第4回
平日の今日、ファード自身は仕事が休みだった。
“時の三精霊”は原則月曜日(祝日の場合は翌日か、連休後の最初の平日)と年末年始、年に4度の館内特別点検期間を除いて開館しており、スタッフたちはシフト制で休むことになっている。完全週休2日の内、ファードの休みは月曜と木曜に当たっていた。
休暇の一日、彼が無為に過ごしているようなことは全く無い。配送のアルバイトが入ればこなすし、無い時でもフータに空を満喫させる。自身の勉強や、特別プログラムの準備に追われることもある。
また、下宿先である、弥祐の実家の商売を手伝うこともしばしばだった。
別に重複して書いたのでは無い。弥祐の実家、“風野商店”が手掛けるのは配送業だけで無いからこのような言い方になる。風野商店は首都ヴァルチェリアの郊外住宅地に在って、それなりの坪数はあるが古びた木造の一軒家である。その住居兼店舗では、他に書店と駄菓子屋も営まれていた。それを知ったばかりの頃のファードならずとも、不思議な商売の組み合わせだと思うだろう。
店舗は南道路に面していて、その奥が家族たちの生活の場だ。特に1階は各部屋とも北面する訳だから、差し込む光は少ない。だが、何処にも彼処にも隈無く手入れが行き届いているから、木の柱や床板の温かなつやが、決して暗さを感じさせなかった。
台所も常にぴかぴかに磨き上げられている。使い込まれた様子から、部屋全体が主の手に馴染んだ、一つの道具のように見えた。そんな台所で、一人の年老いた女性が働いている。年老いてはいるが背筋はぴんと伸び、足下もしっかりしていた。小柄で線も細いが、黒い瞳には生命力が輝いていた。弥祐の祖母、風野商店の店主でもある、風野陽だった。
陽は湯を沸かそうとしている。コンロは3口あった。その1口から保温カバーを取り去ると、輪に並んだ火招石が露になった。数時間前、昼食の支度をして以来だが、手を近付けるとそれらはまだかなりの熱を持っているようだった。これなら湯沸かしに必要な熱を得るのに、さほど時間はいらないだろう。
彼女は、後ろの棚から広口の小さな瓶を取り出し、中のきめ細かな白粉を一摘みとちょっと、火招石の輪にまんべんなく振りかけた。こうやって四大の母の名を冠した触媒を振りかけてやれば、火招石は周囲を淡く均質に満たす火の精霊力を凝縮し、高温を発するようになる。今では火力に優るガスコンロもだいぶ普及した。しかし、温度調節の点では火招石の方が繊細で、利用し続ける家庭も多かった。陽も昔から使い慣れているという以上に、このコンロが好きだった。彼女に仕込まれて、孫の弥祐も良くこれを使った。
やがて小さなやかんが眠たげに、単調に鳴り始めた。二人分の緑茶を淹れ、書店と駄菓子屋、どちらにも通じる短い廊下を、陽は書店の方へ進む。
「ファード」奥から店へ出ると、出入り口目前の一段低まった所がレジカウンターになっている。履物をつっかけながら、陽は呼びかけた。返事は無い。
「ほ?」カウンターに湯飲みの乗った盆を置き、書棚を回ってみた陽は呆れた声を出した。「なんだ。またそんなもの、読んどったのか」
「ん? ああ」ファードが読んでいたのは週刊の求人誌だった。「つい、気になっちまってな」少しぼんやりした様子で、雑誌を書棚に置いた。
彼は新しく入荷した本や雑誌を、書棚に並べる作業を手伝っていた。そろそろ一休みの時間だと、陽はお茶を用意したのだった。
「ふむ」狭い店内故、書棚も決して大きくはない。そこに何誌もの雑誌を、客が目的の物を直ぐに見分けられるよう、各誌表紙を必要なだけ見せて配置していくファードの手際を見ながら、慣れてくれたものだと思う。「なんぞ、いい仕事でもあったかい?」
「いつも通りさ」口許を皮肉に歪める。「結局、俺の希望ってのは高収入で時間も自由になる仕事なんだ。虫のいい話だ」十分な収入で、将来にわたり自分とフータの生活を保証する。そして余暇に風乗りも続けていく。現状のまま満足を得ようとすれば、自ずとそのような希望になってしまうのだった。
「今の仕事に、不満があるようには思えんがの」今日の昼食の時も、展示解説でいい案が浮かんだと言って、問題解決に喜ぶ姿を目にしている。
「仕事の内容はいいんだ」空には上がれないが、実際やりがいのある仕事だとは思っている。「ただ、な…」言葉を濁した。
「稼ぎが少ないか」陽が代弁する。
