※第二十話 蔓延し始めた病
翌朝、カインが重い瞼をゆっくりと開けると、部屋にはもう朝の光が温かく差し込んでいた。
窓の外を見やれば、陽は昨日よりもずいぶんと高い位置を照らしている。
寝返りを打って隣の寝床を見ると、美しく長い黒髪は見当たらなかった。
「エレナはもう起きて、出かけてしまったのか。昨日の激戦の疲労がまだ抜けてないだろうに……一体、どこへ行ったんだ?」
カインは、僅かに座り起きながら、独り言のように呟いた。
昨日の魔物の群れの猛攻が、再び脳裏に蘇る。
(かろうじて生き残ったと言っても過言じゃない戦いだった……普通なら、まだ疲れて眠ったままのはずなのに……ちょっと探してみるか。また無理してるかもしれないしな)
そんな不安を抱えながら、カインは手短に身支度を終えると、ガルガの立派な屋敷を後にした。
目指すは、昨日の激戦の爪痕が残る集落の中。
陽はもう高く昇り、獣人たちは昨日の被害から立ち直るべく、もう忙しく動き始めていた。
熱い湯気を上げる鍋の周りで何か料理をする者、川辺で洗濯物を精力的にこすり洗いする者、そして、魔物の恐ろしい襲撃で破壊された柵や塀を、懸命に修復する者たち。
そんな活気の中に、ひときわ人だかりができている小さな小屋を見つけた。
(なんだろう、あんなに人が集まって……)
疑問に感じたカインが近づいて中を覗き込むと、そこには、心配していたエレナの姿があった。
「おはよう、エレナ」
カインの声を聞いた彼女は、温かい笑顔を向けながら、明るい声で応える。
「あっ、カイン、おはよう。よく眠れた?」
エレナは、そう言いながらも、その青い瞳はすぐに目の前の獣人たちに向けられ、集中して優しい光を彼らの体へと注いでいた。
小屋の周りの人だかりは、彼女の回復魔法を待つ人々や、珍しい人間の魔法を一目見ようと集まった野次馬たちのようだ。
「ああ、おかげさまでね。エレナは休めた?昨日は僕を回復するために、かなり無理をしていただろう?」
カインは、かろうじて微笑みながら問いかけた。
(彼女の顔には、昨日の疲労の色がまだ残っているように見える。回復魔法を使うのは、まだ体に負担なんじゃないのか?)
そう言いかけ、カインは口を閉ざした。
(気丈な彼女のことだから、心配したところで、大丈夫よっていつものように微笑むんだろうな。そのくせ絶対に自分の苦労を見せようとはしないんだ)
それは、昨日の魔法の輝きの中に秘めた決意を見たカインには、もうすでにわかりきったことだった。
(これだけの人だかりが出来ているということは、すでに何人も治療して、集落にその噂が広まっているということか……)
「体調は大丈夫か?無理するんじゃないぞ」
カインは、じっと彼女の横顔を見つめながら、心配の色を隠せない声でそう尋ねるのがやっとだった。
(昨日の自己犠牲的な回復魔法が、彼女のか弱い体に影響を残していないか、心配だ……かと言って、今この場でエレナに治療をやめるように言えるはずもないし……)
そう思うと、今のカインには、ただ単に忠告の言葉をかける事が、自分にできる精一杯だった。
「大丈夫よ、カイン」
エレナは、カインの方を振り返ると、予想通りいつものように優しく微笑んだ。
「普通に回復魔法を使うくらいなら、ただ魔力が減るだけで、それほど疲労を感じないわ」
その透明感のある声を聞いて、カインは胸の奥の不安が、ほんの少しだけ和らいだのを感じた。
昨日、まるで眠っていた力が目覚めたかのような、珍しい魔法を使った時とは違い、日常的な範囲での回復魔法であれば、エレナはただ魔力を消費するだけで、肉体的な負担は少ないらしい。
「それなら良いんだけど……」
カインはそう理解して答え、僅かに安堵の息を吐いた。
「心配してくれてるんだ。ありがと」
