第9回
弥祐は次第に不安になりつつある。
あの店の個室を飛び立ってから、フータはずっと上昇を続けていた。垂直に上がっている故に、ペース自体は緩やかだ。だが時間にすれば、もうかなり経過しているように思われた。地上から見た際に、かなりの高さに一つ、更に上にもう一つ、標高線のように浮いていた雲々の小群を、もうどちらも追い越している。空気の乾燥も、街の埃っぽい感じから質が変わったような気がした。上がる前、彼女は用意した防寒具を身に付けるように言われていた。今はその上着を通して、肌寒さを感じるようになっていた。
これまで何度かフータに乗せてもらっている彼女でも、こんな高い空への上昇は今日が初めてだった。そして、話をしようと言った当のファードが黙ったまま、口を開く素振りも見せなかった。「ファード、高いよ」不安がついに言葉になった。「どこまで上がるつもりなの…?」
腰に回された手に力が込められて、彼女の心中をより良く伝えてきた。ファードは遠くまで見渡してもう少しだと思う。「そうだな」頭上を眺める。「あの雲の上まで行こう」大きな雲の一塊が、ゆっくりと風に流されていた。雲を目印に正確な距離など測りようもないが、今のペースなら越すのに暇取ることはないだろう。弥祐の両腕が、一瞬強張ったようだった。そんな訳は無いのに、背中を強く叩かれた気がした。
目標の雲の上に出た。フータはホバリングを始めた。吹きつけてくる風に時折たゆたうだけで、錨を降ろした船のようだった。
その変化を感じて、弥祐は薄く目を開いた。状況確認の必要がある、平気一瞬で終わるから。ちらっとだけ視線を横へ遣れば、それで済むはずだった。彼女は一気に目を見開いてしまっている。映じる光景が、恐れをきれいに拭い去っていた。声にならない歓声を上げ、押し付けていた額をファードの背中から離し、体を起こした。
雲は切れ切れに浮かぶだけで、ずっと遠くまで、そして遥か下まで、視線を遮るものは殆ど無かった。目と同じ高さに気の早い星々が光って見える。一方で大地は、黄金色に燃えるようだった。光の粒子が絶え間なく降り積もり、同じ波が隅々まで洗っているのだった。
大地を向こうの方まで辿っていけば、この星の丸みに行き当たった。丸みの画する外側に、今日の陽が沈もうとしている。それに接して一際明るいのは、夕陽を無数の輝点にして見せる、遥か遠くの大洋だろう。切れ切れに浮かぶ雲は、その位置取りで染まり具合が異なるようだった。夕陽にかかりそうなのは、眩く白熱している。高い所には赤紫の、海の手前には薔薇色の星雲があった。大きな雲になると、それらがまだらになっていたりする。弥祐はゴーグルを額に押し上げた。大事に使っていて、ガラス面はほぼ無傷だったが、それでもこの一枚の隔たりがもどかしく思えるのだった。
視線を手前に引き寄せてみる。恐らくはお花畑であろう整然と区分けされた中のくすんだ赤や紫、繁茂する森の黒さ、それらが時折変化を添えるものの、大地の基調はあくまでも他の色を沈ませる、しかしそれ自体美しい蜂蜜色だった。少しして、色彩よりも目を引くものに気付く。これだけ高く上がって初めて見分けることの出来た、地図に押し込められて化石になっていない、生きた地形だった。飽かず続き、変化にも富む大地の起伏を目で追えば、自然ダンスに誘われそうな一曲のベースラインが聞こえてくる。その上で自由に展開する主旋律も見えた。例えば平地に鋭く突き入り、かと思うと素早く退く山裾は、そんなものだろう。更に近くまで視線を引き寄せてくると、ずっと地面に近い所に色彩で頑張っているものを見付けた。真っ赤な火の玉が空中に静止しているようである。多分、バロネット(浮遊のための気体を充填する、流線型の気体袋)に夕陽を強く反射した、一艘の飛行船だった。