「まあな」渋い表情になった。
「それなら仕事を増やすか、最初から待遇のいい所へ行くしかないじゃろ。お前さんのは、堂々巡りに見えるがの」
「…」
「ファード」陽の口調は労るようだ。「わしと違って、お前さんが風乗りで食えなくなったのは好きこのんでじゃない。気持ちは分かる」
陽自身、以前は風乗りだった。これで風野商店の商売の一つに、配送業のある理由がはっきりする。陽の仕事なのだ。しかし、ずいぶん前に相棒に先立たれ、自身も年老いた。配送業は続けているが、風乗りとしては自らの意志で鞍を降りていた。
「だがお前さんの、その風乗りへの未練をどうにかしない限りは、いつまで経っても辛いだけではないかの?」
「…ばあさんは自分で商売を始める時、不安は無かったのか?」
「また随分昔のことを聞くね」陽は小首を傾げ、良く思い出そうとしている。「…そうだね。あの頃は不安がどうしたの言う前に、とにかく、ただ必死だっただけのような気がするよ」
「そうか…」
「自営を考えたか」心持ち、身を乗り出した。
「考えたことなら何度かあるさ」小さく笑う。「だがそもそも俺に、商才があるとは思えないからな」
「お前さん、商売を学んだことはあるのかい?」
「いいや」
「そうだろな。なら、言い切れもせんじゃろ。埋もれさせとるだけかも知れんぞ?」
ファードは再び黙り込んだ。自分に埋もれた商才があるとは、やはり思えない。その一方で、だからと言ってこうも行き詰まってしまっている自分に、何か弱さは無いのかとも思う。他にやりたいことなど見付けられないと考えているのは、単なる決めつけではないのか? いや、それどころか、もしや心の奥底では、自分でも気付かぬ内に現状に身を委ねてしまっているのではないか。疑おうと思えば疑えるのだった。
「お前さんの悪い癖は、そうやって何でも一人でやろうとするところじゃよ」突き放すでもなく、分かった風でもなく、丁度よい距離感の感じられる言い方だった。「商売に明るい、誰かと組んでもいいじゃろ。わしだって、随分いろんな人に世話になったもんだよ」
「…もっと根本的な問題がある」これを自分が指摘しなければならないのは、一体どんな皮肉なのか。「風乗り自体が、もう用無しなのかも知れない」
この言葉がファードを拘束する重しの全てなのだろう。陽も元風乗り、当事者だから共感出来る。「確かに、家に来る仕事は少ないの」先ずは頷いて見せた。
風野商店が請け負う配送で緊急性が高い、もしくはかなりの遠方である、そういった風乗りを必要とするような依頼は、本当に数が少なくなっていた。もっとも、風野商店の配送部門自体が、大手運送会社間の営業戦争の煽りを受け、かなり以前から開店休業に近い状態ではあった。今の顧客は、昔から贔屓にしてくれている人々が殆どで、店が風乗りを抱えていることも知られている。そんな情け深い人々の間にも、遠方へ早く確実にというと、全国展開している大手の方が好まれる、ブランドイメージのようなものが出来上がっているのだろうか。少ない依頼の内訳を見ても、陽自らが3輪バイク(今の彼女の相棒だ)を運転し、配送に赴けば、事足りる仕事が殆どだった。
「ファード」だが一方で、風乗りを引退している陽はファードほど当事者でも無く、別に思うところもあった。ぬるくなってしまったお茶をファードと啜りながら、彼女は少し改まってこう切り出した。「飛行機だの飛行船だの車だのバイクだのは、本当に、風乗りの居場所を奪ってしまったのかの?」
「え?」不意を突かれ、その問いに打たれたようだった。
「ほっほ」ファードの驚きようが楽しいのか、朗らかに笑う。「ま、わしも、最近になって思ったことなんじゃが」
「ただいま〜」
「ほ?」陽が続けて何かを言おうとした時、弥祐の声が隣の駄菓子屋の方から聞こえてきたのだった。「帰ってきたようだね」
書店の店先は、4枚のアルミサッシで屋外と仕切られ、もう季節もいいので中央の2枚は開け放されている。見守っていると、普段は閉め切っている端のガラス戸の向こうに弥祐がひょこっと顔を出し、笑顔になった。
「おばあちゃん、こっちだったんだ」
控えめに新刊広告の張られたガラス戸を回り込んで、彼女は店内に入ってくる。建物は一つだが、書店と駄菓子屋自体は壁で仕切られていた。
「お帰り、弥祐」陽は立ち上がり、笑顔で出迎えた。「『ごようのかたは ほんやさんへ』の札、出してなかったかの?」