エレナは、目の前の傷ついた獣人に暖かい光を注ぎながら、カインの方を見もせずにそう言った。
しかし、その頬はほんのりと赤く染まり、その声には隠しきれない喜びが宿っていた。
「……ああ」
カインは、エレナの短い返事に、素っ気のない返事をした。
昨日の激戦と、エレナの他の誰も真似出来ないような自己犠牲のせいで、彼の思考はまだ少しぼんやりとしものだった。
エレナの微かな感情の変化にまで、彼の鈍感な心はまだ気づけていない。
その時、エレナの黄金の光に包まれた、立派な体つきの獣人が、深々と頭を下げた。
「……ニンゲン、アリガト……オレ、タスケテモラッタ……」
たどたどしい人間の言葉で、彼はエレナに感謝を伝えた。
その誠実な言葉に、エレナの顔に、心の底から湧き上がるような、 真の喜びの笑顔が咲き誇った。
「どういたしまして」
彼女は、その獣人のごつごつとした毛並みを、少しためらいながらも優しく撫でた。
昨日まで、人間に対して恐ろしい牙を剥いていた獣人が、今こうして素直に感謝の言葉を述べている。
それは、エレナにとって、何よりも嬉しい報酬だった。
(まさか、獣人たちがここまで率直に友好的な態度を示すなんて……)
エレナは、感慨深げにその光景を見つめると、カインに話す。
「私、カインと旅に出て、良かったなって思ってるの」
「改まってどうしたのさ」
エレナの言葉に、カインは思わず照れ臭そうな表情を浮かべながら答えた。
その様子にエレナは、少しばかり微笑むと、さらに言葉を続ける。
「少しずつだけど、警戒を解いて、私やカインに心を許してくれるようになったリリアの笑顔を見たり、昨日までは頑なで、人間をほとんど信用していなかったガルガさんも、ようやくカインを名前で呼ぶ程度には和らいできた雰囲気。そんな光景を眺めていると、人間と獣人との間に横たわる深い隔たりも、私たちみたいな交流を重ねることで、いつかきっと、少しずつでも埋められていくんじゃないかって思うの」
「そうだな。これから、もっと仲良くなって行けると思うよ」
そう話すカインの鈍い胸の奥にも、明るい希望が確かに芽生え始めていた。
「あら……?」
エレナは、話しながら、次々と温かい光を注ぎ込んでいた獣人たちの列の中で、一人、明らかに異質な雰囲気を纏うごつごつとした体躯の獣人に目を留めた。
他の獣人たちの赤い腫れた傷口や、深い切り傷とは異なり、その獣人の皮膚には、まるで黒曜石の小さな破片が皮膚の下で成長しているかのような、奇妙な黒色の結晶状の痣あざが網の目のように広がっていた。
「何かしら、あの痣は……」
その異様な侵食は、見る者の心に冷たい鉄を突き刺すような、不吉な印象を与える。
「ウッ……グゥ……!」
その獣人は、声にならない弱いうめき声を上げながら、全身を硬直させて苦悶の表情を浮かべていた。
彼の顔には、冷たい汗が滲み出て、引き攣った唇からは、僅かに途切れ途切れの空気が漏れ出ている。
「この痣……まさか……!」
エレナは、駆け寄り、見覚えのある症状に、青い瞳を大きく見開いた。
脳裏に瞬時によみがえったのは、メイプルの街で見た、あの絶望的な光景。
黒く体を蝕む結晶。
そして、何の手立てもないままに体が石のように動かなくなっていった、悪夢のような記憶。
「これは……魔石病……!」
彼女の声は、僅かに震えていた。
希望に満ちていた小屋の中の空気は一変し、まるで重い鉛を流し込まれたように陰鬱に沈んだ。
他の獣人たちも、その異質な黒い痣に気づき始め、彼らの顔には隠された恐怖の色が明らかに浮かび上がった。
エレナの胸には、メイプルの人々を救えなかった時の、あの突き刺すような無力感が、ありありとした映像のように鮮明によみがえっていた。
「また……ここでもまた、魔石病……だけど、回復魔法が覚醒した今ならきっと……」
そう言って、エレナは不安を抱えながら、回復魔法を施す。
