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第32回

 一号登山道のパーキングエリアは、今が緊張と興奮の極みにあった。未だに立ち上がりつつある異形の大雲は、穏やかな日差しの溢れる、何でもない青空に重々しく起立して、この場で見守る人の現実感や常識といったものまで、空の高みへ攫っていくようだった。そのような悪夢の中へ、山越えを試みた風乗りたちは消えていったのだった。

 カラはマスコミに追い詰められたようになっている。こうなった以上、事前に認めさせた取材拒否の方針など、聞き入れられるはずも無かった。ひしめき合い歯を剝いた取材者たちの顔、顔、顔という最前線と、彼は直ぐの距離で向かい合って立っている。正直、何度も後ずさりそうになった。その度に腹に力を入れて踏み止まった。顔はすっかり青ざめている。それでもカラは、しっかりとした口調で、各記者からの矢継ぎ早の質問に応じていた。

「あの風乗りは一体どうなったのですか?」

 カラは答える。「我々がたった今見たことが全てです。あの雲の中でどうなるのかは、私にも想像がつきません」

「元風乗りとして推測出来ることもあるのでは?」その声には苛立ちが滲んでいる。努めてはいるのだけれど、どうにも隠しきれない。

「あれほどの上昇気流は私自身も経験したことがありません。出会ったとしても、普通は避けるべきものです」

「では、あの風乗りは…」

「今は、憶測で物を言うべきでは無いと思います」

「そちらの無線機に通信はありませんか?」この問いが人垣の中程から聞こえると、取材者たちの間に同情と非難相半ばする空気がさっと広がった。

「テレビやラジオの皆さんと事情は同じです」カラにはその質問者の気持ちが良く分かった。この場がこれ以上荒むのを考えなくても避けていた。だから、言葉に角立った所がないように気を付け、続けた。「あの雷雲が全ての電波を殺してしまっています」

「救助を要請する考えはお有りですか?」

「既に要請はしました」同行していた若いスタッフに指示して、東支店で待機中のハマモトに電話で連絡を入れさせている。「ですが、現時点では空からは勿論、徒歩でも現場に近付くのは難しいでしょう。詳細は救助隊が到着後、協議してからとなります」

「今回の件について、責任の在り方をお聞かせくださいませんか」若い記者からの、真摯な口調での質問だった。

 カラは相手の目を真っ直ぐに見、頷く。「現場の責任者は私です。今は出来得る限りの手を打って、万が一の場合は、本社や当局の判断を仰ぐことになるでしょう」

「風乗りに戻るよう指示されたタイミングは、適切なものだったとお考えですか?」パンツスタイルのスーツを一分の隙も無く着こなした女性記者が、良く通る声で、語りかけるように問うた。

「思います」

「では、元から危険と分かっていたあの場所に、風乗りを向かわせることはどうだったのでしょう? ためらいはお有りでなかった?」

 人垣から微かに溜息が漏れた。今、山向こうでは、小さな町を中心に多くの人々が危険な伝染病の脅威に晒されている。それ故に、この山越えの試みも急遽企てられた、多数の命と一人の命、本来はどちらも天秤にかけられるものではないという議論も、殆どの人々が思い付けないほど急に。この女性記者自身、ずっとわだかまりを持っていて、それを今、改めて衆目の集まる場所へ差し出したのだと思われた。

 ここまで毅然と、澱みの無い受け答えをしていたカラが、初めて言葉を詰まらせたようだった。俯いて唇を噛む。相手の目を見た時、その面は一層青ざめていた。

「…今回の依頼にあたり、弊社は事前に危険についての十分な説明を行い、風乗りも了承した上で契約を交しています」

「あなたご自身はどう思われるのですか」

「…察してください」追いすがる女性記者に、カラはそう言うのがやっとだった。

「あの風乗りはぁ、自殺したんじゃないんですかねぇ?」

 間延びした言い方であったのに、場の主導権は一瞬で掻っ攫っていった。実際、その場の誰もが人垣の後ろの方、背の低い男に目を遣った。

「…先程、憶測で物を言うべきでは無い、と申したはずですが」気さくで紳士的な普段の彼からはとうてい想像できないような厳しさが、カラの目付きにすっと表れる。

「しかしですね」別な男が応じた。火もつけずにくわえた煙草を喋る度に細かく上下させて、少し言葉が不明瞭だ。「あの風乗りに関しちゃ、ガードが固いのはそちらの方でして。憶測も仕方がないのですよ」

「噂じゃあの風乗りさん、今は二等雇用者だそうですね」また別の男が話し出す。黒と白の細い縞柄のネクタイを形ばかりに締め、カラを振り向かせるのに犬を招くような手付きをして見せた。「そして元々は、貴社の一等雇用者だったらしいと…こりゃ子供だって、何か符合するように感じると思いますがね」