暫く迷った後、好奇心が勝り思い切って真下を覗き見た。自分が落ちたか大地が舞い上がったか、一瞬後悔した。何とか踏み止まり呼吸を落ち着けて見続ける。足下は首都の中心部だ、街区は広く、人には車やネットモビルの助けがあってようやく使いこなせるくらいのはずだった。だがその広がりの、今見た限りではなんて拍子抜けする狭さだろう。弥祐は確かに高い所から一望して、自然や街並みが模型のように眺められるのが好きだった。足下の首都は、今はちょっと小さくなりすぎて、箱庭を想像するのも難しそうだった。
風が下から吹き上がってきて裸の目を叩いた。目を閉じ、首を引っ込める。その風は追ってくるようだった、飛行帽の耳覆いに絡みついて思い掛けなくも悲しげに唸り、はっと世界を裏返した。音も光も俄に静まっていくようで、急に不安になった。
「弥祐」
高く上がって初めて呼んでくれた声が、弥祐をいつものように落ち着けてくれる。
「この世界のことをどう思う?」
抽象的な聞き方だったがここまで連れてきての事なのだから、今彼女に差し出されている、この全てを前にしてどうかと問うのだろう。弥祐はもっと心を静かにして、時間をかけ、五感で言葉を捕まえようとした。けれど一体、何と言って表現したら良いのだろう。相手はとてもとても、とにかく大きい。
「なんか、上手く言えないよ…」観念して、感じたままを言うことにした。「すごく広くて、静かで…私たちしか生き残ってないみたいで…」不意に言葉に詰まり、涙がこぼれそうになった。彼女は自分でも驚いた。
「どうした?」
振り返ろうとする気配に、弥祐は慌てて首を振った。
「ううん…とにかく綺麗だね。もう、言葉なんて無いよ」
「そうだな」何かを懐かしむようにファードは言う。「漠然としすぎて、途方に暮れちまうよな」
「…」ファードらしい言い方かも、と小さく笑う。
「なぁ、人は見えるか?」
「ええ?」弥祐はどきりとした。「見えっこないよ」
「別にふざけた訳じゃない」
弥祐はファードを見上げた。口調もそうだが、ゴーグルの奥の眼差しも、常にも増して落ち着いているようだった。弥祐はあっと思った。彼女も知らなかったファードを、今見ているのだと思った。
「こうやって高い空へ上がる度に、俺はつくづく思うんだ。人間なんて結局、このだだっぴろい世界と比べりゃちっぽけなもんなんだってな」
「世界と比べて…」弥祐はもう一度、彼方まで目を走らせる。
「さっき、悔しくないのかって聞いたな?」
顔を戻してみたら、ファードも首を回してこちらを見ていた。目を合わせ、頷く。
「空を知らなかったら、俺もそう思って腐ってただろうな」そうならなかったことへの晴れがましさが、口許に浮かんでいる。「だがな、稼ぎが多かろうと少なかろうと、誰だってこのだだっぴろい世界の中じゃ片隅であくせくやってることに違いは無いんだ。空がそれを教えてくれた」
無論、ファードだって納得している訳ではないのだ。しかし今の世の中、人は一体誰に勝って勝ち組で、誰に負けて負け組なのだろう。世界の片隅で今日も滑稽に、あくせくやっていることは誰も同じなのに。空がファードに教えたのは、相対化の視点だった。
要するに、拘っても転がらないと駄目なのだろう。最近の労働の在り方は確かに病んでいるし、やる気の出にくい状況ではある。しかし、そうだと言って現状に腐り自身が苔むしていては、結局は声を上げても力にならないし、時機にも恵まれないのだ。
さっき、この世界を大きいと感じた。ファードの視点の大きさと思い比べてみた。自然、こんなことを言っていた。
「…ファードは、空では王様なんだね」
