第6回
「うん」男は右手を差し出した。応じてきたファードの手を、その細身の体からは少し想像しにくい強い力で握り返す。「本当、ご無沙汰だね」口調も笑顔も柔和で、かえって皮肉が増すようだった。
「いや…本当に申し訳ありません」ファードは頭を垂れ、恐縮するしかない。
その様子を見て男は朗らかな笑い声を立てた。そして急にはにかむように「実はあれから昇進してね。今では役員なんだ。下っ端だけどね」と告げた。
「おお、そうだったんですか」
「まぁ、異動した先の営業部門での出世だよ」
相手の声に幾分のわだかまりを感じたが、ここは素直に喜ぶべきだと思った。「部長…じゃないですね。カラさんなら順当ですよ。おめでとうございます」元上司を多くの人がそう呼ぶ愛称で言い換えて、ファードは屈託なく賛辞を贈った。
「余りいいことばかりでもないんだ」カラの言葉からほおっと硬さが抜けていく。「会議や事務仕事ばかりで、すっかり現場から足が遠のいてしまったからね」
カラは本当に残念そうだった。ああそうだ、この人は昔から現場の人だったな、とファードは懐かしい。
「そう言えば、ばあさんから荷物を預かってて」たすきにかけた鞄から小さな包みを取り出し、貼られていた複写式3枚綴りの伝票から受領証を切り離した。「カラさんがたまたま外にいてくださって、助かり…」
「ご名答」相手の何かに気付いたような表情を見て、カラは微笑んだ。「今から二人が行くからって、さっき陽さんから電話を頂いて待ってただけなんだよ」
カラの微笑みは弥祐も捉えた。子供のように少し顔を赤くして俯いてしまう。
「ああ、すみません」カラは上着の内ポケットを忙しげに探り始めた。今の季節に合う明るい色合いの、趣味の良い背広だった。オーダーメイドなのかも知れず、体にぴったりだった。
「お忙しい所をわざわざすみません」
「構わないさ。丁度仕事が一段落したところだったんだ」その内ポケットから、朱肉のいらないハンコが出てきた。「陽さんとは今でもたまに仕事の話をするんだ。その時に君の近況を聞いたりもする」
「そうだったんですか」二人が今でも連絡を取り合っていたとは、ファード自身初耳だった。
「はい。これでいいのかな」所定の位置に印を捺した受領証をファードへ返す。
「ええ、確かに」ファードはそれを伝票入れへ挟み込み、鞄へしまった。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」相手の目を見ながら素早く上着のボタンをかけ直す、なかなか器用な所を見せながら、カラは弥祐へ向き直った。「あなたが陽さんのお孫さんの弥祐さんですね。申し遅れましたが、私はカラマネン・ミカと申します。お話はおばあさまから良くお伺いしています」
カラは無駄の無い均整のとれた長身をきびきびと折り曲げた。その鋭さを感じさせる所作を、柔らかそうなシルバーブロンドの髪、瑞々しい白い肌、中性的な声の調子などが程よく和らげるようだ。陽気で理解のある貴族の青年のようで、上品な物言いが全く嫌みにならなかった。
そんな相手に少し気圧され、弥祐は調子を狂わせていたのだろうか。「おば…祖母とお知り合いなんですか?」名乗るのを忘れ、先に先程から気になっていたことの方を聞いてしまった。
「ええ」カラは頓着する風でもなく、むしろ楽しそうだった。本社屋をちょっと見上げてから言う。「私とおばあさまは、以前この会社で一緒に働いていたんですよ」
これを聞き弥祐は目を丸くした。祖母が以前、HMLで働いていたこと自体は知っている。彼女の部屋に貼られた古いカレンダー、あれはHMLが作った物なのだ。だが祖母がHMLにいたのはその写真の頃の若い内だけだったとも聞いていて、確実に数十年は前の事だろう。今微笑む相手は20代の真ん中くらい、陽はおろかファードよりも若く見える。そこに至って弥祐の頭上にもう一つ疑問符が増えた。遣り取りから推してファードの上司だったようだが、それはそれでやはり随分若くはないか。
