※第十話 指輪の囁き
「ここは……床に何か紋様が書かれて……祭壇のようなものがある……礼拝堂かしら……」
エレナが興味深そうに辺りを見回す。
「薄れたりひび割れた壁画や、首のない石像がある。何かわかることがあるかもしれないな」
カインは剣を構えて警戒したまま、部屋の中へと進んだ。
「二人とも、油断するな!来るぞ! 新手のゴブリンが現れたぞ!」
リリアは鋭い眼光で周囲を警戒した。
「ようやく開けた場所に出られた!ここなら、僕の剣を存分に活かすことができる!」
カインは気合と共に剣を振るうが、違和感を覚える。
「こいつら……硬い!さっきまでの奴らより一回りもデカい分、動きが鈍いけど、防御力が段違いだぞ!」
「リリアの爪では奴らの表皮に傷を付けるのがやっとで、深手を負わせることができない……!」
「グワァァァ!」
雄叫びを上げた一際大きなゴブリンの一撃で、カインとリリアは大きく跳ね飛ばされる。
「なんてヤツだ!剣で攻撃を防いだはずなのに、こんなに衝撃を受けるなんて!」
「大丈夫かリリア!エレナ、回復を頼む!治ったら、リリアと僕で挟み撃ちにするんだ!」
「治療します!」
エレナはいつものように、回復魔法を試みる。
しかし手のひらに集まろうとする魔力はまるで消えかけの蝋燭の炎のように弱々しく、ほとんど光を放たない。
「魔力が……ほとんど光が現れない……一体、どうして……⁉︎」
エレナは焦りの色を浮かべ、信じられないといった表情で自分の手を見つめた。
「お願い、リリアさんの傷を癒して!」
傷を完治しようと、全身から絞り出すように回復魔法を続ける。
すると、少しばかりの純白の光がリリアの傷を包み込んだ。
しかし何度も回復魔法を試みた代償として、エレナはまるで魂が抜け落ちるような疲労感に襲われ、額には冷たい汗が滲んでいた。
「ありがとうエレナ。これだけ治してくれれば、十分だ。そう言えば、リリアは故郷の古い伝承で聞いたことがある。魔力を無効化するような魔法陣や道具が存在すると。この部屋は、この異様な冷気といい床に書かれた異様な紋様といい……そんな場所なんじゃないか?」
そう言い残してリリアは、再びゴブリンの元へと向かった。
「さっきのお返しだ!今度は簡単にはやられはしないぞ!」
しかし、ゴブリンの鋭い爪が、再びリリアの肩を深く切り裂いた。
「クッ……情けない……この程度の傷……どうという事はない!」
リリアは歯を食いしばり、強がって見せる。
「無理するなリリア!疲れで動きが鈍り始めてるし、足元もふらついてるじゃないか!無理しないで少し下がるんだ!」
カインは気遣うように声をかけるが、自身も目の前のゴブリンの相手で精一杯の様子だ。
「あっ……もう目潰しの小袋が……」
エレナは縋るような思いで腰にぶら下げていた荷物入れを覗き込むと、そこには指の先に引っかかる程度の、僅かな粉末しか残っていなかった。
悲しそうな呟きが、静かな礼拝堂に虚しく響く。
「このままでは……一体、どうすれば……」
カインの脳裏には、先ほどの罠で味わった鈍い痛みを訴える肩の矢傷、回復魔法の効果が現れないことに青ざめたエレナの顔、荒い息遣いの負傷したリリア、そして、容赦なく迫り来る巨大な岩のようなゴブリンの影が、スローモーションのように駆け巡った。
足元に散らばる矢尻、いつ崩れてもおかしくない床板といった神殿に仕掛けられた罠の数々も重なり、三人の体は鉛のように重く、疲労は限界に達していた。
(目の前のゴブリンは、悪夢か幻か? まるで山のような巨体。あんな化け物を相手に、僕らは全く歯が立たない。足元には矢尻が散らばり、この床もいつ崩れてもおかしくない。こんな場所で満足に戦えるわけがないじゃないか)
カインはそんな事を考えながら、疲労が鉛のように重い鎖となって、体を地面に縛り付けていた。
なおもゴブリンは咆哮を上げ、棍棒で石像の破片を叩き潰した。
その轟音は、まるでカインたちの命運が尽きたことを告げる弔鐘のように響き渡る。
天井の穴から吹き込む風が、冷たく、容赦なく肌を撫でた。
「終わりだ。本当に、終わり……なのか…?」
カインが諦めかけた、その時だった。
(……飢えているのか……力……欲しいか……?)
