※第二十一話 それぞれの悩み
夜の帳が静かに下りた獣人の集落。
篝火のパチパチという音だけが、時折、静寂を破るように響いていた。
カインは、硬い寝床の上で身じろぎもせず、天井を見つめていたが、ふと、その先へと左手を伸ばしてみた。
「この魔王の指輪……母さんから託されてから、未だにわからないことばかりだ。壊す事はできないし、封印の手がかりすらつかめてはいない……」
左手の薬指で光る、くすんだ金色の指輪。
カインはぼんやりと眺めながら、一人虚しく呟いた。
「父さんの汚名を雪ぐ……森を出て外の世界を知ってから、ずっと悩み続けてきた問題。噂の真相を解明するには、父さんと母さんが魔王を討伐した当時の事を調べるしかないんだよな……」
カインは、もはや確信とも言える想いを抱いていた。
(エレナの力が必要だ。出来れば、リリアの助けも……)
カインは、隣の寝床に横たわるエレナにそっと視線を向けた。
(可愛そうに……頼りの治癒魔法でも治せない病気を前に、彼女の心はズタズタに引き裂かれているんだろうな……)
そんな想いを抱きながら眺める彼女の顔は、月明かりに美しく照らされていた。
しかし、その心が痛々しいほどに憔悴している事はカインにも理解できた。
魔石病という黒い影は、彼女の心身を深く蝕んでいた。
(せっかく回復魔法を引き継いで、多くの人々を救えるようになったのに……あの希望に満ちてた瞳が、今じゃ輝きを失いかけている……そんな彼女に、指輪の謎を解く手助けを求めるのは、あまりにも酷だろうな)
時折、苦しげな寝息が漏れるたびに、カインの胸には、そんな思いによる焦燥と無力感が押し寄せてきた。
(リリアの力も、きっと大きな助けになるはずだ。あの獣人族特有の鋭い感覚と、何よりも彼女の強い意志は、困難な旅路で必ず頼りになるはずだ)
カインは彼女の勇姿を思い浮かべながら、そんな想いを抱いていた。
(だけど、彼女の心はまだ、完全に僕たちに開かれているとは言えない。心を許してもらうには、もう少し時間が必要だろうな……)
そう思うと、カインの表情は、次第に険しいものへと変わっていった。
(一人では、ドワーフの里に辿り着けるはずがない……)
獣人たちの土地から、さらに遠く離れたドワーフの里。
(ガルガの話では、険しい山々を越え、未知の領域を進まなければならないらしい……そのためには道案内はもちろんのこと、不測の事態に対応できる仲間の助けが必要だ……)
しかし頼れるはずの仲間たちは、今はそれぞれの苦悩の中にいる。
(やっぱり僕の力だけでは、あまりにも心許ない……)
孤独が、冷たい夜風のようにカインの心を吹き抜けた。
指輪の謎は依然として何もわからぬまま。
父の汚名を晴らすための道は、暗闇の中に閉ざされ、その先は全く見えない。
(僕はこの先、どうすれば……)
焦燥感だけが、カインの胸の中で黒い炎のように燃え盛り、静かな夜を、彼の不安で満たしていた。
翌日、朝日が差し込むガルガの広間には、温かい食事が並び、穏やかな空気が流れていた。
ガルガとリリアは、間に小さな妹や弟たちを挟んで、久しぶりに揃った家族水入らずの朝食を楽しんでいる。
湯気を上げる肉のスープ、香ばしい焼き魚、そして甘い木の実のパン。
子供たちの無邪気な笑い声が、部屋を満たしていた。
ふと、ガルガは遠い目をしながら、昔語りを始めた。
「……あの頃は、まだ若かったな」
リリアは食事の手を止め、興味深そうに耳を傾ける。
妹弟たちも、父の冒険譚が好きだった。
「アレクという男がいてな。どんな強い敵が現れても逃げずに戦いを挑んでいく猪のような奴だった。どんな困難にも決して挫けず何度も挑戦し、いつも明るく笑っていた。やがて周りの皆も奴を助けに入る、不思議な魅力を持った男だった」
ガルガの声は、懐かしさに滲んでいた。
