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第19回

 フータにホバリングさせながらファードは下を覗き込んだ。敷地裏手の角地で、裏門にも近い反対側の角には社員用の駐車場や駐輪場などがあるが、こちらは普段から人気の無い、踏み固められた地面を囲うフェンス沿いに丈の低い常緑の植木がまばらにあるだけの、忘れ去られたような一角だった。この寂しい空き地に面しては、非常口が一つ設けられているはずだった。観音開きの鉄扉が、今は大きく開け放たれている。奥から漏れる弱い光を背に立った、二つの人影が戸口に認められた。一人は手に懐中電灯らしき明かりを持ち、こちらに向け頻りに振っている。複葉機が伝えた、裏手にて誘導とはあのことだろう。この空き地が下りる場所だ。

 フータの飛膜の下に、着陸のための風が渦を巻いている。それが埃っぽい地面を掻き乱すようで、影は二つとも少し後ずさった。地面まで1mを残すくらいで制動の風がふっと途切れる、それでもフータの巨体は若猫のようにしなやかに、柔らかく地面に舞い降りた。

 非常口から一歩屋内まで退いていた二人のうち、一人が待ち兼ねたように近付いてきた。「やぁ、ファード!」50格好の人間の男性が満面の笑みで呼んだ。彼は右手を差し出し、当人の気持ちは伝わるが待ち受ける身にはもどかしい、そんな、いかにも人のいい小さな足の運びだった。

 ファードも急いで鞍を降り、ゴーグルを額に押し上げ笑顔を見せた。「ご無沙汰しています、ハマモトさん」薄手の革手袋を外す間に、ようやく近くに来た右手をがっちりと握り返した。この初老の小柄な男性こそが、HMLフェンサリサ東支店の長、ハマモト・エリックその人だった。

 ハマモトはもうかれこれ20年、フェンサリサ東支店を預かってきた男だった。HMLがまだ風乗りに山越えをさせていた頃からの支店長だから、ファードやカラとも古い顔なじみだった。彼はいわば取り残された男だ。彼と同期の連中の大半は、既に本社に戻り重きをなしている。未だに地方の支店の長止まりの彼は、要するに出世コースからは外れた形だった。だが東支店をこよなく愛するハマモトにとって、そんな世間体、本当に何ほどのものだろう。彼は確かに才に恵まれた人ではない。ただ、欲もなく実直で、粘り強く行動できる人ではあった。

「こんな遅くまで、見張りご苦労だったね」ハマモトは振り返り、背後に控えていた若い男性社員にねぎらいの言葉をかけた。「後は私が引き受けるから、ゆっくり休んでくれていいよ」

 男性社員はほっとした様子で一礼し、非常口から屋内へ戻っていった。懐中電灯を持ったままの右手の甲で、頻りに目元を擦っていた。

「君が来るのを見張らせていたんだ」戻っていく背を見送りつつ、ハマモトは説明した。「私はやっこさんに伝えることがあって、ついさっき出てきたばかりだから、待つ身の辛さはなかったが」

「降りる場所がすぐに分かったので、こちらは助かりました」

「社の機体に会ったろう。彼らが無線で一報をくれてね。それを私が伝えるまでは、やっこさんも時間が長く感じられただろうな」ハマモトは何度か頷く。「空で見張ってた連中も、こんな月の無い夜に良く君たちを見付けてくれた。後でねぎらっておかなくてはね」

「その機体と信号で遣り取りしました」気になっていた事を聞く、ちょうどいい機会だった。「様子がおかしいように見受けられたのですが、何かあったのですか?」

「そうなんだよ」ハマモトは思い出したように表情を曇らせ、溜息をついた。「まぁ、それは追々話すとしよう。一等先に、君たちにはくつろいでもらわなきゃならん」そう言うと彼はしゃがみ込み、フータの顔を覗き込んだ。「長旅ご苦労だったね。ああ、お前さんも元気そうで何よりだ。さぁ、お前さんの寝床はこっちだよ」彼は孫にでもするようにフータに語りかけ、頭を優しく撫でた。フータは目を細め小さく唸った。

 飛行妖精を休ませる厩舎は、かつてこの東支店にも勿論あった。それは今、こちらでも倉庫や資料室など、本社屋と同じように物置として活用されている。ただ、東支店は以前から拡大する業務に対し慢性的容量不足で、一旦押し込めた物を少しでも片付け、フータのためにスペースを確保する事は出来なかった。そこでハマモトは、東支店のガレージの一つにフータを案内した。小型の配送車ばかり数十台格納されているそこは、いわば周辺を対象にした配送業務の基地だった。この時間帯は、荷が到着するとしても遠距離からの大型トラックだけで、作業は他のガレージで行われる。少なくとも明日の朝7時、このガレージでも荷の確認や積み込みが行われるようになるまでは、一角を仕切ったフータの寝床は安泰のはずだった。そしてファードらは明日、それより早い日の出前には活動を始めなければならない。

「ファード」必要な一角だけを照明で明るくし、改めて相手を見たハマモトは驚いた。「どうしたんだ。あちこち傷だらけじゃないか」

「ああ、これは」驚かれるのも無理はないとファードは苦笑する。「お恥ずかしい話ですが、来る途中、木に突っ込みまして」痛みはあるが傷自体は浅いものばかりで、取り敢えず、手当ては後回しで良かろうと思っていた。

「どこで?」ハマモトは更に目を丸くする。

「自分が飛んできた方の近くに、古い農家の屋敷があるでしょう」東支店周辺の地理には明るいはずだった。だが、この屋敷林を思い出したのはうかつにも災難の後だった。

「あれか」ハマモトは納得する。「そうだった。夜にこの辺りを飛ぶのも、久しぶりだったね。新しい高い建物も増えてるし…」まじまじとファードを見詰める。

「傷自体はたいしたことないんですよ」

「確か、この棚に救急箱があったと思うよ」壁に寄せられて幾つかある、スチール棚の一つを覗き込みながら言う。「自分で手当てできるかな? その間に、フータの鞍は私が外しておこう」

