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第31回

 吸い上げられ、なお吸い上げられる。

 いや、双子を喰ったこの雷雲は、余りにも巨大すぎたのだ。手応えなど何も無い空の只中に、実は双子は静止している。雷雲は彼の内部に静止した双子を置いたまま、自重で隕石のように落下している。双子は吸い上げられているのかも知れない。そう思うのは錯覚なのかも知れない。

 大噴火が星の空近くまで吹き上げた墨色の噴煙、あの闇を胚胎するのであろう細長い子宮と思い比べてみても、この黒雲の奥深くは未だ光を知らない、耳鳴りが始まるほどの暗さだと思い込んでいた。しかし周辺は、存外薄明の世界だった。

 その薄明かりが突然爆ぜた。幾筋もが鋭利な尾を引いて虚空へ散り、消えていく。雷光に目を焼かれた訳ではなかった。もしそうならば、彼の目は数瞬前の過去の光をまだ見ている、双子が感じたのは完全なる暗転だった。彼はでたらめなやり方で振り回され続けている。今の回転の微妙な作用は、双子の頭から血を抜き去ってしまっていた。そこから一番遠くに当たる所で、ひしめき合う血液が陰気に呻いていた。

 かと思うと、視界が真っ赤に輝く。錐揉みなのか、宙返りなのか、体をめちゃくちゃに転がされ続けていることには何も変わりがないように思える。けれども、その作用には何か捉えがたい平衡があるようで、呻いていた血液は今はもう、場面の切り替わりのように反対端へ、一瞬の内に頭の中で溺れ死にしそうになっていた。

 体が粉々になりそうだが、まだ許していない。双子の一方は守る姿勢を取りやすく、他方は難しかった。余計にままならぬ思いをさせられる後者の方が、特に頑強に抗っていた。前肢後肢の間に張られた柔らかな飛膜は、狂った大風の格好の玩具だった。いいようにされたくないのなら閉じてしまえばいい、無論そんな事は分かっていた、分かってはいるが閉じなかった。大風がそれを宙に縫い付けてしまい、閉じたくても閉じられないのではない。飛翔の際、それは誇らしく開かれてあるものだ。彼は飛翔を続けている。すなわちまだ風に乗っている。意地でも閉じてやらないのであった。

 その気高いはずの飛膜が、酷く安っぽくばたつくようである。その様は哀れさえ感じさせた。店舗の軒先で色が褪せ、端のすり切れるままになった商売用の幟が、それでも必死に人の気を引こうとばたばた喚いているようなのである。それを嫌った。別の方法でなぶってきた。蛙の喉袋みたいに、飛膜が不格好に膨らんだ。破裂寸前になると、大風は一層無邪気に笑った。楽しくて仕方のない表情で、なお吹き込む息に力を込めた。

 全身の軋みが、骨を伝う内に複雑に干渉しあい強め合って、体が内側から崩れていきそうだった。良くブラシがけをしてくれる少女が、通りの良さをその度に羨む自慢の体毛も、全てが針のように硬く逆立っていた。時折、体のあちこちで火花が散った、信じ難い様子で帯電してるのだ。彼は憎々しげに吼えた。どうやったらこの忌々しさを蹴散らせるのか、大風も竦み上がりそうな凄まじさで吼えた。

 膜ヲ閉ジロ。体ヲ小サクシロ。

 その時、耳を疑うことを感じ取ったのだった。今の怒りの火が、一遍に酸素を受け取った。白熱が一瞬体力を十倍させた。我が身を苛み続ける狂風を、おぞましい狂気ではね除けた。その数瞬だけ双子は自由に飛んだ。そして、それだけのことだった。

 チガウ。諦メルンジャナイ。

 話しかけられる度に、頭の中の何処とも言えない部分がむずむずした。言葉を司る部分に、直接息を吹きかけられているのに違いなかった。

 風ハ自由カ。

 …そうだ。

 常ニ自由カ。

 その通りだ!

 ソレハナゼダ?

 何故? 意外に思い、言葉を探すように途切れさせた。それが、人間とスカーラル・シーの時間感覚が溶け合う、その新しい時計での数秒になった。背に負うた双子のもう一方が、ゆっくりと続けた。

