最終回(織り終わり・織り始める)
急に静かになった。傍の岩角と戯れて、時折風が鳴る。遠くでは眠たげな雷鳴。
『友達に会えて良かったね、ファード』
すると出し抜けに、弥祐が話しかけてきたのだった。良好な受信状態に先ず驚き、次いで弥祐の言い方に、小さな疑問を感じる。
『そっちにもテレビが来てるんだよ』飲み込めていないのが伝わったのか、種明かしをする弥祐は可笑しそうだ。『下の方に車がたくさん見えない? そこから撮っててね、ずっと駄目だったのが、さっき映るようになったんだ』少しの間。『…びっくりしちゃった。だって風乗りがいたんだよ、ファードとフータの他にも』
「同感だ」ファードは短く答え、先程の弥祐の言い方を理解した。風乗りとしてのファードとフータの孤独を、無論彼女は知っている。今、彼女の言葉を聞いてむしろ思うのは、もしかしたら彼女は思うだけでなく、自分なりに二人の孤独を生きることさえしていたのかも知れなかった。弥祐自身、思い掛けない時と所で、知らずにいた友に出会ったのかも知れなかった。
『この無線、通じてるね』
「またしても同感だ」感慨深げな相手に、ファードも同じ心持ちで答える。
『もしかしたら、あのおっきな雲が鏡みたくなってるのかも。そう言うことって無いのかな?』
「どうだろうなぁ」ファードは山頂を見上げながら言った。異形の大雲は、頂と根元が逆の方向に吹き流され、余計速やかに、地響きを立てて崩れるようだった。形状だけで言えば、平たくなりつつある姿は確かに鏡だ。だが雲が電波の反射鏡になり得るのか、それは知識も無く、ファードにも何とも言えない。
『それからさ、これは一番最初に言うべきだったんだけど』
「ああ」
『お帰りなさい、二人とも』
それは、例えば日課の短い飛行を終え、ファードとフータが風野商店に戻ればほぼ欠かさず聞いている、いつものお帰りなさいだった。ファードはふっと寛ぐようだった。「まあ、まだ仕事は終わってないけどな」自然、軽口を叩いていた。
『そうじゃなくてね』静かに首を振る気配が伝わってくる。『二人は私の知らない何処かへ行って、戻ってきたんでしょう? だから、お帰りなさい』
穏やかに降り続く春の雨に耳を傾けるようで、だからこそファードは驚き、より深くは感動しているようだった。一呼吸置く。慎重に言葉を選び、問うた。
「この無線、ずっと生きてたのか?」
『ううん』間の取り方にも、言い方にも、不自然さは少しも無い。『二人があの雲に吸い込まれてすぐ、一度だけフータの声が聞こえたけど…後はずっと雑音というか、爆音しか聞こえなかったよ』
弥祐がどのような筋道からそのような結論に至ったのか、ファードには皆目見当がつかない。ただ、彼女は何かを含んでそう言っているのではなく、何も知らないけれど信じている、そんな風に思われた。彼女は、ファードらが雷雲に吸われる様を見た衝撃から、単純に喩えているだけなのかも知れない。それとも彼女らしい心の働きで、何かを一摑みに感じ取ったのかも知れない。ともかくも、精霊とのあの会話が、聞かれていた訳では無さそうだった。
物思いに黙ってしまうが、怪しまれた気遣いはない。丁度ファードの沈黙を余所にするようにして、イヤフォンの向こうで楽しげな遣り取りが始まったらしかった。弥祐はマイクを手で押さえているのか、内容は聞き取れない。時折、彼女の細い指を突破して、弾む気持ちがこちらにも転がりだしてくるだけだった。
『今ね、カラさんが戻ってきてね。お話ししてたの』硬い擦過音がしたかと思うと、弥祐が状況を伝えてきた。『とにかく無事で何よりだ、報告は君たちがこっちに戻ってきてからで構わないから、今日はリアテリアでゆっくり休んで欲しいって。カラさんがそう言ってたよ』
