第24回
「これで装着は完了です。後はその」と、担当社員は鞍の上の飛行帽を指し示す。「帽子を被ってみていただいて、違和感がないか確認してみてください」
恐らくは通信機本体と繋ぐための物だろうが、耳にかけたツルの下方からは、プラグ付きのコードが1本伸びている。ファードは先ずそれをネックガードの中に通し、背の方へ引き出すようにした。それから飛行帽を両手に持ち、いつもはやらないが、耳覆いを少し左右に広げながら頭を押し込んだ。ところが顎の下で紐を結び、耳覆いをしっかりと密着させてみても、イヤフォンは勿論のこと、耳にかけたツルも何ら不快にはならなかった。この良い結果に大胆になって、次はネックガードを両目の下辺りまでぐっと引き上げてみる。伸縮性のある布地が、更に耳覆いを締め付けてきた。それでも平気だったし、マイクの方もそこで自己主張することはなかった。
「問題ないですね」再びネックガードを引き下ろし、ファードは言った。
「では、動作確認をさせてください」ファードが後へ引き出したコードを本体に差し込みながら、担当社員は弥祐を見た。「地上に置く分の機械と通信させてみようと思うのですが、やってみませんか?」
「え、いいんですか?」さっきから手持ち無沙汰だったのだ。弥祐は目を輝かせた。
「ええ。こちらの通信機を使っていただいて…」
と、担当社員がもう1セットの通信機器を準備しようとするや、
「はい」弥祐は既にそれらを完璧に装備してしまっている。「やり方なら見ていましたから」微笑んでマイクを調整していた姿が、とうの昔に数十m先にあった。「これくらい離れればいいですか?」ガレージの反対側の突き当たりで、彼女は無邪気に大きな声を上げていた。
「まあ」ファードは同情を隠せない。幾らかでも慣れている自分はいいが、初めての人にあれは気の毒だったろう。「たまに、ああいう事をする子なので」
「えっ?」担当社員の顔に突如表情が戻った。「ああ、ええ…あっ、そうですね」気を取り直すおまじないのように、彼は無闇に爽やかな笑顔を見せる。「チャンネルは設定してあるので、電源を入れれば通信できます」
『ファード、聞こえる?』
ファードはぎょっとした。これから通信という事で、彼は距離を隔てた弥祐へ自然と目をやっていたのだが、彼女の口が小さく動いたと見えたのは、明らかに担当社員が電源をと、何かを振り切るように声を張り上げた後だった。にもかかわらず、傍らの担当社員のその声がファードの耳に届く数瞬も前に、イヤフォンから弥祐の声が飛び出したのだった。色々と、現象の進み具合がおかしくなっているようだった。
「ああ」かろうじてではあるが、それでもファードは応答できた。流石である。「良く聞こえる。そっちはどうだ」
『なぁに。その無闇に爽やかな笑顔』
ファードははたと自分の頬に手をやった。少し高音部はカットされているものの、それでも明るい弥祐の笑い声が即座に届く。
『この通信機すごいね。ほんと、すぐ隣で話してるみたい』
実際、彼女の言う通りだった。マイクの感度もイヤフォンの再現能力も実にいい。気を遣う飛行中、これらの性能不足に煩わされる心配も無いと確認できて、ファードは満足だった。
二人の社員のこの場での最後の仕事は、フータの用のため夜の間半開きになっていた裏手のシャッターを、完全に上げる事だった。既に夜は明けきり、空を薄青くする白い光が高い所を渡っている。電線にずらりと並んだ雀の群れが、今日1日の元気を余す所無く予告していた。風は幾分湿り気を帯びてきたようだが、改めて体を目覚めさせてくれるような爽やかさだった。
「フータと屋上に行くよ」低く浮き上がり、待ちきれないといった様子で表へ滑空していった相棒を横目に、ファードは言った。「そこから出発する」
「すぐ行っちゃうの?」弥祐はボストンバッグ開きながら聞いた。防寒飛行服に着替えた後のファードの紙袋と、結局洗った髪が乾くまで肩にかけていた自分のタオルが最後の荷物で、今はだいぶ余裕が出来たから手早く押し込めた。「行ってらっしゃいできない?」殆ど乾いたものの櫛は入れていない髪を気にしながら、彼女は聞いた。
「いや、最終的にはカラさんの指示があってからだ」腕時計を確認する。「まだ余裕があるな。俺は山を眺めてるよ」
「わかった」軽快な一挙動でバッグを肩にかけた。「私もすぐに行く」ファードが頷いたのを確認して、階段へ走った。
待っていた相棒に跨り、一気に屋上より少し高くまで舞い上がった。どよめきが聞こえたようだったので振り返ると、正門の外で慌てふためいているらしい人影が幾つか見えた。中には大急ぎでカメラを構えている姿もある。朝食後にカラが再び臨んだ会見は恐らくまだ続いていて、大多数のマスコミは屋内にいるが、何らかの理由であそこに残っていた連中が騒いでいるのかも知れなかった。そう思うと、すぐに彼らの事など気にならなくなる。フータをゆるゆると滑らせ、屋上の一番西の端に着地した。
正面に聳え立つものから片時も目を離せないまま、ファードは鞍を下りた。眼下には色も形も様々な屋根が、幅の広い連なりとなって緩やかに下っている。それら定規で画したような波頭は緑濃い大草原まで流れ落ち、暫く緩やかに風になびいた後、彼方の山裾で再び深い森となって沸き立つようだった。そこに在る上昇への志向は凄まじいようでいて、しかしそんな途方もない勢いすら、何処かで厳に阻まれずにはいられない。体の奥底深くに刻まれていた高まりが、その高みを見て共鳴するようだった。心打ち振るわさずにはいられない、フェンサリサの雄大な山並みが、ファードとフータの眼前に圧倒的に在るのだった。
