第18回
HMLの本社ビルを飛び立ち、もう5時間が過ぎようとしている。日付はとうに変わっていた。今日になって早々、時計やコンパスを明るくしてくれていた月も山の陰に隠れたが、入れ替わって夜空を占拠した怖いくらいの数の星々が、今は懸命になって、年老いた蛍光塗料の頼りない仕事を助けていた。
ファードは鞍の上で心持ち身を乗り出した。前方見渡す限りには、ずっと以前から、高みから重く沈んだような濃い闇の連なりが見えていた。夜空をおぼろな不規則線で画するそれは、フェンサリサの大山塊だった。高山の暗さはこちらの丘陵・平野へと流れ込んでいる。その広がりの只中に、儚い光の集まりがちらちらとたゆたっていた。東支店のある、適度に開け住みやすいと評判の、あの街の明かりに違いなかった。
街の灯を認めてから暫く、ファードの耳におなじみの風を切る音と、それに混じり低く重たい唸りが聞こえてきた。飛行機のエンジン音だった。
ファードは周囲を警戒する。自分の側方に張り出したフータの飛膜より高い所を先ず見渡し、次いで低い所に目を移した途端、右の飛膜の下、草原や田畑が広がる大地の上空、その濃い闇の中に点滅する赤い標識灯を見付けた。相手はこちらの標識灯に気付いているだろうか。必要ならすぐに回避行動がとれるよう、フータと共に身構えた。
飛行機が上昇してきた。心配をよそに、安全な距離を保ったまま、どうやらこちらと高度を合わせようとしているみたいだ。一時的に出力を上げたため、はっきりと見えていた排気管からの青い炎が、フータの横に並ぶとふっと星明かりに負けそうなくらいに弱まった。微かに照らされた機影は単発の複葉機で、丸みのある影が二つ確認できるから、前後二人乗りのようだった。
複葉機はそのまま並んで飛び始める。相手の意図を察し、ファードはフータに速度を上げさせた。あまり遅いと飛行機の操縦は難しい。
程なくして、後部座席の方で、絞られた強い光がリズムを伴い点滅し始めた。片手で操作可能な小型の信号灯を使い始めたのだ。レバー操作により素早く開閉するシャッターが、言葉を約束に従った光の点滅に置き換え、伝えてくる。直視してしまわないように気を付けつつ、ファードは光を読み始めた。
『コチラノ ショゾクハ エイチエムエル フェンサリサ ヒガシシテン』
月明かりが有れば機体の横にHMLのロゴが確認できたかも知れない。星明かりでは難しかった。しかしファードが働いていた昔から、東支店には確かにあのような複葉機があった。
『ソチラハ ヤマゴエノ カゼノリカ』
ファードも同型の信号灯を手に取った。出発前、カラが状態をチェックして、元通り鞍の脇のフックへぶら下げてくれたものだ。そうだ、と返信する。
『シテンヘノ チャクリク チュウイ ヒツヨウ シジヲ キカレタシ』
ファードは訝しんだ。社で働いていた頃、今の様な夜遅くに東支店に戻る事は度々あった。発着の場である社屋前の広場は、幾つもの大型照明灯で昼のように明るく、風乗りたちは特に不都合無く巣に戻れるようになっていた。あれから時が経ち、社会のスピードは益々上がって、長距離輸送のトラックなどはほぼ24時間体制で大陸中を走り回っていると聞いている。空からの便を出迎えた以前ほどではなくても、今の支店の敷地内にだって、この時間かなりの照明があるのではないか。そうは思うが、結局は現状を知らない者の憶測である。ファードは了解と送り、指示を待った。
『マハージアナ ガワヲ コエタ ノチ トケイトウヲ ケイユ ソノゴ シテンヲ メザサレタシ』ファードは再び眉を上げた。信号は続く。『シテン チカク デハ ヤネヲ ハエ ヒロバハ シヨウ フカ ウラテニテ ユウドウ スル』
