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第22回

 カラの話はこうだ。何も情報を与えないままの方が、マスコミは却って危険だろう。ならば適切な情報を適宜提供し、幾らかでも彼らのコントロールを試みた方が賢い。弥祐らと同じように街に入るまで事情を知らなかったカラは、直ぐに手近の公衆電話からハマモトに連絡を入れ、その場で方針を固めたのだった。ハマモトは正門前に出向き、もうすぐ今回の山越えの責任者が到着する、簡単な話なら出来るとマスコミに説明、急遽開放した社屋の一室へ招き入れた。いつご近所から苦情が来るかってね、正直気が気でなかったんです、カラさんのお陰で助かりました。カラの話の合間に、実際ハマモトはほっとした表情で付け加えた。カラが到着したのは、マスコミに会見を告げたその20分後、会見場内のぐるりでは取材機器の位置取りを巡る激しい鍔迫り合いが続き、その輪の中では質問事項の最終確認が怒号となって飛び交う、ようやく訪れた取材の機会ということで、室内がまだ最前線の野戦病院のように殺気立っていた頃だった。

「部屋に一歩入って、これはいなすにしても気を引き締めていかなきゃって、すぐに思ったよ」食後の緑茶を啜りながらカラは苦笑する。「ま、例えば他社との交渉の席とかで、こちらとしては是非ともまとめたい、でも相手に恩を売らせちゃいけない、そんな難しさはなかったけどね。これなら使えそうだって交渉のタネを、一つ持ってたから」

「要するに紳士協定だよ」ハマモトが言った。

「そう」カラはファードに頷いて見せた。「君とフータは、私利私欲のため好んで今の山を越えようとしてるんじゃない。マスコミにはそこを思い出してもらって、今君たちを煩わすのはかえって損だと釘を刺したのさ。その代わり、僕が間に立ってなるべく木目の細かい対応をするって、交換条件は出したけどね」

「社会的な信頼を気にする、まっとうな連中はそれで牽制しあうでしょうが」ハマモトが心配そうに言う。「中にはそんなもの、屁でもない連中もいますからなぁ」

「そういうゴシップ専門みたいな連中は、もうどうしようもないよ」カラもそれは心配なのか、表情を曇らす。「この仕事が終わってからも、社としてケアが出来ないか働きかけていくつもりではあるけど…ファード、君も幾らかは覚悟しておいた方がいいかも知れない」

「一先ず気に留めておけばいいのですね?」

「今の所はそれでいいだろうね」カラは頷いた。

「少なくともこの場では、口さがない連中の相手は私たちに任せておけばいいよ」

 ハマモトがそう請け合うと、カラは意地の悪そうな笑顔を見せた。「確かにそうですね。私も一つ、ご教授願った方がいいかな?」

「いや、とんでもない…」ハマモトは直ぐに相手の真意を悟れたらしく、照れくさそうに下を向いた。

「何かハマモトさんの武勇伝でも?」ファードも自然と笑顔になり、聞いてみる。

「それがね」カラはまだにやにや笑っている。「僕が会見をしていると、ハマモトさんが急にその場に現れたんだ。真面目な顔付きで僕の方へつかつか歩いてきてね、僕もマスコミも、何かあったのかと固唾をのんだよ」

 カラが言葉を切って顔を向けても、ハマモトはまだ恐縮したように下を向いていた。

「ハマモトさんはお耳をと言って、僕に妙案を耳打ちしてくれてね」大きな身振りでカラは続ける。「そのお陰で、僕は風乗りが『たった今』到着したことを、その場でマスコミに伝えられたんだ」

「なるほど」これは確かに愉快な話だった。ファードも膝を叩いて笑った。「一芝居打った訳ですね」

「僕は役者じゃないよ。あの時腹に一物あったのは、ハマモトさんだけなんだ」

「いや。もっと早く思い付いていれば、カラさんにも役者になっていただいたんですがね」必要もないのに、ハマモトはどこか釈明口調だ。「会見場の後の方にいた若い社員にこっそり確認したら、ファードらは今向かっている最中だと説明されたと言うでしょう。なら、この思い付きもまだ使えるなと…」

「後で辻褄合わせをしなくて済んだので、実際には感謝してるんですよ」カラは相手を宥めるように言った。「一度会見を切り上げる、いいきっかけにもなりましたしね」

「マスコミは今、どうしてるんです?」ふと気になり、ファードは聞いた。

「まだ会見場にいるよ」カラはそのことで話があるんだ、と言った顔付きだ。「では出発の時間を風乗りと話し合ってきます、と言って会見を中座してきたんだ。それでどうだい。すぐに行けそうかい?」

「自分は大丈夫です」ファードは即答した。「フータの方は今弥祐が見ていますが、何も言ってこないのでやはり平気でしょう」

「そうか」ファードがそう言うなら信頼できるし、弥祐はフータと一緒に暮らしている少女でもあった。カラは振り返り窓の外を見た。世界はもう今日溢れたての光に満ち始めている。次いで時計を見た。「20分で支度できるかい?」