ファードはその峰々を凝視する。この国でも1,2を争う早さで毎朝陽光に染め上げられ始めるのであろうその場所には、一見何も無いようでいて、その実莫大な力が渦巻いているのだった。風を読む能力に長けた彼の目には、隠しようがなかった。山頂付近に薄くたなびいている、あれら幾筋かの雲。これだけ離れた麓から見上げたのでは、それらは峰々の上でのどかに憩う、それこそ絵画の一隅に刷かれた白絵具と常人には見えようが、その正体は尋常ならざる大気の奔流だった。相棒も今頭を持ち上げ、自分と同じものを見ている事が、確認しないでも分かった。
その力に魅入られていたようだった。何か暖かなものが俄に生じ、それではっと振り返ったのだった。見れば知らぬ間に、バッグを提げたままの弥祐が脇に寄り添うようにして立ち、空いた右手でファードの飛行服の裾を掴んでいるのだった。彼が驚いたように顔を向けても、弥祐は山を見詰めたままだった。来る途中どこかで鏡の前に立ったのか、髪に櫛が入れられているようなのが、無骨な彼の目にも分かった。
「近くから見るのは初めてか?」
ファードが訪ねると、弥祐はこくんと頷く。
「でもね、テレビや写真でしか知らなかった頃から、ずっと思ってたんだ」眩しいような、寂しいような、そんな眼差しを山に向けたまま、弥祐は静かに話した。「この山のどこかに神様の家があるんじゃなくて、この山こそが、神様そのものなんじゃないかって」
会話が途切れた。こちらから見た山は東に面している。陽が高まるにつれ、大山塊はいよいよ燦爛として、対する者に言葉を失わせるようだった。
「…いつか、ファードは空の王様だねって言ったこと、覚えてる?」
不意に、弥祐が訪ねた。
「うん? ああ、覚えてるぞ」
「信じてる」正面を見据えたまま、弥祐は言った。「けど、気を付けて」
「…ああ。分かった」
屋上へ通じる鉄製のドアが、甲高く軋んだ。今度はすぐに、それに気が付けた。
「準備はいいようだね」会見を終え、その足で上がってきたのに違いない。ハマモトを伴って現れたカラの声は、引き締まっていた。「いよいよ出発だ」
「分かりました」頷いてゴーグルを頭につけ、2種のグローブを嵌めた。ふと下の方が騒がしい気がして、ファードはそちらへ顔を向けた。
「マスコミが場所取りに忙しいんだよ」気が付いて、ハマモトが説明した。「いい絵を撮りたいだけなら余所でも良かろうが、カラマネン隊長は一号登山道のパーキングエリアにて指揮を執られるおつもりだ。そこに、あれだけのカメラを並べようというのだからね」
「随分騒がしい中で指揮を執る事になるんでしょうね」ハマモトのユーモアに、カラは苦笑した。「でも、間近で山越えの様子を見守りたいのならやっぱりあそこだ。まあ、君たちがアタックしている間は、こちらも取材拒否させてもらうつもりだよ。集中したいからね」
肩に重たい撮影機材を担いだ者も、ハンドバッグと手帳を持っただけの者も、皆それぞれの全力で正面玄関を飛び出し、正門へ向け駆けている。正門前はちょっとしたカオスだ。出発の瞬間を収めようというのか、中には正門前に張り付いたまま、あるいはより良い場所を求めて、カメラ片手にフェンス沿いをうろついている者も何人か見受けられる。そういった連中と、会見場から遅れて飛び出してきた人々が軽く揉み合ったりする。すると今度はその揉み合いを避けながら、何台ものバンが、けたたましくクラクションを鳴らし急発進していく。
その混乱を少し眺めた後、向き直り、ファードは頭を下げた。「カラさん、ハマモトさん。色々お気遣いありがとうございました。お陰様で、自分もフータも良い状態で出発できます」
「うん? なぁに」
弥祐が唐突に言ったので、他の者の目も彼女に集まった。彼女は足元を見ている。フータが彼女の腿に急に頬を寄せたようなので、驚いたのだった。彼女が顔を向けたのを見ると、フータは目を細め、短く唸った。弥祐は直ぐにその合図を理解した。
「ファード」弥祐は朗らかに言った。「フータがね、私に感謝するの忘れてるねって」
「いや、そんなことはないぞ」カラにもハマモトにも愉快そうにされてしまい、ファードはついうっかり、うろたえた仕草を見せてしまった。
「うん。分かってるから」弥祐はフータの頭を撫でながら、更に可笑しい様子だった。「フータも気を付けてね。それから、ファードのことお願い」
「僕と弥祐さんも、すぐにパーキングエリアへ行くとしよう。ああ、そのままで構わないよ」カラは右手を差し出し、相手はグローブを外して応じようとしたが、構わず手を取った。「通信機のスイッチは入れておいてくれ」
ファードは了解すると、後ろ手に楽にそれのスイッチを入れた。
「残念ながら、私はここで留守番だ」ハマモトも右手を差し出し、ごわつく手と握手を交わした。「お前さんとフータに幸運を」
ファードは鞍に跨り、3点式の固定ベルトで鞍と自分をしっかり繋いだ。額に上げたままだったゴーグルを両目に被せ、出発の準備は整った。
「ファード、フータ。行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
フータはぶるるっと頭を小刻みに、力強く振った。弥祐の言葉に、気持ちが入ったようだった。
「よし、上がろう」
ファードの合図と同時に、フータは空へ噴き上がった。風は今、ちょうど山の方からそよいでいる。フータはその向かい風を掻き分けはしなかった。自らの推進力に巻き込んで、一群となって山へ吹き返そうとするのだった。