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第20回

「マスコミ?」言われてもう一度眺めれば、写真用、テレビ用、確かに何台ものカメラが確認できる。踏み台にでも乗っているのか、人の群れの上に覗いたレンズもあるようだった。

「お前さんたちを取材に来たんだよ」

 全く思いも寄らぬ事を告げられた。ファードは声を失い、まじまじと相手の顔を見詰めてしまう。ハマモトは溜息をついた。

「衝撃的な大トンネルの事故、絶滅した風乗りの突然の復活、未だ成功例の無い山越えへの挑戦」ハマモトの声は少々芝居がかっている。「ハイエナよ、お前がこのエサに食いつかぬ事があろうか、だ。こちらにはいい迷惑だがね」

 ハマモトが語るには、社長の記者会見があったその直後から、東支店へマスコミ各社からの取材申し込みが殺到し始めたのだそうだ。山越えと聞き本社ではなくこちらへ直接問い合わせてくる辺り、彼らの嗅覚には侮れないものがあった。電話の呼び出しベルは一時事務室に嵐を呼び、あちこちで書類の山はなだれ幾つもの湯飲みが命を散らし、身構える間もなかった社員たちは宙を舞った。何とか命を繋いだ彼らがこの事態を本社に伝えねばとようやく我に返った頃、ファードらは既に彼の地を発った後だった。

「こっちに出来るのは、とにかくいつ到着するか分からないの一点張りで彼らをあそこに足止めして、空でお前さんたちを待つ事だった。正面から下りた日には、大変な騒ぎになるだろうからね」ハマモトはファードを見上げる。「お前さんとフータにはゆっくり休んでもらわなくちゃいけない。申し訳ないとは思ったが、だからあんな風に裏から、屋根を這うように来てもらったんだよ」

「そうだったんですか…」自然と深く頭が下がるというのは、まさにこんな時だろう。

「いやいや、無事で何よりだよ。それに、まだカラさんたちが到着してないしね」

「そちらにも出迎えが?」

「道は絞れるからね。ただ、車はどうしても門をくぐらなければならないし、裏門にもマスコミはいるからなぁ」ハマモトは悩ましげだった。ファードらは本当に運良く彼らの死角をつき、安全な自陣へ飛び込めたのだった。

「まぁ、その時にならないと分からない事で、ぼやいていても仕方がない。さ、部屋へ行こう」

 再びハマモトが先に立ち案内した場所は、支店長室のすぐ傍の、普段は接客に使われる小部屋の一つだった。他の部屋よりは少し立派な作りの木製のドアを開ける。黒い革張りのソファの一つが隅へ寄せられ、代わりに簡易ベッドが入れられていた。閉め切られていた部屋で行き場の無かった革の臭いが、我先に廊下へ逃げ出した。

「個室の方がいいだろうと思ってね」部屋に一つの窓を大きく開けながらハマモトは言った。夜遅くに仕事から戻った者のために、この社屋には休憩室も備わっている。昔はファードも使った部屋だが、そこは余り広くない場所に2段ベッドを幾つか入れただけの、ほぼ雑魚寝に近い部屋だった。「シャワーを浴びるかね? 場所は昔と変わらないよ」

「いえ、そうしたいのは山々なのですが」着替えやタオルなどの荷物は、まだ到着していない弥祐に預けてあった。

「そうか。なら明日の朝でもいいね」ハマモトは頷き、ドアに手をかけた。「何か困った事があったら遠慮無く言いなさい。私は支店長室に詰めているからね」

「はい。ありがとうございます」

「明日…いや、もう今日か。朝は5時に起こしに来よう。じゃあ、ゆっくり休むんだよ」

 一人になり、ファードは初めて疲労を意識した。対になっていたソファの内、そのままにされていた方へ取り敢えず腰を下ろす。天板がガラスのローテーブルの上には、お茶のセットや簡単に摘める菓子類、灰皿が用意してあった。傍らに目を移せば、ホテルで見かけるような小型の冷蔵庫まで持ち込まれていた。飛行帽やゴーグルなど、手にしていた飛行道具をソファの片隅に丁寧にまとめた。礼儀としてそうしなければならないような気がして、一応冷蔵庫のドアを開けてみる。アルコール分の有無によらず、数本の缶飲料が冷やされていた。結局、緑茶のティーバッグの封を切った。電気ポットから湯を注ぎ、暫く湯飲みを見詰めていた。

