第2回
ここは首都ヴァルチェリアの中心部で、官庁街とも繁華街とも文化街とも呼べるような、とにかく人の営みが高く集積した地区だ。
国会議事堂や中央省庁を始め、国立博物館、最古の国立大学、または巨大企業の本社屋や毎日賑わうショッピングモールなど、優美さや威容を第一印象とする建築物が多い中に、古い様式と近未来のそれとが融合した洒落た外観で一際目を引く、5階建ての建物があった。立地とその見栄えから首都の新名所の一つにも数えられるようになった、歴史民俗資料館“時の三精霊”の建物だ。来し方を振り返れば今が知られ、未来も夢見られる。その開設理念が名前の由来だった。
そろそろ、館前の広場にも帰宅の人通りが増えてくる、夕方時である。入館無料の館内に、折しも3人の女の子が入ってきたところだった。全員が深い茶のブレザーに水色のブラウス、クリーム色を基調にしたチェックのスカートと、胸元に同じチェックのリボンを結んでいる。この資料館の近くに校舎のある、国立高校の制服だった。スカートの丈の短さは今風でも、シルエットや色合いなどは地味目だろう。だがこの制服は、才子の目印として名高いものだった。事実、学力レベルが全国屈指というだけではなく、政界、財界、科学技術、様々な重要分野で活躍する人々で、この高校を母校とする者は非常に多かった。甲高い笑い声が響く。才媛ではあっても、この3人に堅苦しいところは無いようだった。年頃の女の子らしく、屈託なくはしゃぎあっていた。
「あー、懐かしい」ブルネットの長い髪を頭の両脇に分け、それらの根元をオフホワイトレースのリボンで飾った少女が、独特の柔らかい抑揚を付けて言った。「ここへ来るの、中2の夏休み以来かなぁ。自由研究で東銀器のこと調べたんだよね」彼女はエスカレーターの手摺りから身を乗り出し、次第に眼下に遠ざかるエントランスホールを見て、楽しそうだった。
「調べただけじゃなくて、実践も伴ってただろ」別な少女がからかうように応じる。肩を少し越えて真っ直ぐ伸ばしたブロンドに、何本かの細い三つ編みがアクセントを添えていた。「何処かのお師匠さんとこ押し掛けて、大皿打ってきたーって。レポートと一緒にその皿受け取ったセンセの顔、今でも忘れんわ」その時は呆れた行動力だけじゃなくて、皿の出来映えでもみんなを驚かせたんだよな。「けどな、碧。そんな身を乗り出したら危ないって、そん時も言われんかったか?」
「あんたもだ。藍」3人の先頭を切ってエスカレーターに乗り込んだ、年相応の瑞々しい黒髪を短めに、軽く流すようにカットした快活そうな少女が、お子様行動については大差ない、ブロンド娘にきっぱりと告げる。「てかあんたたち、本当についてくんの?」ぶっきらぼうな言い方には、呆れたような、気恥ずかしいような、微妙に調子が入り交じっていた。
「勿論ご一緒しますがな〜」ブロンドの藍が揉み手をしそうににやにやしている。「ミュウの男がどんな人かなんて、そりゃあ興味ありまっせ」
「うんうん」ブルネットの碧の笑顔も、同じ興味にとても眩しい。
「だからそんなんじゃないんだってば」黒髪ショートのミュウが、うんざりしたように溜息をついた。「ファードは家に下宿している人。今日は夕飯の買い物に付き合ってもらうだけ。何度も言ってるでしょ」
「同じ屋根の下ぁ…ふふっ」最上階まで貫く高い吹き抜けの、いずこか無限遠の辺りに熱っぽい眼差しを向けながら、碧が呟いた。
「色々想像して後で幻滅すれば? もう40近いおじさんなんだから」相手にするのも馬鹿らしくなったのか、ミュウは素っ気ない。
「いやいやぁ。ミュウ嬢を虜にしたナイスミドルですかー。こらぁますます興味ありますなー」藍は腕を組み、何度も大きく頷いた。
「そろそろ蹴り散らしてやってもいいよね?」ミュウの声が一段、低くなる。
「ほんとに蹴ろうとすなっ!」ゆらりと膝を上げた相手の右足は、縮みきった鋼のバネを連想させる。藍は器用に、移動階段の数段を一瞬で後ずさった。「落ちたらふつーに死にますヨ?」
「どんな人くらいかは公表しましょ〜」自分を挟んで攻防が繰り広げられ、ミュウの膝頭が鼻先にあっても碧はマイペースだ。