答えを求めるように相手の顔をまじまじと見詰めてしまって、弥祐はあっと気が付いた。カラの瞳の色。弥祐やファードのような“精霊力と親しくない”人間には有り得ない、透き通るようなエメラルドグリーンだった。フータのような風の妖精のそれがレモンイエローであるように、この色は大地の妖精のシンボルカラーだった。つまり、カラは精霊力と親しいホモ・サピエンス4人種の内、大地の精霊力に連なる妖精人であった(他に火・風・水に親しい者共がいる)。“森の賢者”フォレステルフの一人で、姓からして恐らく北部地方の森出身と思われた。
フォレステルフは平均で500年は生きると言われる、長寿の人種だった。科学は最近着々と新知見が蓄積されつつある、遺伝子学の方面からこの長寿の謎に挑もうとしている。一方で芽吹きから類推して大地の精霊力≒生命力と考える人々は、そもそも精霊力はタンパク質などの物質に還元出来るものなのか、根強く懐疑論を唱えていた。謎の解明は先の話だが、いずれにせよカラも見た目以上に齢を重ねている可能性は十分にあった。陽より遥かに年長かも知れず、それならば若い頃の彼女と仕事をしていたとしても、不思議では無いのだった。
「ところでこの後なんですけど、何かご予定はありますか?」カラは先ず弥祐を、次いでファードを見て言った。「よろしければ、夕飯には少し早い時間ですがご一緒にいかがですか? いい店を知ってるんですよ」
その店の名はファードも知っていた。ここからほど近く、フータのような人の間に暮らす者たちにも専用の小部屋で食事を出す、機械が人の足になる前には普通だった商売を今も守った、気楽に入れる店だった。彼の記憶にあるその店は、清潔ではあっても古ぼけていた。カラはそれを訂正して、少し前に改装したため店内はより広く、明るくなったと言い、それに伴ってより良い商売をするようになったと付け加えた。
「どうする?」
ファードに聞かれ弥祐は戸惑いながら思案した。ファードはまだ話したい事があるだろう、その遠慮の周りをぐるぐるしている内に、二人からどんな話が聞けるのか単純に興味が湧いてきた。外で食べてきても構わないとの陽の言葉も思い出した。結局、彼女も誘われることにした。
店の場所ならファードが分かるから、彼と弥祐、フータは一足先に行くことにした。カラは休憩を延長するのに改めて秘書や部長にお墨付きを頂こうと笑いながら言い、一度社内へ戻った。そうだ、あの店もスカーラル・シーの相手は久しぶりかも知れないね、電話で事前に断っておく方が親切かな、と戻るついでに気を遣おうともしていた。
弥祐が先程目にした酷い渋滞を心配すると、カラは「車では行きません」と何か企みのありそうな目付きで笑った。「会社に自転車を預けてあるんです。仰る通り、この辺りでは歩くか自転車の方が早い。最初に社長が使い始めて、あっという間に預かり所まで出来たんですよ」
お昼とかみんな一斉に自転車で出て行くのかな、などということを、短い飛行の間にファードと話した。
店に到着した。大通りからは一本はずれた静かな区画にあって、南通りに面した2階建ての店舗正面は、何枚ものガラスと漆喰と魚鱗石とで出来ている。正面玄関脇の小さな椅子に、案内係の少年が真面目くさった様子で腰掛けていた。馬や飛行妖精も客とする店の、いつもの光景だった。
上空からその少年に声を掛けようとした時だった。一瞬早く、少年が上目遣いに空を見て、椅子から飛び上がった。
「すげーっ!」我を忘れたように叫ぶ少年の表情は、全く年相応で上気していた。「ほんとにスカーラル・シーが来た!」
カラは電話を入れ、それが伝わっていたのだろう。少年は明らかに待ち構えていた。真面目に待機している振りをして、実は何度もあの上目遣いをしていたに違いなかった。しかし店の仕込みは確かなようで、少年は多少張り切りすぎと思われながらもてきぱきと、フータが店に入る準備をしてくれた。
フータを専用の個室へ預け、1階の人間の席のあるフロアに入った。カラも言っていた通り、まだ夕食には些か早い時間のはずだが、ここから見渡せる席の既に8割方は埋まっているようだった。見渡せない離れた所からも、楽しげなざわめきが幾重にも響いてくる。
「ああ、お待ちしていました」
