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第33回

 そこは、世界ではあった。空間が一方向に進み時は物に確固たる足がかりを与える。今を豊かにも豊かにした遙かに幽かなる個、系の最初の場所だった。

 先に目覚めたのはファードの方だったろうか。彼は鞍に突っ伏していた。目を開けた自分をしっかりと認識してから、そっと頭だけを持ち上げた。先ず正面を見据える。続いて右、左と、届く範囲全てにじっくりと視線を投げる。これといったものは何も見えない、仄暗いような眩しいような、四方八方何処までも一様で無縫の広がりが見えるだけだった。急に視力が鋭くなったな、と実感する。そう思うと、他の感覚も同様に鋭くなっているのが確信できた。五感は混線する事で鋭くなっている。目は光の和音の豊かな響きを聞き取れた。耳は引き立て合う音を良く見分けるための、色相環のよう。吸い込んだ馥郁たる温もりは舌ですっと溶けて、心地よい酸味に、一層意識の覚醒が促されるようだった。

 ファードはゆっくりと身を起こし、ゴーグルを額に押し上げた。体の節々が少々痛んだが、そんな事ではさざ波一つ立てられないほど、心は快活で満ち足りていた。不思議とこの世界の在り方を記憶しているような気がする。懐かしさで一杯になるのだった。

 一つの小さな人影を、数歩先に見ていた。これといったものは何も見えない、と確認した事実もまだ生きている。映画は一場面に過去に生きる男、今を生きる子供、未来に生きる女を包含して、その時見る我々は本当は時間の落ち着き場所を失っているはずなのだが、そんな事を気にかける人は誰もいない。同じ様な事が、ファードの生きた経験の中で起きているに過ぎなかった。

 小さな人影は疾風のように、ごく水平に後退りして、今では手を伸ばせば届きそうな所まで近寄っていた。自身の自然な目線より少し低い所からその動きを追い始めたファードは、その動きを難無く、少し顔を上げるだけで見届けている。この遍在性と思われるもの、普通なら仰天するような小さな人影の在り方にも、ファードが感じるのは親しみばかりで、眼は若干細められたままだった。

「ついにここまで来たんだね。ファード」

 その人影から、この意味深い響きが和して広がるのを見て初めて、ファードは目を見開いたのだった。この古い顔なじみを懐かしく思い出したのは当然だろう、けれど何故この親しい人影は、自分の名を呼べるのか。相手はかつて名を交換した事の無い知己だった、ファードはそこに思い至ったのだった。名は事物の区別に先立ち、“ファード”と得る事で彼を世界から唯一と切り取る自然に従っているのは、小さな人影の方だ。ファードこそ名というナイフを振るうのを忘れたまま、小さな人影を世界から切り出してしまっているようだった。

「そんなにびっくりしないでよ」

 ファードの頬を、芽吹きの頃の穏やかで朗らかな風が、すっと撫でていく。言葉が伝える意味よりも、言葉の息遣いのようなその一吹きが、相手の心持ちを余程良くファードに分からせた。小さな人影はファードを歓迎している、この対面を、大人の事の運び方に時折子供っぽい乱数を混ぜ込んで、楽しくしようとしている。心身の身構えたところが、微かな風に容易くほどかれていった。

 ファードは一人の少年と向かい合っているように思っているが、それは相手の小柄さと喋り方からただ見当を付けてみただけで、実の所ははっきりしていない。小さな人影は、その余りにも密度の濃い凝縮の仕方でファードを絶えず引き寄せるし、輪郭も掠めた光束から箔を削り出すほど明瞭鋭利に、とにかくその在り方は圧倒的だった。それでいて、この小さな人影は自身の存在の芯に、どうにも抜きがたい希薄さも抱え込んでいるようなのである。しかしながら、この分裂はむしろ小さな人影という建築の要石で、そこに感付けた時、ファードは急に相手の適当と思われる箇所に、相手の両目を認めたのだった。これが両目? それを目と呼ぶには、形状などその器官が本来所有している様々な属性が、一つを除きあまりにも大胆に捨象されてしまっているようだった。これは両目だ。最後に残ったその一つの属性が、この像をそれとファードに識別させる。彼は相手の虹彩の色だけを理解していた。彼には馴染み深い、潤んだレモンイエローだった。ああ、風に連なる連中と同じだな。

 ただ、この小さな人影は太くまとめられた糸束の内のどれか1本ではなくて、その糸束を元で結わえる、束にたった一つの結び目なのだ。それは、風の系譜の始まり。つまりこの小さな人影は、風の“精霊”で…

 恍惚と物思うようだったファードはここで我に返り、愕然とした。馬鹿な、打ち消そうとして固まった。当の小さな人影が、既に押し止めていたのだ。虹彩の色だけしか残されていないはずの両目が、確かに微笑んでいる。ファードが筋道も何もなく得てしまった結論を、励ますように肯定していた。

