選びながら)
フーディーニ:「希望と妄想は違う。『いつか発見されるかもしれない』と思うことと、『もう発見された』と思い込むことは違う」
クストー:「おっしゃる通りです。その区別は重要ですね」
ドイル:「では、ネッシーの目撃者たちは、妄想を見ているのか」
フーディーニ:「妄想というか……期待による歪みだな」
(説明するように)
フーディーニ:「『見たいものを見る』ってのは、意識的な嘘じゃない。脳が無意識のうちに、入力情報を期待に沿って処理してしまうんだ。本人は本当に『見た』と信じている。だから嘘発見器にかけても、嘘の反応は出ない」
キュヴィエ:「心理学ではこれを『期待効果』や『確証バイアス』と呼ぶ。自分の信念に合致する情報を重視し、矛盾する情報を軽視する傾向だ」
ドイル:「しかし、それは私たち全員に当てはまるのではないか。否定派も、肯定派も」
フーディーニ:「どういう意味だ」
ドイル:「君たちは『ネッシーはいない』と信じている。だから、目撃証言を『錯覚だ』と解釈する。それもまた、確証バイアスではないのか」
フーディーニ:「違うな」
(きっぱりと)
フーディーニ:「俺たちは『証拠がないからいないと判断する』。あんたたちは『証拠がなくてもいるかもしれないと信じる』。この二つは対等じゃない」
ドイル:「なぜ対等ではない」
フーディーニ:「証拠に基づく判断と、願望に基づく信念は、同じ重みを持たないからだ。科学は証拠で動く。願望は——願望は、何でも正当化できてしまう」
キュヴィエ:「フーディーニ氏の言う通りだ。『いるかもしれない』という可能性は、反証不可能だ。どれだけ探しても見つからなくても、『まだ探していない場所にいるかもしれない』と言える。そのような主張は、科学的議論の対象にならない」
ドイル:「では、科学は可能性を閉ざすのか」
キュヴィエ:「閉ざすのではない。優先順位をつけるのだ。すべての可能性に等しく資源を費やすことはできない。だから、証拠に基づいて蓋然性を評価し、より可能性の高いものに注力する」
クストー:「キュヴィエ先生、一つ質問があります」
キュヴィエ:「何かね」
クストー:「先生は、科学者として蓋然性を評価するとおっしゃった。では、先生自身は『未知の発見』を期待する心を、お持ちではないのでしょうか」
キュヴィエ:「……どういう意味かね」
クストー:「先生は古生物学を創始された。誰も見たことのない古代生物を、化石から復元された。その原動力は何でしたか。純粋な論理だけでしたか。それとも——『誰も知らない生物を発見したい』という、ある種のロマンがあったのではないでしょうか」
(キュヴィエが少し考え込む)
キュヴィエ:「……クストー氏、鋭い指摘だ」
(認めるように)
キュヴィエ:「確かに、私には発見への情熱があった。マンモスの化石を初めて手にしたとき、私は興奮を覚えた。『これは誰も見たことのない動物だ』と。その興奮が、私を研究に駆り立てた」
クストー:「つまり、先生も——」
キュヴィエ:「待ってくれ。私の興奮と、ネッシー信者の信念は違う」
(区別するように)
キュヴィエ:「私は発見に興奮した。だが、発見を『期待』して現実を歪めることはしなかった。化石を見たとき、私は『これは何だろう』と問うた。『これはマンモスであってほしい』とは思わなかった。証拠が語ることを、そのまま受け入れた」
ドイル:「しかし先生、完全に中立な観察者など存在するのでしょうか。誰もが何らかの先入観を持って世界を見ている」
キュヴィエ:「完全に中立な観察者は存在しない。それは認めよう。しかし、先入観を自覚し、それを補正しようと努力することはできる。科学的方法とは、まさにその補正のための手続きなのだ」
あすか:「先入観を自覚し、補正する。それが科学的態度であると」
