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第3回

「すみません、遅くなりました。4階チェック終了です」

“時の三精霊”の解説員たちは、開館から閉館までずっと展示室で来館者を迎え続けるのではなく、日に何回かの交代で立っている。フロアにいない間はプログラムを練ったり資料を作成したり、デスクワークに時を費やす。解説員たちにとって晴れの舞台が展示室なら、舞台裏が5階にある事務室だ。ファードがその事務室へ戻ってみると、自席で書類相手の作業をしていたファンが目を上げて出迎えてくれた。この建物の内部は広く、一つのフロアの閉館作業も複数のスタッフが手分けをして行っている。チーム4階のリーダーでもあるファードは、閉館作業の最終チェックも任されていた。全てを見回れば当然一般スタッフよりは戻りが遅くなる。更に今日は作業の開始が少し遅れた。事務室の中は、一見して閑散としていた。一般スタッフは勿論、他のフロアのリーダーたちも既に上がったようで、総責任者であるファンを待たせてしまったようだった。

「いいえ」しかし、ファンに気にした様子は全く見られない。むしろ仕事を楽しみながら待っていたようで、生気のある笑顔だった。「今日もお疲れさまでした」

「お疲れさまです」緊張は俄に霧散して、今初めてその存在に気付かされる。いつもの遣り取りに、いつもの感慨だった。

「それと…これ。お渡しします」ファンは大判の封筒の中を探り、葉書大の紙片を差し出してきた。三方がミシン目で閉じられている。「お給料の明細です。先月もありがとうございました」

「ああ、どうも。ありがとうございます」

 ファードは軽く一礼して明細を受け取ると、すぐに着替えに向かった。この場合は至極もっともな振る舞いで、ファンも何一つ怪しんではいないだろう。けれどファードは、急にいたたまれなくなってその場を離れたのだった。また過ぎてしまったんだ、一月という決して短くない時間が。それを思い出したのだった。

 更衣室の扉を開ける。壁を探って、必要なだけ明かりをつけた。

 自分のロッカーの前に立ち、暫し迷う。結局その扉は開けずに、ロッカーの列に挟まれた通路にしつらえられた、背もたれの無い簡素なベンチに腰掛けた。ゆっくりとした手付きで明細の封を切る。

 見慣れた額面が、支給総額の欄に印字されていた。分かり切っていたはずなのに、またいつもの深い溜息が、無人の更衣室にこぼれた。

 もろもろの天引き後、交通費を含め手取りで14万そこそこ。それがファードの、月々の収入だった。

 交通費全額支給、社保完備。ただし雇用契約は1年ごとに更新で、1000円弱の時給制、賞与も無い。それが今のファードの働き方だった。つまり二等雇用者である。辞めるか、馘首されない限りは自動的に契約が更新され、無論賞与も有り、各種手当ての面でも優遇される一等雇用者とは、どう足掻いても格差があった。それにこの施設は首都が金を出し、運営は民間会社に任せた、いわゆる業務委託だった。自治体としては、支払う委託費は当然少ない方がいい。そこに競争入札が絡んできて、そもそもファードらの労働力は適正な価格で買い取られているのか? そんな疑念もあった。

 ファードは元より楽しみの少ない男だった。自分一人だけなら、この収入でも何とかやっていけただろう。

 だが、ファードにはフータという家族がいた。飛行妖精とはいっても、彼らもこの星に暮らす野生動物には違いない。それにスカーラル・シーは元来適応力が高く、人間が用意した生活環境、本来の自然な生活環境、両方を不規則に往復するような二重生活も十分に可能だった。つまりファードも、普段はフータを自然の中で自活させ、生活費を抑えることは出来た。しかしそのやり口は、風乗りには昔から恥ずべき行為と戒められていた。当然だろう、このやり方は取りも直さず、相棒を半ノラとして生活させるということだ。フータはファードに空を教えてくれた、言わば恩人だ。貶めようなどとは、そもそもの初めから考えようも無かった。

 ここで思い出されるのがフータと共に行う、風乗り本来のとも言える配送の仕事である。ファードの本業はそちらだ、そして足りない分を、言わば余技を活かした解説の仕事で補っているのだろう。

 現実は、そうでは無い。

 実際には、風乗りとして受ける配送の仕事の方が、今の彼には副業であった。休暇や時間外など、“時の三精霊”から解放されている時に下宿先の弥祐の実家から貰う、不定期の仕事なのだ。

 後で事情を述べる機会もあるだろうが、その弥祐の実家自体が、今では配送の仕事を殆ど請け負えなくなっていた。また、風乗りが人々の記憶から消えかけ、流通の手段と見做されなくなってきている昨今、他の同業者から仕事を取ることも難しかった。上でファードの収入を“月々の”と断ったのは、まさにそれが正しいからであった。

 ファード自身、以前は一等雇用者であった。風乗りのエースとして働いていた頃のことだ。運営方針の転換を受け入れられず、やむなくその企業を去ることになった後も、別の企業で風乗りの、一等雇用での復帰を希望していた。

 けれど風乗りは、既にあの日、世界から“自然死”を告げられていたのだった。

 自分はただ、甘やかな期待に身を任せてしまっただけなのだろうか?