「人は言葉で、上手に僕らを世界から切り出してしまった」小さな人影ーー風の精霊は続ける。「切り出された僕はフータというのだったね。君の相棒とおんなじだ」

 全くどうしたものか、その相棒の背の上にいた事を、ファードは指摘されるまで失念していたのだった。今度は精霊自身が、言葉以前の不分明さを僅かばかり減らしたみたく、まだ輪郭が少し荒削りな、現れたばかりの様子で相棒がそこに在った。鞍越しに覗いてみると、フータも既に目覚めている。彼はまだあの大雲の中で、ひしめき合う狂風に巻かれたままだった。咆哮の形のまま歯を剥き出し、誇示するように大きく飛膜を広げていた。そして怒りに濁った黄色で、精霊のレモンイエローを凝視していた。

「風にあてられたんだね」

 精霊は、一本の大木に茂る全ての葉一枚一枚が陽光を享受できるように、枝をそよがせてやろうとしたのだった。フータに向かっては、誰かの優しい掌が伸びてくるようだった。彼は避けようと思い、体は却ってこの待ち侘びていた慈悲に従順になる。フータは希望の地へと船を運ぶ、命のために暑熱から寒冷への傾きをなだらかにする、そして何よりも彼に大空を許す、周囲を埋め尽くした祝福の鳴り音を聞いた。鼻の頭がその源になって、心地よい戦慄が頭から胴へ、フータの自在な各点を順々に震わせていった。その波は最後に尻尾の先へ押し寄せる、ぼふっと音を立てて末端の毛全てを逆立たせ、戦慄の波は反射もせず、体の外へ駆け去っていった。

 ファードは鞍の上で、相棒を伝わっていった震えに揺さぶられた。前から進んできたうねりを追って後ろへ振り向き、相棒の尻尾の先が箒みたくなるのを見た。逆立った毛が次第に元通りになり始めて、呆然と顔を戻す。相棒が、長い付き合いでも見せた事のないような、とても穏やかな目をしていた。思わず笑みがこぼれた。

「風はね」精霊の虹彩は、今はもう一対の同じ色を映し込み、益々澄み渡るようだった。「おかの何処にだって吹いている。だから僕は君たちを知っている。君たちだけじゃない、陸に暮らしているなら、どんな命だって僕の顔なじみだ」

 真っ直ぐな道理が吹き抜けていく。その晴れやかな流れの中に佇み、ファードは聞き入っている。

「これが大事な荷物だね…うん、全く平気だ。君たちとおんなじで、呆れるくらい丈夫だね、この箱は」

 精霊は全く不動のように見える、ファードはその虹彩から目を離せない。一方で精霊はいつものように行為を、この世界での静止、ファードらの惑星ふるさとを隈無く駆けて常在する事、その二項を満たすため自然遍在させて、不動でありながら俊敏にファードの背後へ回り込みもし、鞍の後ろの保護ケースの蓋を持ち上げて、請け負った荷の無事を確認してくれたりする。ファードはそれを聞いて安心した。あの大雲の中、積荷は双子と一緒に風と化したのだった。やむを得ない事だったにせよ、大事な荷物を前代未聞の実験にかけてしまったのだ。しかしその物質は、こうして何事もなく風の世界にある。まだ戻りの行程もあるのだが、その未知も、まあ何とかなるだろう。

「でもね、一番呆れるのは君だよ。ファード」

 唐突に話題にされファードははっとした。小さく巻いた風が、飛行帽の覆いの上から耳をくすぐるようだった。精霊のあの特徴的な目が、今度は悪戯っぽく笑っている。

「本当は、御山を越えられなくても良かったはずだよね。でも君は一念を通した。相棒を巻き込んだ。そして遂に、我が風の座まで来ちゃった」

 突然、小さな巻き風の数が増えた。踊り、ファードの顔の周囲を巡り始める。

「ホント、君は変わった人間だよ」

 ファードは言葉を探す事すら思い付けなかった。精霊に変人扱いされて、一体何と答えれば気が利いているというのだろう。それは、前人未到の経験だった。

「しょうがない頑固者とか、ただそれだけじゃないんだ」精霊が、人との会話の妙を心得ているようなのは何故だろう。「もっと根本的にね…君は古い。そう、とても古い人間だから、風の座に立ち寄る事が出来たんだ」

「古い…」気付いたら、ファードはその言葉を繰り返している。

「そうだね。深い深い受容と共感。古すぎて、大抵の人は開け方を忘れてしまった内なる小箱。君の小箱は開いている、故に飛行妖精、ましてや風、そんな人以外の存在と深く繋がれる。人がいつ、小箱の鍵を無くしてしまったのかは僕も知らない。神話と暮らしていた頃だって、それは限られた人にだけ許された持ち物だったのだから…」

 精霊は滔々と語る。ファードは固唾を呑んで聞いている。

「合理性の時代とやらを生きるには、結構辛いんじゃないのかい? 僕の旧友は」

 出し抜けの親しい呼びかけだった。ファードの胸を強く打つ。

「でもね、嘆く事なんてないよ。人が好きな数字なんて、所詮は広い世界に向けた小さな覗き窓でしかないんだ。ほんの一部分しか見えはしない。君の方が、ずっと広い世界を知ってるんだ」