 そうしていると、弥祐やカラの事が気になり出してくる。そのまま考え込みそうになるが、軽く頭を振って押し止めた。彼らの事が気になるのなら、尚のこと今は自分に集中すべきだった。

 3口で小さな湯飲みを空にした。窓を細めに開けた程度まで閉め、電気を消す。外の常夜灯の光が、小さな部屋を灰色に照らし出した。

 腕時計だけ外し、服はそのままで簡易ベッドに横になった。毛布を引き寄せ目を閉じる。深い呼吸を3回、覚えているのはそこまでだった。


 内なる衝動が一足飛びに閾値を超えていた。目を開いている。すぐにまだ夜明け前だと認識した。ファードは身を起こし、ローテーブルの上の腕時計に手を伸ばした。5時10分前。このように深い眠りから一気に、しかも自然に目覚められるのは久しぶりだった。普段の半分も寝ていないのに既に頭は冴え、体も軽かった。

 ベッドを出て明かりをつけ、窓際に寄ってみる。鈍い鏡になっている窓を開けた。切れ切れの雲はまだ星明かりに沈んでいるけれども、それらを薔薇に紫に、その日最初の色彩劇は間も無く始まりそうだった。乾燥した涼やかな南風が入り込んでくる。上天気の一日になりそうだと思った。

 ドアがはっきりとノックされた。腕時計は5時5分前を指している。寝る前の約束通り、ハマモトが起こしに来たのかも知れなかった。ファードもはっきりと返事をした。ところが、開いたドアの隙間からひょこっと覗いたのは、予想とは違う顔だった。

「あっ、もう起きてたんだね」

 弥祐だった。その口振りからすると、彼女の方は窓際に立って出迎えたファードを見て、ちょっと意外に思ったらしい。

「おはよっ、ファード」

 意外そうな表情を見せたのも束の間、直ぐに張りのある笑顔になって、彼女は体でドアを押した。大きく開きつつあるドアを追って、肩から先に部屋に入ってくる。その突進力を利用して、廊下に一時置いていたらしい大きなボストンバッグを、両手で勢い良く持ち上げたのだった。荷物は両肩を支点に弧を描き、すぐに彼女を追い越していく。今度はそれに引っ張られつつも、軸のぶれない足取りで数歩進んだ。ファードは咄嗟に駆け寄った。荷物を受け止めてみると、なるほど、それはずしりと腰に響いた。

「ナイスフォロー」弥祐はというと、その間もずっと楽しそうにしている。

「お前、まだ寝てなくて大丈夫なのか」カラの計らいで、弥祐はHMLの公用車に便乗してここまで来たのだった。夜間とはいえ空の旅だったファードらより、到着はよほど遅かっただろう。そうであっても、手足を伸ばす間も惜しむのが目の前の少女だった。

「うん、へーき」実際、ドアの隙間から顔を覗かせた時から弥祐の顔色は良い。「車の中で結構寝られたから」

「そうか」今度は全身をきちんと使って、大荷物を安全にソファの上へ載せる。

「それより着替えとかなくて困ったでしょ」弥祐は早速バッグを開けにかかった。「着いたの4時ちょっと前だったんだよ。ハマモトさんが出迎えてくれてね、5時に起こすって言うから引き受けたんだ。ファードの方こそちゃんと眠れたの?」

 当人は無意識だろうが、全く手を休めずのテンポの速い会話はリラックスしている時の弥祐だと思った。「ああ、意外と良く眠れたよ」偽りのない所を答えた。

「良かった」弥祐はほっとしたようだ。ファードの着替えやタオル、洗面道具などをソファの上に並べた。「これも出しとく?」彼女はそれをバッグの口から少し覗かせて見せた。蛍光灯に照らされての表面の鈍い光沢が、皮革製品を思わせた。