「あれ? 出てなかったよ?」言うなり、またひゅっと外へ出ていってしまう。待つ間も無く戻ってきて「下に落ちてた。風か何かかな」
「済まないね」
「ううん…でもやっぱり、駄菓子屋の方に誰もいないのって物騒だよね」
「ほっほ。またいつものお小言だね」孫との遣り取りを楽しんでいるようだ。「まぁ、この辺りに黙って持って行くような悪いのはおりゃせんよ。それに現金も置いてないしの」彼女の答えもいつも通りなのだが、実際駄菓子屋を無人にして、問題が起きたことは一度も無かった。
「心配なら犬を飼うのもいいかもな」ファードが会話に加わる。「良く躾ければ、人を雇うより役に立つぞ」
「いいかも…の前に、ただいま」弥祐は微笑み、挨拶を言った。
「おう。今日は早かったな」
「うん。お店手伝ってくれて、いつもありがと」陽が駄菓子屋にいるのなら、書店ではファードが店番をしているとは思っていた。だがこうして、仕事が休みの日でも家にいてくれる彼を実際に見ると、弥祐は何だか嬉しいのだった。
「色々と世話になっているからな。当然さ」ファードは屈託なく笑った。例えばこの家では彼だけでなく、フータも世話になっている。それだけでも他の下宿では望みようも無い、ずいぶんと助かることだった。
「すぐ着替えて手伝うね」制服の短いスカートを翻し、先程陽も使った出入り口から奥へ駆け込もうとする。
「弥祐、お待ち」そうやって家のことを良く手伝い、今年は家計のため、自宅から通える国立の難関校にも合格してみせた自慢の孫を、陽は呼び止めた。
「なぁに?」きゅっと止まり、振り返る。
「今日は手伝いはいいよ」良く弾む鞠のような孫を見ていると、自然と笑みになる。「その代わり、今からファードに荷物を頼むから、一緒に行ってやってくれないかい?」
「荷物はいいが、なんで弥祐も一緒なんだ?」
配送の仕事はいつもファードとフータでこなしていたし、今日に限ってと、彼は不思議に思ったのだった。横では弥祐も首を傾げている。
「さっき聞いたじゃろ。飛行機だの飛行船だのなんだのは、本当に風乗りの居場所を奪ってしまったのかね、と」孫に視線を移した。「弥祐はどう思う?」
「え?」これには弥祐も面食らった。「またなんで、そんな問答をしてたの?」
「本当に、風乗りのやるべきことは何も残っていないのかね?」そう繰り返し、二人を均等に見て出題者の笑みを見せた。「それを今から街へ行って、二人で確かめておいで。弥祐も行くのは、ファードはどうも考えすぎで、あんたみたいな自由な目が要るからじゃよ」
「う〜ん。何だか良く分からないけど」弥祐は眉根を寄せて、真剣に考えを巡らせているようだった。「とにかくついてって、おばあちゃんの謎掛けに答えられればいいんだね」
「ついでに夕飯の買い物とか、そういうのはいいからね」陽がのんびりと言う。
「あれ? 冷蔵庫の中、なんかあったっけ?」
「わしは適当に済ますから、たまには外で食べてきてもいいよ」
「え、でも…」
「まぁその辺は成り行きかね。そうそう、フータで行くからね。そのつもりで準備するんだよ」
これを聞き弥祐は目を輝かせた。楽しそうに頷くと、殆ど飛ぶように、今度こそ奥へ駆け込んでいった。
「ほっほ。元気元気、素直素直」自室へ向かう孫の足音を聞きながら、陽は心底楽しそうだった。
「街って、都心か?」その傍らではファードが訝しんでいる。
「そうじゃよ。どれ、先に荷物を渡しておくかね」配送部門の専用カウンターは、書店スペースの一角に設けられていた。陽はそのカウンターの後ろの、天井まで届く大きなスチール棚から、風野商店の荷札が貼られた小包を取ってきた。
「都心なら、ばあさんの3輪バイクの方が便利だろう…」小包を受け取り、ファードは宛先を確認した。
「案外そうでも無いんじゃよ」
「ばあさん、これ」宛先を知ったファードの顔色が、少し変わっていた。
「そうじゃよ」陽は真面目に頷いた。「昔、お前さんが働いていた会社じゃよ。受取人も知っとるな」一度言葉を切り、確かめるようにファードを見る。「たまのばばあのお使いだよ。頼んだからね」
弥祐は先ず洗面所へ向かった。これからまた出掛けるが、それでも帰ったら手洗い、うがいを済ませないと何だか気持ちが悪かった。
