第21回
案内された場所は更衣室こそきちんと分かれていたものの、シャワー室自体は銭湯のような、大きな一室を真ん中で仕切っただけの作りのようで、仕切りは薄板、天井の方には隙間があり、それこそ石鹸の投げ渡しが出来そうだった。女性用のスペースは更に幾つかの個室で区切られていて、それは男性用も同じだろう。先に更衣室から水場を見回してみて、しかしまぁ、これはうっかり女だけの話なんて出来ないね、と弥祐は苦笑した。けれども今はファードと話せるので都合が良かった。
程なくして、隣でも水場に通じるドアの開け閉めがあり、男性側のシャワー室から裸足の気配が伝わってくる。先ずファードで間違いなかろうが、弥祐は少し遠慮がちに声をかけた。
「なんだ?」
確かに彼の声で弥祐はほっとする。「話したいからさ、真ん中の仕切りに一番近い個室を使ってよ」
「ああ、わかったよ」
苦笑混じりの返事の後、少し間があって水の流れる音が聞こえ始めた。弥祐も急いで準備を始めた。
個室に入り、頃合いの湯温を探り始めたらすぐ、ファードが話しかけてきた。
「気を遣わせて悪かったな」
「んー?」夜間飛行の負担にならないようにした事だとはすぐに分かるが、何よりも先ず昨日の汗を一流しするのに懸命な振りをして、曖昧な返事をする。
「そっちの旅はどうだった?」
「う〜ん。そうだねぇ」強かった水量を少し慌てて適当な量まで戻した。「ワゴン車に私を入れて全部で6人でしょ。若い人ばかりで、最初それがちょっと意外だったかな」男性3人、女性2人の社員たちは全員20代で、中にはこの春に入社し、研修を終えたばかりの新人も1人含まれていた。
「無愛想なお偉いさんが乗ってると思ったか」
「あっ。その可能性もあったんだね」彼女はカラが迎えに来ると思っていて、それで意外と言ったのだったが、指摘されて今更どぎまぎした。「う〜。若くて親切な人ばかりで良かったぁ」
「そうか」
笑われると思ったが、その返事は思ったより穏やかな印象だった。
「高校が同じの人が2人もいてね、しかも隣に座った女の人は担任までおんなじ。ちょっと無い偶然だよね」その偶然をみんなで興がったのをきっかけに、後は年の近い若者どうし、すぐに打ち解ける事が出来たのだった。
「そうか」
「ファードってば、さっきからそればっかり」
「いや」声には笑みが含まれている。「旅を楽しめたのならそれでいいんだ」
ファードの声はシャワー室の固い壁に反響してくぐもっている。その余韻の中に敏感に安堵を感じ取った弥祐は、多分相手の考えも読み取れた。ファードは自分の人見知りを知っている。
「…そうだよね」弥祐は呟いた。今、急に思い出したのだ。自宅前に横付けされたワゴン車の中に見知った顔を一つも見付けられなかったあの時、自分は最初情けないような、失敗した気分になったではないか。笑いが込み上げてくる。「うん。案外なんでもなかったよ」頭でも洗い始めたのか、隣からの水音が一層甲高くなった。彼女ははっきりと言うことが出来た。
「うん?」返事と同時に水音が急に小さくなる。「すまん、良く聞こえなかった」
「ファードはマスコミのこと知ってたの?」自分もやっぱり頭流そっかな、どうしよっかなと冷静に思案しつつ、弥祐は聞いた。
「ああ」ファードはすすぎを再開したらしい。先程よりは控えめだが、床に落ちる水の音がまた大きくなる。「飛行機で出迎えられたよ。月も無い中、空で俺たちを待っててくれたんだ」
「そんな大事だったの」素直に目を丸くする。
「そっちはどうだったんだ?」
「こっちも待ってた。勿論道沿いだけど」そのちょっとした事件を思い出す。「停まってる車の脇を過ぎたら、なんか傍にいた人が慌ててるらしかったんだよね。そしたらすごい勢いで追っかけてきて、窓を開けて停まれ、停まれって」
