※第五話 獣人族
木々の枝葉が重なり合い、早朝のかすかな光さえも深い影に閉じ込める、陰鬱な森の中。
生ぬるい空気が漂う中、低いカラスの鳴き声だけが、陰鬱な静寂を乱していた。
カインとエレナは、獣道のように細く、すれ違う人もいなくなった寂しい街道を、まるで重い足枷をつけたように、ゆっくりと進んでいた。
「……」
エレナは顔を俯かせ、黒く長い髪の隙間から時折見える唇を固く結んでいた。
その瞳には、先ほどからずっと、深い悲しみと怒りの色が渦巻いている。
「どうしたんだい? エレナ。さっきから黙り込んで……何かあったのかい?」
カインは、心配そうにエレナの顔を覗き込んだ。
彼の声には、いつもの明るさはなく、わずかに戸惑いが滲んでいる。
「カインは、気がつかなかったの? 森の入り口ですれ違った荷馬車に、獣人の子供達が乗せられていたことを」
エレナは、顔を上げずに、絞り出すような声で言った。
その声には、抑えきれない怒りが宿っていた。
「すまない。辺りを警戒していて、気がつかなかったんだ」
カインは、目を伏せて謝った。
(森の静けさと、また野盗が襲って来るんじゃないかと気になって、馬車まで気が回らなかったな……)
彼の脳裏には、周囲への注意が散漫になっていた記憶が蘇る。
「あの子達、首輪や手縄で拘束されていたわ。まるで、家畜のように……。きっとどこかで捕えられて、奴隷として売られに行くところなのよ。この国の人々は、獣人を人として見てはいないわ。家畜や物として扱っているの。私許せない!」
エレナは、拳を強く握りしめ、震える声で言った。
「……そうなのか。森の外の世界に疎くて、すまない。獣人に対する差別があるんだな。そんなことされて、獣人達は抵抗しないのか?」
カインは、エレナの言葉に衝撃を受け、眉をひそめた。
(森では獣人に出会うことはなかったし、母さんの話でも、特に険悪な関係では無いと聞かされていたけど……実際の世界では、獣人たちが酷い扱いを受けているんだな)
カインは獣人たちの辛い境遇に想いを馳せていた。
「抵抗しても、数が違いすぎるのよ。それに……この国の王様が、獣人達を奴隷として扱うことを認めてもいるし……」
エレナは、悲しそうな表情を浮かべ、目を伏せた。
彼女の長い睫毛が、その深い青色の瞳に影を落とす。
「……」
カインは、エレナの言葉に、何も言い返すことができなかった。
(森の中で母さんと育って来たから知らなかったけど、世間の人たちは、なんて残酷なんだ。それを見たエレナの悲しみは、僕にも痛いほどわかるよ……)
「怪我や病気で苦しむ人々を救いたいけれど、それと同じように、理不尽な差別に苦しむ獣人達もどうにかしてあげたいわ。だって、彼らが暮らす土地をどんどん奪った上に、小さな子供達まで捕えて、奴隷として売買するなんて、絶対間違えてると思うの。カインもそう思うでしょ?」
エレナは、瞳に涙を浮かべながら、必死に訴えかけた。
その声には、強い正義感と、どうすることもできない無力感が入り混じっていた。
「あ、あぁ……そうだな」
カインは、エレナの言葉に頷きながらも、心の奥底で葛藤していた。
エレナの正義感に共感しつつも、古い神殿へ向かうという目的との間で、どうすべきか決めかねていたのだ。
(だけど、今は古い神殿に行って、指輪の秘密を探るという目的もある。この先、エレナに獣人を救うための旅をしたいと言われたら、どうしよう?)