「風乗り」言葉を放り出すと同時に、更に上階へ行くエスカレーターへ、ミュウは足早に乗り換えた。
「それ以外には〜」
「ノーコメントです」
「碧ぃ。あんた、ほんま勇気あるわ」
散々騒いだ末、ようやく目的の4階に着いた。
この階では、主にこの国の交通や流通の歴史を、必要ならば時間軸を用いず事象を切り口にして展示解説している。主要展示は事象を切り口にしたものの代表と言っていいだろう。かつては世界規模で歴史の特定部分のみならず、全てにおいて深い関わりを持っていた、風乗りの展示である。かなりのスペースが割かれたその一角に、ミュウは用があった。
平日の閉館間際の館内に、来館者は数える程のようだ。落ち着いた照明の調子もあってか広い空間は一層深山に似て、微かな気配がむしろ、より深い静けさを誘うように感じられる。
その寂しげなフロアの奥の方から、低く朗々と男の声が響いていた。展示を回って移動する。視界が開けた先に数人の若い女性と(質問やメモが熱心なところを見ると、大学のゼミの課題など、そのようなものだろうか)、当館の制服に身を包み展示解説をしている男の姿があった。制服を着た男はファードだった。
ファードの姿を認めた所でミュウは立ち止まった。20歩ほど間を置いている。
「あの人?」
その様子に藍も一旦は声を低めた。ミュウが頷く。
「まだお仕事中だね」ミュウの肩に掴まり、背後から覗くような仕草で、碧は好奇心を隠そうとしない。
「私、待つから。二人ともバイバイ」
口を開きかけたら機先を制せられ、藍はぐっと言葉に詰まる。「ミュウちゃんが冷たいや」情けない声で、ようやくそれだけを言った。
「ここ、5時半に閉館だったよね?」碧は左の掌を軽く仰向かせ、可愛らしい腕時計を確認している。5時20分だった。「それでは、みんなで待ちましょー」彼女は右手を振り上げた。事は了承され、可決されたのだった。
「碧…」藍は声を震わせ、そっと目頭を押さえている。「あんたの自然体っぷりに、あたしゃ時折感動する。それ以外はうざいけど」
「うざいって、ひどーい!」
本当に心外そうに、碧は腕を振り回し藍を打ちのめしにかかった。藍は顔半分を口にして逃げ惑い始める。適当に身をよじってはポカスカ何発かくらい、益々声高く笑った。
「ちょっと」ミュウは慌てた様子で二人の腕を掴み、エスカレーターの降り口の所まで引っ張って行った。「騒いだら迷惑じゃない。ファードの仕事の邪魔、しないで」
先程からのすげない態度に加え、上からみたいなこの物言いが止めだったのか、藍の表情が急に強張った。「…おーお。こりゃあんたの方が姉さん女房みたいやね」両足を心持ち開いて腕組みをし、ミュウを見据える。
ミュウの形のいい眉がきりきりっと吊り上がった。碧は口の中で、やばっと呟く。
「そんなにファードを紹介して欲しいんだ」ミュウも正面から相手を見据えた。
「そっちこそ、なんでそんなに隠したがるん? やっぱつきおうとるんやろ」藍はふんと、鼻を鳴らした。
「あんたね…」津波の前に波が引くようだった。直後、漆黒の瞳に火花が散る。「ファードは人だっ! それを珍獣みたいに…あんたなんかに興味本位で、へらへら付き纏って欲しくはっ」
ミュウはあっと言葉を飲んだ。藍の顔からさっと血の気が引き、表情が歪んだのだ。
「あら」
そこへ、柔らかな声がすっと入り込んできた。碧ではない。3人が振り返ると、当館の制服を着こなした妙齢の女性が、美しい歩き方で近付いてくるところだった。「風野さん、こんにちは。今日も来てくれたんですね」浮かべた笑みも、また柔らかかった。
「あっ…」ミュウの体が、一遍に二回りくらい小さくなる。「こんにちは。すみません…」耳まで赤くして俯いた。
「今日はお友達とご一緒なんですね」ミュウの様子を見ても、この女性の自然な物腰は変わらなかった。そして、藍と碧に向き直る。「お二人とも初めまして。私はファン・ミヨン。当館では、解説員たちの総責任者として働いています」
「あ。ご丁寧に、どうも…」丁寧に頭を下げる、大人然とした相手の様子に、藍もすっかりペースを譲ってしまったようだった。しどろもどろで頭を下げる。