「王様ぁ?」今度はファードが驚かされた。「そんな大層なもんじゃないだろう」
「私設定なんだからいいじゃない」
呟くように言った弥祐は、ファードの背に額を押し当てた。そのまま少しじっとしている。瞳を閉じ、ファードの腰に回した両手は組んでいて、それはまるで、祈る姿のようだった。
「ファード」そして再び顔を上げた彼女に、もう沈んだところは無かった。声が弾んだ。「私、さっき大見得切っちゃった!」
「なんのことだ?」話の変わりようと弥祐の変わりよう、両方に翻弄されている。
「ほら、言っちゃったじゃない。おばあちゃんの言いたいこと分かりましたって」
「ああ」彼女の剣幕に驚いた、カラの顔が思い出された。
「実は駆け引きだったのだよ。本当のことはまだ誰も知らぬ。ククッ」
「そうか」時折、可笑しみが先に立つ言い方をすると思った。「だが、お手上げって訳でもなさそうだな?」その言葉の内容からも、明るい口調からも、彼女が何かしら価値のあることを見付け、それを胸の内で大切に扱い始めているのが感じられた。
「なんとなくなんだけどねー」ちょっと思案顔をした後、「おばあちゃんにヒントを貰うにしても、もうちょっとまとめてからじゃないとね」口調は如何にも優等生だが、顔付きは新しい遊びを見付けた子供みたく、何処か自慢気だった。
「頼もしい限りだ。ばあさんが何を言いたいのか、俺にはさっぱりだったからな」
二人で笑い合おうとすると、弥祐がくしゃみをした。肩を抱き、体を小さくする。
「ああ、確かに冷えてきたな」もう陽は沈んでいて、後は散乱した無数の光の欠片が空の低い所を薄明るくしているだけだった。それに高所で元から気温が低い。弥祐の、本来は街中で着るような防寒具では、そろそろ凌ぎ切れないかも知れなかった。
「…あったかいココアが飲みたい」小さく鼻を啜りながら訴える。
「まだ入るのか?」ファード自身は満腹だった。
「甘い物と飲み物は別腹だよ」澄まし顔で言った。「両方一緒なら、尚更だね」
ファードは苦笑した。「アイルの店でいいか?」古い馴染みが経営している店を提案した。そこなら弥祐も知っているし、一部がオープンカフェのようにもなっているので、フータが一緒でも大丈夫だった。
「いいね! アイルさんのお店なら甘酒もいいかな」後に引かない甘さと、この店独特の香味が弥祐のお気に入りだった。以前、使っている米が違うとアイル本人に聞いたことがあるが、その米の名はちょっと覚えていない。なんたらヤポニカだったか、学名か何かを聞かされたのだ。
「長いこと付き合わせて悪かったな、フータ」ファードが話しかけると、フータは首をちょっとだけ動かし、何でもない様子でこちらを見た。「さあ、下りよう」
見ようによっては、いつもの何事にも我関せずといった感じのフータだった。でも今は、少しだけ普段と違うような気もした。弥祐はふと、風の妖精は空の全てを体に刻み込み、生まれてくるものなのかも、などと考えた。だとしたら、今の彼の態度はいつもの無関心とは異なり、過去空に教えられ、今日僅かでも空を知った者を自分と同じ空の続きと思い、ただ自然体でいるだけなのかも知れなかった。
そんなことに気を取られていたので、ファードが鞍の上で体重を移動させたのに応じられなかった。不意に体が傾いて、思わず声を出しそうになる。フータは緩やかに弧を切り始めていた。
弧を描きながら、下りてもいく。そうやって大きな螺旋の跡を残しながら、フータはゆっくりと、地上へ近付いていった。
やがて、薄明に白く浮かび上がった姿が真っ直ぐに駆け始める。
その高さから、その角度で下れば、アイルの店へは丁度良いのだ。
今回で物語前半の部が終了です。続けて、物語が動き出す後半部もお楽しみ頂ければと思います。