 カラの中性的で整った顔に、何処に隠れていたのかと目を見張るような憤怒の形相が浮かび上がってくる。しかし、彼が声を荒げるよりも先に、その年配の男性記者の方が我慢しきれなくなったようだった。彼は黒々とした眉を怒らせて、肩幅の広い体をぐるりと回す。この業界で働いているなら、彼の顔を知らぬ者は少なかった。全世界を取材対象とするバイタリティを身につけた、フリーランスのベテラン記者だった。彼は腹の底から声を張り上げた。「おい! 人の命がかかってるんだろう。下らんゴシップが欲しいなら、お前ら取材場所を間違ってるんじゃないのか!」

「ふん」わざとらしく肩を竦める、薄ら笑いをしてみせる、態度は三者三様だが、全員が柳に風と聞き流している。最初に場の空気を悪くした小柄な男は、さも小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。そして男性記者も、カラも見ずに言うのである。「埒が明かないようですし、そっちのお嬢さんにも伺いましょうか。どうやら、あの風乗りの関係者のようだ」急に鋭い目で、弥祐を捉えた。


 すぐ傍で行われている人間的な遣り取りにも、弥祐は顔を顰めたりしなかった。彼女はマイクとイヤフォンのセットを、カラがむしり取り、アウトドア・テーブルの上へ放っておいたそれを拾い上げると、そっと慈しむように右耳に当てた。後はただ、時折表面を走る稲光で微かな変化を見せるものの、無為という言葉の光学的な表れであるようなあの大雲を、じっと見据えて立ち尽くしている。あんなものを凝視している内に、彼女はすっと、自分と世界との関係を組み替えてしまったようだった。今の彼女は、煩わしい人の言葉とは没交渉だった。あの大雲とだけ向き合っている。

 イヤフォンから聞こえてくる、と言うより雪崩れてくるのは、無数の波がもつれ合って押し寄せる圧倒的な振動と、時折撃ち出される、身も竦むような破裂音だけだった。本来なら、こんなものとてもではないが耳に当てていられない。それでも弥祐は、表情一つ変えずに大雲の言葉に耳を傾け続けていた。あれが彼らを吸い込んだ信じ難い瞬間があって、再び鼓動を感じられるようになってから、弥祐は自身のさざ波一つ無い内面をごく当たり前と受け入れている。祈るでもない、諦めたのでもない、放心している訳でもない。強いて言えば、常軌を逸して客観的になっているのだった。空へ繋がるくらい大きな大きな自分が小さな自分を見下ろし、そっと背中を支えている、もし感じられたならば、彼女はそんな風に表現したかも知れなかった。

「!」

 彼女がはっと目を見開いたのは、そんな時だった。全く奇跡的に、その一瞬だけ電波が届いたのだろうか。弥祐など呑んでかかろうとする大雲の怒声の只中に、彼女は間違いようもなくそれを聞き取った。大雲の恫喝よりなお恐ろしい、彼女は未だかつて、これほどまでに怒っている彼を知らなかった。フータの咆哮だった。懐かしい彼の向こう気の強さが、火花となって彼女の耳に散ったのだった。

『ファードは、空では王様なんだね』

 あの切なくなるくらいの夕空の中で、神様だと感じた見渡す限りの山の前で、口にした自分の言葉が不意に思い出された。そうなのだ、誰もが破滅だと嘆いていたが、あの大雲へと吸い上げられる道は他でもない、その王様と、彼の一番の相棒が信じ選び取った道ではないか。余人の懸念など、そもそもの最初から一切受け付けない。絶対的な正しさは、もう彼女の掌に暖かく、気付いてみれば載せられているのだった。

 ばか。信じるって言ったのは自分じゃない。

 弥祐は握りしめた手を胸に引き寄せ、忘れていた瞬きを償うようにそっと目を閉じ、俯いた。見る見る涙が溢れ出してくる。まさか自分が泣いてるなんて、彼女は夢にも思っていない。それくらい静かに、ただ大地の我が家へ帰るような涙だった。


 その少女は涙していた。感情の揺れなどそよとも感じさせない、静かに力強く、人を打つ泣き姿だった。人々は息を飲んで押し黙った。現状すら飯の種としか思っていないゴシップ記者たちも、口を噤まざるを得なかった。付け入る事しかできない連中は、付け入れない心に敏感だ。今度は彼らが追い詰められる番だった。舌打ちくらいはして見せて、ゴシップ記者たちはこの場を立ち去った。

「映像はまだ回復しませんか?」

 個人としてのカラと話をしたがった、あの女性記者だった。彼女の穏やかな声で、人々は軽い放心から覚めたようだった。少し離れた場所で、テレビ局のアシスタントらしい若い女性が、慌ててそれまで見守っていたモニターに目を戻した。そして悲しげに首を振った。

「駄目です…画も音も、全然回復していません」

 彼らの目は自然と空へ向いた。つい先程まで縦横無尽にその場所を駆け回っていた、白く輝く姿は無論見えない。目につくのは神々しい山並みと、禍々しい大雲ばかり。こぼれるしかなかった重々しい溜息が、一つ、誰かの胸からこぼれ落ちた。

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