ファードは頭の中で地図帳を広げ、相手の言う所を勘案してみた。フェンサリサに源を発する、比較的大きな川を思い浮かべる。それが相手の言うマハージアナ川で、このまま進めば数分後には上空を横切るだろう。他方時計塔とは、目的地の街のシンボルにもなっている古い議事堂の大時計塔のことであり、指示に従えば川を過ぎた後、進路をぐっと南寄りに変えて目指すことになる。腑に落ちないのは、そうやって時計塔を経由すると、随分な遠回りを強いられるという点だ。今のまま飛べばそれで支店の正面に出られるのに、ぐるっと回って裏手から来いと言っているのである。下りるのも安全な社屋前の広場は禁止され、到着したなりに、暗がりも気にかかる狭い裏庭に誘導されるらしい。また、“屋根を這う”というのは風乗りたちの俗語で、可能な限り低く飛ぶというくらいの意味だ。後部座席に座っているのは元風乗りなのか、久しぶりに聞く表現だが、平屋から2階建てくらいの家屋が多い支店周辺の住宅街で、相手は本当にフータの腹で屋根掃除をさせるつもりだろうか。夜間のそんな場所での低空飛行は、言うまでもなく危険だった。
「ナニカ モンダイ アリヤ?」ファードはそう聞かずにはいられなかった。返答まで少し間があった。
『クワシクハ ハマモト シテンチョウニ キカレタシ』
それは、地上に落ちてきた星明かりを捕らえ束の間生かす、長い長い生け簀だった。マハージアナ川が見えてきたのだ。ハマモト支店長、懐かしい名だ。社員時代に世話になった男で、信頼の置ける人物だ。彼が出した指示なら何かきちんとした理由があり、希望に沿うなら詮索している時間は無いのだった。
「リョウカイ シジニ シタガウ」
『アト ワズカ オキヲ ツケテ』
ファードが返答すると、後部座席の者は信号で、前部の操縦士は手を振って挨拶したようだった。複葉機は身を翻す。そのまま高度を下げ、夜の底に堆積した闇の中に沈んでいった。
川に差し掛かる。左下にはそれに架けられた長く堅牢な鉄橋と、ちょうど轟音を上げながら渡りつつある列車が見えた。大陸を横断する長距離輸送用の路線だった。先頭の車両は2両連結のディーゼル車で、もう川の中程近くまで渡ったというのに、後に続く貨車の大部分はまだ橋の手前にあるようだった。旅客用の特急列車と違い、彼らの旅路はどこか帆船の旅を思い起こさせる。フータは彼らの後から川を渡り始め、彼らよりもずっと早く渡り切った。
地上、右手から光の点列がファードらの方へ近寄ってきて、これから行く先へ向きを変え伸びていく。街へ向かう街道を照らす明かりの列だった。その列はやがて光の結び目を一つ作り出し、それは24時間営業のガソリンスタンドに違いなかった。街の境にあって、ここから先○km給油できませんなどと、街を出て行く旅人に看板で警告しているような店だった。その上空でフータは左に逸れた。時計塔を経由するためだった。
足下に徐々に明かりが増えてきた。それと星明かり、二つの微かな光に挟まれて、ファードとフータは闇の中を音も無く滑っていく。
目と同じ高さの辺りに、点滅する二つの赤い標識灯が見えてきた。大時計塔の全高をさらに高くする、2本の高い支柱の先端に取り付けられた光だ。大時計塔は、経済・政治的には街の中心中核を為しているが、地理的にはむしろ南東に外れた場所に位置している。周辺の高級住宅地から向かうにつれ、街の空は徐々に明るく、眠りも浅くなっていくようだった。今の時刻を見間違える心配のない所まで、ライトアップされた大きな文字盤に近付いた。草木も眠る今頃、その辺りは右目だけ眠り、左目は起きているといった様子だった。中小のオフィスが入っている、ビルの上の方は暗い。だが、通りに面したその足下には、まだまだ明かりが多かった。目抜き通りには往来する人々の姿がちらほら認められ、乗り合いの車も暇そうには見えなかった。大時計塔を有する歴史ある議事堂には、やはり重文指定の古い駅舎が隣接している。あの鉄橋を渡り西へ進む列車は、やがてこの駅に辿り着くだろう。煌々たる明かりの下、物や人の流れに渦を生じさせるこの場所は、全体がはっきりと目覚めていた。揃いの作業服を着た人が何人か、ゆっくりとホームを歩くのが遠目に見える。川を渡る所で追い抜いてきた貨物列車を、出迎える人々なのかも知れなかった。それほど大きくはないが、不眠はある街だった。