「そしてマリアは……本当に優しい女だった。自分のことよりも、他人の痛みを先に理解しようとする。傷ついた者を見れば、我が身を削ってでも助けようとした。我も彼女がいれば、不思議と勇気が湧いてきた。まるで、戦場に降り立った天使のようだった」
リリアは、ガルガの語るアレクとマリアの姿を想像していた。
「不屈の精神と自己犠牲の慈愛。どちらもとても素晴らしいものですね」
それは、リリア自身も大切にしたいと願う資質だった。
ガルガは、頷き言葉を続ける。
「我とアレク、マリアの間には、固い信頼があった。どんな危険な場所でも、互いを信じ、背中を預けられた。……だが……」
そこで少し声を詰まらせ、言葉を切ると、ガルガの表情に、かすかな陰りが差した。
「魔王討伐を終え、族長の座を継ぐ時が来てな。我は、集落の安定と未来のために、それまでの仲間と歩む道を諦め、二人と別れる道を選んだのだ」
リリアは、父の言葉の奥にある後悔の色を感じ取った。
強大な族長である父にも、そんな瞬間があったのかと、少し驚いた。
ガルガは、見上げる小さな息子の頭を優しく撫でながら、続けた。
「あの時、我は全てが解決したと思い獣人族としての道を優先した。アレクとマリアは、最後まで我を理解してくれたが……間違いだった。終わってなどいなかったのだ。奴らも本当は、もっと一緒にいて欲しかったのだろう。我も知っていれば最後まで、奴らを守ってやりたかった」
低い声には、拭いきれない悲しみが宿っていた。
リリアは、父の思いがけない告白に、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「普段は厳格で勇敢な恐れを知らない父上が、そのような悲しみを抱えておられたとは……」
ガルガは、そう呟くリリアの瞳をじっと見つめた。
「リリア。お前も、いつか大切な仲間と出会うだろう。その時は、決して我のような後悔をする道を選ぶな。一度手離したら、二度と取り戻せないものもあるのだ」
そして、語気を強めて言った。
「もう二度と、大切な仲間を失いたくない。アレクとマリアの分まで、今度は我が、お前たちを守る」
その言葉は、娘リリアだけでなく、カインやエレナにも向けられているようだった。
ガルガの瞳には、持ち前の勇敢さに加えて、温かい決意の光が宿っていた。
リリアは、父の思いがけない温かさに、少し戸惑いながらも、温かい気持ちが胸に広がっていくのを感じた。
「カインという男……あの不器用な熱意と、時折見せる熱い眼差しは、まるでアレクを生き写したようだ」
懐かしむような、それでいてどこか目覚めたような声音だった。
「そして、エレナという娘……あの全てを救おうとする純粋な瞳、我が身を顧みない献身的な姿はまるで、かつてのマリアを見ているようだ」
リリアは、父の言葉に静かに耳を傾けていた。
彼女もまた、カインとエレナの二人には、他の人族とは違う何かを感じていた。
「確かに、あの二人がそばにいても、不快感や警戒心を感じません」
リリアは、真剣な眼差しで答えた。
「これまで、人族に心を開くなど、考えたこともありませんでした。裏切りや欺瞞ばかりを見てきたからです」
彼女の瞳には、過去の苦い経験が滲んでいた。
「獣人族と人族の間には、長年の深い溝があります。それは、簡単に埋められるものではありません」
そう話し、リリアは怒りと悲しみが混じり合ったような表情を浮かべる。
「ですが……」
リリアは、言葉を続けた。
「あの二人は違います。エレナの純粋さも、カインの……あの、何と言うか、愚直なまでの真剣さも、嘘偽りがないように思えます」
彼女の言葉は、確信に満ちていた。
「警戒心はまだ完全に解けたわけではありませんが、カインとエレナという二人に対して、リリアの心には確かに、これまで人族には感じたことのない微かな信頼の光が灯り始めているように思います」