 いずれにせよ、一度手放した一等雇用者の地位は一般的にも回復困難で、風乗りとしての生き方しか知らなかったファードには尚更だった。生きるために就いたこの解説員の仕事でも、一等に昇格出来る道は用意されていない。

 ファードは、今の職場でも前向きにあろうとしているし、信頼もされていた。しかし貯蓄の残高は、一向に増すことがなかった。

 自分も雇用市場では決して若くない年齢に差し掛かった。次第に身動きが取り辛くなっている。その一方で、自分もフータもまだまだ生きるのである。例えば年金という、多くの人々にとっての将来の拠り所も、舵取り役としての存在感を示せない国のお粗末な態度が、それを虚しい約束事と思わせるようだ。

 こういう時、ふと将来を思ってみる。そして立ち竦む。

 更衣室の扉が叩かれるまで、じっと考え込んでいたようだった。

「はい?」はっとして、慌てて返事をした。

「ファーボルグさん?」鉄製の扉を通して、ファンの声は少しくぐもっている。「どうかされましたか? 少しお時間がかかっているようですが…」

「いえ、大丈夫です」そんなに長く考え込んでいたのだろうか。「すみません、すぐに行きます」急いで立ち上がり、着替え始めた。

「いえ、特に何も無いならいいんです」本当に心配していたのだろう、声がはっきりと柔らかくなった。「でも、お連れさんがお待ちなんでしょう? 早く行ってあげないとかわいそうです」

 そうだった。ファンはもう何の心配事も無いようだが、彼は大いに慌てた。


「遅い」

 職員用の通用口から駆け出てすぐに、ファードは弥祐の不機嫌な顔にぶつかったのであった。

「悪かった」先ず本心を言う。「ファンさんとちょっと仕事の打ち合わせをしててな」そこは隠しておいた。

「ふぅん」壁にもたれた弥祐は、ふいっとあちらを向いてしまう。

「友達は?」

「先に帰った」相手が普段通りだから、弥祐も自然に振り返れた。本人の飾る気の薄さを健気に補う美しい桜色が、口許に綻んでいる。「ファードね、気に入られたみたいだよ」

「なんのことだ?」

「今度、ファードに特別プログラムをお願いするんだって。すっごい盛り上がってた」特別プログラムとは、要はオーダーメイドの展示解説のことだ。参加者のリクエストを元に、解説員が一からプログラムを構成する。そのような性質から、日常的な展示解説が無償で行われているのに対し、こちらの方は有償だ。利用者も普通は、学ばせたい事柄のはっきりしている学校など、公の立場の人々で、別段制限は無いものの個人での依頼となるとまず稀だった。

「特に水里って子か?」短い遣り取りだったが、本当に印象的な子だった。ファードはつい笑ってしまう。

「藍の方も。担任やクラスのみんなも巻き込むってさ」弥祐も楽しそうだ。

「そうか。じゃあ依頼が来たら、頑張るとするかな」

「うん。ファードなら平気だもんね」一度相手を見て微笑み、もたれていた壁から背を離した。「じゃ、お買い物行こ。おばあちゃんもフータもきっと待ってるよ」先に立って歩き出す。

「今日の献立は何だ?」ずっと大きい歩幅ですぐに横に並びながら、聞いてみる。

「おばあちゃんはお魚がいいって言ってたけど…」細い指先をおとがいにあて、考える仕草。「フータは飽きちゃわないかな?」

「平気だろ。あいつもさっぱりしたものが好きらしいからな」

「ファードは?」

「同じもので十分だ」

「うん、肉よりも魚。感心感心」澄ました作り顔で、年長者みたく言った。「じゃ、今日は西の市場で決まりだね。帰りがけ『街中野菜畑』でお野菜も見ていい?」

「ああ。今日は箱で買うのか」

「見ないと分からないよ」

「ふぅむ」結構真剣に何かを思案する。「お前が見ている間、先に戻ってばあさんの3輪バイクを借りてくるか」

「どんと担ごう! 男ならっ」ファードの二の腕辺りを威勢良くはたいた。乾いた小気味の良い音がわぁんと広がって、高いビルの谷間を朗らかに駆け登っていく。

「気安く言うな。お前の箱買いは半端無いんだよ」大人げなくも結構本気の抗議が含まれているようだ。

「生活の知恵だよ。フータだってたくさん食べるんだし、基本でしょ。基本」弥祐は可笑しそうに意に介しない。

 石畳の広い歩道は、仕事帰り、学校帰り、家路につく人たちで混雑し始めている。行き交う人々の間を、二人はゆっくりと歩いた。足早に擦れ違っていく人々の、一様に表情の薄い顔が見分けられる。その乏しさは空虚の表れではなく、内に色々な在り方を隠しているはずで、今はそんな事も気に留めることが出来た。

「おばあちゃんのバイクじゃなくてフータを連れてきたら? いつも通り、お夕飯の前に飛ぶんでしょ?」

 他の職業よりは比較的早く引ける、その僅かな時間も利用して、ファードは配送の有無に関わりなくフータと出来るだけ空を供にしようと努めていた。週に二日の休みも加えれば結構な飛行時間のようだが、風乗りを生業としていた昔に比べれば、それでも格段に少ないのだった。

「異論は無いが、あいつを商店街に連れて行くとなにかと騒がしくなるからなぁ」

「そうだね。あんまりおまけしてもらっても、こっちが困るもんね」堪え切れずといったように、弥祐は噴き出した。

「下手すると買った分よりも多くなるからな」以前実際にそんなことがあったのか、ファードも苦笑している。

 二人の傍らの路上から、かたたん、かたたんと小さく音が響きだす。やがてその音を響かせていた鉄路の上を、2両編成のネットモビルが、仕事帰りの人々を満載して追いすがり、追い越していく。見送ると何回か、パンタグラフから火花を飛ばした。

 空は頂近くの高い方から、次第に宵闇とその日の名残日が分かれていくようだった。魚鱗石で覆われた昔ながらの建物たちが、少しずつ赤味が勝っていく光をまだ虹色に、柔らかく反射している。一方で新しい、ガラスとコンクリで出来た高層ビル群は、それを強く、鋭く弾き返していた。

 夕日は高層ビル群の間に傾こうとしていた。それだって明日という舞台初日への、高まりに違いなかった。

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