第23回
時折足を速めたりしながら、宛がわれていた部屋へ戻った。部屋へ入るとベッドは既に整えられていて、昨夜使ってそのままだった湯飲みも、元通り盆の上に伏せられていた。ソファの上には防寒飛行服一式、ローテーブルの上には小さなガラス瓶と折り畳まれた大判の紙袋が一枚置いてあり、弥祐が持ち込んだ大きなボストンバッグは見当たらなかった。シャワーの後、戻った彼女が全てを整え、バッグは持ってフータの世話に向かったのに違いなかった。
ファードは着ているシャツのボタンに手をかけた。これから、8000m級のピーク上空であろうが高速で風を切って越えていけるような、完璧な身支度を行うのだ。
先ずはアンダーウェアを替える。材質は綿より吸湿性に優れる化繊、細かい起毛があり暖かい。上下が繋がっているだけでなく、靴下まで一体にして冷気を防ごうという発想で、風乗りの間では頭陀袋と称されるものだった。上にはもう一枚、高山羊の毛(重さや保温性、加工性などで通常種に勝る。一般にはヒョウガオオツノヒツジ)で織った、タートルネックを着る。後は、同じ高山羊の毛を限界まで密に織り込み、しなやかで肌触りも損なわれず、それでいて首元からの冷気は完全に遮断するネックガードを頭から被るのだが、そこまで装備してしまうとさすがに暑いので今はやめる。ちなみにこのネックガード、引き上げれば顔の下半分も覆うことが出来た。
革製のオーバーパンツを手に取った。ずしりと来る、懐かしい重さだった。これの外側が材料の2枚張りであることは既に述べた。元となるギンセ(銀背)ジャコウウシの皮は、加工すると優れた撥水性を示すようになるのだが、その代わり比較的薄く、引っ張り強度もやや劣る。そのための処置だった。更にこのパンツの裏側には、一本一本が中空になっているためにその空気層が抜群の保温性を発揮する、ホッキョクイタチの毛皮が全面に張られていた。パンツに両足を通した後は、裾をたくしこんでショートブーツを履く。同じ革を3重張りにして更に堅牢化し、同じ毛皮が裏張りされた履き物だ。最後にブーツの履き口からも冷気の浸入を些かも許すまいと、化繊の短いスパッツを取り付ける。これで下半身の装備は完了だった。
オーバーパンツと同じ素材で、同じように冷気に対して激しく抵抗する作りのフライトジャケットも、暑さを避けて後回しにする。ファードは替えた衣服を畳み、ショートブーツが入っていた箱にそれまで履いていた飛行靴をしまう。それらを、弥祐が残してくれた大判の紙袋にひとまとめにした。
この場での準備がもう一つある。ファードはコップに水差しの水を注ぎ、ローテーブルの上に残されたガラスの小瓶を手に取った。茶色の瓶を傾けると、中から黄色っぽい錠剤が転がりだしてくる。瓶を小さく揺すって2錠出し、水で胃に流し込んだ。これは風乗りの間で昔から用いられている、高山病を防ぐ漢方薬だった。以前はありふれた物だったが、山越えが行われなくなって久しい今は既に入手困難で、ファードの手持ちもこの小さな一瓶だけだった。念のため残量を確認する。記憶の通り、フータに飲ませる分の余裕もまだあった。いくら飛行妖精といえども、この薬の助けを借りなければ、数千mの高空まで一気に駆け上がれはしないのだ。
薄手の牛革製の手袋と、ジャコウウシとイタチの知恵にあやかったオーバーグローブ、ネックガードや飛行帽などの小物は一先ず紙袋に入れた。辺りに目を配って忘れ物が無いか一応確認する。フライトジャケットを右肩にかけ、左手に紙袋を提げて、ファードは部屋を後にした。足早にフータのいるガレージへ向かう。
ガレージに入ってみると、相棒は既に食事を終えて寛いでいる所のようだった。傍らでは弥祐が、洗車の際にでも使う物を見付けてきたのか木製の踏み台に腰掛け、握り飯を頬張っている。彼女の献立も、自分らの朝食と同じようだった。もしかしたら、キシェンコが運んでくれたのかも知れなかった。
ファードに気付くと、弥祐は急いで口の中の物を飲み込んだ。「ずいぶん前に見た気はするんだけど」瞳が好奇心に輝いている。「それが風乗りが山越えをする時の、伝統的な格好なんだね」
「そんなに珍しいもんでもなかろうに」食事中で座り込んだままの弥祐が、ちょっと後も見せて、などとせがんでくる。渋々応えてやった。
「あ、そうだ。フータに体温計くわえさせておいたから。そろそろ見てあげて」
言われて膝をつき、相棒の口元を覗き込んだ。人間用のそれよりか幾回りも太く、長さもある水銀を封じたガラス管が、彼の口の端から突き出ていた。このガラスの厚みなら、スカーラル・シーの強い顎の力でうっかり噛んでも容易に砕けることはない。今は水銀を使わない体温計も出回り始めているが、飛行妖精が自然にくわえられるほどの大きさの物は、残念ながら見当たらないようである。
こちらが体温計に手をかける前に、フータは口をむぐむぐやって体温計を軽く口外へ押し出した。それを引き抜きチェックする。全くの平熱だ。続けて彼の額から長く伸びた、2本の触覚状器官を手に取って眺めた。スカーラル・シーは、体調を崩すとこの器官に生えた白いにこ毛を強張らせたり、黒ずませたりした。悪い兆候の一欠片も見付からなかった。
「飯はちゃんと食ってたか?」弥祐に、相棒の食欲について確認してみる。
「もういつも通り」弥祐はわざと呆れたように言った。「何も問題ないでしょ?」