しかし思うように効果は現れない。
「そんな……効果がないというの?」
彼女は焦燥に駆られ、さらに、ありったけの魔力を込めて回復魔法を試みた。
金色の光が獣人の体を包み込むが、黒い結晶は溶けることなく、しかし、ほんのわずかにその範囲を広げているように見える。
「エレナ、どうしたんだ?その獣人……」
異様な雰囲気に気づいたカインが、心配そうな表情で近づいてきた。
エレナの額には、冷たい汗が滲んでいる。
「カイン……これは……魔石病なの……メイプルで……見た……」
エレナの声はかろうじて空気を震わせるだけで、話すのも難しいようだった。
必死に助けを求めるように、カインを見つめる彼女の青い瞳は、すでに絶望の色に染まり始めている。
「魔石病……!?そんな……昨日みたいに、覚醒した回復魔法でも治らないのか?」
カインは、苦悶の表情を浮かべる獣人と、悲しそうなエレナの姿を見て、事態の深刻さを理解した。
彼はエレナに手を伸ばそうとするが、エレナは力無く首を横に振った。
「だめ……私の…… 進化した回復魔法でも…… どうにも ……できないの……!」
彼女の声は、深い無力感に打ちひしがれていた。
温かい光はとても弱々しく輝き、まるで彼女の打ち砕かれた希望を映し出しているようだった。
小屋の重苦しい空気は、まるで鉛のようにカインたちの心にもまた重くのしかかっていた。
苦悶する獣人の周りには、不安の色が色濃く、沈黙が垂れ込めていた。
そこへ、エレナが人々を癒しているという噂を聞きつけた男がリリアと共に現れた。
「……ガルガ。この病は……」
カインは、僅かに口を開き、重い表情で佇む偉大な獣人の族長にそう尋ねた。
ガルガの金色の瞳は、陰鬱な影を落とす魔石病の痣を深く見つめていた。
遠い記憶の底を探るように、微かにその瞳は揺らめいている。
「……ああ、カインよ。それは……忌まわしき病だ」
ガルガの声は、普段の野太い響きを潜め、僅かに砂が擦れるような低いものだった。
「久しくその病を見かけることはなかったが……」
そう言ってガルガは遠い眼差しを向けて、記憶を振り返っているようだった。
「かつて……マリアも、あれに苦しむ者に出会い、何か特別な手立てを講じていたが……」
偉大な族長の顔に、うっすらと懊悩の色が浮かぶ。
「……思い出せん……もう、はるか昔のことだ……」
リリアは、無意識にエレナの手を握りしめ、心配そうに青い瞳を見つめていた。
エレナは僅かに力なく微笑み返すのが精一杯だった。
「ただ一つ、これだけは言える。マリアの力を引き継いだ、エレナ……彼女の力が必要だ。彼女なら、この病に打ち勝つことができる」
ガルガは、かろうじて絞り出すように言った。その声音には、隠された決意が宿っている。
「……娘がエレナと親しくなっていくのを見て、人族に助力を求めるのも一つの手だと思った。だが……この魔石病という恐ろしい脅威の前では……まだ、彼女の力はあまりにも不十分だということを、痛感せざるを得ん……」
偉大な族長は、深いため息をつくと、カインとエレナを真剣に見据えた。
「二人とも……我の話を聞いてくれ」
「どうしたんだガルガ、急に改まって」
「魔石病……それは、未だ治療方法が見つけられておらん。ある日突然発病し、死に至る病なのだ」
「あぁ……そうらしいな。俺たちもメイプルの街で、そんな話を耳にしたんだ」
「恐るべき不治の病……しかし、諦めることはない。その治療法、古代の伝承が数多く眠るドワーフの里なら、あるいは調べることができるやも知れぬ」
「ドワーフって、石の加工や精錬が得意な、あの?」
「そうだ。そのドワーフが住む里に行けば、この難解な病に立ち向かうための、画期的な治療法や知識を得られるかも知れない」
「それは、どこにあるのですか?どうやって行けば?」
