※第九話 魔王の神殿
朝日が木々の間からこぼれ落ち、小川の水面をキラキラと照らしていた。
ひんやりとした朝の空気は澄み渡り、鳥たちのさえずりが遠くから聞こえる中、三人は静かにその流れに沿って歩を進めていた。
やがて、リリアは顔をしかめ、まるで苦いものを噛み砕いたような表情で言った。
「この先は、昔から獣人の間じゃ、あんまり近づきたがらない、忌み嫌われた場所なのだ」
「私たちが知っている、古い神殿にまつわる話も似たようなものね」
エレナは腕を組み、考え込むように頷いた。
「つまり、何百年も前に僕たちも知らない魔王がいた場所で、その信者たちが集まってたのが、これから行く神殿ということだね?」
カインは指輪を見つめ、期待に声を弾ませた。
「そういうことだ。リリアたち獣人に古くから伝わる伝承では、彼らは、魔王と、その力の象徴である指輪を崇め、余所者をこの地に近づけさせなかったと聞かされている」
「なるほど、リリアさんの故郷にも、同じような伝承があるのね」
エレナは、腕を組みながら再び頷いた。
その瞳には、古代の謎に対する知的な好奇心が宿っていた。
「私たちが知っている神殿にまつわる話も同じようなものだわ」
カインは、左手のくすんだ金色の指輪に熱い視線を落とした。
微かに脈打つような感触が、彼の胸を高鳴らせる。
「それじゃあ、壁画や、祭壇なんかには、魔王や指輪に関する情報が残されているかもしれないな。だからこそ、この神殿には、指輪を解き明かす鍵が眠っているはずなんだ!」
その声には、抑えきれないほどの期待が込められていた。
カインの純粋な瞳が、リリアの心の傷をチクリと刺す。
「だからこそ……」
リリアは、喉の奥で小さく呻き、重い空気を含んだ息をゆっくりと吐き出した。
忌まわしい伝承が蘇り、足が鉛のように重くなる。
「我々はこの神殿を訪れたがらない。獣人にとって、それは決して触れてはならない忌まわしきものなのだから。それでも、お前たちのその瞳に宿る光が、本当に獣人の未来を照らすというのなら……リリアは、この誇りにかけて、必ずお前たちの力になろう」
リリアは、静かに、しかし強い光を宿した瞳でカインを見据えた。
(リリアは、全ての人族への敵意との訣別と、この二人を信頼し、共に歩む覚悟を決めたのだ)
そんな魂の誓いを抱いていた。
山脈の麓に近づくにつれ、空気は重く淀んでいた。
「見て……あれが目指していた神殿ね……入り口が、まるで朽ちた巨人の骨のようだわ」
エレナが指差すその先には神殿の門のような建築物が陰鬱な姿を晒していた。
「長年の風雨に削られたんだろうな。外壁に意味不明で不気味な彫刻が刻まれてる。まるで虫が蠢いた後みたいだ」
カインが呟くと、森の静寂を切り裂くように、どこからともなく、乾いた金属が擦れるような、あるいは獣のうめき声のような奇妙な音が聞こえてきた。
「なんだかリリアはゾクゾクしてきたぞ……」
「僕でもわかる……嫌な気配だ」
「何か禍々しい気配のような魔力を感じますね……」
神殿に到着した三人を、目に見えない圧力が包み込んだ。
「ここに来てから感じるんだ。肌を粟立たせるような微かな痺れと言うか、重い空気に押し付けられるような感覚……まるで、生きた意思を持つ壁が、僕らの侵入を拒んでいるような……」
そう言ってカインはゴクリと唾を飲み込んだ。
その横でエレナは眉をひそめ、周囲に手をかざした。
「何かしら……この神殿から、これまでに感じたことがないような魔力と……微かな嫌悪感を抱かせるような魔力を感じます……」
そう言った彼女の瞳の奥には、かすかな光が揺らめき、まるで空気中の見えない糸を辿るように、神殿から滲み出す淀んだ魔力を探っていた。
そしてエレナの隣では、リリアが全身の毛を逆立たせ、低く唸っていた。
「獣の勘が、この場所に潜む尋常ではない危険を告げている」
そう言った彼女の筋肉はいつでも飛びかかれるように強張り、鋭い爪が、無意識に地面を掻いていた。
「とにかく中を探索してみよう!何かすごい手がかりが見つかるんじゃないかな!」
カインは、逸る気持ちを抑えきれず、期待に目を輝かせながら、神殿の暗い入り口に足を踏み出そうとした。
「待てカイン。やはり何か良くない匂いがする。ここは慎重に進むべきだ」
リリアは低い声で制止し、金色の瞳を鋭く光らせて周囲の影を睨んだ。