そう答えたリリアは、長年閉ざされていた自身の心が、新しい可能性に向けて、ゆっくりと開き始めた兆しを感じ取っていた。
「リリア」
ガルガは、食後の温かい茶をすすりながら、愛娘に穏やかな声をかけた。
「お前も、そろそろ集落に戻って、落ち着いてはどうだ? 強い獣人の若者もいる。お前の伴侶となるに相応しい男も、きっと見つかるだろう」
リリアは、窓の外の景色に目をやりながら、きっぱりと答えた。
「まだ帰りません、父上。リリアの婿探しの旅は、まだ終わっていませんから」
ガルガは、その言葉にわずかに眉をひそめた。
「婿探し、か……確かにそう言っていたな。だが、なぜお前は、カインたちと行動を共にしているのだ? 婿を探すなら、もっと他の選択肢もあるだろうに」
彼の脳裏には、敵に必死に立ち向かい、仲間を守ろうとするカインの姿が蘇る。
そして、リリアが時折見せる、カインに対するほんのわずかな友情のようなもの。
(まさか……そんな馬鹿な……だが、ありえないとは言い切れぬ……)
そんな思いから来る焦燥感が、ガルガの胸にじんわりと広がった。
「リリア」
ガルガは、決心したように愛娘の瞳をじっと見つめた。
「まさか……お前、カインを婿に、などと考えているのではないだろうな?」
その声には、密かな焦りの色が滲んでいた。
リリアは、予想していなかったその問いに戸惑い、少しだけ顔を赤らめた。
「カインは……エレナととても仲が良いですし、人族ですし……その選択肢は、これまで考えたこともありませんでした」
しかし、そこで言葉を切ると、リリアは顎に手を当て、何か真剣に考え込むような仕草を見せた。
「でも……あの優しさ、強さ……それに、エレナを大切に想う気持ちは、確かに大切な夫の資質かもしれませんね」
その言葉を聞いた瞬間、ガルガは自らの愚かさを呪った。
(まさか、娘の口からそんな言葉が出ようとは。これは完全に藪蛇だった)
ガルガは口をポカンと開けたまま焦りの表情を浮かべ、思わず我を忘れていた。
(まずい……これでは我の言葉をきっかけとして、大切で可愛いリリアが、カインの嫁になってしまうかもしれぬ!)
ガルガの胸にはそんな思いが湧き上がり、いつもの威厳と落ち着きを失わせていた。
「父上と姉上は楽しそうだね〜」
焦る父と、悩む姉を見ながら、二人の気持ちがわからない小さな妹弟たちは、そんな事を言いながら、笑顔で食事を進めていた。
重苦しい食事を終え、周りで子供たちが遊ぶ姿を眺めていたガルガの胸には、愛娘リリアが、あの頼りない人族カインに絆されてしまうかもしれないという、夕暮れの空のように暗い予感が渦巻いていた。
族長の威厳を保ちながらも、父親としての不安が、彼の心をゆっくりと締め付けていく。
「父上ご機嫌ななめさん?」
「リリア姉ちゃんがお出かけして寂しいの?」
「フン……」
無邪気な子供たちの問いかけに、ガルガは低い声で短い返事を返すと、落ち着かない足取りで屋敷を出た。
夕方の冷たい空気が、彼の熱い顔を冷やす。
今日もまた、集落の安全を確認するための巡回に出なければならない。
それが、族長としての彼の義務だった。
しかし、今日の集落は、いつもとどこか違って見えた。
(どうした事だ……空気の中に、ほんの僅かにだが、不健康な、澱んだような気配が漂っている)
注意深く目を凝らすと、家々の隅で、弱っている獣人たちの体に、黒く細かい結晶のようなものが、浮き出ているのが認められた。
(……魔石病の流行する兆しが我が集落にも……)
ガルガの黄金の瞳が、集落に立ち込め始めた暗闇の中に鋭く光を放つ。
昨日、エレナが気付き教えてくれた黒い侵蝕は、すでに静かに、だが確実に、集落を蝕み始めていた。
(愛する同胞たちが、石の呪いのようなもので、ゆっくりと死を迎えてしまうかもしれない。このままでは……手遅れになる!)
