第37回
時折強く吹くことはあるものの、風はもう驚異ではない。ファードとフータは山を越え、越えた向こうの斜面をそこまで下ってきた。緊張は器の縁よりも高く盛り上がり、自らの性質で零れ落ちるのを拒んでいたようだったが、今は必要とされても安んじていられるのだった。ファードは、顔の下半分を覆っていたネックガードを引き下ろした。一度に大きく息を吸い、清冷な空気に肺を痛めてみた。束の間風を、空を、無心に満喫するようだった。
それぞれに峰を持つ、二つの山塊に挟まれた深く広い谷の間を抜け、氷河に沿って下るため右へ旋回した。フータの体が傾ぎ、普段は飛膜の死角になる下方が開けてくる。ファードはまたしても意外な物を目にした。その場所は、下る氷河が一時垂直に数十m落ちる崖の、丁度縁の辺りだとファードの記憶は言っている。背景の白い輝きに紛れそうになりながら、しかし見間違いようもないのは、ホバリングをしているらしい風乗りの姿だった。その輝く影が一つだったのなら、山頂で見かけた風乗りだろうと直ぐ合点がいっただろう。今は同じ影がもう一つ認められるのである、あれほど厚く重く着氷するようだった孤独が、完全に晴れはしないものの急に霧がまつわるくらいになって、ファードは久々に背筋を伸ばし、その感覚に戸惑うようだった。
二つの影がこちらに気付いたようだった。高度を上げてくる。ファードは相棒に速度を緩めさせ、出迎えようとした。上がってくる風乗りたちも、すっと左右に分かれつつ速度を合わせようとする。やがてファードを中央に一列に並んだ時、彼らは自然、ホバリングの体勢を取っていた。
「よお」
ファードの右手から気取らない挨拶がやってくる。男の声は嗄れていた。体格から見ても、山頂で出会ったのはこちらの方だと判断できた。相手もネックガードを引き下ろし、日に焼けた口許を晒してはいるが歳の程は分からない。自分と同じくらいかと、ファードは一応の見当を付けた。ただ、たった今声をかけられてみて、人との遣り取りの際には体裁とか、いい意味で細かいことには頓着しないタイプのようだった。好ましい気楽さが感じられた。
「今日、向こうから山越えしようとしてたのは、あんたでいいんだよな?」
その打ち解けた物言いに、ファードは懐かしさを覚えた。それはかつて、大勢の仲間たちと働いていた時にはいつも感じられた温かさだった。相手のこの気安さが、彼の元々の性格に由来する以上のものであったことが、今はファードにも良く分かる。それでファードも、自然旧知の仲間に対するように答えていた。
「ああ、そうだ」
「かーっ!」
先程から持て余していたものを一気に吐き出すように、男は快哉を叫んだのだった。その気持ちの良い感情表現に、ファードも思わず頬を緩ませる。
「全くたまげたぜ! あんた、本当に今の山を越えちまったんだな!」男はぐっと身を乗り出し、目でファードの鞍の後ろを指した。「ってことは、そいつが運んできてくれた薬だな。相当に揺られたと思うが、大丈夫なのかい?」
一瞬戸惑ったのを気取られはしなかったかと、ファードは心配した。あの高い高い、事物の境が曖昧になるほど高い空の果てで、何に出会ったか、何を経験したか、それを彼は血流に、恐らくは相棒も同様に、思い返す必要も無い記憶として刻みつけている。ならば正直に、荷の安否は既に風の精霊が確認してくれている、そう答えれば良かっただろうか。いくら相手が風乗りであっても、この場でそれは穏当な発言ではない。あの狂風を越えてきたばかりの今、間違いなく正気を疑われるだけだった。そう素早く思い巡らせ、カラに聞いたことを元に説明する。「10mの高さからコンクリの上に落としても中身を守るケースだそうだ。きっと大丈夫だろう」
「そうか!」ゴーグルのガラス面が光って表情の一部が隠されていても、男が破顔したのは良く分かった。「あんたらも無事、荷物も無事。本当に良かったぜ」
「ところで、そっちは?」話の切れ目にすかさず聞いてみた。ファードとしては、さっきからそれを知りたいと思っていたのだ。
「ご覧の通り、ただの風乗りさ」男は胸を反らす。仕草はおどけているようだが、その際の一笑は誇らしげだ。「こっちでまぁ、細々と生き残ってきたんだが、テレビであんたたちのことを知ってね。出迎えようと待ってたんだ。全くひでぇ空だったが、そいつがあんたたちを見付けてくれたよ」そう言って顎をしゃくる。
視線を左へ移す。もう一人の風乗りが、慌てた様子で頭を下げた。「こんにちは」少し上擦っていたが、ガラスが涼やかに触れ合うような、耳に心地よい声だった。
「そうだったのか」