「それでいいんでしょうか?」はっとして、ファードは早口に質問していた。

「じゃあ、聞いてみようか」微風が磁力線のようなものにぴっと沿った、そんな気配があって、精霊の口調が些か改まったのに気付く。「風は御すものじゃない、乗るものだ。君はそう言ったね」

「ええ」ファードははっきりと頷いた。

「それならば、君は今まで、一体どんな風に乗ってきたのかな?」

 その問い掛けは揚力であって、答えは心の表面になんの思考の跡も無く、すうっと上ってきたのだった。まるで与えられたような現れ方であったが、それが上昇しようとして心の根元から離れる際の軽微な抵抗は感じている。だから、これはやはりファードの答えだった。しかも、これだけが風を摑まえられたのだから、きっと正しいに違いなかった。ためらう必要なんか無く、彼はこう言った。

「健やかな風です」

「ああ」

 ファードは、肺に取り込もうとしたものの方が何かを一杯に吸い込んで、満ち足りた様子であるのを感じた。

「分かってるなら心配ないじゃないか。いいかい、精霊はお構いなしなんだ。数字の模型が大成功を収めた、人間が僕らを忘れた、けれど精霊は死にはしないのさ。君の場合もおんなじだ。誰かの都合や周りの事なんて関係無い、君のいい風はいつだって吹いている。君がそれを忘れたり、捨て去ったりしてしまわない限りはね」

 精霊の言葉は安らかな忘却の場所、時の暴力も決して及ばない、とても深い記憶の核へ直接届けられたようだった。

「健やかな風は良い関係の始まりだね。種子は飛び、森は育ち、無数の生の営みは織り目になって、掛け替えの無い意匠の素敵な織物を織り上げるんだ」

 注意深く聞き取ろうと心持ち頭を動かし、ファードは相棒も、同じ様に耳を傾けているらしいのを見た。そしてこんな事を思い付く。ファードは精霊と対話している。実はもう一つの対話が、これと並行的に行われてもいる。フータはフータで精霊から、何かここから持ち帰るべきものを得ている。

生命いのちは分け隔てなく結び合う。だって君の相棒は、命懸けで背を貸してくれるだろう?」

 だとしたらこの言葉は、フータには彼が主語になって聞こえているのかも知れなかった。フータが眼を細め、体を軽く揺さぶった。ファードも肩を揺らした。お互いに頷き合い、しょうがないな、といった感じの笑みだった。

「ああ、いけない。急ぎの旅を長く引き止めちゃったね」

 ファードは心持ち居住まいを正した。自分の周囲から滑るように笑みが引いていく。会見の終わりを悟ったのだった。

「さ、二人とも。帰るべきへ帰ろう」蜘蛛の子らの門出を祝う、戻りの無い風は吹いたのだ。「君たちも健やかな風、結び合いの模様を織り続ける織工なんだ。吹いていかなくちゃいけない。織り上げてきたものが、織り上げられるものが、きっと待っているから」

 ファードは背に、フータは尻の辺りに、太い風が突然生まれたのを感じた。帆をかけた快速船になって、二人はぐぅんと滑り出す。遍く在るはずの精霊が、視界の外へ初めて後退した。ファードは慌てて振り返った。

「また会おうよ、二人とも」驚いた事に、小さな人影は実に人間臭く、手を振って別れを告げているようだった。「次はエレ様のお屋敷で会えるかも知れないね」

 聞き違いかと思わず身を乗り出そうとして、ファードは進む方へ向かせた左の耳に、恐ろしい勢いで迫る圧力を聞き取った。顔を戻す、フータが警告の唸りを発した。進むにつれて、世界が無限の滑らかさで手触りあるものになっていく。無の変化の速やかに積み重なる彼方、あれが風の座の果てだと直感する。そこはまた、大気の海の始まりでもあった。吹かなくちゃいけない、精霊がそう諭した、二人を待つ者たちが見上げるあの大空の始まり…

 咄嗟に額のゴーグルに手を伸ばし、ぐいと引き下げた。飛行体勢を取った上にも頭を低くして、備えた。予感した通りの重たい衝撃がくる。待ち構えていたのは、無尽の嵩の最も静かな表面だった。鏡のように静止していたそれが、急な攪乱に抵抗したのだった。

 集中のため、ファードはいつも通り息を大きく吸おうとした。愕然として目を見開いた。自分が求めるものは周り一杯にあるのに、何故か息が吸えなかった。彼は空気の中で溺れようとしている、それが生体に拒絶されるような物質を含んでいるからではなくて、肺自身が別な何かを要求し、暴れているようだった。ファードは恐怖を感じ、鞍の上でもがいた。肺が酷く震える。激しく咳き込んだ。

 その“呼気”は、空気の中で全て無色透明の泡の群れとなった。それらは薄明へと流れ去る。二人が掻き乱した渦に壊れもせず、真っ直ぐな行き方すら乱されず、ただ速やかに、音も無くーー

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