族長としての責任が、重い石のようにガルガの胸にのし掛かる。
「力ではどうすることもできない、この呪われた病。希望は、もはや遠い彼方の地、ドワーフの里に頼るしかない……古代の知識を持つ彼らならば、この状況が絶望的になる前に、打破する手立て手段を知っているかもしれない……」
ガルガは集落を眺めながら、一人呟いていた。
「だが……間に合うのか?」
ガルガの胸に疑問と不安が湧き上がる。
時間はゆっくりと、しかし確実に過ぎていく。
「愛娘の未来、同胞たちの命……我には全てを守る義務がある」
その思いが、ガルガの肩に重くのしかかり、彼の心に、これまで感じたことのないほどの強い焦燥感を掻き立てるのだった。
それまで見えていた太陽が雲に隠れ、ガルガの落ち着かない不安な気持ちをさらに募らせた。
すると、愛娘の婿問題が、ガルガの脳裏を去来する。
(娘のリリアがカインに惹かれているかもしれぬ……)
そんな予感が、父親としての本能的な不安を呼び覚ます。
(かといって、娘の未来を強制的に閉ざすような真似はしたくない……我は、我は……)
娘自身の意志を尊重したい気持ちと、見知らぬ人族に娘を託すことへの抵抗が、彼の心の中で激しくぶつかり合っていた。
(問題はそれだけではない……)
次に思い浮かぶのは、娘たちのドワーフの里への険しい道のりだ。
(ドワーフの里への険しい道のり……切り立った山々、予測不能な天候、そして潜む魔物たち。果たして、娘たちの細腕だけで、無事乗り越えられるのだろうか?)
そんな思いがガルガに不安を抱かせると同時に、脳裏には懐かしい友の姿が思い出される。
(カインとエレナ……もし今、彼らを助けずこのまま見送り、道中で命を落としでもしたら……あの世でアレクとマリアはどのような顔をするだろうか……)
想像するだけで、ガルガの胸は重い石を押し付けられたように痛んだ。
そして、長年変わることのない、獣人族と人族の関係。
根深い不信感と偏見は、容易に解消できるものではない。
(我もカインやエレナのような善良な人族もいることは理解している。しかし、それはあくまで例外に過ぎないのではないか? ドワーフの里への旅の途中、あるいは到着した先で、彼女たちが悪意を持った人族から、不当な扱いを受ける可能性も否定できない。しかし……それよりも……)
様々な懸念が渦巻く中で、ガルガは自身の心の変化に気づき始めていた。
(かつて我は、人族など取るに足らない存在だと考えていた。しかし、カインの真摯な眼差し、エレナの清らかな心に触れるうちに、その堅実な信念に揺らぎが生じている。娘たちの未来のため、そして魔石病という共通の脅威に立ち向かうためには、人族との協力も視野に入れるべきなのかもしれない)
そんな考えが、彼の頭の片隅でゆっくりと芽生え始めていた。
その時、不意に 、一つの閃きがガルガの脳裏を照らした。
「愛娘の婿問題、娘たちの危険な旅路、そして人族との関係の改善。それらを一気に解決する方法があるのではないか? それは、他でもない……自分がカインたちの旅に手を貸す。これしか解決策はないのではないか?」
ガルガは、自身の思わぬ閃きに、大きく目を見開き、驚きを隠せない。
(族長である我が、集落を離れ、再び旅に出るなど……)
それでも、その考えの中に、わずかな光の道を見出していた。
(重い族長という立場を捨て、我自身が直接危険な旅に身を投じる……それは、集落の安全を案じる長老たちの猛反対を招くだろう。何よりも、我が長らく守ってきたこの地を離れることに、強い抵抗を感じる)
しかし、愛する娘たちの安全、そして未来へのわずかな可能性を天秤にかけた時、ガルガの考えは、重いながらも、ある決意へとゆっくりと傾き始めていた。
そしてその顔には、かつて勇者と旅した、戦士の表情が蘇っていた。