「この子は、キアノス藍って言います!」ぴょんと飛んで藍の片腕を取った碧が、藍の代わりに紹介した。「そして、私は水里碧です!」
「お元気ですね」ファンは目を細めた。「キアノスさん、水里さん。ようこそ『時の三精霊』へ」
「あのっ、ファンさん。お騒がせして済みませんでした」びゅんっ、と風切りの音を残して深く頭を下げ、同じ勢いで上体を起こし、「えとっ、じゃあ帰りますっ!」ミュウはいきなりきびすを返した。
「ちょ! ほんま帰んの?」驚きが先に立ち気まずさを一瞬忘れたのか、藍がミュウの腕を掴みかけた。相手の方が遙かに速い。
「そうだよ、ミュウちゃん」ミュウの衝動的過ぎる行動には、誰もついていけないはずだった。ところが碧だけは、全く影のようにその動きに付き従っている。皆があれっと思う間に、彼女はミュウを事も無げに捕まえていた。
「上善は水のごとし、でございますぅ」碧は得意げであり、自身、その意味を良く把握していないようでもあった。
「またこれや」藍が頭を抱えている。「そういう、訳分からんのは堪忍言うとるし」
「ええと、つまり」ファンも碧の言動に惑わされつつ、それでも状況を把握しようとした。ミュウの存在がヒントだった。「ファーボルグさんにご用なんですよね。もうすぐ閉館ですし、お待ちになったら?」
「はい」嬉しそうに答えたのは碧だ。「そこでファンさん。ファードさんって、どんな人なんですか?」
「碧ぃ?」ミュウは強く囁いた。悲鳴のようでもあった。
「なるほど」全てを承知したという風に、ファンは頷いた。「ファーボルグさんも意外と隅に置けないんですね。普段はそういうお話、余り感じさせない方みたいだけど」急にあどけなく微笑んだ。
「巨大な誤解が生まれつつあるように思う」何か焦りを感じ押す引く色々試みるが、ミュウは一向碧から逃れられなかった。相手はただ甘えるように、自分の右腕に両腕を絡めているだけなのに何故か。ミュウはますます情けなくなった。
「風野さんは身近すぎて、言いにくいところもあるのかしら」ファンは振り返った。ファードと来館者の女性たちは、各展示の前を遣り取りしながら移動していて、今はエスカレーターの降り口からも彼らの姿が見えた。「そうですね。一言でいえば、何でも一所懸命にやれる人、でしょうか」
「真面目な方なんですね〜」碧が相槌を打つ。
「ええ」ファンも頷き返し、「ファーボルグさんが、途中からここへ来られたというのは、ご存知ですか?」藍と碧を均等に見た。
「えっと…」藍がミュウの方をちらっと見、遠慮がちに答えた。「元々は、風乗りのエースだったって聞いてますけど…」
「私も大体は、風野さんから聞いたんですよ。それと、この風乗りのコーナーを企画するために、たくさんの方々にヒアリングをする機会もありました」ファンは思い出している。ファードの事を語る人々は、異口同音に、彼の風乗りとしての力量の高さを認めたものだった。同時に相棒のフータについても、その群を抜く飛翔能力の優秀さを誉めそやしていた。「そんなファーボルグさんが、事情があって今の展示解説ってお仕事に就かれた訳なのですけど…大変なのって、分かりますか?」
藍も碧も首を振った。
「このお仕事は、基本は接客なんです」ファンは再び対応を続けるファードを見た。「接客の基本姿勢と同時に、聞いてくださる方により良く伝えるための、解説の技術も身に付けなければなりません。ファーボルグさんは、風乗りの知識は勿論豊富でしたが、最初その点で苦労されてました」
ファンは更に、この職場でのファードの仕事を列挙した。それらは特別プログラムの企画と実施、展示の企画や作製、来館者に無料で配る資料の作成、付属図書館に収める資料の収集補佐、“生き証人”としての講演など、実に多岐にわたっており、これらに4階における自主的運営(当館では、各階が競い合って担当フロアの魅力増進や問題解決に努め、ひいては館全体を盛り上げる、言わばチーム制が導入されている)の、まとめ役という立場も加わった。藍と碧は目を丸くした。