時計塔を軸に旋回し、北西寄りに進路を変える。もう一度郊外へ向かって飛ぶことになるが、暫くして、広大な敷地の中に高さの不揃いな集合住宅が、こちらに数棟、あちらに数棟と散らされて建つ、洗練された生活空間ではあっても飛行空間としては非常に厄介な、深夜でなくても飛びたくない迷路に入り込んでしまった。ファードの記憶には無く、社を辞めてこの街を訪れなくなった後に出来た物に違いなかった。ある建物の屋上を越した直後、さらに高い建物たちの間を擦り抜ける、などということを続けた。瞬きも忘れて飛んでいると、時折慌てふためいた気配が近くの窓から感じられ、気が散りそうになった。休日には多くの市民の憩いの場となる、印象的な規模の中央公園の上で一息つけた時、ファードはその狼狽の気配について考えてみた。あの集合住宅の中には、まだ眠りについていない家庭もあっただろう。そこの住人が、たまたま窓外をよぎった大きな影を目撃し、驚きの声を上げたのだ。スカーラル・シーと姿が良く似、体はずっと小さいムササビは、地域によっては空飛ぶ座布団などとその飛び姿が形容されている。ならば、人を負って飛べるほど大きいスカーラル・シーは、身構えていない人の目になんと映るだろう。やはり空飛ぶ絨毯なのだろうか。実際、この飛行妖精がおとぎ話で御馴染のあの魔法の道具のモデルだということは、巷間に流布する一説だった。
公園上空を抜けた。束の間の息抜きだった。ここから目指す東支店は近く、そこまでは低層の家屋の連なりだ。いよいよ、屋根を這わねばならないのだった。
現実には、送電線より幾らか高い辺りが妥協できるぎりぎりの高度だった。ここなら大概の屋根も越せる。しかし油断は禁物だ、例えばこのような比較的新しい住宅地区の真ん中に、時折昔ながらの地主の屋敷があってケヤキなどの大木が天を突いて聳えている。広い敷地に明かりは乏しく、大木は闇に潜んでいる。これには夜目の利くフータも欺かれかかったらしく、彼の判断で間一髪回避行動は取られたが、自分の体から突き出た余計な出っ張りであるファードまでは救えなかった。彼だけは、顔から豊かに茂った樹冠に突っ込んだ。相棒の突然の不可解な動きは、無数の枝に体中を引っ掻かれ、それのへし折れるバネのきいた音には鼓膜を打たれ、すぐさま凄まじい実感を伴って理解された。突然の嵐の来襲に、鳥が一羽転がるように飛んで逃げる。アオバズクのような夜に元気な鳥で、それまでは枝でのんびり鳴いていたのかも知れなかった。太い枝に致命的に激突する前に、からがら樹冠から逃れられた。冷たい汗が背を伝った。
以降は街灯を頼りに道に沿って上空を進み、はっきり先まで見通せる場所だけ突っ切っていく方針に変えた。時間は余計にかかったが、以後は何事もなく、東支店の社屋が遠目に眺められる位置までやって来た。ファードは懐かしい。今は暗くて見分けられないが、外壁は以前よりももっと酷く雨に黒ずんでいるのだろうか。あの場所へ、同じような遅い時間に戻った事なら幾度もあるが、4階建ての社屋の窓という窓に、今日は記憶にないくらい多くの明かりが見て取れた。気が逸ってつい安易な指示を出し、むしろ彼より懲りているらしい相棒に冷静に却下され、もどかしく近付いていった。有るか無しかの流れを下るようだったが、それでも最後は行きたい場所へ辿り着く。やがて、彼らは小舟が静かに接岸するように、社屋の3階辺り、屋内からの白っぽい照明が漏れる窓辺に身を寄せた。