カインは、脳の奥底に、氷のように冷たく、同時に蜜のように甘い声が、直接響くように聞こえた。
それは、甘く、痺れるような、抗いがたい蜜の香りを孕んだ囁きだった。
まるで、蜜を含んだ蜘蛛の糸のように、カインの意識をじりじりと絡め取ろうとする。
(誰だ?僕に問いかけて来たのは……まさか、この神殿の……?)
しかしカインの心の声に、答えるものはなかった。
周囲には、ゴブリンの粘液の臭いと、微かな腐敗臭だけが漂っている。
(お前の血筋に眠る力……永い間、埋もれてきた力を……我が解放してやろうか?……そうすれば、こんな下等な魔物など、息をするよりも容易く塵芥と化すだろう……)
声はさらに深く、カインの心の最も暗い隙間に滑り込んでくる。
それは、カイン自身が心の奥底で渇望していた、会う事ができない父親への想い、仲間を救いたいという焦燥、そして、何よりも、この絶望的な状況を一瞬で塗り替えたいという切実な思いを、甘美な言葉で囁きかけてくるようだった。
(我に身を委ねれば、お前の大切な者たちはすぐにでも救えるだろう……恐れるな……我に身を任せるのだ……身を委ねるのだ……)
カインの左手の薬指にはめられた魔王の指輪に、微かに光る文字のようなものが浮かび上がると、脈打つように熱を帯び始めた。
その熱は、カインの指先から、まるで生き物のようにじわじわと全身へと広がっていく。
まるで、凍てついていた心に、滾るような熱い血流が流れ始めたかのようだった。
カインは、ゾクリとするような感覚に、思わず息を呑んだ。
「……これは?魔王の指輪が僕に語りかけていたのか……一体、何が起こっているんだ?」
カインの視線が、手にはめられた魔王の指輪へと釘付けになる。
「さっきより、さらに鮮明に禍々しい紋様が浮かび上がってる……指輪本体のくすんだ金色の部分も、とてつもない悪意が渦巻いてるみたいだ……これは一体……」
(そうだ……我が力を貸せば……リリアも、エレナも、二度とこんな苦しい思いはさせない……誰も傷つけさせない……)
誘惑の声は、ますます甘美な蜜のように、カインの意識に絡みついてくる。
「まるで、母さんみたいな優しい声だ……」
その声はカインの理性を優しく揺さぶる。
だが、母マリアを連想したその時、カインの脳裏に、春の陽だまりのような温かい笑顔が鮮やかに蘇った。
それは、まだ病に侵される前の、優しかった、本物の母マリアの笑顔だった。
夕焼け空の下、二人で手をつないで歩いた、あの穏やかな時間が、鮮明に蘇る。
「カイン……どんな時でも、甘く、堕落させるような声に惑わされないで。本当に大切な声は、もっと奥深くで、静かに囁いているものなのよ」
母の、優しくも強い言葉が、カインの耳の奥で鈴の音のように鮮明に響いた。
(違う。この甘い誘惑は、心の奥底からの本当に大切な声ではない。それは、もっと表面的で、安易で、危険な囁きだ。この力に身を委ねれば、きっと後悔する……母さんの言葉が、そう告げている)
カインは、強く歯を食いしばった。
指輪から湧き上がる熱が、さらに激しくなる。
まるで、内側から体を焼き尽くそうとするような、強烈な熱痛だった。
だが、その痛みは、カインの意識を繋ぎ止める錨のようでもあった。
「う……っ……くそっ!」
カインは、苦悶の表情を浮かべ、額に大粒の脂汗を滲ませた。
目の前の巨大なゴブリンが、獲物を定める獣のような眼差しで、棍棒を容赦なく雷のように振り上げて迫ってくる。
もう、考える猶予はない。
(違う……こんな力に、身を委ねるわけにはいかない……母さんの言葉を、僕は忘れない……!)