弾むものをわっと一遍に放り投げてきた時には、もう距離を感じさせない、いつもの快活でちょっと世話焼きな弥祐だった。彼女は続ける。
『私は学校あるから今日帰らなくちゃだけど、カラさんの言う通り、ファードはゆっくり休んで…』不自然な間が空く。あっと叫び声。『大変! 泊まるなら着替えどうしよう? 私が持ったままだよね』
大勢の笑い声がどっとマイクに割り込んできた。考えてみれば、この通信はマスコミも聞いているのではなかったか。今度はマイクが押さえられることはなく、そういった物の手配も請け合っているらしいカラの声を背景に、弥祐があわあわ言っているのもはっきりと聞こえた。
どぉん、高く、遠い彼方で、重い響きが一打ちされた。目を向けると、あの大雲が完全に横倒しになったように見え、その巨大な質量で、峰の連なりを槌打ったのかと思われた。同時に、イヤフォンに唸るような雑音が突入してくる。それは弥祐の声を小虫の羽音みたく変調し、急に遠くへ退かせた。
「そろそろ電波が届かなくなりそうだ」ファードは頃合いを悟り、急いで話しかけた。「弥祐、心配をかけて済まなかった。それからカラさんやハマモトさん、お世話になった人たちに、出来るようならお礼を言っておいてくれないか」
『うん、分かった』機器が鼻詰まりを起こしたみたいな不明瞭さで、自分の言うこともこんな風に聞こえているんだろうなと思う。今はもう片方の耳を塞ぎながら話す、弥祐の姿が想像できた。『フータにもよろしくね。じゃあ…』
何かを言いかけていたらしいが、それきり弥祐の声も、唸るような雑音さえも、ふつっと途切れてしまった。暫くはそのままで聞いている。単調で微かなノイズ以外、もう何も聞こえてきそうにはなかった。
「弥祐がお前によろしくと言ってたぞ」
後ろ手に通信機のスイッチを切りながら、ファードは相棒に告げた。フータは眼を細めて小さく唸り、首を軽く縦に振った。
「よし、俺達も行こうか。仕事を終わらせることにしよう」
フータの飛膜の下で停止を保っていた風が、再び速やかな滑空のための巻き方に変えられた。ファードは遠退く山頂に目を遣った。険しい稜線を見、今も満ちて逆巻く風の大海を見透かし、今ではあれを越えたのを信じ難く思った。弥祐が言った、知らない何処かへ二人を運んだ大雲は、今はもう有り触れた、山頂に差し掛けられた長い傘になっていた。
不意に足下が騒がしくなる。覗いてみると大型小型、何台もの車が屋根を並べ、それに見合った数の人々の姿も見えた。様々なカメラのレンズが時折光っている。手の空いた人たちは、誰も彼もがこちらを見上げ、一心に手を振っていた。人波の上に小刻みに絶え間ない、そのレンズの反射以上に強いきらめきに、ファードは目が眩み吸い込まれそうになった。驚いている内に人波は後へ遠くなる。
今度はけたたましいクラクションの音だ、何度か繰り返し鳴らされる。ファードらは山脈の高い所を過ぎ、今は丁度リアテリアへ続く国道を近くに見下ろしつつ、飛んでいるところだった。その国道を一台のワゴン車がかなりの速度で駆けている。ファードが目を向けると、すかさずクラクションが繰り返された。ファードたちを追いかけているのだった。
ワゴン車はサンルーフを開け、二人の男が身を乗り出している。一人はテレビカメラを肩に担ぎ、一心にファードらを狙っていた。もう一人はそんな彼を腰の辺りで支え、疾走に伴う様々な悪条件の中、こちらも一心にカメラマンの安定を確保しようとしていた。何処か滑稽に通じる熱心さが感じられ、ファードは思わず苦笑する。だが、何気なくワゴン車の後にも目を遣った時、彼は目を丸くしたのだった。このワゴン車は長い車列の先頭だった。同じ様なマスコミの車両だけでなく、一般の車も多いようだった。あらゆる窓から、サンルーフから、強風に一様に髪を乱した笑顔が見える。ファードが目を向けたと見るや、彼らも待ってましたとばかりに、歓声を上げ手を振り、口笛を吹き鳴らす者もあった。