キュヴィエ:「そうだ。自分が何を期待しているかを知り、その期待が判断を歪めていないかを常に点検する。それが科学者の責務だ」
フーディーニ:「俺も同じことをやってるぜ。マジシャンとして、観客の期待を利用する側だからこそ、自分が騙されないように常に警戒している」
ドイル:「私は……私は、その警戒が足りなかったのかもしれない」
(静かに、しかし誠実に)
ドイル:「コティングリーの妖精写真を信じたとき、私は専門家の意見も聞いた。写真の加工痕がないか、調べてもらった。しかし——結局、私は『本物であってほしい』と願っていた。その願いが、判断を曇らせたのだろう」
フーディーニ:「……認めるのか」
ドイル:「認めよう。私は間違えた。少女たちが絵本の妖精を切り抜いてピンで留めただけのものを、本物の妖精だと世界に向けて発表した。それは恥ずかしいことだ」
(しかし、と続けて)
ドイル:「だが、私はその経験から一つ学んだこともある」
あすか:「何を学ばれたのですか」
ドイル:「間違えることは、恥ではないということだ。間違いを認めず、固執し続けることこそが、恥なのだと」
(フーディーニを見て)
ドイル:「フーディーニ、君は私を『騙されやすい』と批判した。その批判は正しい。しかし、私は少なくとも——自分の間違いを認める勇気は持っていたいと思う」
フーディーニ:「……」
(少し間を置いて)
フーディーニ:「ドイル。あんたのことを、俺は『頭がいいのに騙されやすい愚か者』だと思ってきた」
ドイル:「そうだろうな」
フーディーニ:「でも今夜——今夜、あんたの話を聞いて、少し考えが変わった」
ドイル:「どのように」
フーディーニ:「あんたは愚かだったんじゃない。傷ついていたんだ。息子を亡くして、その悲しみを癒やす方法を求めていた。たまたまその方法が——俺から見れば間違った方向だっただけで」
(苦笑いを浮かべて)
フーディーニ:「俺も母さんを亡くしたとき、降霊会を回った。同じ穴のムジナさ。違うのは、俺がたまたまトリックを見抜けるスキルを持っていたってだけだ」
ドイル:「フーディーニ……」
フーディーニ:「許すとは言わない。でも——理解はできる。それだけだ」
あすか:「……お二人の対話は、今夜のテーマの核心を突いているように思います」
(立ち上がり、まとめに入る)
あすか:「人間は何を見ているのか。その答えは——その人が何を失い、何を求めているかによって変わる。悲しみを抱えた人は希望を見出そうとし、騙された経験を持つ人は警戒心を強める」
(4人を見渡して)
あすか:「ネッシーの目撃者たちもまた、何かを求めていたのかもしれません。未知への憧れ、発見の興奮、あるいは日常を超えた体験——それらを求める心が、波の影を怪物に変えた」
キュヴィエ:「しかし、それは『ネッシーがいない』という結論を変えるものではない」
あすか:「おっしゃる通りです。心理学的な説明は、ネッシーの存在証明にも否定証明にもなりません。ただ、なぜこれほど多くの人がネッシーを『見た』のかを理解する助けにはなります」
クストー:「そして、その理解は——私たち自身の認知の限界を知ることにも繋がる」
あすか:「素晴らしいまとめですね、クストー船長」
(クロノスを確認しながら)
あすか:「さて、いよいよ最終ラウンドに入ります。ラウンド3では、人間の認知と心理について深く掘り下げてきました。フーディーニさんとドイルさんの間にあった因縁も、少し解きほぐされたように思います」
(正面を向いて)
あすか:「最終ラウンドのテーマは——『深淵を覗くとき ~UMAを追う意味~』。ネッシーが存在するかどうかを超えて、なぜ人類は未確認生物を追い続けるのか。そして、それを追う意味はあるのか。4人の知性が、最後の結論を導き出します」