エレナは希望を胸にガルガに問いかけた。
ガルガはすぐには答えようとせず、少し考えるように瞼を閉じると、一つ深いため息を吐き出して、覚悟を決めたように答え始める。
「エレナ……カイン……危険な旅になるだろう」
ガルガの声は、徐々に重みを増していく。
「ドワーフの里は、我ら獣人族でさえ、はるか昔から、交流が途絶えている。お主らが友好的に迎えられるとは……今となってはとても期待できん」
しかし偉大な族長の金色の瞳には、かすかな決意の光が宿る。
「だが……エレナのさらなる力のため……そして、このひどい病を根絶するためならば……それでもリスクを冒す価値はある」
カインは、エレナの希望を抱きながらも、困惑したような表情を注意深く見つめた。
彼の胸には、エレナの力になりたいという、単純ながらも強い想いが渦巻いていた。
「……ガルガ。僕は行くよ。エレナと共に知識を得るために。そしてメイプルの街で魔石病を前に彼女が味わったような無力感を二度と繰り返す事がないように」
ガルガはカインの力強い言葉に、ほんの僅かに顔を上げた。
金色の瞳には、微かに決意の光が灯り始める。
「……私も……もう、あんな惨めで無力な思いは……二度としたくない……」
絞り出すような声で悔しそうに語る、エレナの言葉を耳にした、偉大な族長は、わずかに頷いた。
そのごつごつとした顔に、かすかな希望の光が宿る。
「……ならば、決まりだ。二人とも……ドワーフの里を目指すのだ。彼の地に住むドワーフたちは、我ら獣人族でさえ忘れてしまった、神代の時代の逸話や秘術さえ語り継いでいると聞く。彼らならば、魔石病の起源や治療に関する知識を持っているはずだ。そしてその、忌まわしき魔王の指輪に関する知識さえも……」
偉大なガルガの口から放たれたその言葉は、重く、空気を震わせたが、その顔に刻まれた深い皺が、その不安を物語っているようだった。
「指輪の知識もあるかも知れないのか!」
カインは瞳を輝かせてガルガに問いかけた。
しかしガルガは、まるで、待ち構える困難を予告するかのように、重く息を吐き出した。
その荒々しい吐息は、燃える篝火の弱い炎を揺らし、周囲の静寂に、不安の色を滲ませた。
「だがな、二人とも……」
偉大な族長は、古代の記憶を辿るように、金色の瞳を遠くへとやった。
その低い声は、ぼんやりと思い描く過酷な道のりの予感をカインとエレナの心に植え付けた。
「ドワーフの里への道は、血と涙の道となるだろう……」
偉大な獣人は、その重い口を開いた。
その声には隠れた決意と、拭いきれない心配の色が混ざり合っていた。
「何故ならば、その険しい山道は、まるで天を突き刺す偉大な剣のように、切り立っているからだ。足を踏み外せば、骨さえ残らぬ深い奈落の底へと、真っ逆さまに落ちていくだろう……」
吹き付ける冷たい風は、まるで氷の刃のように、カインとエレナの皮膚を容赦なく切り裂く。
偉大な獣人の声は、その脅威を増していく。
「その風は、ぎりぎり生き延びている者の体温を容赦なく奪い取り、容易にお前たちの命を脅かすことになるかもしれん……くれぐれも油断するなよ」
ガルガは険しい顔つきで答えた。
「ドワーフ族は祖先の誓いを固く守り、よそ者には決して知識を分け与えぬという。もし強引に足を踏み入れれば、試練という名の残酷な鉄槌が下るだろう」
ガルガの低い声が、カインとエレナの背筋を冷やした。
夜の闇の中で、カインはかろうじて燃える篝火を見つめながら、メイプルの赤く染まった大地を思い出していた。
(よそ者に知識を与えないドワーフたちが、見ず知らずの僕らの話を聞いてくれるのだろうか?もしドワーフの里でも魔石病の治療法が見つからなければ、エレナは僕との旅を辞めてしまうかもしれない。そうなれば僕は……)
そんな考えが彼の胸を冷たく締め付けた。