「おじいちゃん、お父さん、お母さん。ただいま」自室のある2階へ上がるには、居間の前を通り抜ける。壁は少し陽に焼けてしまっているが、畳はまだ替えたばかり、目に爽やかで鼻に心地良い。居間の片隅には弥祐の腰くらいまでの高さの、簡素な木製の棚が置かれていた。その上の一輪挿しの側に並んでいる写真に向かい、弥祐はいつも通り、ただいまを言った。
1枚のモノクロ写真には、笑み崩れた表情が如何にも柔和な印象の、初老の男性が写っている。もう一方はカラー写真で、今のファードとさほど歳のかわらなさそうな男性と、弥祐によく似た女性が寄り添い、微笑んでいた。弥祐の祖父と、両親だった。
弥祐にきょうだいは無い。今は祖母と二人暮らしだった。子供好きだった祖父が駄菓子屋を、本好きだった両親が書店をやると言い出して、結果、風野商店のおかしな営業形態ができ上がった。陽は、一人になっても商売を小さくしなかった。手伝う弥祐も忙しいが、その色々ある毎日が、実は祖父や両親の遺し、陽が守った、彼女の拠り所のような気が今はしている。
二人暮らしになって暫くして、ファードとフータが下宿に来てくれたのも大きな支えになっていた。今日のようにファードが店にいるのを見ると、最初に胸を軽く締めつけられて、それからすぐに満たされていくような、不思議な心持ちになる。時折ファードと一緒にフータが見せてくれる、箱庭のような人々の営み、全身に感じさせてくれる心地良い風も、彼女は大好きだった。
2階の自室に入って、学習机の上に鞄を置いた。習慣に背き明日の支度は後回しにしなければならない。
広くは無いが南向きで明るく、風通しも良い部屋だった。ポプリの香りと適度な数のぬいぐるみや小物が、部屋に慎ましく色合いを添えていた。そんな調和の中にあって、やや的外れに自己主張の強い飾りが一つある。机の脇の壁に貼られた、大きなモノクロのポスターだ。
それは大手運送会社が随分前に印刷し、顧客などに配った、一枚ものの大判カレンダーだった。そこに刷られた年号を見てもそうだが、版面の陽に焼けた具合からもそれの歴史が感じられた。破れもあるが全て丁寧に補修されている。ただ、使われているのは書籍修理用の特殊なテープのようで(セロテープのような経年劣化が無いので、本の修理に向いている)、何処で手に入れたのか、それは少し不思議だった。
カレンダーには、やや粒子の粗い一枚の写真が全面に使われている。その中央では、スカーラル・シーに跨った若い女性がカメラへ向き、鮮やかな笑顔を見せていた。背景は弥祐の好きな箱庭のような自然や家並みで、かなりの高度を飛行中のようだった。カメラマンがやはり飛行妖精に乗り、並行して撮影したのだろうと思われた。
写真の中の女性は飛行中なのにゴーグルを額に押し上げ、口許の覆い布も引き下げていた。太陽はちゃんと彼女の前面にあるようで、表情は鮮明に写されていた。その目許が居間の写真にあった、弥祐の父親に良く似ている。この女性は、若い頃の陽だった。
この頃の陽の話を、弥祐は何度も聞いていた。特に小さな頃は、相手が困り果てようとも繰り返しせがんで、しっかりと記憶に刻みつけようとしていたみたいだった。陽の語る挿話は、彼女の小さな背丈を世界の果てまで伸ばしてくれた。驚くほど多様な動物たちに出会い、植物の肌に触れた。人々の暮らしぶりもまた同様に多様で、彼女は高地の寒村を、乾いた街の埃立つ目抜き通りを、巨木の中の回廊を、目を輝かせながらさまよい歩いた。大気や日差しはこの世界に何処までも均質に広がるようで、その実生き物が空間的に棲み分けるように、これらもまた豊饒なモザイク様をなしており、それがまた弥祐の果てない好奇心を楽しませた。彼女が風乗りに憧れるのは、ごく自然なことだったろう。このカレンダーも、恥ずかしいからと何度祖母に頼まれても、一向に剥がす気は無かった。
「よし」鞍に跨りやすい服装に着替え、飛行帽にゴーグル、手袋、一応の防寒着も持った。ファードはもう屋根を開けてしまっただろうか?
1階の一番北側に、陽のかつての相棒、カレンダーにも写っている彼が暮らしていた部屋があり、今はフータが使っている。その部屋は飛行妖精の離着陸のために、屋根が開閉出来るようになっていた。ただし手動で、仕組み自体だいぶ古いので、男のファードでも一人ではちょっと苦労するのだった。
いつも持ち歩くのよりは大きめの手提げに、荷物を手早く詰め込んだ。体の向きを変えるなり振り回すように肩にかけ、階段目指して駆け出した。