「出来ればあと10分ください」ファ−ドは素早く思い巡らして答えた。「キシェンコさんに挨拶したいですし、出る前に山全体を、一度この場所から見ておきたくもあります」

「山を見るなら屋上かな」ハマモトが言った。周りが1階屋2階屋ばかりの只中にある東支店は、4階建ての社屋でも屋上は立派な見晴台だ。条件に恵まれれば、南北2000km以上にわたって連なるフェンサリサの大山脈が、それこそ視力の及ぶ限り臨まれるだろう。

「じゃあ、マスコミにはこう伝えよう」脱いで無造作にソファの背にかけておいた背広の上着を、カラは手に取った。「屋上で最後の確認をして、その時間になったら直接出発するってね」

「分かりました」

 カラが立ち上がったのを合図に、朝食を兼ねた最後の打ち合わせはお開きとなった。ハマモトは支店長室から二人を送り出す。カラは再び会見場へ、ファードは宛がわれていた部屋へ戻る前に、食堂へと足を向けた。

 廊下から食堂へ通じる観音開きの扉は、もう営業時間帯と同じように大きく開かれていた。中へ入る時ちらと見ると、安物の黄みがかった白い塗装もファードが知る当時のまま、床に近い部分ばかり黒く汚れているのもそのままのようだった。急に湿度の上がった空気の中に、炊かれた米の香りがした。

 食膳を受け取るカウンター越しに厨房を覗き込んだ。ああ、あの大きな背中だ。ファードの足にはきっとぶかぶかで、けれども厨房内を軽快に動き回る彼女はしっかりとサポートする、軽くて丈夫そうな白いサンダルだ。染み一つ無い、ファードには掛け布団のごとくに見える大判の割烹着だ。なんだかほっとして声をかけるのを忘れていると、相手が急に振り返った。振り返る前からその驚きの表情が、顔に張り付いていたのは容易に想像できた。

「まあまあまあ」キシェンコはまろぶ様に近付いてきた。駆け出し始め、割烹着の端が台の上に置かれた包丁を引っかけそうになって、見ていたファードをひやりとさせた。途中、恐らく砂抜きの最中なのだろうけれど、床に置かれ薄く水の張られた、アサリか何かがたくさん入った大きな金だらいを蹴飛ばしそうになった。幾つもの危機を無意識的に擦り抜けて、彼女はファードの手を取った。「ファードなのかい? 良く顔を見せてちょうだい」

「落ち着いてくださいよ、キシェンコさん」右手を強く握ってくる相手の両手を、左手で落ち着けるように軽く叩きながらファードは笑った。仕込みをしていた相手の手は濡れていたが、一向気にならなかった。「間違いなくファードです。本当にご無沙汰しています」

 キシェンコはリンゴみたく健康そうな頬を更に上気させ、幾らか茶色味のある灰色の瞳を優しく潤ませた。久しぶりでも何でもいいよ、会社が大変なこの時に、よく来てくれたねぇ。フータも元気かい。そう、それは良かったよ。最初こそ若干湿っぽかったが、気の置けない遣り取りはなんの助走も必要なく一気に始まり、いつまでも続けられそうだった。普段余り会話を楽しむことのないファードは、ついうっかり話し込みそうになった。

「あらあら。あなた、今からお仕事なんでしょう」

 言われてはたと腕時計を確認すれば、余分に貰った10分は既に使い果たされようとしていた。ファードは慌て、キシェンコに暇を告げようとし押し黙る。注意してくれたのは彼女だが、努めても隠しきれていないその落胆ぶりに、申し訳ない気持ちになったのだった。

「仕事が終わったら、また寄らせてもらいます」ファードははっきりと約束した。「その時はちゃんと食べに来ますよ」

「それならいい知らせがあるわ」そうと聞けば元より切り替えの早い彼女のこと、キシェンコは弾む声で言った。「あなたの好きだったA定食ね、また復活したのよ」

「一度無くなったんですか」ファードがいた頃、A定食は主菜に旬の食材の天ぷらを据えた献立で、希望すれば上等な天然塩で食べられるところが彼のお気に入りだった。他の社員の評判も上々だったはずで、そんな人気メニューに一度でも見直しがあったというのは少々意外だった。

「仕入れにずっと使ってた市場がね、遠くに移転するって話が前にあったのよ」

「ああ」その話はファードも知っていた。何年か前、ずいぶんと紙面を賑わせていた話題だ。「移転先の土壌が汚染されてるのされてないの、揉めてましたっけ」

「そうそう。こっちは移転を見越して仕入れ先を変えちゃってね、それでメニューも見直さなければならなかったの。でも結局、引っ越さなかったでしょ。旬の天ぷらも復活ってわけ」

 今度来た時は、是非A定食を注文しましょう。今の旬は何か教えてもらったファードは、楽しみが一つ増えたと思った。笑顔のまま食堂を後にした。

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