「ありがとう!」
風に吹き流されるはずだった誰かの声が、偶然届いたようだった。ファードの耳は、この一言に偽りの無い気持ちを聞き取った。彼はようやく戸惑いから覚めた。自分とフータに、確かに感謝の気持ちが向けられている。そう思った時にはもう、ファードも大きく手を振り返していた。ばらばらだった歓声が一気にまとまって、空気を大きく震わせた。
やがて進路を大きく右へ変える時が来る。リアテリアへ真っ直ぐに行くならば、ここで国道から逸れるのは仕方のないことだった。意外さを第一波にして、後は落胆の波が次々と追ってきた。ファードとしても断ってから行けないのが心苦しかった。車列とのランデブーは終わりを告げる。後は、本当に一直線だった。
眼下に広大な穀倉地帯が広がり始める。伸び盛りの緑が、休まされている土の色が、それらを縁取る野の花々の様々な色合いが、速やかに流れ去っても目に優しい。ファードとフータは、小さな町や村の上も幾度か通り過ぎた。そして出迎えられている、何処ででも出迎えられている。
自宅の門の前、2階のベランダ、時には屋根の上で。長い坂道を上り切り、空が開けた所で。中央に噴水のある、煉瓦敷きの広場に集まって。または祝日の学校や役場、病院、多分そのような高い建物の屋上から。幾多の人々が、ファードとフータの通過を予想し、待っていてくれたようだった。慌てて家から飛び出してきたり、窓を開け放つ人の姿も大勢見かけた。陽気に何かを叫ぶ、かざしていた手を弾かれたように振りだす、でも誰もが、例外なく笑顔でいてくれた。ファードとフータは温かく出迎えられ、見送られるのだった。先を急ぐのが惜しまれた。けれどその気持ちはぐっと抑え、応じる態度は真摯に、二人は飛行を続けた。
健やかな風が空を渡って行く。
彼らが関係の、事物を織り目に織り上げていく営みの、いつもその端緒だというならば、結局、彼らは常に孤独だろうか。
大気の厚い層がゆるゆると洗い、石やコンクリ、ガラスの膨大な堆積物を、少し漂白してしまったようにも思える。彼方にリアテリアの街が、遂に見えてきたのだった。
その時街の高い所、一番高い観光電波塔の丁度先端辺りに、青空の薄白さが不意に、瞬き一つの間に凝縮したように見えた。その白い輝点はひらひらと、塔の先端をくすぐるように舞っている。かと思うと、巨大な引力に巻き込まれるようにしてぐぅんと旋回加速、こちらを目指して、転げるように飛び始めた。
ハヤカと名乗った、あの小さな風乗りかも知れないな。
その飛び姿に、自然と笑みがこぼれてくるようだった。
(了)
8ヶ月にわたる長い連載でしたが、無事終了することが出来ました。最後までお付き合いくださった方々にお礼申し上げます。
連載終了に合わせて感想などをたまわれるようにしました。後学のため、よろしければ思ったことをお聞かせください。
それでは、また別の作品でお目にかかりたいと思います。
【文書データ】
(設定作成):2009年2月〜3月
(プロットを兼ねた下書き作成):2009年3月〜5月、400字詰め換算約288枚、87575文字
(本文執筆):2009年5月〜2010年4月4日(日)(途中2ヶ月ほど中断有り)
(本文見直し終了):2010年7月6日(火)
本文最終枚数400字詰め換算550枚、179440文字、升目を埋めた割合81.6%、全38回