声を掛けられ振り向くと、これも制服なのだろうが、給仕たちのぴったりとしたスーツよりは動きやすそうな服装の、壮年の男が一人、足早に近付いてくるところだった。
「ファーボルグ・ファーディア様と、風野弥祐様でいらっしゃいますか?」
この男はこれからフータの世話をしてくれる、専門のスタッフだった。世話をする生き物のことを熟知していて、オーナー(ファードの場合はフータから見た相棒か)の出した大まかな注文を軸に、後は生き物の傍で様子を見つつ最適な世話をしてくれる。世話係はカラの連絡を聞き、実は自分も案内係と同じでそわそわしていたと、照れ臭そうに笑った。「私もスカーラル・シーのお世話は久しぶりですからね。勿論、だからと言って失礼はございませんよ」
ファードと世話係はフータの味付けの好み、見慣れない人間と接した時の癖、フータのメニュー自体など、これから幾つか話し合うことがある。その様子を見て弥祐がファードの袖を引いた。
「外で食べるっておばあちゃんに電話してくる」
「ああ、分かった」
「お電話ならあちらの物をお使いください」店の裏手から入ってきた弥祐に気を利かせ、世話係は正面玄関脇にある公衆電話を案内した。
ファードと世話係の相談が済むと、給仕に2階へ案内された。1階は壁面や床、調度類なども、自然の木目と落ち着いた光沢、柔らかな曲線で客をもてなす趣向のようだったが、2階は打って変わって全体が白色のヴァリエーションを基調にした、人工的な線が空間を画する、意図的にデザインを意識させるような演出だった。中央に配置された、幾種類もの色鮮やかな観賞魚の泳ぐ大きな水槽や、適度に配置された鉢植えの観葉植物なども、同じ意図を感じさせた。
「弥祐がいるからこっちに案内したのかも知れないな」
ファードがそんなことを言った。通された席は乳白色の天板の丸テーブルで、それよりは純白のイメージに近い白を基調とした椅子が、丁度3脚あった。テーブルも椅子も何本もの細い鉄パイプを装飾的に組み合わせた見栄えで、確かにお洒落かも、と弥祐は感心する。藍や碧の顔が思い浮かんだ。連れて来れば、きっと喜ぶだろうと思った。
この席へ案内してくれた給仕が、メニューを持って戻ってきた。一通りの食器をセットし、お冷を置く。「お決まりになりましたら、そちらのボタンでお呼びください」これを押すと、テーブルの上に吊り下げられたモビールのような飾りが回転して、注文が決まったことを給仕に知らせるのだそうだ。飾りの外見も席ごとに違っていて、2人の頭上の物は偶然にも、太陽や月などの天体と、スカーラル・シーが意匠化されていた。
「これ、見逃したりしないのかな」
「給仕たちが控えている所では、音と光でも知らせてるらしいけどな」
一頻り感想を言い合ってようやくメニューを開くと、また先程の給仕が戻ってきた。後には大股に歩くカラの姿も見える。
「やあ、お待たせ」給仕に礼を言い、椅子を引いてから座るまで、殆ど音を立てない滑るような動きだった。
「いえ」ファードが手にしたメニューを軽く持ち上げてみせる。「こちらも今席に通されたばかりですよ。随分急がれたのでは?」自転車を使ったにしても、結構早く思える到着だった。
「まあ、急いだ方かな」その割には涼しい笑顔で、汗一つかいていない。「鍛えられているからね。人を避けながら走るのも、随分上手くなったよ」
このユーモアをきっかけに、食事は和やかに進むことになった。
この場の会話をリードしたのはカラだった。ファードも弥祐も口数の少ない方だから、という理由もあったが、彼は“森の賢者”らしく豊富な知識を持ち、それを興に高め得るユーモアとサービス精神にも富んでいた。ファードも弥祐も良く笑った。旧交は温められ、新しい親交が深まるようだった。
時間は過ぎ、後はデザートを残すのみ、という頃合いになった時である。カラがふと表情を引き締めた。場の空気が変わったのを、他の二人もすぐに感じ取った。
「ファード」4つの見守る目を感じながら、意を決したようにカラが口を開く。「折り入って相談があるんだ…単刀直入に言おう、社に戻る気は無いかい?」