「上手い具合に捕まって良かったな」
「最初はびっくりしたよ。でさ、裏門から入ることになったんだけどそっちにもマスコミがいてね。車囲まれて、停められそうになったんだよ」
「平気だったのか」
「その時助けてくれたのがハマモトさんなの。その車に乗ってるのは当直の交代要員ですよ、ほら、若い連中ばかりでしょうって機転を利かせてね」社員扱いされた彼女は、その時慌てて顔を伏せたものだ。「マスコミの連中、無遠慮にじろじろ覗き込んでくるし。でも、実際事情を知ってそうな感じの人は乗ってない訳だし、そしたら案外素直に引き下がったよ」
「まるで芸能人だな」
「そう! それ、私も思っちゃった」得たり、とばかりに声が大きくなった。「そしたらなんか人事。最初はちょっと怖かったのにね」
「とにかく無事に辿り着いて何よりだ。俺は先に出るぞ」
「え? あ、うん」弥祐は慌てた。ファードの方が先だったとはいえ、いつの間に洗浄工程にこうまで大きな差が出来たのか。
シャワー室を出たファードは、服を着る前に顔に剃刀を当てた。このような男の道具も洗面用具の袋の中にちゃんと入っていた。恐らく弥祐自身の気付きだろうが、普段の自分の行動を余さず見られているようで、少しこそばゆい感じがした。
シャツは勿論洗い立て、着慣れた中でも一番新しい物が着替えに用意されていた。これから僅かな時間しかこれを着られないのがなんだか惜しい。山越えの際には、フライトジャケットの下にも特別な衣服を着込まなければならなかった。
支度を整え廊下へ出た。弥祐はまだのようなので、首や肩の強張りをストレッチでほぐしながら待った。暫くして女子更衣室のドアが開く。ふと振り返り、ぎょっとした。
「ごめん、言い忘れてた」
振り返ったファードの目に弥祐の右の肩から指先までが一瞬映じたが、それは剥き出しのまま、所々で水の粒が光っていた。視線を感じたのか、それは勢いよく開けすぎたドアを適当な隙間まで戻すのと同時に、稲妻みたく物陰に引っ込んだ。細い隙間から髪の一部だけを覗かせて弥祐は続ける。髪からも滴がしたたっていた。
「カラさんとハマモトさんが支店長室で待ってる。そう伝えてって言われてたの。すぐに行って。荷物預かるから」
今度は右の肘までがドアの隙間から突き出された。ファードは近寄ろうとし、すぐに立ち止まらなければならなかった。
「あんまり近くに寄らないで!」
隙間の死角側に回るよう細心の注意を払った。そうして洗い物の入った袋や洗面用具入れを、こちらも可能な限り手を伸ばし、恐る恐る手渡した。
「ハマモトさんに頼まれたから、私はフータの世話に行くね」
その言葉は言い終わるか終わらないかの内に、1000分の1秒で閉じられたドアに裁断され廊下に落ちた。ファードは暫くその場に突っ立ったまま、カラコロと虚しく向こうへ転がっていくその言葉を見送った。やがて溜息をつき、頭を掻きながら支店長室へと歩き出した。
支店長室のドアを軽くノックした。ハマモトの応じる声がする。ドアを開けると、旨そうな香りがファードを出迎えた。
部屋の様子はファードが知っている昔のまま、殆ど変わっていないようだった。大きな窓を背にしたハマモトの仕事机も、応接用のソファやクルミ材のテーブルも見覚えそのままに懐かしい。濃い茶の革を張ったそのソファに、カラとハマモトが腰掛けて待っていた。ファードや弥祐と比べると、二人の顔色は些か優れないようだ。二人の前のテーブルには朝食が3人分、こちらは出来立ての眩しい湯気を上げていた。
「おはようございます」ファードが挨拶すると、二人とも笑顔で返してくれた。