「リリアたち獣人の嗅覚には感じ取れるんだ。神殿の中から漂う埃っぽい空気。その中に微かに混じる、鉄錆のような、あるいは腐敗臭のような不快な匂い……」
リリアの言葉に、警戒したカインは徐に剣を抜いた。
そして一歩、また一歩と、床に吸い付くように慎重に足を踏み出した。
「暗くて狭いな……手を伸ばせば天井に届きそうだ。これじゃ剣を振るのも考えなきゃいけないな」
カインは、頭上を見上げながら、鬱蒼とした天井に手を伸ばした。
その顔には、少しばかりの閉塞感と、奥に潜む未知への期待が入り混じっていた。
「それに通路は入り組んでいるみたいね。どうしてこんな面倒な作りにしたのかしら」
エレナは、周囲の複雑な壁の構造を指でなぞりながら、僅かな苛立ちを浮かべると、小さくため息をついた。
「外敵を防ぐためだろうな。それだけ魔王も、敵が多かったということだろう」
カインは、もっともらしい顔で頷いた。
「魔物が出たりするのかしら?」
エレナは、カインの背後に少し隠れるようにして、不安げに小さな声で尋ねた。
「あぁ、さっきリリアがそんな匂いを嗅ぎ取っていたからな。まぁ、魔物が出ても、その時はその時。僕とリリアが居れば大丈夫さ」
カインは、胸をドンと叩いて絶対の自信を持って笑った。
その言葉には、リリアへの絶対的な信頼と、自身の剣技への自信が滲み出ていた。
「とにかく慎重に。指輪や魔王に関する物はないか、探しましょう」
エレナは、気を引き締めるように小さな声で言った。
「今、神殿のどのあたりにいるのだろうな」
カインは、周囲を見回しながら呟いた。
「かなり進んだとは思いますが、正確な位置はわかりませんね」
エレナが答えた。
「大丈夫だ。リリアの鼻は、微かな空気の流れに乗って漂う、出口特有の匂いを既に捉えている。そしてこの通路に充満する、あの忌まわしい"奴ら"の、湿った獣のような匂いも……」
そう言ってリリアは、片手を上げてカインたちに静止を促した。
その金色の瞳は、獲物を狙う獣のように鋭く光っていた。
「いるのね……私たちの前に……魔物たちが……」
エレナが呟いた、その時だった。
背後の天井の古びた木材がギシギシと音を立てる。
削れた部分から、砂埃を舞い上げながら人影が舞い降りてきた。
「きゃっ!後ろに魔物が!」
薄暗い通路にじめじめとした空気の中、鮮やかな緑色の肌が浮かび上がり、ギョロリとした尖った耳と獣のような金色に光る瞳がこちらを捉えた。
粗末な腰巻きを身につけ、節くれだった手には先端の尖った木の棒が握られていた。
「天井から!ゴ、ゴブリン⁉︎」
エレナはその異形に悲鳴を上げそうになり、足がすくんだ。
「気を付けて!」
リリアは鋭い眼光で背後の存在を睨みつけ、低い声で警戒を促した。
カインは初めて見る異形の怪物に目を丸くしたが、すぐに剣を抜き放ち、興奮したように息を吐いた。
「ゴブリン……!」
「前からも……来ます!」
前方からもけたたましい奇声を上げ、べっとりと涎を垂らし、錆び付いた剣や棍棒を手にしたゴブリンたちが、地面をドタドタと踏み鳴らしながら向かってくる。
「挟まれた!カインは前!リリアは後ろをやる!」
リリアは研ぎ澄まされた刃のような動きで鋭い爪を振るう。
「まず一匹目!」
早くも一体のゴブリンの喉元を正確に捉え、黒い血を撒き散らして仕留めると、残りのゴブリンを睨みつけながらカインに前方の守りを任せた。
「カイン、そっち!」
「エレナは無理をしないで。僕らが傷ついた時は、治療を頼む」
剣を肩に担いだカインは、リリアの言葉に力強く頷くと、心配そうな表情でエレナに声をかけて、唸りながら迫り来るゴブリンの前に仁王立ちした。
「二人も無理すんなよ!」
リリアの言葉を聞いたエレナは、震える手を必死に抑えながら、目潰しの粉が入った小袋を狙いを定めて、迫り来るゴブリンに投げつけた。
「ギャッ!」
パシュッという音と共に黄色い粉末が舞い上がり、悲鳴と共にゴブリンの動きが一瞬止まる。
「二人とも、今!」
エレナの声に応じ、リリアは研ぎ澄まされた両手の爪で素早く最後の一匹の喉を掻き切り、カインは雄叫びと共に大剣を横薙ぎにし、残るゴブリンを胴体から両断した。
「グギギ……」
「ウガガ……」
黒い体液を撒き散らしながら倒れるゴブリンたち。
しかし、通路の奥の暗闇から、じめじめとした足音と共に、新たなゴブリンの群れが蠢き出てきた。
その数は、先程の比ではない。