「いや」ファードには、一目でそれが何であるか分かっている。「後で自分でやるからいいよ」

「足りない物とか無いかな?」

「ばあさんがやってくれたんだろう」

「うん。こっちは、私にはよく分からなかったし」

「なら平気さ」

「も〜ね」弥祐は首を一回ずつ左右に傾け、こきりこきりと一度ずつ鳴らした。「肩凝っちゃった。この防寒具、ほんとに重いね」

 弥祐が手にしてファードに見せたのは、数千m以上の高空を飛行する際に着用する、防寒飛行服一式の一部だった。例えば体のもっとも外側に着るフライトジャケットやオーバーパンツは、外装は本革の2枚重ね、暖かな裏張りもふんだんに使われ、とにかく冷気の浸入を防ぐためしっかりした作りになっている。故に嵩張るし重い。風野商店を出る前に陽が言っていた通り、こちらの方は必要な物を熟知し、しまい場所も知っている彼女が準備してくれた。ならば忘れ物など無用な心配だろう。また、山越えをする機会がなくなり着ることもなかったこれらだが、時折風に当てたりジッパーの具合を確かめたり、ファードは手入れを怠らなかった。今更不具合の心配もないのだった。

「やっぱり、これは俺が持って出た方が良かったな」

「ううん」弥祐はかぶりを振った。荷物持ちは自分から言い出した事だ。「こういうのって最近は軽くて、水や風は通さないけど蒸れないっていうのがあるじゃない。ほら、ゴアなんとかって」

「お前、それで作った防寒具の一式、いくらするか知ってるのか?」ファードは訳知り顔で、言葉には笑みが含まれている。

「高いの?」

「目玉が飛び出るぞ」弥祐が言うのは最近市場に出始めた、画期的という宣伝文句が珍しくその通りの、新しい機能素材の事だ。確かに彼女の並べた通り、この素材で作られた防寒具やレインウェアは従来相反するしかなかった特長を併せ持つ。ただ出始めの常で非常に高価で、従来品の5,6倍の値段がつくのが普通だった。

「そうなんだ…」言って、なにやら難しい顔をした。

「それにな、新しい物だからいいかってなると、そう単純でもないんだ」

「なんで?」

「この防寒飛行服はそれこそ100年200年かけて風乗りたちが試行錯誤して、素材から縫製の仕方まで、色々突き詰めてきた物なんだ」バッグから覗かせて、まだ弥祐がそのままにしている皮革製品を指さす。「それもな、着てみると実に着やすいんだ。特に飛行姿勢を取った時、着ているのを忘れられるってのが大事だ」

「へぇ…」両手で持ち支える防寒具の革の表面には、時の経過による細かいひび割れが無数に認められる。そのくたびれた道具が、弥祐の目に急に眩しく見え始めた。「なるほど。新しい接着剤より膠なんだ」

「なに?」弥祐は時折良く分からないものの喩え方をする。一応慣れているはずだったが、今も面食らった。

「古い文化財を補修するのに、接着剤を使うでしょ」説明し始める弥祐の頬はちょっと紅潮している。「その場合でも最近出来たばかりの接着剤は使われないで、ずっと昔から有って効果や影響も確かな、膠が選ばれるんだって。この防寒具も、最新技術に伝統の知恵が優ってるんだよね」

「まぁ、確かにそうだな」そういう事か、と思うと同時に苦笑した。「とにかく持ってきてくれて助かった。俺はシャワーを浴びてくるよ」弥祐が出してくれた着替えに手を伸ばす。

「あ。それって私も使えるのかな?」弥祐も慌ただしく自宅を後にし、車中泊だった。

「ちゃんと男女の別はある」そしてファードはにやりと笑う。「それに今、お前はカラさんの部下なんだろ。社員なら遠慮する必要はあるまい?」

「うん」弥祐も笑ったが、どうしても共犯者めいた笑顔になっている気がした。改めてバッグを探って、自分の着替えなどを詰めた大判のビニール袋を取り出した。

 2階の部屋を出て3階へ上がった。何処の廊下も階段も、明かりが消されている場所はない。ただ、人の気配はあってもそれはどこか遠く、泊まり込みの社員たちも、さすがに今時分は殆どが仮眠の最中なのだと思った。

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