森の緑は深く、木漏れ日が二人の影を長く伸ばす。
しかし、その美しい風景も、二人の心を晴らすことはなかった。
鬱蒼とした森を抜け、ようやく開けた場所に出た。
「どうやらここは小さな村だったみたいね。今はもう見る影もなく荒れ果てて、住んでる人も居ないみたいだけど……」
「……酷い有様だ」
エレナとカインは、目の前に広がる光景に、思わず眉をひそめた。
「めちゃくちゃに荒らされてるけど、あれって畑だよな?まるで嵐でも通り過ぎたみたいだ」
「あっちの家も酷い有様よ?魔物の襲撃にでもあったのかしら?あれじゃ住んでた人は、どこかに逃げて戻ってないみたいね」
カインとエレナは荒れ果てた集落を眺めながら、確かめるように近づいていった。
「やっぱりこの小さな集落は、魔物に襲われたみたいだね。住んでいた人たちは、無事に逃げられたのかな?」
カインは、エレナに問いかけた。
しかし、エレナは答えず、先ほどよりもさらに険しい表情を浮かべて、ただ一点を見つめていた。
「カイン、見て……あそこ!」
エレナが指差す先には、数人の男たちがいた。
「あいつらあんな所で何をしているんだ?」
視線の先で彼らは、錆びた武器を手に、一軒の家を囲んでいた。
「オラオラ!クソガキがジタバタするな!獣のガキが手こずらせるんじゃねぇよ!」
「パパ、ママ、助けて!」
家から無理やり引きずり出された獣人族の子供は、必死に両親の名を叫び、助けを求めていた。
しかし、男たちは冷酷な笑みを浮かべるだけだった。
「まだガキを隠していやがったぜ、こいつら。またひと稼ぎ出来るってもんだ。これだから奴隷商人はやめられねぇな!」
「活きが良いのは良い事だ!雌と子供は高値で売れるからな!こいつなんか、良い奴隷になりそうだぜ!」
リーダーらしき、ちょび髭短足の男は、獣人の子供を掴み上げ、まるで獲物を品定めするように、その体を弄んだ。
子供は、恐怖で体を震わせ、必死に抵抗していた。
「あんたら、俺たちをなんだと思ってるんだ。俺たちは、森の片隅でひっそりと暮らしたいだけだ。お前達、人族の邪魔はしていない。それなのに、畑を荒らして、家の中を無断で物色して略奪したあげく、子供達も攫っていくなんて酷すぎるじゃないか!」
子供の父親らしき獣人が、怒りを露わにして男たちに詰め寄った。
しかし、男たちは嘲笑うだけだった。
「獣臭い手で触るんじゃねぇ、この毛むくじゃらが!」
男たちは、獣人の父親を蹴り飛ばし、地面に倒れ伏せた。
「あなた大丈夫!?」
獣人の妻が駆け寄り、夫を抱き起こそうとするが、男たちは容赦なく、二人を足蹴にした。
「……カイン、あの家族を助けましょう!」
エレナは、怒りに震える声で言った。
大きく見開かれた瞳には、強い怒りと、悲しみが宿っていた。
「ああ、あまりにも酷すぎる!」
カインもまた、目の前の光景に、怒りを抑えきれなかった。
二人は、獣人の家族を救うため、集落の中へと足を速めた。
集落の中は、外から見た以上に荒れていた。
エレナは、集落の中へ足を踏み入れ、周囲を見渡した。
「……酷い……あの人たちがやったのかしら……まるで、ここだけ時間が止まってしまったみたいだわ」
カインも後に続き、壊れた家々を見つめた。
「家というより、もはや抜け殻だな……本当に人間がやった事なのか?」
木と土で建てられた家々は、まるで打ち捨てられた廃墟のように、静まり返っていた。家々の家具は壊され、床は抜け、中からは生活の痕跡が消え失せている。
かつては人々の笑い声や生活の息吹があったであろう場所に、今はただ、静寂と荒廃だけが広がっていた。
「これ以上、その人たちを傷付けるのはやめろ! 今すぐその子供を解放して、この集落から出ていくんだ!」
カインは、剣を抜き、男たちに怒鳴りつけた。
全ての者たちに聞こえるように発せられた大きな声は、平穏な生活を奪われた集落に、怒りの咆哮のように響き渡った。