「……カイン。この指輪の力に甘えては駄目。使わないでください。そしてこの指輪を破壊してください。それが叶わないようでしたら、安全な場所へと封印してください。そして、エレナさんと共に、この世界を救ってください」
母マリアの最期の日の、弱々しくも強い遺言が、カインの脳裏に鮮明に蘇った。
指に嵌められた鈍い金色の輝きが、今はまるで底なしの闇のように見える。
(違う……母さんの言葉を守るんだ……この力に、安易に頼るわけにはいかない……)
「う……っ!」
カインは、込み上げてくる衝動を必死に押し殺した。
指輪が脈打ち、熱が体を蝕むように広がっていく。
目の前では、巨大なゴブリンが棍棒を振り上げ、容赦なく襲い掛かろうとしていた。
「カイン、大丈夫!?顔色が真っ青よ!」
エレナの震える心配そうな声が、かすかに聞こえた。
彼女の顔は青ざめ、額には大粒の汗が滲んでいる。
今にもカインに駆け寄りそうなほど、身を乗り出している。
「ああ……大丈夫だ……まだできる……まだ、やれる」
カインは、荒い息をつきながら、震える声で答えた。
それは、目の前の巨大な影を睨みつけながら、自分自身に言い聞かせるようだった。
(リリアも、エレナも、もう限界に近い……リリアの動きは明らかに鈍いし、エレナの顔は恐怖で歪んでいる……僕が、ここで倒れるわけにはいかないんだ……!母さんが、最後まで諦めなかったように……!)
マリアの最期の、優しくも力強い言葉が、再びカインの胸に熱い塊となって突き刺さる。
その言葉は、まるで暗闇の中の一筋の希望の光のように、カインの心を強く照らした。
「……母さん……見ててくれ……僕は、あなたの息子だ……決して、諦めない」
カインは、心の奥底から湧き上がる滾るような強い意志で、指輪の甘美な誘惑を断ち切った。
それは、濁流に足を踏ん張り、爪を立てて岩にしがみつき、必死に耐えるような、全身全霊の抵抗だった。
指輪から湧き上がる熱が、一瞬にして冷え、代わりに、カインの瞳に、決意の炎が宿った。
その瞬間、カインの体の奥底から、今まで感じたことのない、強烈な魔力が湧き出るように感じた。
それは、抑え込まれていたカイン自身の生まれながらの力が、指輪の甘美な囁きを跳ね除けた反動で、ダムが決壊した濁流のように溢れ出たかのようだった。
「これは……体の奥から力が溢れてくるような……」
「カインから、これまで感じたことがないような、力強い魔力を感じるわ。マリアさんから感じたような魔力とは少し違ったものだけど、温かい、とても強いオーラみたいな物も見える……!」
「父さんの剣が……まるで僕の魔力に反応してるみたいだ」
カインが手にした古びた剣の刃が、今まで見たこともないほど眩い蒼い光を放っていた。
「これなら、巨大なゴブリンにも勝てそうだ!」
力強く顔を上げたカインの瞳は、燃えるような決意の色を宿していた。
その身に纏う魔力は、まるで黒炎のように巨大なゴブリンを威圧する。
ゴブリンはその威圧感に、一瞬動きを止めた。
「うおおおおおお!」
カインは、魂の底から絞り出すような咆哮と共に剣を構え直した。
その全身には、先程までの疲労の色は微塵も感じられない。
全身に漲る奔流のような力、研ぎ澄まされた五感。
マリアの言葉を胸に、指輪の誘惑を打ち破ったカインは、再び大地を踏み締め立ち上がり、迫り来る脅威に立ち向かうのだった。
激しい死闘の末、礼拝堂に残ったのは、無残に転がるゴブリンたちの緑色の屍だけだった。
「……終わった、のか……信じられない……」
「カインのおかげだ。カインにまさか、あれほどの力があったとはな」
カインの剣は黒い血糊に染まり、リリアの爪は激しい摩擦で、鋭利な刃物のような輝きを失っていた。
「二人ともお疲れ様。もうゴブリンたちの姿はないみたいね」
エレナは、魔力切れで青白い顔をしていたが、へたり込むように安堵の息を深く吐き出した。
「二人のおかげだよ。まさかこんな酷い戦いになるなんて想像もしてなかったよ。ゴブリンもいなくなったみたいだし……この部屋を調べてみるかな……」
カインは、荒い息をつきながら、全身の痛みを堪えるように周囲を見回した。
「壁画は翼の生えた悪魔のような魔王を讃えるような物だと思うが、古びて絵具が剥がれ落ち掠れたおかげで、よくわからないな」
カインは疲労困憊したように肩を落とす。
