第7回
「え?」
「HMLでもう一度働く気は無いかな」
カラは繰り返した。ファードが耳を疑ったのも無理はなく、それほど唐突で意外な申し出だった。これには当のファードのみならず、弥祐も戸惑った。
「驚くのも無理はないね」カラは微笑んで相手の緊張をほぐそうとする。「実は営業部門の僕が管轄しているポストに、一つ空きが出来たんだ。ちょっと思う所があってね、君に声をかけたんだよ」
「思う所、ですか」ファードは益々訳が分からない。
「うん。順を追って話そう」一口、水を含む。「仕事自体は企画提案営業という、最近になって設けられたものでね。従来の営業は、ただ料金と早さを売りにうちの運輸網を使ってください、というようなものだったけれど、企画提案営業の方はもっと能動的なんだ。お客様に先んじてお客様のニーズを発掘・分析して、解決方法を提示し、そのサービスを買っていただくようなことをしている」話す内に、次第に仕事人としてのカラが顔を出すようだ。「このポストには仕事を作り出す力、つまり企画力と、コミュニケーション能力が必要になる。そしてそれらは、両方とも今の仕事で君が身につけたスキルだ。違うかい?」
ファードははっとしてカラを見た。相手は頷く。
「君が『時の三精霊』で働いているのは陽さんに聞いた。それで以前、社用の帰りちょっと寄り道した事があったんだ。その時は僕も余裕が無いし、君も忙しそうだしで結局声をかけそびれちゃったけど…」その時の印象は細部まで鮮明に、少しの苦労も無く思い返された。「遠目でちょっとの間見させてもらっただけだけど、それでも君の来館者との遣り取りは柔軟で、人を惹きつけるものが感じられた。それに、風乗りコーナーの展示の幾つかは、君のアイディアなんだってね」
「ええ、まあ」
「勿論、新しく覚えてもらうこともある。潜在的ニーズの調査方法やデータ分析、その他色々ね。でも」カラはぐっと身を乗り出した。「この新しい挑戦は、君にとってきっと実り多いものになるはずだ。それに応じてくれれば、一等雇用者として迎えられる。悪い話じゃないだろう?」
沈黙が落ちた。急に彼女の日常から遠ざかったものになってしまった二人の話に、弥祐はまだ、幾分追い付けていない。何かもやもやした気持ちを抱えながら、ファードとカラの顔を交互に見比べてばかりだった。カラは返事を待っている。ファードは軽く面を伏せ、考えているように見えた。
「…誘っていただき、嬉しく思います。ありがとうございます」やがて、ファードは深く頭を下げた。閉ざされていたと思っていた一等への道が、思いがけず通じていたのである。驚いた後、感謝の気持ちが沸き上がってきたのは本当だった。
「じゃあ…」
カラが更に身を乗り出した。それを見て弥祐は、目の前の遣り取りが結局何を意味するのかに、ようやく思い至った。慌てて口を開きかけた。
「いえ」ファードは身振りで向かってくる二つの感情を制す。「嬉しくは思いますが、自分の都合でお誘いに応じることは出来ません」
「…フータかい?」
二つの深い溜息が同時にテーブルの上にこぼれた。カラは失望半分、納得半分の。弥祐は安堵の。椅子の背に再びもたれたのも、期せずして一緒だった。
「ええ」
ファードは頷いた。一等で復職出来れば収入は増える。今後の生活も見通しが付けやすくなるだろう。だがその分、日頃からの残業や休日出勤、仕事に拘束される時間は確実に増す。一方でフータと過ごす時間が削られる、それが問題であった。その時間は今でもぎりぎりだ。スカーラル・シーは犬や猫とは違う、相棒と空を行ける、ただその一点が彼らを人の社会に繋ぎ止めている。飛行時間が十分でなく、自分はただ飼われているだけだと感じた時、彼らは迷わず本来の生息場所へ立ち去るだろう。ファードにとって、それはフータを裏切ることだった。そうだ、自分はわがままだ。そしてそれを、弁明するつもりは無かった。
「でもね、ファード」カラは再び追う。簡単に引き下がるつもりも無いのである。「厳しい言い方をするようだけど、君の今の働き方で、将来に不安は無いのかい?」
「正直、不安はあります」
これを聞いて、弥祐はあっと上げそうになった声を危うく飲み込んだ。自分の無邪気な安堵を、ファード自身に厳しく指摘されたようだった。
「…君が社を辞める時は慌ただしくて、大事なことをつい聞きそびれていたね」テーブルの上で組んだ両手の指越しに、カラはファードを見詰める。「当時も、そして今も、君は何故そこまで風乗りにこだわれるんだろう?」
「それは」ファードの表情がふっと緩んだ。「あの日、フータに教えられたからだと思います。お前は風だ、空を行くことをやめられはしない…と」
「ふむ…先ず、あの日と言うのは?」