「なんだ? 誰かと思えば、こんな小僧か。てめえも人間なら、わかんだろ? こいつらは獣人、獣なんだ。獣なら俺たちが自由に狩り獲るのは当然だ。それは、この国の王様も認めてる権利なんだぜ?」
ちょび髭短足の男は、泣き叫ぶ獣人の子供を掴み上げ、まるでゴミを見るような目でカインを見下ろした。
その表情は、獲物を狩る獣のようにギラつき、口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。
「たしかに法律では、獣人を奴隷にしたり、売買することは認められてるけど、それであなた達の心は傷まないの?」
エレナは、男の言葉に反論するように、震える声で言った。
その瞳には、深い悲しみと、怒りが宿っていた。
エレナの言葉を聞いた、奴隷商人らしき一行は、互いに顔を見合わせ、まるで滑稽なものでも見たかのように、腹を抱えて笑い出した。
「何が可笑しいんだ!」
カインは、奴隷商人の態度に怒りを爆発させ、思わず大声を上げた。
その声は、静まり返った集落に、怒りの雷鳴のように響き渡った。
「心が痛むだと? 笑わせるな! お前達は、まだ子供だからわかんねぇんだよ。大人になったら、金がいるんだ。その金のためなら、なんでもやらなくちゃならない。これは獣を狩る、俺たちの仕事なんだ。わかったら、とっとと帰ってネンネでもしてな!」
ちょび髭短足の男は、カインを嘲笑うように言い放ち、手のひらをヒラヒラと振った。
まるで、相手にする価値もないと言わんばかりの態度だった。
そして、興味を失ったように、視線を獣人たちへと移した。
(やっぱり、これが外の世界の人間なんだ……そして僕はどうすることもできないなんて、なんて無力なんだ……)
カインはそう思うと、男の言葉に、何も言い返すことができなかった。
(この人たちには人の心がないのね……私たちの気持ちなんて、伝わりそうにもないわ……)
エレナもまた、奴隷商人の言葉に、唇を噛み締め、悔しさを滲ませていた。
「だめ……カイン。あの人達、私達の話を全く聞こうともしてない」
エレナは、瞳に涙を浮かべながら、必死に訴えかけた。
その声には、強い正義感と、どうすることもできない無力感が入り混じっていた。
しかし、同時に、カインに頼るしかないという、わずかな希望も感じていた。
「あの家族が引き離されるのを、ただ見ていることしか出来ないのか……何かしてやれることは無いのか……」
カインもまた、拳を強く握りしめ、悔しさを噛み締めた。
しかし、彼の心には、獣人たちのためにしてやれることが浮かんでこなかった。
「ボス〜、こっちにも一人、隠れてやしたぜ〜」
その時、奴隷商人の一人が、獲物を発見したような、下卑た笑みを浮かべて叫んだ。
「でかした。これで今夜は、贅沢な祝杯をあげられるな」
「へへっ、良い獲物を捕まえたぜ」
「だからやめろって言ってんだろ!」
カインは、さらに込み上げてくる怒りを抑えることができず、震える声で叫んだ。
しかし、またしても男たちは、まるで子犬の戯言を聞くかのように、カインの言葉を無視した。
「えぇい、子供は仕事の邪魔だから、いい加減、どこか行きやがれってんだ!」
男は、再びカインを追い払うように、手をひらひらと振った。
そして、部下たちに指示を出した。
「お前ら、捕まえた獲物を馬車に積み込むんだ!」
「ボス! こいつ、また暴れてますぜ!」
部下の一人が、馬車の方を指差して言った。
馬車の荷台には、既に手足を縄で縛られ、必死にもがく獣人たちの姿があった。
「……!」
カインは、思わず息を呑んだ。
捕えられた数人の獣人の中で暴れていたのは、精悍な顔立ちの少女だった。
金色に輝く瞳は、怒りと憎悪に燃え、ピンと立った耳と、逆立つ尾は、彼女の強い抵抗の意志を示していた。
しかし、その美しい姿も、縄で縛られた状態では、ただの囚われた獲物に過ぎなかった。
彼女の必死の抵抗も、低く唸る声も、虚しく空気を震わせるだけだった。