 ハマモトは、重さと嵩のある鞍を持ち上げる時こそファードの手を借りたが、他の作業は一人で片付けた。彼は風乗りではないが、風乗りたちと付き合うのは好きだったようで、彼らがまだ働いていた頃はちょくちょく厩舎に顔を出し、話し込んでは装具の扱いや飛行妖精の世話の仕方を覚えたようだった。一人で出来る部分の手当てをしながら、ファードは安心して任せていられる。フータも、ハマモトの世話になるのは初めてではないから、旅装を解いてくれる彼に気前よく協力していた。

「お腹は空いているかな?」ハマモトは木製の大きな器を抱えてきて、今はすっかり身軽になったフータの目の前に置いた。大きなサラダボウルといった感じのその器には、ミズナラの葉やドングリが山盛りになっている。フータは嬉しそうに食べ始めた。

「よく用意できましたね」続けて、水を汲んだアルミ製の容器を置いてやっているハマモトの背に、ファードは話しかけた。今、フータが寛ぐのは大量の新鮮な藁の上だ。それにミズナラなど、青葉はとにかく、ドングリの方はこの時期外れにどうやって確保したのだろう。本社で目撃した以上の手際の良さを、感じずにはいられなかった。

「昔のよしみは大事にするものだよ」無心に食べるフータに目を細めながら、ハマモトは答える。「前にこういったものを納入してくれていた業者と、今でも個人的な付き合いがあってね。ドングリは他の生き物にも需要があって、在庫があるのかも知れないね」

「本社でも、短い時間に藁が用意してあったんですよ」

「さぁて。向こうにも、私のようなのがいるのかな」ハマモトは立ち上がった。「裏手のシャッターを少し上げておこう。少々物騒だが、フータが番をしてくれるね?」

 フータは食べるのをやめ、問うようにハマモトを見上げた。

「用を足したくなったらそこから外へ出るといい。まあ、積荷があるのは別の場所だし、ここに盗られるような物はないんだけどね」

 ファードはそうだった、と思った。下宿先である風野商店のフータの個室には、専用のトイレ(勿論形状は人間用のそれと随分違う)が設置されている。それ故、意識していなかったのだ。

「西にちょっと飛べばあの草原だ。きっと気持ちいいよ」ハマモトが笑うと、了解したようにフータもくつくつと喉を鳴らした。ハマモトはファードに向き直る。「怪我の手当ては終わったかい?」

「ええ、あらかた」飛行中に無防備だったのは、顔の下半分と両腕の手首から肘にかけてだが、顔は咄嗟に伏せられたし、そのため傷は腕に集中していた。他は飛行帽や衣服が代わりに傷を負ってくれ、肌までは達していない。中身を片付け、救急箱をハマモトに返した。

「じゃあ、今度は君の寝床に案内しよう。食事はどうする?」

「済ませてきました。大丈夫です」

 フータは食事を終え、片方の飛膜の下に顔を埋めるようにしていた。もううつらうつらしているのだ。ハマモトは明かりを消した。二人はそっとガレージを後にした。

 1階のガレージから、階段で2階へ上がる。良く磨かれ、蛍光灯の光を硬質に反射している長い廊下。屋外に面して続く、ありふれたアルミサッシの列。階段に近い側から事務室、会議室、応接室のドアがあり、突き当たりは支店長室だった。全てファードの記憶に残るままだった。

「ファード」廊下の中程辺り、ハマモトが急に立ち止まった。「ほら。あれがお前さんたちに人目を忍んでもらった、その理由だよ」窓外を指さした。

 示された方へ目を向けた。社屋正面の舗装された広場が一望できる。進入専用、出発専用と車の進路を分けている、縁石で囲われた芝生が幾つかあり、その芝生の島一つ一つに照明の高い柱が1本ずつ立っていた。広場の一角は、かつて風乗りの発着場でもあった。厩舎は4階にあったが、荷の積み下ろしのため一度下へ降りなければならなかったのだ。その頃に比べ、広場を照らす光の量は若干少なく感じられる。各照明灯が、一つの柱の頂に3器ずつ取り付けられた形状は昔と変わらないが、どの柱も例外なく、その内の一つか二つ、電球を抜いて役立たないようにしてあるのだった。それでも今回の着陸に、支障があるようには見えなかった。

 敷地の境の近くに、この社屋よりも背の高い、1本のケヤキの大木が残されているのも昔のままだった。先程自分が突っ込んだものもそうだが、この辺りでは、あの木は中世という頃の忘れ形見と言える。数百年前、周辺一帯は一面あの木の生い茂る、とても深い森だったのだ。あんな大木の成す森とは、一体どんな森だったのだろう。かろうじて想像のよすがとなるその大木の下に、支店の正門があった。ファードはそこで目を止めた。止めざるを得なかった。

「なんですか? あの人だかりは」

 正門脇の警備員詰め所にまだ明かりが見えた。それだけでも珍しいが、鉄扉の格子の向こうにどういう訳か数十人単位で人が群れているのだった。人の群れは一度コンクリの支柱の陰に隠れ、敷地周辺を囲うフェンスが始まってもまだ暫く続き、どうやら正門前に半円形に広がっているようだった。あちこちに小型だが強力なライトが設置され、正門を真昼以上の明るさで照らしている。何人かはこちらに背を向け、大多数はこちらを凝視しているようだった。

「マスコミの連中だよ」言ったハマモトの声は、忌々しげだった。

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