「後ろの敵は片付けた。このまま敵を倒しながら、出口を探すぞ!」
リリアは息一つ乱さずカインの隣に立ち、その研ぎ澄まされた戦闘力を存分に発揮する。
「さすがリリアだな!その動き、まるで踊りのようだ! 俺も負けてはいられない!」
カインは興奮したように叫び、再び剣を構えた。
「狭く天井の低い通路で、戦いにくいな……剣を横にしか思うように振れない。やり難い!」
カインは額に滲む汗を拭いながら、思うように剣を振るえず、苛立ちを隠せない。
「心配するな。リリアに任せろ」
リリアは冷静な眼差しで迫り来るゴブリンたちを捉える。
「ゴブリンが束になろうと、このリリアが通れぬ道はない!」
その瞬間、カインの背筋に冷たいものが走った。
「危ないリリア!」
壁のわずかな隙間から、漆黒の矢が音もなくリリアへと迫っていたのだ。
咄嗟にカインは猪突猛進の勢いでリリアを突き飛ばし、代わりに自分の肩に矢が深々と突き刺さった。
「カインお前……リリアを助けるために、その身を犠牲にしたのか!」
「リリアが無事なら、それで良いんだ。それよりも、こんな所に罠が……ゴブリンたちが、こんな手の込んだ罠の位置を知り尽くしているのなら、ここからの戦いはかなり厄介になるぞ」
「そんなことよりカイン、矢が刺さった肩から凄い血が……!動かないで。すぐに治療するわ!」
カインが冷や汗を滲ませ、苦痛に顔を歪める様子を見たエレナは、蒼白になった顔ですぐに駆けつけた。
「お願い!カインの傷を治して!」
そう言ってエレナは、両手を重ねると、温かい光を放つ回復魔法を施した。
「ありがとうエレナ。痛みが嘘のように消えていくよ。今回も身体中に力が湧いてくるようだ」
光を受けて、矢はズルリと抜け落ち、じんわりとした光と共にみるみるうちに傷口が塞がっていった。
カインの一部始終を見たリリアは、苦渋の表情を浮かべた。
「すまないカイン。おかげで助かった。とは言え、手をこまねいているわけにはいかない。リリアが血路を開くからついて来てくれ!カインはリリアの少し後ろ、エレナはいつでも回復魔法を頼む!」
リリアはそう言って前に出たが、すぐさま次の罠が発動した。
「危ない!」
「……今度は床が!」
リリアは、床板がギシリと不気味な音を立て、一瞬にして足元に暗く深い口を開けた落とし穴に嵌りかける。
しかし持ち前の驚異的な感と跳躍力で空中で体を捻り、危うく危機を回避した。
「リリアさんじゃなきゃ、きっと今頃、穴の底で串刺しよ……この先、一体、どんな仕掛けが!?」
エレナは息を呑み、恐る恐る落とし穴の底を覗き込んだ。
「なんて事なの……朽ちかけた鎧と白骨化した死体がいくつも転がっているわ……あの死体なんか今にも助けを求めてきそうな姿で……叫ぶように歪んだ顔の骨まであるわ……!」
そこには、骨が折れ曲がり、白骨化した死体が幾つも折り重なるように転がっていた。
エレナは失われた生命を前に、ひどく心を痛めていた。
「エレナ、ここは危険な場所なんだ。仕方ないさ。僕たちも、そうならないように気を付けよう。それよりリリア、いつもより動きが鈍い気がするけど……戦闘続きで、疲れて来たんじゃないか?」
カインが心配そうな目を向けながら二人を気遣う。
「これくらいハッ……ハッ……どうという事はない。獣人の力を舐めるな」
そう言いながらも、ゴブリンと戦うリリアの額には大粒の汗が滲んでした。
肩を大きく上下させ、荒い息をする姿は隠しようもない疲労を大きく表していた。
「リリアさん、少し休んでください!回復魔法で、疲れを癒します」
エレナがそう言って優しくリリアの背中に手を当てると、自身から清らかな白い光が溢れ出し、リリアの身体を優しく包み込んだ。
光が、疲弊した身体にじんわりと溶け込んでいくと、リリアの重かった瞼がゆっくりと開き、その瞳には再び鋭い光が宿った。
「ありがとうエレナ。全身が軽くなったようだ。これでまた存分に戦える。さあ、先へ進むぞ!」
「リリア、僕も戦う。二人でゴブリンを倒しながら、先に進むんだ!」
「わかったカイン。オラオラ、ゴブリンども!お前たちなんてリリアたちの敵じゃないんだ!もっとまとめてかかってきやがれ!」
力を取り戻したカインとリリアは、敵を蹴散らし、血飛沫を上げながら進んだ。
やがて周囲よりも一段と広い、高い天井を持つ部屋のような空間が現れた。
そこには他とは明らかに違う、肌を刺すような冷たい空気が淀んでいた。