「ファーボルグさんは中途でいらした方ですけど、新しい職場は殆ど未知の世界だったと思います。本当に、思い切って飛び込んでこられました」一旦言葉を切ったファンには、色々と思い出すことがあるらしい。「分からないことはご自分で調べられるのは勿論、年下のスタッフを捕まえて教えを乞うことだってしていました。それは簡単なようでいて、実はすごいことだと思うんです」
「今でも良くあることなんですけど」ファンの素直な称賛に引っ張られるように、ミュウが自然と口を開いた。「この仕事を始めたばかりの頃は特に、家でも毎晩、遅くまで勉強していました。お夜食を持って行ってすごいねって言うと、きょとんとした顔で見返されるんです。お金を貰うんだから、当然だろうって…」
「かっこええな」藍が青い瞳を生き生きさせている。「かっこ悪いことを一所懸命やれる人って、うち、ほんまかっこええ思うわ」
「そうですね」藍の若々しい率直な物言いに、ファンは胸が空くようだ。「今では私たちの方が助けられてます。ファーボルグさんの姿勢に、勇気を頂いているんですよ」
「なぁ、ミュウ」
藍がミュウの袖を引いた。碧の興味が、今度はファンに向けられた。良い潮だと思ったのだ。
「うん?」
「ん…さっきのこと」相手がこっちを見たので、そっぽを向いて言う。「調子に乗ってたわ。怒らせちゃって、ゴメンな」
「ううん」ミュウも俯き、決まり悪そうに応じた。「私もなんか変な意地張ってた。こっちこそ、ゴメン」
「でもさ」藍も視線を落とした。ローファーの爪先を見詰める。「あんたの言う通り、あたし確かにファードさんのこと、興味本位だった」
「うん…」ミュウは寂しげに微笑んだ。「別に藍だけって訳じゃないよ。ファードが最後の風乗りって言うと、大概の人はそうだもん」しかし顔を上げ、藍を再びまともに見た時には、もうわだかまりの無い笑顔だった。「でもこれで藍も、今日からはファードの理解者だよね」
「うん。もちろんや」
照れ臭さは残るが、気持ち良く笑い合えた。同時に閉館のチャイムが鳴った。
「あら、もう時間なんですね」ファンは本当に意外そうだった。「では、私は閉館の作業がありますから…皆さん、またいらしてくださいね」丁寧に頭を下げ、ファンは去って行った。
背中を見送っていると、すれ違いざまに二言三言、ファードと言葉を交したようだった。ファードはそのままこちらに近付いてくる。
「弥祐」少し呆れた感じの、彼の声だった。「今日はまた随分騒がしかったな。お客さんが笑ってたぞ」
ミュウはうっと言葉に詰まる。
「ファードさん!」
「うおっ!?」
ファードには足下からにょきっと、突如碧が生えてきたように見えたのだ。
「サイン、下さいませんか?」
「あ、ああ…」
気が付けば、キャラクターのデザインされた小さなメモ帳と、サインペンを手にしていた。何か釈然としないままペンを走らせる。サイン自体は、講演会などでせがまれぬ訳ではなかった。
「弥祐の友達かい?」ファードは思い出したように聞いた。
「はい! 私が水里碧でっ」
「キアノス藍です。初めまして」二度とも代わりに紹介されてしまわないように、怪訝に思われない程度で素早く頭を下げた。
「ファーボルグ・ファーディアだ。よろしく」筆記用具を返しながらファードも名乗った。「弥祐がここへ誰かを連れてくるの、初めてじゃないか?」
「う〜ん。今日は連れてこられたんだよ」ミュウ—弥祐が、冗談めかして答えた。
「おっと、もうチャイムが鳴ってたんだったな。悪いが3人とも、一度外へ出てもらえるかな」閉館作業に取り掛かるため、ファードはきびすを返しながら言った。
「うん。いつものとこで待ってるから」
「ミュウちゃん、ほんとに逢瀬みたいだね〜」
碧の笑顔は何処まで本気なのか決して悟らせることが無く、何か強く出づらい。
「馬鹿なこと言ってないの。じゃ、ファード。後でね」弥祐は振り返り振り返り、両手で碧を追い立てて行く。
「お騒がせしました。さようなら」会釈をし、藍が最後に続いた。
「サイン、ありがとうございました〜」碧はメモ帳を持った手を、下るエスカレーターに沈んで、見えなくなるまで振っていた。
「ああ。また今度、ゆっくり遊びに来てくれ」
ファードは1階のスタッフに、4階からは最後の来館者が3人降りたことを、インターフォンで伝えた。