「こちらも、顔の部分が完全に崩れ落ちた指輪を嵌めた魔王のような石像はありますが、詳しい事はわかりませんね」
リリアは欠け落ち崩れた石像を注意深く観察しながら、首を振った。
「獣人に伝わる伝承に出てくる呪詛のような古代文字にそっくりだ。意味はわからないが、恐らくこの床の複雑な幾何学模様が、エレナの回復魔法を阻害していたのだろう」
リリアは床の紋様を指先でなぞるように確かめると、低い声で呟いた。
「わからないことばかりだな……せっかく危険を犯してここまで来たのに……」
結局カインたちが期待していた魔王や指輪に関する古文書や手がかりは、どこにも見当たらなかった。
「残念だけど……何もなかったみたいね……これで終わりなんて、あんまりだわ」
エレナは、肩を落として力なく呟いた。
それを聞いたカインも重い失望感に顔を歪めた。
「諦めるのはまだ早いぞ?」
リリアは、そう言って、何かを確信したような鋭い眼差しで、礼拝堂の奥へと静かに歩みを進めた。
「どうしたんだ?リリア」
「何か見つけたのかしら?」
「何かまとわりつくような異様な気配を感じる……」
獣人の鋭い嗅覚は、微かながらも、腐敗臭の中に隠された、微かな甘い特別な匂いを捉えていた。
そして、ひときわ暗い祭壇の裏で、リリアは息を呑んだ。
「……これ、は……?」
そこには、拳ほどの大きさの、まるで光を吸い込むような深淵のような黒い輝きを放つ鉱石が鎮座していた。
それは、周囲の淀んだ空気とは明らかに異なる、どろりと濃密な魔力を凝縮させているようだった。
「なんだ、あれは?」
カインが近づき、訝しげに額に皺を寄せた。
「これは……魔石、ね。しかも、信じられないほど純度の高いものよ!」
エレナは、その魔石から肌を刺すような強大な魔力を感じ取り、目を丸くして驚きの声を上げた。
「魔石……それがどうした?」
カインにはエレナがそれほど驚く理由がわからない。
「質の高い魔石は、強力な魔法具の材料としても貴重なの。換金すれば、私たちの故郷の村が再建できるほどの額になるわ。もしかしたら、指輪に関する新しい情報を得るための重要な資金になるかもしれない」
エレナの言葉に、カインの瞳が一瞬、射るように輝いた。
「確かに、このまま何の収穫もなく手ぶらで帰るわけにはいかない……わかった。これを換金して、次の手がかりを探そう」
カインは力強く頷き、リリアが丁寧に獣皮の布で包んだ魔石を、自身の革袋へと慎重に仕舞った。
神殿の入り口へと戻る道すがら、エレナは、先程の礼拝堂で感じた、魔力をじわじわと蝕むような無効化する奇妙な力について、改めて口を開いた。
「あの黒い蔦のような紋様は、魔王の指輪を封印するための手がかりになるような気がします。さらに強力な力でなければ、駄目だとは思いますが……」
その言葉に、カインは胸の奥に鉛のような不安を覚えた。
(魔王の指輪をどうにかするには、とてつもない困難に挑まなければならないんじゃないか? この神殿程度で手こずっているようでは、とても目標は達成できない……)
カインは出口への道中、そんな事を考えていた。
朽ち果てた神殿を後に、三人は再び、陽光が降り注ぐ埃っぽい山道へと足を踏み出した。
「やっと外に出られたな」
「そうね、まさかあれほどの魔物の群れに出会うとは思わなかったわ」
「終わってみれば、リリアは良い経験だったと思うぞ」
そう話す三人は、新たに生まれた絆のようなものを感じていた。
「さぁ!次の目的地を目指そう!」
目指すは、山脈の向こうに広がる、喧騒に満ちた大きな街メイプル。
そこで魔石を換金し、新たな情報を求め、彼らの旅はまだ続いていくのだ。
空を見上げると、どこまでも続く青い空に、不吉な形をした白い雲がゆっくりと流れていた。
だが、カインの胸には、拭いきれない不安の影が、小さな黒い雨雲のように重く漂っていた。
魔王の指輪、古代神殿の謎、そして、これから出会うであろう想像もつかない新たな困難。
彼らの未来は、まだ不確かで、幾重にも重なる謎に包まれていた。
「……次こそは、必ず、指輪の手がかりを見つけよう」
カインは、決意を新たにするように、力強く拳を握りしめ、小さく呟いた。
その言葉に、エレナとリリアも、力強く頷いた。
三人の視線は、それぞれの想いを胸に、遥かなる街へと向けられていた。
彼らの長い旅は、まだ始まったばかりなのだ。