 ソレハ、受ケ入レラレルカラダ。

 何を馬鹿な! 再び狂気によって、体力の熾火を不用意に掻き立てそうになった。踏み止まったのは、思う所もあったからだった。彼は、フェンサリサの頂で彼をさんざん手こずらせた、あの風たちのことを思ってみた。あの兄弟たちは最初愚直だった、生まれ出た山脈深部から外縁へ、ただ一つの線に沿って突き進むだけだった。高く重たい一塊の波頭となって、兄弟たちはひたすらに重なる稜線を突破してくる。ひとたび最後の稜線を越えるや、波頭を崩し、斜面を震わせながら雪崩れていくのだ。そうなると、兄弟たちの猛進は阻まれ始める。たちまちの内に、山肌の凹凸が彼らの足並みを乱し始める。それでも兄弟たちは、生まれた頃からの狂気じみた陽気さを失わない、それどころか益々得意になるようだ。今や、当初の突進一点張りという稚拙さは、影を潜めてしまった。兄弟たちは、宇宙に存在しうるあらゆる曲線表現を身につけてしまっている。双子を追い詰めた、あの途方もなく自在な巻き方が出来るようになっている。それは何故だ。兄弟たちは、なんの拘りもなくさっぱりとした心持ちで、本来なら邪魔なはずの地形をも、むしろ自然に受け入れてしまったのではなかったか。受け入れて阻まれてみることで、却って何一つ阻むものの無い、真の自由になったのではなかったか。

 今ハ、風ニ乗ル以上ノコトガ必要ダ。

 それは何だ。

 バカバカシイコトサ。

 確かにそうだった。正気の沙汰とは思えない。しかし—

 受ケ入レヨウ。

 思われた言葉が、乾いた砂に水が染み込むように、すぅっと思いになっていく。同時に嘘みたく、心にしなやかさが蘇ってくる。

 疲れ切った体にも自然と活力が戻るようだった。双子を取り巻く莫大な力の奔流は、常に広範囲に密度濃く渦巻くようで、その実瞬間瞬間に、避け難く無風の断片を生み出しているのが理解され始めた。数瞬の間だけ儚く揺らいで在るそんな欠片の一つに、するりと滑り込む。そして尾を腹の方へ引き寄せ、それを抱え込むように、今は何のためらいも無く飛膜を閉じた。鞍に束縛されている体を、可能な限り、胎児のように丸くした。

 優しい欠片が吹き消される。双子は再び力の渦の中へ巻き込まれるが、丸くした姿勢はそのまま、気泡のように頼りなく押し流され、けれど周囲とは確固として己を画し、上へ上へと動いていく。今、双子の輪郭は不自然に明瞭だった。雲の冷たい細胞に厚く取り巻かれ、ぼんやり滲むようだったのが、双子自身がこの場のピントを正しく合わせ、かっちりとした姿を見せたようだった。そんなふうだったから、鞍の角張った部分に激しく当たっていた風が、遂に八方へ雲を引き始めた。その数は次第に増えていく。やがては、余り引っ掛かりのありそうにない、双子の体のあちこちからも細く濃く雲が尾を引き始めた。常軌を逸した状況の中、それはただ風の見せた、よく説明のつく悪戯だったか。

 違う。それは風のせいではない、双子の意志だった。いや、それも正しくない。受け入れて意志や知性といった軛からも自由になった、風の双子の自然だった。双子は今、あなたとは違う純粋に対称的な在り方をして、あなたがそこにしか居られないのと同様に、相異なる世界の境界を跨いで立った、薄明の層にしか居られないのだった。双子が体からたなびかせる筋雲の数が、見る見る増えていく。それらは彼の体を覆い隠し、やがて輪郭の代わりになった。双子は安らいでいる、軋む骨の痛み、身を切るような冷気、あらゆる苦しみは自身との関係から消えていき、例えば重力よりも、浮力との関係が濃くなった。その時、肉体に嵌り込んでいた心が、ふっと自由に動き出した。最初、一つのもののようだったそれは、一瞬の律動の後自身を無限小片の集まりとしてしまい、なお小魚の群のように天与の原理に指導され、結局元と同じ、一つの心のままの流動体となったのだった。それは言わば心の智慧だった。正気の沙汰とは思えないことを、可能にするための…

 双子が濃くたなびかせていた筋雲が、今度は徐々に薄れていくようだった。それは1本1本、双子の体から切り離され、切り離されるや曲線に還って霧散していく。双子の輪郭を仮に形作っていたそれらが、全て剥がれ落ちた。そして彼は姿を現した、まるで蛹から、新しい在り方が生まれ出たようだった。双子の形。それは最早、血肉を基礎としてはいなかった。温かく柔らかなものは、この場にはそぐわないと捨て去られた。曲率や長さを一時も一定させない、無数の流線が組み上げている。互いに打ち消し合おうとする渦の一組の、途方もない羅列が組み上げている。双子の形は、今はそういった現象が保存して、空に混じり始めた無数の細かな氷の粒を巻き込み、辛うじて可視化しているのだった。心だけではない、肉体も智慧を身につけたのだ。不意に一条の稲妻が閃き、双子の体までジグザグに伸びた。それを通り抜け、虚空へ消えた。

 風だった。双子は今、風なのだ。風は一体、何処へ行くだろう。

 上ダ。

 そう、上へ。感じたままに乗り、行き着く先の、高い所へ—

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