「我々、風乗り全員がHMLから解雇された、あの日ですよ」
ファード自身が淡々と“あの日”について語り出した。カラは驚き、押し黙った。
その日のことはカラも良く覚えている。関心の程度や可否の相違こそあれ、HMLの本社屋で働く千数百名の人々にとっても、それは当時たった一つの関心事であったはずだった。
「自動車や飛行機の発達は目覚ましく、道路網や空港の整備等、それらを効果的に運用する条件も整ってきたことで、風乗りは最早、必要とされなくなったのだ」
これが本社に招集した風乗り全員を前に、当時の社長自らが語った理由だ。当日付をもって、HMLは全ての風乗りを解雇したのである。ファードも、そしてカラも、他の風乗り仲間と一緒にその言葉を聞いた。
ファードの記憶が静かに再現されていく。彼は放心状態にあった。今後を相談し合う仲間たちの姿も見えぬように、一人ふらふらと廊下にさまよいでた。
気が付けば、足は当時本社屋の最上階にあった飛行妖精の待機室、一般には厩舎と呼び慣わされていたが、そこへ向かっていた。エレベーターを降り、飾り気の無さが今は冷たい廊下を一体どんな足取りで歩いたのか。くるぶしの上までしっかりと締め上げた飛行靴の分厚い底が、重く、硬い音を立てていたことだけは鮮明に覚えていた。
厩舎に一歩足を踏み入れ立ち竦んだ。風乗り全員が招集されたのだから、彼らの相棒も全てそこに居るはずだった。今、この場所はまるでがらんどうだ。人の言葉を解するとは言っても、スカーラル・シーに解雇の概念が理解出来るとは思えない。だから彼らは、この場に常とは違う風を、しかも逆風を、人が言えば比喩となるそれを実際の気流として肌で感じ取り、じっと息を潜めているようだった。ファードはようやく自分の胸が痛んでいることを知った。よろけるように奥へ進んだ。
厩舎のような、スカーラル・シーを一所に集める場所では、原則各個体に個室が割り当てられている。今は広い厩舎に、空き部屋ばかりが目立った。天井の照明も、節約と称しあちらこちらで蛍光管が抜き取られていた。かつては最上階から下に、数階分が厩舎だった時代もあった。最後の方は、規模縮小の果てに残ったはずのこの一床さえ、何かの諧謔のように広すぎた。社に登録されているスカーラル・シーの数は、全盛期に遠く及ばない、僅か十数頭に過ぎなかった。
フータの個室へ行く途中には、屋外の発着デッキへ直接通じる主通路があった。厩舎内の各個室は、先ずこの主通路を挟んで対称的に大きく二分されている。フータの個室は主通路の向こう側、東ブロックの、更に九つに割られた区画の一隅にあった。
俯いていたファードだったが、10歩手前でそれに気付き、目を見開いたのだった。薄暗い主通路の上でも、その白い姿は明るく浮き立っていた。フータがうずくまっていたのだった。眠っているように見えた彼が、ゆっくりと目を開く。ちらりとファードを一瞥したら、やおら身を起こし音も無く歩き出した。待っていたと解する事に、ためらいと確信があった。引き寄せられるように後を追った。
自然状態では地上に巣を作り、必要ならホバリングして高所の液果や堅果も食べるスカーラル・シーではあるが、どちらかと言えば空を行くのに都合が良いように、その体の造りは進化してきている。だから彼が四肢を使い、大きな尾を引きずって床を歩く様には、何処かぎこちなさがあった。ファードはすぐに相棒の尻尾に追い付く。再び立ち止まり、見守ると、相棒は外の発着デッキへ通じる鉄製の大扉へ近付こうとしているようだった。
フータは大扉の前でうずくまった。そして今度は、ファードの目をまともに見詰めてきた。リス科らしくドングリの形に開いた目、風の妖精である事を隠せないレモンイエローの瞳、何も変わらなかった。だが今、その見慣れているはずの相棒の瞳が、唐突にファードの意識を引き抜こうとしてきたのだった。実際、彼は体を前に泳がせていた。よろけるまま壁面に手をついた。手元には大扉を開閉するスイッチがある。咄嗟に開ボタンを押していた。鉄製の扉が、軋みながら左右に開いていった。馬などのものとは違い、飛行妖精の厩舎はなるべく空に近い所にある。晴れ渡った午前の明るい光が、徐々に厩舎を空へ繋げていった。一陣の風が瞬く間にファードの後ろへ過ぎ去った。各自の個室で息を潜めていた他のスカーラル・シーたちが、一斉にざわめきだした。
「信じてもらえないかも知れませんが」ファードは自分の手元を見詰めている。今語る出来事を慈しんでいる、そんな風に窺えた。「フータと目が合った時、あいつの言葉が聞こえたみたいだったんです。『何を迷っている。お前は風だ、空を行くことをやめられはしない』多分、そんな風に」