「ああ。俺共々、体調は万全だ」ファードはオーバーパンツのポケットを探った。「高山病の予防薬だ。ほら、飲め」相棒が開けた口に、彼のためには6錠放り込んでやった。フータは傍らの容器に鼻面を突っ込み、ざぶりと一口分の水を掬い上げ、錠剤を飲み下した。
ファードは相棒に鞍を載せ始めた。途中から食事を終えた弥祐も加わり作業を急いでいると、他に人気の無かったガレージに、俄にがらがらと音が響き始める。手を休めて見ると、ネクタイ姿の上に紺地のブルゾンのような物を羽織った男性が2人、1人は台車を押し、他方は手に荷物を提げて近付いてくる所だった。ブルゾンの左胸には、HMLのロゴが明るい空色の糸で刺繍されている。背広姿で通勤している社員も、勤務中はこのような簡便なユニフォームを着ている場合があるのだった。彼らは必要な作業のためにやって来た。フータが不快な思いをしないようにしつつもより手早く、鞍を載せ終えた。
台車の上には、黒地に角の補強金具の銀色が冷たく冴え、留め金も何やら物々しい、直方体の箱が置かれている。これがファードとフータの積荷、すなわち至急の運搬を求められている、予防ワクチンと唯一の治療薬が収められた保護ケースだった。前日風野商店で説明を受けていた通り、なるほどそれは鞍の後部シートに無理なく固定できる大きさで、ちょっと持たせてもらったが、二人乗りも可能なフータには余裕の重さだった。一通りの確認が済むと、台車を押してきた社員が鞍に固定する作業に取りかかる。
「もうご存じとお伺いしていますが」一方の社員が、手に提げた何かの機械を示しながら言う。「こちらがお持ちいただく通信機になります。ご利用方法を説明したいのですが、よろしいですか?」
通信機の本体は、ファードが想像していたよりもずっと大きく、ごつい感じの物だった。厚みはそれほどでもないのだが、縦横の大きさは子供用のリュックサックくらいあるだろうか。これではベルトに通して腰から提げたり、鞍の適当な場所に取り付けたりは出来そうになく、実際背負うようになっていた。飛行中に体が拘束されるようなものは好まないが、より堅牢、高出力と、高山上空での使用を考慮して機種を選定したと言われれば、それは道理で納得した。後回しにしていたネックガードを被り、フライトジャケットも着た最終的な装備で、体にきちんとフィットするよう、少し時間をかけて背負うベルトの調整をした。
「これ、山向こうからでも電波が届くんですか?」まさかとは思ったが、一応ファードは聞いてみた。
「いや。いくら高出力でも、それはさすがに」担当社員は予想通りの答えをする。「ただ、気象条件などによっては偶然に通信できるかも知れません」
ベルトの調整を手伝ってもらいながら、ファードはやはりそんなものかと聞いている。
「それから、出力が高い以外にもこの機種独特の取り柄がありまして…きつくはないですか?」
「ええ。これでぴったりです」体を軽く動かして確認してみた。背負っているという感じはうまく消えたようだ。
「特定の通信機間に、専用の回線を設定できるんです。送信時にボタンを操作する必要がないので両手が塞がっていても平気ですし、電源さえ入っていれば、双方から同時に話すことも可能です。あ、電源スイッチはここですね」
ファードは教えられた箇所を後ろ手に探ってみる。「これですか?」と確認し、その出っ張りの位置を覚えた。「両手が自由になるっていうのは、ありがたいですね」
「まあ、電線の無い電話のような物でして」話しながら、担当社員は持ってきた包みの中から小箱を取り出した。厚紙を芯に艶の無い灰色のビニールカバーを貼り合わせた、そんな素材で作った化粧箱だった。「更に両手を自由にする秘密兵器が、これなんですよ」楽しそうに小箱を開けた。
それらは要するにマイクとスピーカーなのだが、通信機本体とは打って変わり、拍子抜けしそうなほど小型の物だった。「これは現在、開発が進められている機種でして」担当社員は説明した。「取引のある無線メーカーから評価用に借り受けて、テストしてきた物なんです。ただ、そうは言ってもうちの基準で、それこそ嵐の中から吹雪の中まで、あらゆる環境で数百時間試してきました。動作の方は保証しますよ」
手渡され、ファードはためつすがめつしてみる。最近は両耳に差し込む物でもそう呼ぶようだが、ここでスピーカーとはつまり片耳用のイヤフォンであり、固定を確かにするためか、耳にかけるツルも付いていた。ただ、そうなると残った物体がマイクということになって、こちらは爪楊枝よりちょっと太いくらいの、歪んだ黒い管としか思えなかった。
「これがマイクなんですか?」
「いきなりここまで小さくなると、確かに戸惑うでしょう」担当社員は理解を示した。「取り付け方をお教えしましょう。先ず、イヤフォンをお好きな方へつけて…そうです、そしたら次に、耳にかけたツルにこいつを差し込んで…と」
耳元で、担当社員がごそごそと指先を動かす音が大きく聞こえた。程なくカチリと硬い音が響いて、彼は離れる。
「マイクを端子に繋ぎました」ファードの右耳の辺りから、先程歪んだ管と称した物が今はほぼ真っ直ぐに突き出している。「お分かりの通り、このマイクは柄の部分が自由に曲げられます。顔にちょうど沿うように、調節してみてもらえませんか」
言われた通りに調節してみる。管の先がちょうど口の端に届くか届かないか、それくらいにすると良いとアドバイスを受けた。