ファードは感心と驚きが入り交じったような声で言った。例によって顔立ちは良く分からないが、声の感じといい、小柄で細い体といい、この風乗りはかなり若い。世界から自然死を宣告された後も、山の西側では風乗りが育っていた証拠だった。暫し、思いに喉が塞がった。
「色々と世話になったみたいだ。礼を言うよ、少年」
男に対したのと同じ礼儀で、若い仲間へも親しみを込めて言ったつもりだった。それなのにどうした訳か、若者の表情が見る見る歪んでいくのである。ゴーグルに引き上げたままのネックガード、視線からはほぼ完全に遮られているのに、それでも手に取るように分かる変化だった。右手で男が笑いを爆発させた。それでファードは、手痛いミスを犯したのだと悟った。
「やっぱ間違われやがったか」笑いの発作の合間に何とか言葉を挟み込もうと、男は必死だ。「大将! そいつは女だよ。いや、そんな棒っ切れみたいな体じゃなぁ。無理もないがなぁ」なお笑う。
「お、親父さんは笑い過ぎっっ!!」
声の表情まで蒼白になっている。ファードは大いにうろたえた。「ああ、済まなかった。勘違いして悪かった」
「あう…いえ、気にしないでください」少女は急に萎んでしまった。「でも…」俯いてぼそっと付け加える。「今年でやっと16なんだし…成長だって、まだまだこれからなんですからね」
最後の方は自分に言い聞かせているみたいだったが、ファードにもちゃんと届いていた。16歳というと弥祐と同じだった。急に身近に感じられるようだった。
「さて、それはそれとしてだな」ファードが顔を戻すと、男はまだ可笑しそうに、ゴーグルを持ち上げ目許を拭っていた。ファードの側頭部を掠め2本の熱線が鋭く走るようだが、受け止めても全く動じる風がない。「そろそろ急ごうか。リアテリアじゃ、あんたたちのことを首を長くして待ってるんだ」
「いや、もうちょっとゆっくりさせてくれ」後ろ手で背中の通信機を軽く叩きながら、ファードは言った。「山向こうの連中とちょっと話がしたい」
「通じるのか?」
男の懸念はもっともだった。一度限りの成功かも知れないが、風乗りに越えられないフェンサリサは遂に無くなった。けれど電波にとってそれは、なお絶対の障壁だった。中継設備の整ったテレビの電波なら、山を迂回し伝えられる。個人利用のちっぽけな通信機には、無論出来ない相談だった。
「さっきは通じた」今、自分とフータが静かな喜びに浸っていられるのも、弥祐とのその短い会話に救われたからだろう。しかしその時、両者は既に山に隔てられていた。今はもう吹き崩されていくばかりのようだが、あの大雲が人為の電波を狩らんとする様もまだまだ過酷だった。「理由は分からないが」それでも、その通信はあったのだ。「それで目が覚めたんだ。山頂から結構下ったし、今度こそ使えないかも知れないが…」
「そうか」男は肩を竦めて見せたが、それだけだった。「それじゃ俺たちは先に行くよ。吉報はちょっとでも早いほうがいいからな」片手を上げて挨拶をした。さっと体を緊張させると、素晴らしい加速で遠ざかっていった。
「あの」少女が遠慮がちに声をかけてくる。ファードが振り向くと、勢い良く頭を下げた。「本当に、お疲れ様でした!」
「ああ、ありがとう」
「はい!」少女は声を弾ませ、直ぐにあっと慌ててネックガードを引き下ろし、ゴーグルも額に押し上げた。精悍な童顔と言おうか、実に希な案配で整った顔立ちが露わになった。「私はシュンフォン・ハヤカっていいます。よろしければ、お名前を教えてくださいませんか?」
「ファーボルグ・ファーディアだ。ファードでいい」
「ファードさん」ちょっと上目遣いに視線を外し、繰り返し、小さく頷いた。そして内気な嬉しさに少し弛緩させた全身を、再び緊張させる。「あの、リアテリアに着いて、お疲れでなかったらでいいんです」
「うん?」
「山越えの様子をお話しして頂けませんか? 私、風乗りとしてはまだまだ半人前で、もっとたくさん勉強したいんです」
さっぱりとした前向きさだった。きっと素直な子なんだろうと思い、ファードは気持ちが良かった。「約束するよ。HMLの西支店は分かるか? 取り敢えず、そこを訪ねてみてくれ」
「ありがとうございます!」一瞬ハヤカの目が見開かれ、黒い瞳がぱっと光を散らし、すぐ弓形に絞られた。「西支店なら分かります。後できっとお伺いします。よろしくお願いしますっ!」早口に言うと、もう一度深々と頭を下げた。
「さ、ニーフォン。追いかけよ」ハヤカは相棒に声をかけた。軽く一礼してゴーグルだけかけ直すと、先行する白い影を目指し、師匠と同程度、もしかしたらそれ以上の、鮮やかな加速で駆け始めた。