「慌ただしい夜だったけど、ちゃんと休めたかい?」気遣うカラの声は、心配したほど張りを失っていないようだった。「さ、そこへ座って」
「ええ、お陰様で」勧められるまま、ソファの空いている場所へ腰を下ろす。
「それは何よりだ」ファードのために緑茶を注いでやりながら、ハマモトが言った。差し出すお茶に頭を下げるファードの顔色を見て、遠慮はしていないと思った。「余り上等な寝床を用意できなかったからね。少し心配だったんだ」
「起き抜けで申し訳ないけど、最後の打ち合わせをしたいんだ」カラはテーブルの上の食事を指し示す。「朝食を摂りながらでね。これも済まないけど」
「全く構いません。いただきます」二人に倣ってファードも握り飯に手を伸ばした。海苔を巻いた手頃な大きさの物が、3つ皿に並べられている。他には卵焼きとキュウリの漬け物、味噌汁の具は豆腐と油揚げだった。簡単な献立だが、どの品にも人をほっとさせる旨さがあった。
「食堂のキシェンコさん、覚えてるかな?」焼きタラコの握り飯を頬張りながら、ハマモトが聞いた。
「ええ、覚えています」
ファードには底抜けに陽気で、そのたいへんな陽気さに見合う器が必要だったものか体付きもまた驚くほど立派な、中年の女性の姿がすぐに思い浮かべられた。ここで誤解の無いよう言っておくと、キシェンコは標準的な体型の人である。ただ、その体各部の寸法が、全て等しく平均の2,3倍となっている点で驚くほど立派なのである。彼女はこの国の北西の外れ、大きな内海に臨む街の生まれで、その辺りはジャイアント(巨人族)の伝承が数多く残されている地域でもあった。その妖精人自体はとても古い時代に滅んだと言われている。どっこい、その古い血は私や、他の大男大女の中に残されているんだよ。彼女はよく、食堂を利用する連中相手にそう言っていた。そう話す時の彼女の表情は、いつも決まって誇らしげだった。
「彼女が用意してくれたんですか?」
「そう。さっき仕込みに来た彼女に会ってね、君が来てるって話したら随分喜んで、大急ぎで作ってくれたんだよ」
「だから簡単な物しか作れないって、頻りに気にしてたね」ハマモトを補ってカラが言い添える。
「とんでもないですよ」ファードも東支店に来た折には良く社員食堂を利用していた。彼女の大きな声は厨房から食堂の何処へでも届きそうで、彼は席に居て彼女との賑やかな会話を楽しみ、配慮の行き届いた食事も楽しんだ。大きな手が握ってくれた、自分らに食べ易い大きさの握り飯を味わっているとその頃の心遣いが思い出されてくる。ファードは懐かしくなった。
「厨房にいるだろうから、後でちょっと顔を出してあげたらどうだい。きっと喜ぶよ」
「ええ、お礼に行ってきます」ハマモトに言われずとも、ファードは元よりそのつもりだった。
その後は仕事の話になった。先ず、肝心の薬品を収めた保護ケースは既に用意されている。ファードがフータに鞍を載せるのを待ち、支店スタッフがそれの後部シートに固定する手筈だ。
「それから、地上との交信用に通信機を持ってもらいたいんだ」
それで地上の自分と遣り取りをしながら山越えのための風の道を探す。カラは更にファードに言い含めた。最初の道探しにかける時間は1時間としよう、先ずそれだけフェンサリサ上空でトライして、越えられそうになければ一旦地上に戻る。再挑戦するか否かは状況次第だろうけど、その時によく話し合って決めよう。いいかな? 風と交渉するのに、1時間という単位は十分なものだった。ファードは承知した。
その他の段取りも一通り決まると、話題はマスコミへと移っていく。
「昨夜、僕は堂々と正門から乗り込んだよ」カラはハマモトと顔を見合わせて笑った。「むろん考慮の末さ」当然飲み込めていないファードに向かい、説明を始める。